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52.日記1
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図書室の一角に据えられた座り心地のいいソファに座り、カインとイレリアは日記を一枚一枚めくっていた。
日記は正しく侯爵夫人の書き残したものだった。
子供の頃、領地にいる父に送られた手紙や、祝い事の度に自分に贈られたカードに描かれた文字が、今カイン達が手にしている本の中にあった。
イレリアは10年以上経ってもまだ、母の筆跡を覚えているカインに胸が痛んだ。
この人はきっとずっと、母親を憎み、恨み、愛しているのだ――。
日記は侯爵と結婚する前から綴られていた。
美しい文字の中に、17歳の誕生月にデビュタントをしたこと。
求婚状が殺到したが、全て父が処分してしまった事が可笑しそうに書かれていた。
アルティシアの美しさはすぐさま社交界の注目の的となるほどだった。
輝く金色の髪に、空の青さのような青い瞳、バラ色の頬は小さな可憐な唇を見事に引き立たせた。
17歳のアルティシアは全てが珍しく、そして楽しくてたまらなかった。
一方、アンドレア王国内では小麦が豊作で、小麦の値段が大暴落していた。
そこでアバルト侯爵は農民たちへの救済にと、値下がりして行き場のない国中の小麦を買い取り、海の向こうの国に売りつけることにした。
オシュクール公国の貴族の仲立ちのおかげで商談は成立し、アバルト侯爵領は更なる富を得たと思われた。
しかし、その帰路のことだった。
船乗りの一人が事もあろうか魔力暴走を起し、あろうことか近くを航行していた貿易船を巻き込んで、交易品と小麦の代価を載せたまま船が沈んでしまった。
残されたのは莫大な借金だけだった。
幸いなことに、領地の差し押さえは免れたが、賠償のために屋敷のあらゆる奢侈品はあり得ないほどの安値で売却されていった。
ドレスや宝石に囲まれてお姫様のように暮らしていたアルティシアは、日々貧しくなる家の様子に怯えていた。
最後に手元に残ったのは、片手程の普段着用のドレスと、王宮に上がる際の礼服、申し訳程度の装飾品だけだった。
これから社交界で注目されようとしていた17歳の少女には耐え難い事だった。
だが、7つ下の弟のリオンは漸く基礎学習が終わり、跡取りとして専門的な学習を始めるところで、これから教育にも金のかかる時期だ。
アルティシアはわがままを言うでもなく、じっと我慢しながら父の領地の運営の手伝いを覚えようと、気持ちを切り替えた。
18歳になった春の月に、アバルト侯爵家はいよいよ困窮を迎えることになった。
王家への税はもちろん、街道の整備も領主の義務だった。これには莫大な費用が掛かる。
凶作に備えていた貯蔵庫の小麦を売り払っても、到底賄える金額ではない。
そんな時、侯爵家へ救いの手が差し伸べられた。
交易を仲立ちしてくれたオシュクール公国の貴族が、気の毒にと援助を申し出てくれたのだ。
ただし、それには条件があった。
支援を行うのは貴族ではなく、その弟だった。
40半ばの豪商が提示した条件は、アルティシアを正妻に迎えると言うものだった。
貴族が裕福な平民の元へ嫁いだ例は少なくなく、さほど珍しい事ではなかった。
しかし、侯爵家ほどの身分の高い貴族から平民に嫁ぐことは、これまでにも例がなく、有り得ない事だった。
アバルト侯爵家は、エスクード侯爵家に続く歴史ある名家だ。
侯爵は当然反対した。
だが、アルティシアは自分が嫁ぐことによって、父や領民が救えるのならと決断しようとしていた。
どのみち、自分に選択肢などない。
数年前に即位した若き国王陛下は昨年王妃を迎えてしまったし、王国に5つある公爵家も年の釣り合う独身男性がいない。
数多来ていた求婚状は侯爵家の惨状を知るや、取り消しを求める書状へと変わっていった。
唯一隣の領地の息子が独身で、アルティシアより4つほど年上であったが、この二つの家が結婚によって結びついた事は、長い歴史の中で一度もなかった。
エスクード侯爵家は、建国の英雄ジュノアの血を引く家系で、その役割は王家の盾であり、いざという時は断罪する剣であった。
そして、アバルト侯爵家の役割は、エスクード侯爵家が王に叛意を抱いた時に、断罪し戒めることだった。
アルティシアに残された選択肢は、家のために豪商に嫁ぐ事だった。
日記には、しばらくアルティシアの葛藤と、父をどう説き伏せるかといった悩みが綴られていた。
侯爵が反対した理由は、身分差だけではなかった。
豪商は王国にまでその噂が届くほどの女好きで、この年まで独身だったのは好きなだけ女遊びをするためだと吹聴するような下卑た男だった。
そんな男がアルティシアを正妻に迎えたいと言った理由は、以前招待された夜会で、美しいアルティシアに一目惚れしたのだと、ありきたりなことだった。
周知の事実だが豪商には何人もの私生児がおり、その中にはアルティシアと同じ年頃の娘もいた。
それでも、四方手を尽くしたがどうにもならないと侯爵も諦めかけた時に、手を差し出してくれたのはエスクード侯爵家だった。
同じ侯爵家として、この惨状を見過ごすことはできないと、金銭的な支援を申し出てくれた。
王室が調停行い、正当な手続きで資金を借り入れると、豪商は品性のない顔を更に歪めて国に帰って行った。
アバルト侯爵はすんでのところで、貴族としての矜持を失わずに済んだのだった。
