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再びの、さくら
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鎌倉最大の山門の先に、ハラハラと桜吹雪が舞っている。観光客の少ない昼過ぎの境内で、荘厳な本堂を背景にして、潮風に煽られ、勢い良く薄紅色の桜が舞っていた。
「なんか、西行法師の歌を思い出すね」
そう呟いて大木を見上げるさゆに、花弁がゆっくりと降り積もってゆく。
また春が、来ていた。
それは、今までの人生の中で、一番うつくしいと思える春だった。平和で、幸せだと世界の解析度が上がる。
(でも、もしかしたら)
タキの脳裏をこれが、鎌倉で見る最後の桜かも知れないという思いが過ぎる。あの、人の良い大家はこの頃、体調が芳しくないという。さゆは古本屋をバイトのメインにして、ほとんど工場には入らなくなって、やっと心の平穏を取り戻して来たというのに。
「立川の大きな公園にも、立派な桜の木があったよねえ」
さゆは微笑みながら、空に手を伸ばす。
「ああ、さゆと出会ったばかりの頃、二人で見たね。荘厳な桜の大木」
ふふふと思い出してさゆが笑う。柔らかな昼過ぎの陽光が差し込む、厳かな境内で。
「ねえ、タキ」
―――あの時振り返ったさゆの、日光で僅かに茶色がかって見えた瞳とか、もう随分と長くなって無造作に桃色のバレッタで後ろでまとめた髪とか、その幸せそうに火照った頬とか、そう言ったものを、タキはきっと生涯、忘れる事はないと思う。
後に思い返せば、あのさゆの一言が、始まりだったのだ。
「私ね、桜の絵と、タキを描きたい。今までで一番大きな絵で。そしてその絵を、次に住む私達の家に、飾るの」
ふとタキは、かつてさゆが配信で桜の木を描いた時に、彼女に乱暴した事を思い出して、後ろ暗い様な気持ちに襲われた。
その春の日はそうして、奥底にまた絶望を匂わせながら、あくまで穏やかに過ぎていった。
なんとしてもどうしても、大きな桜の絵を描かなくてはいけないと、この頃心底渇望する自分を、さゆは感じている。
(でも)
お金が無い。欲しいサイズの張りキャンバスは数万する。中古の通販はリスクが大き過ぎて出来ない。小さくなった桜色の色鉛筆を握り締めて、さゆは大きな溜息を付いた。それがかかったルークは、ビクッとする。
「ああ、ごめんねルーク」
ルークは毛並みを舐めて整えると、そのままさゆの膝で再び丸くなった。
「どしたの、さゆ?」
洗濯物を室内干ししたタキが、隣に腰掛ける。さゆの頭を撫でながら抱き寄せた。
「ううん・・・・大きなキャンバスが欲しいだけ」
「ああ・・・本がね、売れると良いね」
神保町の即売会にも、今年になりさゆは復帰した。店主達は口々にさゆの復調を祝ってくれた。受け答えもほぼ違和感なし。もう本当に、昔のさゆに近くなっている。
その強さも、チャレンジ精神も。
そして画家としての抗えないほどの衝動が、彼女を突き動かそうとしているのを、タキは感じる。
朝霧紗雪は、生まれながらの画家なのだ。きっと、多くの人々の記憶に残るほどの。
いつか彼女は、自分の手を離れて、大きな世界に羽ばたいてゆくのかも知れない。タキは手元のスマフォに眼を落とす。そこにある待ち受けは昨年の桜だ。あの鴉の「記憶」の絵から、今の写真に変えたのは、もういつだったか。
「病院代の返済もまだあるし、ちょっとづつお金貯めて、夏には買おう」
「うん!」
今年度中にはその返済もなんとか終わる。さゆは頷くと、また桜の花びらを何枚も描き始めた。タキはゆっくりさゆの髪を梳いている。時々さゆはタキを見上げて、軽くキスを交わし、また続きを描いた。タキはプルーストを読んでいる。
「あ、さゆ。そう言えば、湊も夏にはビザを取得して、中国への渡航を目指すって」
「へえ・・・」
湊がずっと中国へ渡りたがっていたのは知っていた。遂にその時が訪れるのだ。
「しばらく会っていないから、その前にもう一度会えるといいね・・・・わわわわ」
さゆが急に腰を浮かすのでタキがその視線を追うと、なんと大きな茶色のクモが、リビングをのっしのっしと歩いていた。固まるさゆを横目に、タキは雑誌を自分の部屋から持って来る。
「こら、待て!」
タキが部屋を縦断するクモを追いかけ回した。そのユーモラスな動きに、思わずさゆは吹き出す。その時、物音に半分寝ていたルークがさっと飛び起き、クモを見つけるや否や突進した。
「ルーク!」
止める間もなく、ルークは前足でクモを軽く踏んだ。そのまま二人を振り返って軽く鳴く。
「あ、ありがとルーク」
