侯爵家の婚約者

やまだごんた

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51.図書室

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 イレリアは薬草の事しか知らなかったが、決して頭が悪いわけではなかった。
 教えられた事はすぐに理解し、吸収することができたので、教師たちも驚いていた程だ。だが、唯一苦手としたのが文字の読み書きだった。
 文字の読み書きは平民でも難しく、主に貴族が用いる文字は難解でイレリアには記号が羅列しているようにしか見えなかった。
 平民の文字はそれをもっと簡略化したもので、それならイレリアも少しは読み書きすることができたのだが。
 ただ、貴族の中でも読み書きのできない教養の低い者もそれなりにいたし、手紙や令状などは使用人が代筆する事がだと教えられて、イレリアは安堵したのを覚えている。
 しかし――使用を許された侯爵家の図書室で、イレリアは手に照明を持ったまま困惑していた。
 どれも難しい書体で書かれた本ばかりだった。
 以前薬草の本を取りに来た時は、アレッツォと一緒に来て選んでもらったのだが、今日はイレリア一人だった。
 アリッサを連れて来るのだったと、イレリアは後悔した。
 マッケナー子爵家で貴族同等の教育を受けたアリッサは、よくよく観察してみると非常によくできた侍女だった。
 読み書きはもちろん、手紙を綴ればその文字は美しく繊細な筆跡で、詩的とも思える文章は受け取る相手の心を癒した。
 社交界でイレリアの評価が上がった一因はアリッサにあると言ってもおかしくはなかった。
 そんな彼女ならイレリアの欲している本など造作もなく見つけ出して、その内容を読み聞かせてくれただろうに。
 だが、アリッサが仕事を終えた後に、図書室に行こうと思い立ったのはイレリアだ。
 明日まで待てばよかったが、明日はまたカインと過ごす約束をしているのだ。
 明日の休みが終わればカインはしばらく戻らない。
 寂しさがイレリアの心を吹き抜けた。カインとこんなに長い間離れ離れになるのは、カインが蟄居を命じられた時以来だ。
 だが、二人の関係はあの時と比べようもないほど密度を高めた。その分切なさも同じだけ深くなっていた。
 出会ったばかりの頃は、こんな風になるなんて思いもよらなかった。
 カインが貴族だということは知っていたし、出会った瞬間から惹かれていた。
 だが、身分が違いすぎた。まさか恋人になれるなんて思いもよらなかった。
 イレリアは随分と久しぶりに当時を思い出した。
 カインが毎日のようにイレリアに会いに来るのを察して、師匠はいつの間にか外に用事を作って出かけるようになっていた。
 カインが帰った後にふらりと帰って来ては、その日カインと何を話してどう過ごしたかを父親のように聞いてくれたものだ。
 と、言っても父親のような優しさは見えなかったが――それでも彼はイレリアの恩人だった。

 イレリアが10歳の頃、貧民街にやってきたその男は空いていた住居跡を整え、いつの間にか薬屋を開いていた。
 と言っても、貧民街に薬を買えるような者はいない。
 町で薬を買えないような貧しい平民を相手に商売をしていたようだ。
 5日に2度だけ店を開け、それ以外は薬草を採りに行ったり加工したりと、あまり店にはいないように見えた。
 ある時、森で薬草を採っていたイレリアは薬師に遭遇した。青白く、神経質そうな顔で薬草を摘んでいるイレリアをじっと見ていた。
「おい、そこの子供。茶色い髪の――そう、お前だ。ちょっとこっちへ来い」
 イレリアは薬草を採る手を止めて、恐る恐る薬師の近くへ寄った。
 見た目は――話し方も――怖いけど、貧しい人々のために薬を作って売ってる人だもの。きっと優しい人に違いないわ。
 イレリアは薬草の籠をぎゅっと握りしめながら、精一杯愛想よく見えるよう笑顔を作った。
「貧民街の捨てられ子だな。よく顔を見せろ――うん。悪くないな」
 薬師はしゃがみこんでイレリアの顔を掴むと、ぶつぶつと独り言を言いながら懐からスクロールを一枚取り出した。
 初めて見るスクロールにイレリアは驚いた。
 スクロールは平民でも買える物から、貴族ですら買えないほど高価なものがあると、焚き木を売りに行った時にパン屋のおばさんが言っていた。
 パン屋のおばさんは毎朝スクロールを使って窯に火を入れるのだと教えてくれたが、盗まれるのを恐れてか、スクロールそのものを見せてはくれなかった。
 薬師がスクロールに魔力を込めてからイレリアの手に当てると、スクロールが紫色に発光したのをイレリアは見た。
 それは一瞬だったが、小さく淡い光で、幼いイレリアはとてもきれいだと思ったのを今でも覚えている。
 スクロールを胸元に仕舞うと薬師は、イレリアが抱えている籠を見て「これを売りに行くのか」と尋ねた。
「うん。この籠いっぱいで銅貨3枚で買い取ってくれるんだよ。そんで、いつも焚き木を買ってくれるおばさんが、パンを銅貨2枚にまけてくれるって」
 イレリアは弾けるような笑顔で薬師に言った。
「――ふん。買いたたかれてるな。その籠いっぱいだと通常なら銅貨5枚だ」
 薬師の言葉にイレリアの笑顔は消し飛んだ。薬師はイレリアの様子には目もくれず、籠の中を見て驚いた。
「雑草が混じっていない。お前は薬草を見分けられるのか?」
「――マルコじいさんが教えてくれたんだよ。毒草は薬草とよく似た形をしているものもあるから、ちゃんと見分けないと買い叩かれるって」
 イレリアは唇をすぼめてそう言うと、薬師は立ち上がってイレリアの頭を軽く撫でた。
「私の仕事を手伝うか?最初は薬草を採るだけでいい。適正価格に色をつけてやる。教える手間が省けるのはありがたい事だ――お前が望むなら薬の調合も教えてやるぞ」
 薬師の声が少しだけ優しさを帯びた気がして、イレリアはやっぱりこの人は優しい人だったんだと嬉しくなった。
 二つ返事で承諾すると、薬師はさっそく籠いっぱいの薬草と銅貨5枚を交換してくれた。
 薬師はイレリアが店で生活することは許さなかったが、その代わり石鹸をくれた。
 清潔にすることや身だしなみを整え得ること、話し方や接客、茶の作法など必要な事を丁寧に教えてくれて、父親というものを知らないイレリアは子供心に薬師に父親を重ねて見ていた。