アルティシアの日記には、少しずつオレリオ・エスクードの名前が増えていった。
日記は正しく侯爵夫人の書き残したものだった。
子供の頃、領地にいる父に送られた手紙や、祝い事の度に自分に贈られたカードに描かれた文字が、今カイン達が手にしている本の中にあった。
イレリアは10年以上経ってもまだ、母の筆跡を覚えているカインに胸が痛んだ。
この人はきっとずっと、母親を憎み、恨み、愛しているのだ――。
日記は侯爵と結婚する前から綴られていた。
美しい文字の中に、17歳の誕生月にデビュタントをしたこと。
求婚状が殺到したが、全て父が処分してしまった事が可笑しそうに書かれていた。
アルティシアの美しさはすぐさま社交界の注目の的となるほどだった。
輝く金色の髪に、空の青さのような青い瞳、バラ色の頬は小さな可憐な唇を見事に引き立たせた。
17歳のアルティシアは全てが珍しく、そして楽しくてたまらなかった。
一方、アンドレア王国内では小麦が豊作で、小麦の値段が大暴落していた。
そこでアバルト侯爵は農民たちへの救済にと、値下がりして行き場のない国中の小麦を買い取り、海の向こうの国に売りつけることにした。
オシュクール公国の貴族の仲立ちのおかげで商談は成立し、アバルト侯爵領は更なる富を得たと思われた。
しかし、その帰路のことだった。
船乗りの一人が事もあろうか魔力暴走を起し、あろうことか近くを航行していた貿易船を巻き込んで、交易品と小麦の代価を載せたまま船が沈んでしまった。
残されたのは莫大な借金だけだった。
幸いなことに、領地の差し押さえは免れたが、賠償のために屋敷のあらゆる奢侈品はあり得ないほどの安値で売却されていった。
ドレスや宝石に囲まれてお姫様のように暮らしていたアルティシアは、日々貧しくなる家の様子に怯えていた。
最後に手元に残ったのは、片手程の普段着用のドレスと、王宮に上がる際の礼服、申し訳程度の装飾品だけだった。
これから社交界で注目されようとしていた17歳の少女には耐え難い事だった。
だが、7つ下の弟のリオンは漸く基礎学習が終わり、跡取りとして専門的な学習を始めるところで、これから教育にも金のかかる時期だ。
アルティシアはわがままを言うでもなく、じっと我慢しながら父の領地の運営の手伝いを覚えようと、気持ちを切り替えた。
18歳になった春の月に、アバルト侯爵家はいよいよ困窮を迎えることになった。
王家への税はもちろん、街道の整備も領主の義務だった。これには莫大な費用が掛かる。
凶作に備えていた貯蔵庫の小麦を売り払っても、到底賄える金額ではない。
そんな時、侯爵家へ救いの手が差し伸べられた。
交易を仲立ちしてくれたオシュクール公国の貴族が、気の毒にと援助を申し出てくれたのだ。
ただし、それには条件があった。
支援を行うのは貴族ではなく、その弟だった。
40半ばの豪商が提示した条件は、アルティシアを正妻に迎えると言うものだった。
貴族が裕福な平民の元へ嫁いだ例は少なくなく、さほど珍しい事ではなかった。
しかし、侯爵家ほどの身分の高い貴族から平民に嫁ぐことは、これまでにも例がなく、有り得ない事だった。
アバルト侯爵家は、エスクード侯爵家に続く歴史ある名家だ。
侯爵は当然反対した。
だが、アルティシアは自分が嫁ぐことによって、父や領民が救えるのならと決断しようとしていた。
どのみち、自分に選択肢などない。
数年前に即位した若き国王陛下は昨年王妃を迎えてしまったし、王国に5つある公爵家も年の釣り合う独身男性がいない。
数多来ていた求婚状は侯爵家の惨状を知るや、取り消しを求める書状へと変わっていった。
唯一隣の領地の息子が独身で、アルティシアより4つほど年上であったが、この二つの家が結婚によって結びついた事は、長い歴史の中で一度もなかった。
エスクード侯爵家は、建国の英雄ジュノアの血を引く家系で、その役割は王家の盾であり、いざという時は断罪する剣であった。
そして、アバルト侯爵家の役割は、エスクード侯爵家が王に叛意を抱いた時に、断罪し戒めることだった。
アルティシアに残された選択肢は、家のために豪商に嫁ぐ事だった。
日記には、しばらくアルティシアの葛藤と、父をどう説き伏せるかといった悩みが綴られていた。
侯爵が反対した理由は、身分差だけではなかった。
豪商は王国にまでその噂が届くほどの女好きで、この年まで独身だったのは好きなだけ女遊びをするためだと吹聴するような下卑た男だった。
そんな男がアルティシアを正妻に迎えたいと言った理由は、以前招待された夜会で、美しいアルティシアに一目惚れしたのだと、ありきたりなことだった。
周知の事実だが豪商には何人もの私生児がおり、その中にはアルティシアと同じ年頃の娘もいた。
それでも、四方手を尽くしたがどうにもならないと侯爵も諦めかけた時に、手を差し出してくれたのはエスクード侯爵家だった。
同じ侯爵家として、この惨状を見過ごすことはできないと、金銭的な支援を申し出てくれた。
王室が調停行い、正当な手続きで資金を借り入れると、豪商は品性のない顔を更に歪めて国に帰って行った。
アバルト侯爵はすんでのところで、貴族としての矜持を失わずに済んだのだった。
アルティシアの日記には、少しずつオレリオ・エスクードの名前が増えていった。
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