朝凪の海、雲居の空

朝霧沙雪

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彼岸

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蒸し暑い部屋のベッドで、さゆは汗だくになりながら身を起こした。もう、夕方だ。今日も1日、ただ横になっていただけで終わってしまった。
 何の物音もない。静かだ。ひたすらに、静かだった。
 タキには言っていないけれど、昨日付けで古本屋のバイトを辞めた。オーナーには、タキだけは来ると話してあるので、棚はそのままだった。
 ガランとした部屋を見渡すと、唐突に、「もう、いいか」という気分になった。心の中ががらんどうで、何も響かない。真空になったようだ。なんの細波も立たないのは初めてだった。リビングへ歩いてゆくと、ルークが伸びて眠っていた。ご飯のカリカリをお皿に盛る。フワフワのお腹をそっと撫でた。
「ルーク、元気でね」
 さゆは花柄のワンピースを身に付け、靴を履くのを忘れたまま部屋を出た。

 うろうろと外を歩き、気付けば八月の、真夏の鎌倉の海だった。今夜は風が強くて、珍しく浜辺に人の姿が無かった。
 生温い海の中にひとり、さゆはザブザブと音を立てて分け入った。タキに買って貰ったワンピースが見る間に水を吸って重くなった。裸足の足裏に何かが刺さったが、もう痛いとも思えなかった。
(つかれたな)
 何もかもに疲れていて、何もかもが重く、鈍く、遠かった。もう全てが嫌だった。
 潮の流れで、海岸から少しづつ、見えない手に押されて、離れてゆく。腰まで海に浸かっていた。
(生まれて来なければ良かったのに)
 生臭い海の匂いがした。
(タキがここまで良くしてくれたのに、結局ダメだったな)
 タキの事を考えると、急に涙が溢れて止まらなかった。タキは自分なんかと、出会わなければ良かったのに。出会わなかったら、ここまで巻き込まれる事も無かったのに。
(愛してるよ、タキ)
 紫色になったくちびるが、あいしてる、と形づくって震えた。震えが止まらず、身体の感覚が無くなってきていた。
 もう胸まで浸かった海の中で、さゆは自分の身体を掻き抱いた。
 ふと、もう一度、タキに抱かれたいなと、切実に思った。
 タキの腕や、唇や、肌の感触を、愛を交わす度に全身を包んだ多幸感を思い出した。きっともう二度と、あんな気持ちにはなれないだろうけれど。
(もう一度だけ会ってから死のう)
 さゆは振り返り、岸を目指した。

 ずぶぬれのまま家に帰ると、まだタキは帰って来ていなかった。さゆはホッとして、すぐに服を脱いで洗濯機を回し、ふらついたまま熱いシャワーを浴びた。鏡を見る限り、顔色は少し白いくらいで悪くなかった。左足の裏が切れていて、フローリングの床に血の染みを作ったので、拭いて絆創膏を貼った。ご飯を完食したルークが、足元に絡まり付く。それを撫でながら髪を乾かしていると、タキが帰って来た。
「あ、おかえり」
 さゆはそしらぬ顔でタキを振り返らず髪を乾かし続けた。タキは、
「ん。ただいま」
 と言うと、手洗いうがいと着替えを済ませ、
「今日お風呂早いね。乾かさせて」
 とさゆからドライヤーを受け取った。さゆの顔に掛かる髪を片手でかきあげてやりながら、もう片手でドライヤーを持ち、髪に当てる。その優しさにさゆはまた泣きそうになった。
「ん?どした?」
「……ううん」
 さゆの顔を覗き込んだタキは、微笑んで仕上げのブラッシングを始めた。最後にピンクのリボンでさゆの髪をゆるく結ぶと「俺もお風呂入って来ちゃうね」と着替えを取りに向かった。さゆは夕食を何も準備していない事をそこで初めて思い出し、冷蔵庫から鮭の切り身を取り出して、フライパンで焼き始めた。レタスを手でちぎって、チーズとシーザードレッシングでまぶしていると、また涙が込み上げて止まらなかった。タキに分からないように、声を殺して泣いた。
(特別なものが欲しかったわけじゃないのに)
 ただの、こんな日常を守りたかっただけなのに。
 ただ、それだけのことが、もうこれ以上はどうしても無理なのが、ひたすらに悲しかった。