 手にしたランタンの光が揺らいだ気がした。
 このランタンには灯りのスクロールが埋め込まれているため、火のように揺らぐことはない。
 なのに揺らいだとはどういう事だろう。スクロールは今日ヨルジュが入れ替えていたものだから、古くなっているわけでもない。
 イレリアは不思議に思ってランタンを持ち直そうとした。
 その時、足元の棚に一冊だけ装丁の質素な薄い本が置かれている事に気が付いた。
「何かしら――」
 イレリアはその本を手に取ってみたが題名も何も書かれておらず、赤い革の装丁が施されただけの物だった。
 気になって中をめくると、平民が使う簡易文字が繊細で美しい文字が綴られていた。
 日付らしきものが書かれているところを見ると、日記だろうか。
 イレリアが探している情報が載っているかもしれない。
 ゆっくり見ようと、近くの読書台にランタンと本を置いたと同時に、図書室の扉が開く音が聞こえた。
「イレリア――?」
「カイン……」
 悪い事をしているわけでもないのに、思いがけない場所でカインと出会ったせいで、イレリアの心臓は早鐘を打った。
「資料を返しにきたら君がいて驚いたよ――それは?」
 イレリアの顔を見て嬉しそうなカインが、彼女の手にある赤い革の本を見た。
「よくわからないの。日記のようなんだけど――この下で見つけたのよ」
「日記?」
 カインはその本を手に取ると、顔を曇らせた。
「母の字だ」
 
 イレリアはカインの言葉を聞いて、自分が求めていた物はこれかもしれないと内心で喜んだ。
「そんなものは元に戻すんだ。他人の日記なんてろくなこと書いてないよ」
 カインの言葉に、イレリアは思案した。
 これが本当に侯爵夫人が書き残したものなら、イレリアが望むことが書かれているに違いないのだ。
 教師が言っていた。
 侯爵夫人は領地の貧しい人々のために、慈善事業を行っていたと。
 そうであれば、貧民街での支援の手掛かりになるのではと、イレリアは考えていた。
「でも、読んでみたいわ。とても綺麗な字だし、簡易文字なら私も読めるもの」
 イレリアが甘えるように言うと、カインは溜息をついた。
「貴族も私的な手紙や書き物は簡易文字を使うもんだよ。でも――君が人の日記を読むような悪趣味な人とは思わなかったよ」
 カインは皮肉っぽく笑いながらイレリアの肩を抱いた。
「もういない人の日記よ?もしかしたら社交の勉強になるかもしれないし」
「君が読みたいというのなら止めはしないが、もしこの日記があの人が書いたものなら、君の助けになる事は何も書かれていないと思うけどな」
 普段のカインとはまるで違う、皮肉めいた言い方にイレリアは胸が痛んだ。この人は――未だにお母様の仕打ちに傷ついているんだわ。
「それなら、カイン。一緒に読みましょう。明日は休みでしょ?少しくらい夜更かしをしてもいいんじゃない?」
 イレリアの提案にカインは驚いた表情で彼女を見つめた。
「あなたはお母様と殆ど一緒に過ごしていなかったのでしょ?この日記がお母様の日記だとしたら、お母様の人となりや本音を知るいい機会じゃない?――それに、もしかしたらだけど、なぜ幼いあなたにだけ冷たくあたっていたのかわかると思うの」
 イレリアの提案は完璧すぎて、カインは断る口実を探し切ることはできなかった。
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