侯爵家の婚約者

やまだごんた

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 なぜ母上に甘えるのが僕じゃないんだ。
 なぜ母上は僕をあんな目で見るんだ。
 僕の知らない間に母上は僕ではなくロメオと一緒にいた。
 僕が欲しかった優しい眼差し、暖かい抱擁、一緒に過ごす時間。母上の優しい声で紡がれる物語はどんなに美しく素晴らしいんだろう。ずっと夢見ていた。
 母上が僕に笑いかけ、優しく名を呼んでくれる事を。あの柔らかい御手で僕の頭を、頬を撫で、おやすみなさいとキスをしてくれることを。
 なぜ――

「あなた!いけません!」

 何も感じなかったカインの五感に、夫人の声が割って入ってきた。
 悲痛な叫び声のようなその声はカインの耳を震わせる。
 次にカインの五感は柔らかい暖かさを感じた。そして息もできないほどの力強さで抱きしめられている事を理解するまで時間はかからなかった。
「どくんだ!アルティシア!」
「なりません。なりません!」
 カインの耳に入ってくるのは、父と母の声だった。自分にはいつも冷たい母だが、父にはその表情を和らげる所を何度も見ている。
 愛し合い、理解しあっている事は幼いカインにも理解できた。争うところなど見たことがない。そんな二人が声を荒げている。
 ああ――僕が魔力を暴走させてしまったからだ。
 僕がこんなだからお二人が仲を違えてしまったんだ。僕が魔力を上手に制御できないから。僕が生まれてきたから。
 カインの心は増々黒い熱に焼かれて、体を覆う魔力は一層強くなり、カインの体を包み込んでいる力は少しずつ絶えて、解けようとしていた。

「いいえ。公子。公子が悪いわけではありません」

 はっきりとカインの耳に幼い女の子の声が響いた。舌足らずで、とても優しい声だ。
「ごめんなさい。私が来るのが遅れたせいで――」
 女の子の声が近くなってくる。自分を覆っていた魔力が軽くなっていく。
「――シトロン公女」
 侯爵の声がはっきりと聞こえた。もう怒鳴っていない。夫人の声は聞こえない。もう僕のそばからいなくなったんだろうか。温かさはまだ自分を包んでいる。
 そう言えばロメオが倒れていた。ロメオを助けに行ったのか。母様は僕よりもロメオが――
 胸にまた黒い熱が噴き上げようとした。
「公子、落ち着いてください。夫人が苦しんでいらっしゃる。私が楽にしてあげるから目を開けて。私を見て」
 暖かい手がカインの手を取ると、胸にあった黒い熱が急速に消えていくのを感じた。
 自分を包む魔力が無くなり、空気が軽くなったのを感じた。
 まだ朦朧とした意識に少しずつ五感を取り戻したカインは漸く自分が両手で顔を覆っていた事に気が付いた。と同時に、自分を抱きしめていた力が解けたことも感じられた。
「アルティシア!」
 侯爵の悲鳴に近い叫びが、カインの意識をはっきりと覚醒させた。勢いよく侯爵を仰ぎ見たカインは、その目に崩れ落ちる夫人と、それを抱き止める侯爵の姿――そして侯爵の手に握られたナイフが侯爵の手を離れて地面に落ちるのを写し、そのまま意識を失った。

 シトロン公女と呼ばれた少女は、エスクード侯爵邸の寝室で、ベッドに横たわるエスクード侯爵夫人の顔を見つめていた。
 自分とは正反対の美しい金色の髪。閉じられた瞼の奥には空の青さほども美しい青い瞳。美の女神の彫刻のように整った顔に透き通った白い肌。
 若いころは絶世の美女であったと噂をよく聞いていたその人は、花の盛りを過ぎた今も尚美しさを保っていた。
 ――不公平だな。
 ジルダ・シトロンは自分の顔を鏡で見た。
 赤毛で顔色は青白く、低く丸い鼻。腫れぼったい目は辛気臭い雰囲気を演出するのに最適な小道具だ。
 美形が多い貴族の中で、ジルダの容姿が恵まれないのには理由があった。
 曾祖母の時代に、北方にある砂漠地域の豪族と交易を結ぶ為に長の息子を婿に迎えた。
 砂漠地域の豪族は交易と魔獣狩りを生業とするにふさわしく、逞しい体をもち、目は細く小さく、凹凸の少ない顔をしていた。
 しかし、おじい様は私のように不細工なお顔ではなかったわ……男らしく、意志の強そうなお顔をされていたもの。きっと生まれてくる性別を間違えたのね、私は。
 ジルダは幼いながらも、自分の顔には諦めを覚えていた。同じ祖父の血を引く父はジルダにそっくりだが、鼻筋は祖母に似たため、全体的に均整の取れた顔で異国情緒溢れる美男子……とまではいかないまでも、2度の結婚を経て2男3女を儲けた今でも、愛妾の座を狙って迫る女性がいると言えばお察しだろう。
 もちろん、同じ血筋の兄弟たちも奇跡のような調和の恩恵を受け、祖父にそっくりなのは自分だけだった。生まれた時からそんな環境で育っていると、諦めもつくというものだろう。
 しかし、ジルダにも奇跡は起きていた。
 生まれ持った魔力吸収の能力だけでなく、並外れた魔力操作を身につけていたのだ。
 それは幼いジルダにとって、小さな誇りだった。
 だが、エスクード侯爵夫人を間近で見たジルダは、そんな小さな誇りなど意味もないほど圧倒的に美しく、優雅な女性を目にして、僅か6歳にして世の中の不公平を悟る事となった。
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