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「陛下の浮気癖は今に始まったことではないですけれど、二十年前のことには本当に困らされましたわねぇ」
「ええ。本当に。今までどれほどわたくしたちが涙を流したのか、陛下は想像すらしていないでしょう」
二妃は歌劇団の三人の前で国王に対する愚痴を零す。どうやら三人の口は堅いらしい。そうでなければ、二妃がそのようなことを口にすることはないものだ。
王家からの寄付のことと言い、団長が愛人であることと言い、花鳥歌劇団は王族と密接に関わっていることがルーチェにもわかる。もちろん、全く知らなかった。
「二十年前……?」
二十年前、という単語を最近耳にしたような気がして、ルーチェはしばし思案する。父が国王をコレモンテ伯爵領でもてなしたのが、その頃ではなかったか。二十年前に一度きりの行幸を伯爵は大変自慢に思っているが、一度きりである理由をルーチェは知らない。
「二十年前に、国王と精霊が恋に落ちた……?」
ルーチェは人差し指と親指で顎を撫でる。「精霊」や「魔獣」が魔の者の暗喩であることは想像がつく。「……魔獣」とルーチェは呟く。その単語も、最近耳にした。『魔境』について興味津々だった人物に、話をした。
「黒髪の魔女と、緋色の魔獣……」
「では、そろそろわたくしたちはお暇いたしましょうか」
「……リーナ?」
「さ、帰りましょ、ルーチェ。皆様、ご機嫌よう」
リーナがぐいと腕を引っ張って、ルーチェを立たせる。リーナはルーチェと視線を合わせようとしない。『魔境』について聞いてきたのは、リーナだった。何か後ろめたいことでもあるのだろうか。
――リーナと『王と精霊の恋物語』には、何か秘密がある? 黒髪の魔女に恋をした国王陛下は、魔獣から呪いをかけられた? しかし、陛下は生きている。どこまでが真実で、どこからが虚構なのだろう?
疑問がふつふつと湧いて出てくる。しかし、リーナはその疑問に答える気はなさそうだ。強引にルーチェを特別席の扉のほうへと押しやっていく。
「もうお帰りですか? お見送りいたしましょう」とコルヴォが声をかけてくるものの、リーナはぶっきらぼうに対応する。
「結構です」
「嫌われたものですねぇ、私も」
「ルーチェは兄の婚約者なんですもの。変な虫から守らなければなりません」
「リーナ?」
ルーチェはリーナの暴言に驚き、目を丸くする。リーナはコルヴォを睨みつけている。
虫扱いされたコルヴォは、愉快そうに目を細めている。どうやら気分は害していないらしい。王族からの心ない言葉など、看板を張るような役者には痛くも痒くもないのかもしれない。
「コルヴォ様、申し訳ございません。先に失礼いたします」
「ええ、構いませんよ。またいらしてください。王子殿下と結婚なさるのなら、あなたのことも特別席でもてなしましょう」
微笑んで、コルヴォはルーチェの頬に顔を寄せた。
「それにしても、あなたの髪はとても綺麗ですね。葡萄酒のような、どこか懐かしいような、何だか不思議な気持ちに……」
瞬間、ルーチェはリーナにぐいと腕を引っ張られたため、コルヴォの唇は頬には当たらなかった。ルーチェは恥ずかしさで、リーナは怒りでそれぞれ真っ赤になっている。
「コルヴォ、やり過ぎです」
「だって、オルテンシア。彼女はあなたと出会った葡萄畑のような髪の色なんだよ? 懐かしいじゃないか」
「それはルーチェ嬢には関係のないことでしょう」
コルヴォはオルテンシアから叱られ、肩をすくめてリーナに頭を下げる。
「失礼いたしました」
「本っっ当に失礼な役者ね。もう出ていくわ」
「おやおや。ごきげんよう、アデリーナ王女殿下」
リーナに引っ張られ、ルーチェは廊下に連れ出される。扉が閉まる直前、二妃の会話が、耳に届いた。
「まさかコレモンテ伯爵領のご令嬢とフィオが結婚するとも思いませんでしたもの」
