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線香花火の夜
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七月の熱の篭った潮風が、鎌倉の路地を吹き抜けてゆく。夏の強い光線が、血生臭い争いの末に築かれたかつての都に、暗い影を落とす。濃厚な死の香りが立ち昇る。悲鳴のような、痛切な蝉の声が、大音量で谺する。
あまりに過酷で、あまりに静かな夏だった。時流もあり、また鎌倉の観光客は減って来ていた。
さゆは、絵を描かなくなった。工場のバイトは、一週間休んだ末に辞めてしまった。古本屋だけは、這う様になんとか続けている。おかげでなんとか生活出来ている。
でも。
(表情がないんだよな)
何とか毎日をこなしているけれど、さゆからはなんの喜怒哀楽も無くなってしまった。ルークがよくさゆの傍に寄る時に、かろうじて頬を緩めるくらいだ。
そのさゆの、影のある微笑みは、自分がこの鎌倉で見ていたさゆの笑顔とは違う。あの、かつてのさゆがそこにいた。
(さゆだけが、膜の一つ向こうの、別の世界にいるみたいだ)
それは「解離」のようなものではないのか。記憶障害にも繋がる、自分のこころと身体が分断される症状が、酷くなってしまったのではないのか。でも、医者に通うお金はもうない。さゆ自身も医者に行く事も、タキに触れられる事も拒絶し、部屋の整理をしている。なんでも捨てるか売ろうとするさゆは、画材だけは捨てないで取っておこうというタキの懇願だけは聞き入れてくれ、押し入れに仕舞いこんだ。
タキは生活と借金返済の為に必死に仕事をしているので、もうさゆのケアを充分にする余裕がない。湊は中国へ遂に旅立ってしまった。どことなく緊張感と絶望の漂う、澱んだ日々が過ぎる。久しぶりに夕方に帰れたタキは、さゆにも食べ易いようにそうめんを買った。
「ただいま、さゆ、ルーク」
タキの声にルークは飛んで来たけれど、さゆは相変わらず眠ったままだ。タキは洗濯機を回しながらそうめんを茹で、半額だった夏野菜を切りながらふと、溜息をついた。
タキが呼ぶと、さゆは食卓へ座り、ゆっくり食べ始める。けれど、やはり表情はなく、よく零している。
(あと、半年位だったのにな)
今年度中には、借金も返し終われそうな目処が、うっすら見えて来ていたのに。自由で、希望溢れる二人の暮らしを、タキはぼんやりと思い描いていたのに。
「さゆ」
呼ばれてさゆは、ふと顔を上げる。
「ごめんね、さゆの記憶が無い時に、結婚して」
さゆはしばらく止まった後に、小さくかぶりを振った。でも、それだけだった。
「さゆ、俺はさゆさえ良ければこのままずっと、ルークと一緒に、二人と一匹で暮らしていきたい。だめかな?」
さゆは、また少しの間動きを止め、「少し、考えさせて」と言った。その後の会話もない。
そんな毎日が、残酷にゆっくりと静かに過ぎて行った。
なんだかもう、全てが、終わってしまった後の世界にいるような、日々だった。
そして、月末になった。二人とも休みだったその日の朝、珍しく起き上がれたさゆは、「散歩をしてくる」と言い出した。タキは疲れていたけれど、無理にでも起きて付き添った。少し距離を開けて、海へと歩く。少し曇りの、穏やかな朝だった。薄く雲はたなびき、波は繰り返し押し寄せ、
(ああ、朝凪の海と雲居の空だ)
とタキは思った。時折砂嵐が舞い上がる。サーフィンを楽しむ人々の歓声が、あまりにも遠い。さゆはじっと、ただ数十分もずっと、その光景を見ていた。画家としてのさゆの宇宙は、タキにも計り知れないけれど、過去に苦しめられる人間としてのさゆの苦悩はタキにも分かりすぎるほど分かってしまう。
でも、もう、出来る事がない。ないのだ。
海を眺めてさゆは満足したのか、無表情のまま礼を言い、帰りにスーパーで線香花火を手に取った。
「・・・贅沢かな?」
「いいよ、買おうよ」
ビニール袋をタキは持って、熱くなったアスファルトを、家路へ急いだ。
暗闇に、オレンジ色の、魂のような小さな炎が浮かび上がり、微かな音がする。
「二人で花火するの、意外と初めてだね」
箱庭で体育座りになって、さゆが呟く。
「うん」
ふたり、言葉少なに、一本一本線香花火に点火して、静かに見ていた。数分で美しい花火は燃え尽き、地に落ちてゆく。
それは今までの大切な記憶のひとつひとつを思い出して、ゆっくりと葬り去るような儀式だった。
「ねえ、さゆ」
「ん?」
「来年こそはさ、世の中が落ち着いたら花火大会とか行こうよ」
「・・・・・今まで本当にありがとう、タキ」
暗闇の中で静かに、さゆの声が聴こえた。タキは泣きたくなるのを堪えた。
さゆはきっともう、闘う事を辞めてしまったのだ。
疲れてしまったのだ、きっと。
