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011.

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 結局、リーナとは詳しい話ができないまま、三つ時が来てしまった。夕刻になるとリーナは眠そうな顔をして部屋に戻り、日が暮れるとフィオが起きてくる。いつも彼の顔色は良いため、病人だということを忘れそうになってしまうルーチェだ。
 夕食を共にしながら、フィオにはリーナとの話を報告するだけに留めておいた。聞きたいことは山のようにあったのだが、謁見前にフィオの機嫌を損ねるようなことがあってはならないと判断したのだ。

 謁見室は朱の宮殿、二階にある。フィオと近衛騎士に伴われて、初めてルーチェは朱の宮殿に足を踏み入れる。
 さすがに公的な場での男装はやめ、王宮の針子たちが作ってくれた紅樺色のドレスを着ている。すとんとしたシルエットの、実にシンプルなドレスだ。そのドレスに合わせて、フィオは紅樺色のチーフや飾りをつけている。
 中の壁や床は白と灰色で統一されており、ところどころにアクセントとして朱色が使われている。内装まで赤いと落ち着かないような気がしていたので、ルーチェは安心した。
 趣味のいい像や壷、風景画が飾られている廊下を通り、やがて謁見室にたどり着く。ルーチェが手を握りしめて隣を見ると、フィオも同じようにぎゅっと手を握り込んでいることに気づく。唇が少し震えているようにも見える。
 フィオも緊張しているのだと思うと、何だか少し気持ちが和らぐ。

「フィオ王子も緊張することがあるのですね」
「それは、まぁ……一生に一度のことだと思うと、やっぱり緊張するよ。ルーチェは?」
「同じく、緊張するなと言われても緊張しますね。そういうものなのでしょう」

 ルーチェは少し考えて、フィオの右手を取った。リーナとは毎日のように手を握っているが、フィオに触れるのは初めてのことだ。緊張のせいかしっとりとしているが、嫌悪感はない。リーナとよく似た手だと思う。
 驚きで見開かれた深い緑色の瞳がルーチェを映す。ルーチェは「大丈夫です」と笑う。うまく笑えたかどうかはわからないが、フィオに意図が伝わるといい。

「落ち着いてください。私にも王子の緊張が移ってしまいます」
「そうだね。二人とも、汗でびっしょりだね」
「今、グラスを渡されたら取り落としてしまいますね」
「会食の予定がなくて良かったよ、本当に」

 謁見室の扉を近衛騎士が開け、二人は手を繋いだまま入室する。
 白色大理石の床と柱、花のタイルが埋め込まれた壁、王の肖像画がまず目に入る。天井には聖母神や聖獣のモザイク画が描かれている。
 赤い絨毯の先に高座があり、そこに国王と王妃が座る立派な椅子が二つ置かれている。玉座から少し離れた絨毯の上で、近衛騎士に囲まれながら二人並んで国王夫妻の登場を待つ。

「……手を握るという行為が、こんなに安心するものだとは思わなかったよ」

 優しげな視線が、ルーチェに向けられている。何だかくすぐったい気分になる。

「フィオ王子の手は、リーナのものによく似ています。大きさも節も違うのに、不思議ですね。兄妹だからでしょうか」
「兄妹だからかなぁ」

 自分の手も兄セヴェーロや弟ナリオと似ているのだろうか、とルーチェは思案する。二人と手を握ったのは遠い昔のことだ。二人の手がどんなものだったのか、もう思い出せない。

「ルーチェの手のひらは、少し硬いね」
「はい。一応、剣術や体術を学んでおりましたので」
「体を動かすのが好きなの?」
「割と。ダンスよりは好きですね」

 言って、ルーチェは兄妹二人の手が似ている理由に気づく。リーナもフィオも、自分と同じように手のひらに硬い部分があるのだ。それが右手だったか左手だったかを思い出す間もなく、どこかでシャンシャンと音が鳴った。国王と王妃の登場だ。
 二人は慌てて手を離したが、それだけで一気に心細くなるのだから不思議なことだ。手を繋ぐだけで安心が得られるとフィオが言っていたことを、ルーチェは実感する。
 フィオに倣い、深々と辞儀をしたまま絨毯の赤色を見つめる。衣ずれの音がして、しばらくしたのち、溌剌とした声が響いた。

「二人とも顔を上げよ」

 椅子に座っていたのは、薄鼠の短髪の男性だ。派手な衣装ではなく、清洒な正装。しかし、華美な金色の冠が彼の地位の高さを物語っている。キリと唇を結び、真面目そうな顔を浮かべている国王の隣に、目を細めて少し冷たい印象の王妃が座っている。