「これも何かの縁でしょう。真実の愛で呪いが解けるものなら、とても素敵なことですけれど」
ルーチェはようやく、理解する。ずっと胸のうちに燻っていた違和感の正体に、この結婚の不可思議さに。
――この結婚は、フィオ王子が、王家が、何らかの目的を達成するために仕組まれたものなんだ。
無言で自分の腕を引っ張っていくリーナの後ろ姿をぼんやり見つめ、ルーチェは溢れる涙を彼女に知られぬように拭うのだった。
馬車に乗り込んでも、リーナは窓の外を見つめたままだ。ルーチェは悲しく、虚しい気持ちを抱いたまま同じように窓の外を見やる。
ルーチェも子どもではないのだから、王侯貴族間の結婚において、互いの気持ちなど必要はないと理解している。愛していなくとも、結婚をして子どもを残す義務がある。
フィオのことも、リーナのことも、ルーチェは好ましく思っている。もっと互いのことを知って、もっと年月がたてば、自然とそこに愛や情が生まれるものと思っていた。
しかし、そんな日は来ないのかもしれない。ルーチェの胸は押しつぶされてしまいそうなくらいに、痛い。
「ルーチェは」
リーナの消え入りそうな声に、ルーチェはドキリと動揺する。
「ルーチェは、ああいう人が好みなの?」
「……え?」
「あの、コルヴォみたいな男の人が好きなの?」
リーナの質問の意図がわからず、ルーチェは一瞬答えに窮する。それを肯定の意味だと受け取ったリーナが、ようやく、ルーチェに視線を向ける。その表情は、ひどく悲しそうだ。
「フィオじゃダメなの? フィオのどこがダメなの?」
「リ、リーナ?」
「妹のわたくしが言うのはおかしいかもしれないけれど、兄は金髪碧眼で背もそれなりにあるし、かなりの美男子だと思うわよ? 口下手だから、台詞のように甘い言葉は囁くことができないかもしれないけれど」
「待っ」
ぐいぐいとにじり寄ってくるリーナに、ルーチェは戸惑うばかりだ。何しろ、ルーチェはフィオとコルヴォを比べたことなどない。どちらの美しさにも優劣をつけることなどできず、比較できるものではない。それに、コルヴォは女なのだ。フィオとは違う。
「兄との結婚は嫌? 逃げ出したいくらい?」
兄の目的を、妹は知っているのだ。ルーチェは確信している。だから、リーナはフィオのために自分を選んだのだと。
「……リーナはフィオ王子のことを本当に心配しているんだね。理解し合っているから、私を選んだんだね」
自分らしさを持ち合わせないルーチェは、自分らしさを求めるフィオにはふさわしくないと思っていた。一ヶ月ずっと、後ろめたく思っていた。
ただ、フィオに何らかの目的があるならば、自分を利用してもらって構わない。そんなふうに考えを改めたところだ。それが互いのためだ。
「違う、違うのよ、ルーチェ。フィオはちゃんとあなたに恋をして――」
「ありがとう、リーナ。嘘はつかなくていいよ。私は望まれる通り、ちゃんと王子妃になるよ。うまくやるから心配しないで」
ルーチェの言葉に、リーナは深々と溜め息を吐き出した。げっそりとした表情で頭を抱え、「もうダメ、もう無理」と呟く。
「ルーチェ、お願い。一つだけ答えて」
顔を上げたリーナの視線が鋭すぎるため、ルーチェは怖じ気づく。しかし、その手を、リーナがぎゅうと握る。逃さない、と言っているかのように。
「フィオのことは嫌い? 好き?」
難しい質問だ。好きでも嫌いでもない、というのが答えなのだが、リーナが求めるものはそれではないだろう。二択だ。他の答えは必要ない。
だから、ルーチェは婚約者の妹に正直に答える。
「……好きだよ」
「ありがとう」
リーナはホッとした表情で、ルーチェの頬にキスをする。ルーチェが真っ赤になると、リーナは嬉しそうに微笑んだ。
「わたくしも好きよ、ルーチェのこと。コルヴォなんかにキスを許すものですか。あなたに触れていいのは、わたくし……と兄だけよ」
リーナの不敵な笑みをどう解釈すればいいのかわからず、ルーチェは曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。