「ありがとう、夕食作ってくれたんだ」
 タオルで髪を拭きながら、タキがテーブルへとやって来た。さゆの顔を見て一瞬、動きを止めた気がしたが、何も言わずに椅子に腰掛けた。
「……………なんか、朝ごはんみたいなメニューになっちゃった」
「いいよ、この頃魚食べてなかったし」
 タキは鮭の身をほぐし、ご飯にかけると上からさゆが用意していた緑茶を少し注いで食べ始めた。タキはコーヒーをよく飲むけれど、鮭を食べる時だけはそうして緑茶とまぶす。
「うん、おいし」
 さゆも曖昧に頷きながらサラダを口に運んだけれど、もう味がしなかった。言葉少なに夕食は終わった。小食のタキがデザートのプリンまで完食したのは、何か感づいているに違いなかった。けれどさゆはもう、タキと何かを話したいとは思えなかった。
 これ以上迷惑を掛けないまま、タキの前からしずかに、消えようと思っていた。

 タキが食器を洗う音を遠くで聞きながら、さゆは自室でひとり、画材を分けていた。明日タキが仕事に行っている間に、いらないものは全部ゴミとしてまとめ、画材や美術関連の本は、どこに寄贈すれば良いかメモを残そう。
 服を畳んでいると、ルークが駆け寄って来て、足元にすりよった。さゆに懸命に身体をこすりつける。心配しているようだった。
「優しいねえ、ルーク。ありがとうねえ」
 ルークの柔らかい毛を撫でると、「ニャオ」と一声鳴いて、その場に丸まった。さゆの洋服の上で眠ったルークを、そっとベッドに横たえていると背後にタキの気配がした。
「どうしたの?電気も点けないで」
 もう、明かりを点けるも忘れていたのを、さゆはそこで初めて気付いた。
「……あ、ルークが眠ったから」
「じゃあ、俺の部屋に行こう」
 タキは部屋の中にいるさゆに大股で歩み寄ると、その腕を強めに摑んだ。有無を言わさない強さだった。さゆは俯いたまま腕を引かれ、タキの部屋に入った。タキはさゆをベッドに腰掛けさせると、柔らかな仕草でリボンを解いた。そのままぎゅっと抱き締めると、二人でベッドに転がった。
「さゆ、仕事とか色々疲れたでしょ。今日はもう、ゆっくり眠ろう」
 タキはタオルケットを引っ張り上げ、さゆの頭まですっぽり被せた。背中を撫でるタキの手と温かい毛布の感触、石鹸の香りの中に、微かにタキの肌の香りがした。この頃タキの匂いに吐きそうになる事があったけれど、今日は平気だった。さゆは僅かに体温を取り戻した気がした。タキの腕の中でひとしきりタキのパジャマのボタンをいじったり、もじもじした挙句、ようやく蚊の鳴くような声で「タキ………今日、したい」と呟いた。
「え………いいけど、身体大丈夫?」
「う、うん」
 さゆが頷くと、タキはさゆに深いキスをしながらゆっくりと覆い被さった。耳や首にキスを降らせながらパジャマと下着をゆっくりと取り去る。
(ああ、これが最後なんだな)
 そう思うと、タキの感触や仕草一つ一つを全部覚えておきたかった。忘れたくなかった。さゆは天国や極楽浄土、地獄の絵をも数え切れないほど描いて来たけれど、そのどれもを信じきれなかった。それでも、もし「あの世」があるのなら、そこに持っていけるのは、他の何物でも無い思い出だけだ。
 タキは自分も裸になると、さゆの右手と恋人繋ぎにした。胸を、脇腹を、尻を、足を、タキの手が丹念に愛撫する。さゆは呼吸が深くなるのを感じた。でも、嬌声が出るほどの気持ちよさはどうしても感じられなかった。
(もう、気持ちいいとか、分からないや)
「気持ち悪くない?」
 タキが囁いた。さゆは頷いて、またキスをした。
 タキは結構な時間、さゆの全身をくまなく撫でた。それでもタキの指がさゆの中に入って来た時、ヒリついたような痛みを感じた。
「やっぱり濡れないね。挿入はやめておこう?」
 責めるでも無くタキはさゆの髪を撫で付けながら言う。
「いいの。今日はしたいの」
 さゆが腕を摑んで懇願すると、タキは少し困惑した表情を見せた。タキは自身をティッシュで拭いた後、ゴムを付けてさゆの入口にあてた。
 舌を絡めるキスをしながら、タキはゆっくりゆっくり慎重にさゆの中に入って来た。それでも快感で膨張していない膣を無理矢理押し広げる感触と摩擦が痛くて、さゆは思わず顔をしかめた。タキの動きが止まる。
「さゆ、これぐらいにしとこう?俺はもう充分気持ちよいから。ね?」
 さゆは首を横に振り、タキの腕に爪を食い込ませた。
 最後だからちゃんと抱かれたかった。
「…………じゃあ、ここまででちょっと動くから、それで、ね?」
 タキはさゆの瞳を覗き込むと、髪を撫でながらゆっくり浅く動き始めた。擦れるような感触がして気持ちよくは無かった。
 それでも、ほんとうに久しぶりにタキと一つになっている事が嬉しくて嬉しくて、さゆは微笑みながらタキの頬に手を伸ばした。舌を絡める口づけを繰り返す。
 やがて大きな吐息と共にタキは果てた。それでも今日はさゆを離そうとせず、自身を引き抜いた後も、身体の下のさゆを抱きしめ続けた。
 二人の荒い息遣いが段々と収まり、やがて部屋に静寂が訪れた。いつかと同じ、海鳴りが聴こえた気がした。
 身体が痺れて来るような感触がして、さゆは身じろぎをした。
「あ、ごめん、重いね」
 タキが気付いてゴロンと横に転がった。タキがゴムを処理して下着を身に付ける間に、さゆは背を向けてタオルを引き上げた。
 どうしようも無く、泣けて泣けて仕方なかった。
(もう終わりなんだ)
 明日の朝、タキをいつも通り見送る。
 それが永遠の別れになる。
 肩が震えるのを見られないように、タオルの中に隠れながら、「もう寝てしまおう」と思ったけれど、眠れるはずも無かった。
 と。
「さゆ」
 いつの間にか後ろで横になっていたタキが、さゆの胸と腹に両腕を回して、強めに抱き寄せた。タキの汗ばんだ肌を感じた。
「俺になんか隠してるでしょ」
「隠してることなんかないよ」
「嘘」
 タキは抱きしめる腕の力を強めた。
「死のうとしてるでしょ、さゆ。俺、周りに自殺した知り合い、多いから分かるよ」
「…………」
 さゆは何も言わなかった。それが答えだった。
「俺とルークが一緒にいてもダメ?」
 ごめんね、とさゆは本当に小さく言った。これから良い事があるかもとか、ひとりじゃないとか、そういう事ではないのだ。
 もうさゆの心は、過去に食い潰されてしまって、未来を見てはいない。
 タキはさゆの耳元で囁いた。
「じゃあ、俺も一緒に死んであげる」
 さゆが激しく首を振った。
「それはダメだよ!そんなの絶対にダメ!」
 さゆはそこで、声を上げてわんわんと泣き始めた。もう何もかもが悲しくて悲しくて、生きていること自体が救いようもなく悲しくて、タキに縋り付いて泣いた。タキはただ静かに、さゆをずっと抱き締めていた。
 そのままさゆは泣き疲れ、朝方本当に久々に、浅い眠りに落ちていった。

