朝凪の海、雲居の空

朝霧沙雪

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ほんものの絶望

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 地平線が、分からない。さゆは、べったりと貼りつくような、何も無い暗闇の中にひとり、佇んでいた。夜の闇よりも濃い。自分の手を目の前にかざしたけれど、何も見えなかった。
(眼が)
 ダメになってしまったのだろうか、という恐怖に、不意に駆られる。それは耐え難い恐怖だ。恐ろしさに駆られて、両腕をさすりながら歩き出した。
「タキ?ルーク?」
 土とは違う、不気味に柔らかい何かを踏んで歩く。なんにもない。なんにも、ない。百鬼夜行にでも出くわした方が良いと思えるような、虚無感と寒さ。それでも暫くさゆは、その虚無の荒野を歩き回った。けれどやがて疲れて、その場にへたり込む。冷たい地面の感触。
 闇だ。
 ここにあるのは、本物の、闇だ。
 絶望だ。
 幸せだ幸せだと自分に言い聞かせて、ずっと、気付かないフリをしていただけかも知れない。生まれた時からあった絶望に今、自分自身が取り込まれようとしているのか。
(ああ、タキ達は私の灯台だったんだなあ)
 ふと思い付いてさゆは、左手の指輪を宙にかざした。
 昔、こうやって夜空にひとり、指輪をかざした事があったなあと思い出す。
 すると、暗闇に微かに、銀色のひかりが見えたような、気がした。
 その時不意に、プールの中から聞いているように、ぼやけた声が聞こえた。遠い。でも必死な声。
「タキ・・・・?」

 
 夏に向かって長袖には辛い季節になってきたなと、タキは少し嘆息しながら部屋の鍵を取り出す。さゆに夕ご飯のLINEを送ったけれど既読にならない。また絵に夢中なのかなと思った。
「あ、ルーク」
 家に入ると、ルークが待ち構えたように飛び出して来た。タキの足元をクルクル回って落ち着かない。
「どした、ルーク?ごはん?」
 ルークは低く鳴き続けてうろうろする。変だ。
「具合悪い?なにかあった?」
 ルークを撫でながら全身を確認したけれど、傷はなかった。洗濯用洗剤の香りがする。洗濯機の中で眠っていたのか。その時、さゆの気配が一切無いのにタキは気付く。悪い予感がした。
「さゆ?さゆ!?」
 慌てて靴を脱いで、リビングを見渡す。いない。部屋が荒らされている痕跡は無かった。
「さゆ、入るよ!」
 さゆの部屋のドアを開け放つ。がらんとした部屋と、描きかけの桜の絵が転がっていた。
「そんな・・・」
 そのまま駆け足で風呂を見るが、いない。そこでタキは、本当に最悪の想像をしてしまった。どうしても当たらないで欲しい予感だった。
 タキはそろりそろりと重い足取りで、自分の部屋のノブに手をかけた。良く見ると、半開きになっている。数回の深呼吸。思い切ってドアを、勢い良く開けた。
「さゆ!!」
 真っ暗闇の中で、窓の外に遠く、幻の夜の海が見える気がした。まず眼に飛び込んで来たのは、大きな大きな、あの忘れもしない、百億の鴉の絵だった。捨てられずに取っておいた、さゆと自分を結び付けた絵だ。その頑丈な梱包が、解かれている。
「さゆ!さゆ!」
 叫びながらタキは、その絵の前に倒れているさゆを揺さぶる。眼を閉じていて、少し冷たい。半開きの口で、紙のような顔色をしている。ぞっとして鼻の前に手をかざすと、息はある。タキは何度もさゆの名前を呼ぶと、スマフォに手を伸ばした。これは救急車だ。
「さゆ!今救急車呼ぶからね!」
 ベッドから毛布をはぎとって、さゆにかける。その上からタキが手を当てると、うっすらとさゆの眼が開くのが見えた。
「さゆ!」
 薄く開いた眼は、何度かまばたきを繰り返す。タキはスマフォを置いて、必死にさゆに呼びかける。
 やがて。
 さゆは急に驚愕したように眼を見開くと、タキの手を振り切って、トイレへ駆け込んだ。
 勢い良くもどすさゆの背を、タキはそっと撫でた。重苦しい予感と共に。
 永遠にも思える吐き戻しの後、さゆは口元を拭って、小さく呟いた。
「・・タキ・・・おもいだした・・・・おもい、だしたの」
 六月の湿度の高い、染み渡るような静寂の中に、その声は響いた。
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