「ええ。本当に。今までどれほどわたくしたちが涙を流したのか、陛下は想像すらしていないでしょう」
二妃は歌劇団の三人の前で国王に対する愚痴を零す。どうやら三人の口は堅いらしい。そうでなければ、二妃がそのようなことを口にすることはないものだ。
王家からの寄付のことと言い、団長が愛人であることと言い、花鳥歌劇団は王族と密接に関わっていることがルーチェにもわかる。もちろん、全く知らなかった。
「二十年前……?」
二十年前、という単語を最近耳にしたような気がして、ルーチェはしばし思案する。父が国王をコレモンテ伯爵領でもてなしたのが、その頃ではなかったか。二十年前に一度きりの行幸を伯爵は大変自慢に思っているが、一度きりである理由をルーチェは知らない。
「二十年前に、国王と精霊が恋に落ちた……?」
ルーチェは人差し指と親指で顎を撫でる。「精霊」や「魔獣」が魔の者の暗喩であることは想像がつく。「……魔獣」とルーチェは呟く。その単語も、最近耳にした。『魔境』について興味津々だった人物に、話をした。
「黒髪の魔女と、緋色の魔獣……」
「では、そろそろわたくしたちはお暇いたしましょうか」
「……リーナ?」
「さ、帰りましょ、ルーチェ。皆様、ご機嫌よう」
リーナがぐいと腕を引っ張って、ルーチェを立たせる。リーナはルーチェと視線を合わせようとしない。『魔境』について聞いてきたのは、リーナだった。何か後ろめたいことでもあるのだろうか。
――リーナと『王と精霊の恋物語』には、何か秘密がある? 黒髪の魔女に恋をした国王陛下は、魔獣から呪いをかけられた? しかし、陛下は生きている。どこまでが真実で、どこからが虚構なのだろう?
疑問がふつふつと湧いて出てくる。しかし、リーナはその疑問に答える気はなさそうだ。強引にルーチェを特別席の扉のほうへと押しやっていく。
「もうお帰りですか? お見送りいたしましょう」とコルヴォが声をかけてくるものの、リーナはぶっきらぼうに対応する。
「結構です」
「嫌われたものですねぇ、私も」
「ルーチェは兄の婚約者なんですもの。変な虫から守らなければなりません」
「リーナ?」
ルーチェはリーナの暴言に驚き、目を丸くする。リーナはコルヴォを睨みつけている。
虫扱いされたコルヴォは、愉快そうに目を細めている。どうやら気分は害していないらしい。王族からの心ない言葉など、看板を張るような役者には痛くも痒くもないのかもしれない。
「コルヴォ様、申し訳ございません。先に失礼いたします」
「ええ、構いませんよ。またいらしてください。王子殿下と結婚なさるのなら、あなたのことも特別席でもてなしましょう」
微笑んで、コルヴォはルーチェの頬に顔を寄せた。
「それにしても、あなたの髪はとても綺麗ですね。葡萄酒のような、どこか懐かしいような、何だか不思議な気持ちに……」
瞬間、ルーチェはリーナにぐいと腕を引っ張られたため、コルヴォの唇は頬には当たらなかった。ルーチェは恥ずかしさで、リーナは怒りでそれぞれ真っ赤になっている。
「コルヴォ、やり過ぎです」
「だって、オルテンシア。彼女はあなたと出会った葡萄畑のような髪の色なんだよ? 懐かしいじゃないか」
「それはルーチェ嬢には関係のないことでしょう」
コルヴォはオルテンシアから叱られ、肩をすくめてリーナに頭を下げる。
「失礼いたしました」
「本っっ当に失礼な役者ね。もう出ていくわ」
「おやおや。ごきげんよう、アデリーナ王女殿下」
リーナに引っ張られ、ルーチェは廊下に連れ出される。扉が閉まる直前、二妃の会話が、耳に届いた。
「まさかコレモンテ伯爵領のご令嬢とフィオが結婚するとも思いませんでしたもの」
「これも何かの縁でしょう。真実の愛で呪いが解けるものなら、とても素敵なことですけれど」
ルーチェはようやく、理解する。ずっと胸のうちに燻っていた違和感の正体に、この結婚の不可思議さに。
