侯爵家の婚約者

やまだごんた

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63.自尊心

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 器を投げられ、石をぶつけられ、怒り猛る住民達に取り囲まれて、男達は内臓の煮物と血にまみれながら退路を断たれて立ち往生していた。
「どけ!卑しい貧民が!」
 男の言葉に住民達は更に激昂した。
「俺らが卑しければ、イレリアを貶めようとしたお前らはなんだってんだ!」
 農作業から帰ってきた男が、手にしていた鍬を振り上げて男達の荷車を叩き壊した。
 車を牽いていたマーヴが怯えて逃げ出したが、止める者はいなかった。
 荷車の切れ端や農具を持った住民達が、男達に詰め寄り、いよいよかというその時、篤志家の使いの者達が現れた。
「何をしているんです!」
 品のいい壮年の男性が人混みを掻い潜って中央に躍り出ると、酷く汚れた男の集団がそこにいた。
 住民達は、口々に「こいつらがイレリアを陥れようとしたんだ」と叫び、興奮は納まることはなかった。
「ひとまず落ち着いてください。――皆さん落ち着いて!」
 ――壮年の男性の声は集団の声にかき消されていった。
 その時、広場に一気に大量の水がぶちまけられ、人々は水の勢いに足を取られ転んだり流されて人垣がまばらになった。
 誰かが放水のスクロールを使ったのだろう。突然の事に全員が呆気にとられ、その隙に粗野な男達の集団は人混みをかき分けて走り去って行った――

 侯爵邸でヨルジュから報告を聞いたイレリアは、思わずヨルジュを殴りそうになった。
「あれほど、皆の扱いは丁寧にと言っていたのに――暴動になるほど彼らを怒らせるなんて……」
 イレリアの声は怒りで震えていた。
 ヨルジュは仕事のできる男だ。それは侯爵も認めている。
 使いの男も、おそらくは働き者で面倒見のいい者を選んだのだろう。
 しかし、貧民街の住民に対し、尊厳をもって接することができる人間などいないのだ。
 多くの人は嫌悪か侮蔑、よくて憐みの目で貧民街の者を見る。
 ただ家や仕事がなく、貧しいというだけで生きる機会さえ与えられない。
 運良く生き延びても飢えと渇きと死の恐怖がずっと付きまとう。
 働ける者は一生懸命に働くが、幼いイレリアがそうだったように、賃金は叩かれその日食うすらままならない程度の小銭を一日かけて稼ぐ。
 それでもその賃金すら得られず、犯罪に手を染める者も中にはいた。
 その道を踏み外したわずかな者のために、貧民街は卑しく汚らわしい場所として扱われていたのだ。
 だが、皆生きていたかっただけなのに。イレリアも、他の皆も――。
 
 そんな中で、カインだけは自分を、皆を当たり前のように人として接してくれていた。
 カインが特別だったのだ――いや、カインですら、イレリアがいなければどうだったかなどわからない。
 貧民街の実情を聞いて胸を痛めて見せたのは優しさではない。イレリアに出会う前は貧民街など目も向けていなかったからだ。
 イレリアがいたから、カインにとっても貧民街は「そこにあるもの」と認識されたが、そうでなかったら見ようともしないのが貴族だ。
 貧民街とは、貧民とはそんなものなのだ。同じ人とすら見てもらえない。
 イレリアはそれを誰よりもわかっていたのに、忘れていた自分に歯噛みした。
 そして他の貴族達と同じように、屋敷の中から使用人に言いつけ、施したつもりになっていたのだ。
「一人にして頂戴」
 イレリアは数日以内にこの状況をなんとかしなければと、頭を抱えた。
 そう。カインが戻るまでに――

 翌日はアバルト侯爵夫人から茶会に招待されていた。
 イレリアは茶会どころではなかったが、断ることができず、重い頭を抱えたまま、アバルト侯爵家からの迎えの獣車に乗っていた。
 ロメオの言った通り、アバルト侯爵夫人に気に入られたのか、度々茶会に呼ばれるようになっていた。
 そして、その都度この豪華な客用の獣車を迎えに寄越してくれるのだ。
 イレリアは、ジルダがカインと婚約した直後に、エスクード侯爵から獣車を贈られていた事をつい最近知った。
 それも成長に合わせて3度も作り直しているという。
 獣車は、それだけでも下級貴族の1年分の収入よりも高いと聞いた事がある。
 イレリアはジルダを見送るカインの姿を思い出して、こみ上がる怒りが抑えきれそうになかった。
 貴族というだけでカインの婚約者として侯爵から大事にされ、全てを与えられたジルダ。
 なのに、その侯爵は同じ邸に住んでいてもイレリアには顔すら合わせようとしない。
 そしてカインでさえ、あれだけ嫌っていたジルダへ何かしらの感情を抱き始めたように見えた。
 貴族というだけで――イレリアはジルダへの憎しみを抑える事が出来なかった。
 
 獣車が侯爵邸に到着すると、待ち構えていたようにロメオが笑顔で出迎えてくれた。
 ブルーグレーの瞳がイレリアを見つめると、イレリアはそれまでの感情など全て消えてしまった。
 やはりこの方だわ。もしカインに捨てられる事になっても、この方なら私を救ってくれるに違いない。
 イレリアの胸にときめきが戻ってきた。
「お手をどうぞ」
 獣車の下からロメオが手を差し出した。
 その手を取ろうとして、イレリアは一瞬思いとどまった。
 カインに抱かれて数日しか経っていないのに、ロメオに触れていいのか迷ったのだ。
 だが、ただのエスコートなのだからと迷いを振り切ると、その手を取ってすっかり自然になった優雅な所作で獣車から降りた。
 
「昨日の事――聞きました。大丈夫ですか?」
 茶会は庭園の東屋で行われるのだと、ロメオがそのままエスコートを申し出て、二人はゆっくりと庭園を歩いていた。
 庭園の生け垣を超えたら東屋というところで、ロメオはイレリアに尋ねた。
「――何のことですか?」
 イレリアは心臓が口から出そうなほど焦ったが、ロメオに気取られてはならないと、笑顔を作って見せた。
 なぜロメオが昨日の事を知っているのだろう――。もう噂は広がっているのだろうか。ロメオが知っているのなら当然侯爵夫人も知っているに違いない。――いや、だとしたらなぜわざわざ迎えの獣車を寄越したのか。
 もしや、貴婦人達の前でイレリアの愚かな罪を晒上げるつもりなのだろうか――
「あなたの名を騙った暴漢が貧民街の暴動を扇動したと」
 ロメオの静かな声がイレリアの耳を震わせた。
 噂はそのように広まっていたのか。
 確かに、報告でも彼らが怒った理由は、ヨルジュの部下だった男がイレリアの名を騙ってイレリアを貶めようとしたと言う、住民達の勘違いによるものだと言っていた。
 ――それなら……
「名を――そうでしたの……私、昨日は頭痛が酷くて臥せっていたもので存じませんでしたわ」
 イレリアは安心して力が抜けそうになったが、ロメオの腕にしっかりと掴まって弱弱しく微笑んで見せた。
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