タキは雑誌でクモを包むと外に出す。そのままルークを撫でると、ルークは満足したようにゴロゴロ鳴き、またさゆの膝へ飛び乗った。
「ふふふ、勇敢だねえルークは。一番勇敢だよ」
またうとうとし始めるルークを包み込んで、春の夜が、静かに過ぎて行った。
「なんか、西行法師の歌を思い出すね」
そう呟いて大木を見上げるさゆに、花弁がゆっくりと降り積もってゆく。
また春が、来ていた。
それは、今までの人生の中で、一番うつくしいと思える春だった。平和で、幸せだと世界の解析度が上がる。
(でも、もしかしたら)
タキの脳裏をこれが、鎌倉で見る最後の桜かも知れないという思いが過ぎる。あの、人の良い大家はこの頃、体調が芳しくないという。さゆは古本屋をバイトのメインにして、ほとんど工場には入らなくなって、やっと心の平穏を取り戻して来たというのに。
「立川の大きな公園にも、立派な桜の木があったよねえ」
さゆは微笑みながら、空に手を伸ばす。
「ああ、さゆと出会ったばかりの頃、二人で見たね。荘厳な桜の大木」
ふふふと思い出してさゆが笑う。柔らかな昼過ぎの陽光が差し込む、厳かな境内で。
「ねえ、タキ」
―――あの時振り返ったさゆの、日光で僅かに茶色がかって見えた瞳とか、もう随分と長くなって無造作に桃色のバレッタで後ろでまとめた髪とか、その幸せそうに火照った頬とか、そう言ったものを、タキはきっと生涯、忘れる事はないと思う。
後に思い返せば、あのさゆの一言が、始まりだったのだ。
「私ね、桜の絵と、タキを描きたい。今までで一番大きな絵で。そしてその絵を、次に住む私達の家に、飾るの」
ふとタキは、かつてさゆが配信で桜の木を描いた時に、彼女に乱暴した事を思い出して、後ろ暗い様な気持ちに襲われた。
その春の日はそうして、奥底にまた絶望を匂わせながら、あくまで穏やかに過ぎていった。
なんとしてもどうしても、大きな桜の絵を描かなくてはいけないと、この頃心底渇望する自分を、さゆは感じている。
(でも)
お金が無い。欲しいサイズの張りキャンバスは数万する。中古の通販はリスクが大き過ぎて出来ない。小さくなった桜色の色鉛筆を握り締めて、さゆは大きな溜息を付いた。それがかかったルークは、ビクッとする。
「ああ、ごめんねルーク」
ルークは毛並みを舐めて整えると、そのままさゆの膝で再び丸くなった。
「どしたの、さゆ?」
洗濯物を室内干ししたタキが、隣に腰掛ける。さゆの頭を撫でながら抱き寄せた。
「ううん・・・・大きなキャンバスが欲しいだけ」
「ああ・・・本がね、売れると良いね」
神保町の即売会にも、今年になりさゆは復帰した。店主達は口々にさゆの復調を祝ってくれた。受け答えもほぼ違和感なし。もう本当に、昔のさゆに近くなっている。
その強さも、チャレンジ精神も。
そして画家としての抗えないほどの衝動が、彼女を突き動かそうとしているのを、タキは感じる。
朝霧紗雪は、生まれながらの画家なのだ。きっと、多くの人々の記憶に残るほどの。
いつか彼女は、自分の手を離れて、大きな世界に羽ばたいてゆくのかも知れない。タキは手元のスマフォに眼を落とす。そこにある待ち受けは昨年の桜だ。あの鴉の「記憶」の絵から、今の写真に変えたのは、もういつだったか。
「病院代の返済もまだあるし、ちょっとづつお金貯めて、夏には買おう」
「うん!」
今年度中にはその返済もなんとか終わる。さゆは頷くと、また桜の花びらを何枚も描き始めた。タキはゆっくりさゆの髪を梳いている。時々さゆはタキを見上げて、軽くキスを交わし、また続きを描いた。タキはプルーストを読んでいる。
「あ、さゆ。そう言えば、湊も夏にはビザを取得して、中国への渡航を目指すって」
「へえ・・・」
湊がずっと中国へ渡りたがっていたのは知っていた。遂にその時が訪れるのだ。
「しばらく会っていないから、その前にもう一度会えるといいね・・・・わわわわ」
さゆが急に腰を浮かすのでタキがその視線を追うと、なんと大きな茶色のクモが、リビングをのっしのっしと歩いていた。固まるさゆを横目に、タキは雑誌を自分の部屋から持って来る。
「こら、待て!」
タキが部屋を縦断するクモを追いかけ回した。そのユーモラスな動きに、思わずさゆは吹き出す。その時、物音に半分寝ていたルークがさっと飛び起き、クモを見つけるや否や突進した。
「ルーク!」
止める間もなく、ルークは前足でクモを軽く踏んだ。そのまま二人を振り返って軽く鳴く。
「あ、ありがとルーク」
タキは雑誌でクモを包むと外に出す。そのままルークを撫でると、ルークは満足したようにゴロゴロ鳴き、またさゆの膝へ飛び乗った。
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