 ――呪われているようには見えないなぁ。

 フィオは国王夫妻への挨拶を述べたあと、すぐに本題に移る。

「国王陛下、王妃殿下。こちらのルーチェ嬢と結婚する運びとなりましたので、報告いたします」
「コレモンテ伯爵家のルーチェ・ブランディにございます」

 再度二人が礼をして顔を上げると、国王は目尻を下げ相好を崩していた。ニコニコと笑っていることから、歓迎されていることは伝わってくる。ルーチェはホッとする。
 これは国王夫妻に対する婚約の報告だ。婚約伺いではない。反対されることはないものの、やはり緊張するものだ。

「フィオもようやく結婚する気になったのだね、一安心だよ。それで、ルーチェ嬢、君は伯爵ではなく夫人のほうに似ているね。ねぇ、ビーチェ」
「陛下。公式の場では、わたくしの名前は」
「あぁ、うん、そうだった。ベアトリーチェ王妃、また娘が増えるね」
「ええ。とても楽しみでございます」

 フィオの結婚が嬉しくて仕方がないというような笑みを浮かべている国王だが、王妃は少し曖昧な笑みを浮かべるに留めている。「コレモンテ伯爵」に対する印象の悪さはルーチェも理解していたため、仕方がないと諦めている。伯爵領で夫が浮気をしたのだから、王妃は複雑な思いを抱いていることだろう。

「ありがとう、ルーチェ嬢。聞き及んでいると思うが、フィオとは満足のいく結婚生活は送ることができないかもしれない。それでもできる限り支えてやってほしい」
「尽力いたします」
「うん、うん、ありがとう」

 謁見はすぐに終わる。国王は早寝をするのが習慣らしく、既に眠くてたまらないらしい。リーナは確実に国王の血を継いでいるのだろうと、ルーチェは微笑ましく思う。
 睡魔に勝てない国王は、騎士に抱えられながら退室していく。二人のために時間を割いてくれたことに感謝しつつ、国王が扉の向こうへ戻っていくのを見送る。
 ベアトリーチェ王妃はまだ話がしたいのか、玉座に残ったままだ。

「ルーチェ嬢、クリスとマリアに会ったようね」
「はい。花鳥歌劇団の特別席にお招きいただきまして、大変楽しい時間を過ごしました」
「そう……わたくしも誘ってくれれば良かったのに。気が利かない二人ねぇ」

 花鳥歌劇団には国王の愛人オーカがいるため、気を利かせた二人が王妃を誘わなかったのではないのか。ルーチェはそんなふうに思ったものの、どうやら王妃は、オーカのことも二妃のことも気にしていないらしい。

「近々、皆で茶会を開きましょうか。招待状をお送りいたしますからね」
「ありがとうございます」
「その際、ドレスコードは遵守していただきたいの」
「は、い」

 ――男装のことだ。

 咎められていると感じて、ルーチェは冷や汗をかく。第二妃、第三妃に会うのに、やはり男装では礼を欠いていたのだ。

「……失礼ながら、それでは王妃殿下の意図がルーチェには伝わりませんよ。素直に仰ればよろしいではありませんか。『あなたの男装を見てみたい』のだと」

 フィオの言葉に驚いて王妃を見ると、彼女は少女のように顔を真っ赤にして「そんなはっきり言えません」などと呟いている。

「ルーチェの男装のことを話したとき、王妃殿下が一番楽しみにしておられたではないですか。花鳥歌劇団にも三人で足繁く通われておられるのに」
「フィオ! フィオリーノ王子っ!」
「ドレスコードは男装、でしたね。聞いた話ですが、針子たちも妃殿下方のタキシードを楽しんで作っているようでしたよ」
「あぁ、もう、驚かせる予定でしたのにっ!」

 どうやら王宮内では、ルーチェの男装は好意的に受け止められているらしい。しかも、王妃と二妃は花鳥歌劇団でよく観劇しているようだ。特別席へのオーカの立ち入りが禁じられているのは、顔を合わせたくないためなのだろう。

「王妃殿下は、ルーチェも含め、皆で男装をした上で茶会を開きたいようです」
「ええ、とても……とても楽しい茶会になると思うのです。ぜひ、参加していただきたいわ」

 王妃の目がキラキラと輝いている。ルーチェが初めて見る顔だ。フィオの言う通り、かなり楽しみにしている様子だ。

 ――なるほど。今宵は私が男装をしていなかったため、残念がっておられたのか。それで笑顔がなかったのか。

「私もとても楽しみにしております」とルーチェも微笑む。王妃からはもう冷たい雰囲気は感じられず、第二妃や第三妃と同じように可愛らしい人なのだとルーチェは認識を改める。

「ところで、フィオリーノ」
「……はい」
「わたくしが口を出すべきことではないのですけれど、陛下はあなたのことを大変心配しておいでです。早急に……問題を解決なさい」
「ご心配には及びません。近いうちに、必ず」

 二人の会話の意味がわからないまま、ルーチェは謁見室を出る。
 廊下を歩きながら、ルーチェは自然とフィオの手を取っていた。二人の手からはもう汗が引いている。暖かい手を取り合って、二人は馬車へと向かう。星の別邸に戻る馬車へと。


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