 うだるような暑さの中、タキがみじろぎする気配に、さゆは眼を覚ました。
「あ、おはよう」
 タキは今日も仕事だ。
「ごめんね、タキ。あんまり眠れなかったでしょ?」
 タキはそっと首を振ると、
「俺が眠れないのはいつもの事だから」
 と力なく笑った。
「さゆ、今日はずっとルークと一緒に眠っていなよ。出来るだけ休んで、それから、これからの事を考えよう」
   本当はさゆとずっと一緒にいたいけれど、そうもいかない。
「うん・・・・」
 さゆはほんの少しだけ、気分がマシになったような気がしていた。
「タキ、ごめんね。私、もう古本屋に来れないかもって言っちゃった」
「そっか・・・ま、それも休んでから考えよう」
 さゆは頷いて、一度服を着るのに起き上がった。ルークのご飯を盛ったタキの、スマフォを持つ手が不意に震え、大きく眼を見開いたのはその時だった。タキは大股でリビングへ向かいテレビを付けると、朝のニュース番組にチャンネルを合わせる。
「タキ・・・?」
 さゆもやって来て、テレビに眼をやる。何度かタキがチャンネルを替えると、あるニュースが流れ出した。
 そのニュースに、さゆも息を止めた。
「この人って・・・」
 それは二人と一匹の運命を、決定的に変えるニュースだった。
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