踏み越えたら戻っては来られない境界線を越えて。もう心は遠くへ行ってしまった。
タキにさゆを救うことは、もう出来ない。
何もかもが破滅へと向かう。七月の蒸し暑い夜だった。
あまりに過酷で、あまりに静かな夏だった。時流もあり、また鎌倉の観光客は減って来ていた。
さゆは、絵を描かなくなった。工場のバイトは、一週間休んだ末に辞めてしまった。古本屋だけは、這う様になんとか続けている。おかげでなんとか生活出来ている。
でも。
(表情がないんだよな)
何とか毎日をこなしているけれど、さゆからはなんの喜怒哀楽も無くなってしまった。ルークがよくさゆの傍に寄る時に、かろうじて頬を緩めるくらいだ。
そのさゆの、影のある微笑みは、自分がこの鎌倉で見ていたさゆの笑顔とは違う。あの、かつてのさゆがそこにいた。
(さゆだけが、膜の一つ向こうの、別の世界にいるみたいだ)
それは「解離」のようなものではないのか。記憶障害にも繋がる、自分のこころと身体が分断される症状が、酷くなってしまったのではないのか。でも、医者に通うお金はもうない。さゆ自身も医者に行く事も、タキに触れられる事も拒絶し、部屋の整理をしている。なんでも捨てるか売ろうとするさゆは、画材だけは捨てないで取っておこうというタキの懇願だけは聞き入れてくれ、押し入れに仕舞いこんだ。
タキは生活と借金返済の為に必死に仕事をしているので、もうさゆのケアを充分にする余裕がない。湊は中国へ遂に旅立ってしまった。どことなく緊張感と絶望の漂う、澱んだ日々が過ぎる。久しぶりに夕方に帰れたタキは、さゆにも食べ易いようにそうめんを買った。
「ただいま、さゆ、ルーク」
タキの声にルークは飛んで来たけれど、さゆは相変わらず眠ったままだ。タキは洗濯機を回しながらそうめんを茹で、半額だった夏野菜を切りながらふと、溜息をついた。
タキが呼ぶと、さゆは食卓へ座り、ゆっくり食べ始める。けれど、やはり表情はなく、よく零している。
(あと、半年位だったのにな)
今年度中には、借金も返し終われそうな目処が、うっすら見えて来ていたのに。自由で、希望溢れる二人の暮らしを、タキはぼんやりと思い描いていたのに。
「さゆ」
呼ばれてさゆは、ふと顔を上げる。
「ごめんね、さゆの記憶が無い時に、結婚して」
さゆはしばらく止まった後に、小さくかぶりを振った。でも、それだけだった。
「さゆ、俺はさゆさえ良ければこのままずっと、ルークと一緒に、二人と一匹で暮らしていきたい。だめかな?」
さゆは、また少しの間動きを止め、「少し、考えさせて」と言った。その後の会話もない。
そんな毎日が、残酷にゆっくりと静かに過ぎて行った。
なんだかもう、全てが、終わってしまった後の世界にいるような、日々だった。
そして、月末になった。二人とも休みだったその日の朝、珍しく起き上がれたさゆは、「散歩をしてくる」と言い出した。タキは疲れていたけれど、無理にでも起きて付き添った。少し距離を開けて、海へと歩く。少し曇りの、穏やかな朝だった。薄く雲はたなびき、波は繰り返し押し寄せ、
(ああ、朝凪の海と雲居の空だ)
とタキは思った。時折砂嵐が舞い上がる。サーフィンを楽しむ人々の歓声が、あまりにも遠い。さゆはじっと、ただ数十分もずっと、その光景を見ていた。画家としてのさゆの宇宙は、タキにも計り知れないけれど、過去に苦しめられる人間としてのさゆの苦悩はタキにも分かりすぎるほど分かってしまう。
でも、もう、出来る事がない。ないのだ。
海を眺めてさゆは満足したのか、無表情のまま礼を言い、帰りにスーパーで線香花火を手に取った。
「・・・贅沢かな?」
「いいよ、買おうよ」
ビニール袋をタキは持って、熱くなったアスファルトを、家路へ急いだ。
暗闇に、オレンジ色の、魂のような小さな炎が浮かび上がり、微かな音がする。
「二人で花火するの、意外と初めてだね」
箱庭で体育座りになって、さゆが呟く。
「うん」
ふたり、言葉少なに、一本一本線香花火に点火して、静かに見ていた。数分で美しい花火は燃え尽き、地に落ちてゆく。
それは今までの大切な記憶のひとつひとつを思い出して、ゆっくりと葬り去るような儀式だった。
「ねえ、さゆ」
「ん?」
「来年こそはさ、世の中が落ち着いたら花火大会とか行こうよ」
「・・・・・今まで本当にありがとう、タキ」
暗闇の中で静かに、さゆの声が聴こえた。タキは泣きたくなるのを堪えた。
さゆはきっともう、闘う事を辞めてしまったのだ。
疲れてしまったのだ、きっと。
踏み越えたら戻っては来られない境界線を越えて。もう心は遠くへ行ってしまった。
タキにさゆを救うことは、もう出来ない。
何もかもが破滅へと向かう。七月の蒸し暑い夜だった。
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