――この結婚は、フィオ王子が、王家が、何らかの目的を達成するために仕組まれたものなんだ。
無言で自分の腕を引っ張っていくリーナの後ろ姿をぼんやり見つめ、ルーチェは溢れる涙を彼女に知られぬように拭うのだった。
馬車に乗り込んでも、リーナは窓の外を見つめたままだ。ルーチェは悲しく、虚しい気持ちを抱いたまま同じように窓の外を見やる。
ルーチェも子どもではないのだから、王侯貴族間の結婚において、互いの気持ちなど必要はないと理解している。愛していなくとも、結婚をして子どもを残す義務がある。
フィオのことも、リーナのことも、ルーチェは好ましく思っている。もっと互いのことを知って、もっと年月がたてば、自然とそこに愛や情が生まれるものと思っていた。
しかし、そんな日は来ないのかもしれない。ルーチェの胸は押しつぶされてしまいそうなくらいに、痛い。
「ルーチェは」
リーナの消え入りそうな声に、ルーチェはドキリと動揺する。
「ルーチェは、ああいう人が好みなの?」
「……え?」
「あの、コルヴォみたいな男の人が好きなの?」
リーナの質問の意図がわからず、ルーチェは一瞬答えに窮する。それを肯定の意味だと受け取ったリーナが、ようやく、ルーチェに視線を向ける。その表情は、ひどく悲しそうだ。
「フィオじゃダメなの? フィオのどこがダメなの?」
「リ、リーナ?」
「妹のわたくしが言うのはおかしいかもしれないけれど、兄は金髪碧眼で背もそれなりにあるし、かなりの美男子だと思うわよ? 口下手だから、台詞のように甘い言葉は囁くことができないかもしれないけれど」
「待っ」
ぐいぐいとにじり寄ってくるリーナに、ルーチェは戸惑うばかりだ。何しろ、ルーチェはフィオとコルヴォを比べたことなどない。どちらの美しさにも優劣をつけることなどできず、比較できるものではない。それに、コルヴォは女なのだ。フィオとは違う。
「兄との結婚は嫌? 逃げ出したいくらい?」
兄の目的を、妹は知っているのだ。ルーチェは確信している。だから、リーナはフィオのために自分を選んだのだと。
「……リーナはフィオ王子のことを本当に心配しているんだね。理解し合っているから、私を選んだんだね」
自分らしさを持ち合わせないルーチェは、自分らしさを求めるフィオにはふさわしくないと思っていた。一ヶ月ずっと、後ろめたく思っていた。
ただ、フィオに何らかの目的があるならば、自分を利用してもらって構わない。そんなふうに考えを改めたところだ。それが互いのためだ。
「違う、違うのよ、ルーチェ。フィオはちゃんとあなたに恋をして――」
「ありがとう、リーナ。嘘はつかなくていいよ。私は望まれる通り、ちゃんと王子妃になるよ。うまくやるから心配しないで」
ルーチェの言葉に、リーナは深々と溜め息を吐き出した。げっそりとした表情で頭を抱え、「もうダメ、もう無理」と呟く。
「ルーチェ、お願い。一つだけ答えて」
顔を上げたリーナの視線が鋭すぎるため、ルーチェは怖じ気づく。しかし、その手を、リーナがぎゅうと握る。逃さない、と言っているかのように。
「フィオのことは嫌い? 好き?」
難しい質問だ。好きでも嫌いでもない、というのが答えなのだが、リーナが求めるものはそれではないだろう。二択だ。他の答えは必要ない。
だから、ルーチェは婚約者の妹に正直に答える。
「……好きだよ」
「ありがとう」
リーナはホッとした表情で、ルーチェの頬にキスをする。ルーチェが真っ赤になると、リーナは嬉しそうに微笑んだ。
「わたくしも好きよ、ルーチェのこと。コルヴォなんかにキスを許すものですか。あなたに触れていいのは、わたくし……と兄だけよ」
リーナの不敵な笑みをどう解釈すればいいのかわからず、ルーチェは曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。
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