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039.【アデリーナ】

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 産まれたときから、アデリーナは皆に可愛がられてきた。ニャアと鳴けば誰かが抱き上げてくれるし、昼でも夜でも母は優しかった。

 ――この世界はわたくしのために回っているのね! わたくしが可愛いから!

 勘違いしたのも無理はない。何しろ、アデリーナは王女なのだ。美醜も姿も関係なく、皆が傅くのは当然だった。
 しかし、アデリーナの誤解が解けるのは、早かった。
 貴族の集まりがあった日、いつもどおり王宮内を散歩していたら、暇を持て余した貴族の子どもたちから追いかけられ、石を投げつけられ、木の枝で殴られた。自分が世界の中心ではないことに、また猫の姿では非力であることに、アディは気づいたのだ。

「何をしている! か弱い動物を傷つけて喜ぶなど、貴族のやることではない! 名を名乗れ! 爵位も領地も取り上げてやる!」

 身も心もずたずたになったアディを救ったのは、彼の大きな声と優しく暖かな腕だ。大声で威嚇する男は苦手だったが、彼のそれは不思議と嫌いではなかった。好ましいとアディは思った。
 だから、その晩に彼――ヴァレリオを客室から呼び出し、温室で誓ったのだ。いつか結婚をしよう、いつまでもそばにいよう、と誓い合ったのだ。

 あのときから状況が変わり、ヴァレリオはいつしか侯爵家の嫡男となっていた。昼間は猫になるような妻では侯爵夫人が務まらないのではないか、彼を支えることなどできないのではないか、とアデリーナは案ずるようになった。星の別邸で夜にできる仕事を率先して引き受けていたのは、昼は役に立たなくても、夜なら仕事ができるという自信をつけるためだ。侯爵夫人になるための準備は怠っていない、はずだった。
 しかし、ヴァレリオからは、いつまでたっても求婚の手紙が届かない。他の貴族からの愛の手紙なら捨てるほど届くのに、待ち焦がれる人からの手紙は一通も来たことがない。
 待ち続けることにも限度がある。幼い頃の誓いなど、忘れられてしまったのかもしれない。アデリーナはヴァレリオの心変わりを疑い、同時に自信をなくしていった。

 ――彼と結婚できないのであれば、一生猫のままでいいわ。不自由していないもの。

 好きな人と結婚できないのであれば、呪いを解く必要もない。猫のまま、自由に気楽に過ごしていきたい。
 アデリーナは何もかもを諦めていたのだ。ルーチェに出会うまでは。

 しかし、ひょんなことからヴァレリオが誓いを覚えていたことを知り、アデリーナは歓喜した。ようやくヴァレリオが求婚を決意したことを聞かされ、恥ずかしくて死にそうになった。
 国王の話のあと、愛を誓い合った温室に向かってヴァレリオとの淡く甘い思い出にひたりながら、アデリーナは目を閉じた。兄が誘拐されたことも、本当に死にかけていることにも、気づくことなく。



「アデリーナ様が行方不明? ならば、俺も捜索に加わろう」
「お気持ちだけありがたくちょうだいいたします。ヴァレリオ様はこちらにいらっしゃいませ。アディの爪が服に食い込んで、無理やり取ろうとすると折れてしまいそうですから」

 遠くで、聞き慣れたジータの声がする。アディは薄く目を開けて、状況を確認する。

「お医者様はしばらく安静に、と仰せでした。アディが目を覚ましたら、水を飲ませてやってください」
「それは構わないが……やはり俺も捜索を」
「いいえ、ヴァレリオ様はアディのそばにいてやってください。それが一番のことでございます」
「……う、うむ」

 ヴァレリオは猫を腕に抱えたまま、所在なく右往左往している。なぜ彼の落ち着きがないのか、部屋の様子を見てアディは察する。そこは、星の別邸の、アデリーナの部屋なのだ。ヴァレリオは想い人の部屋に一人きりにされたため、緊張しているのだ。

「おいおい、アディ。早く目を覚ましてくれよ。アデリーナ様を探しに行かなければ」

 ――アデリーナ? あぁ、お兄様のことね。

 兄がどうしたのか、何があったのか、アディにはさっぱりわからない。それより、目を覚ましたら、ヴァレリオがいなくなってしまうことのほうが嫌だ。覚醒したことを悟られないようにしなければならない。

「お前の毛並みはアデリーナ様そっくりだな」

 背を撫でるヴァレリオの指が気持ちいい。熱い手のひらも好きだ。もっと撫でていてもらいたいと思ってしまう。

 ――わたくしがアデリーナだと知ったら、ヴァレリオはどう思うかしら? お兄様が「怖い」と言っていた意味、今ならわかるわ。

 せっかく求婚を決意してくれたというのに、「猫と結婚はできない」と言われてしまうだろうか。「侯爵夫人にふさわしくない」と言われてしまうだろうか。
 アディはすぐに考えるのをやめる。

 ――ヴァレリオも彼の親族も、わたくしの虜にしてしまえばいいんだわ。そうすれば、きっと。

「アデリーナ様は、お前を我が邸に連れてくるかな? だとすると、動物好きの母が喜ぶだろうな」

 その声音は、指は、とても優しい。昔から、ヴァレリオは優しい男なのだ。アディはよく知っている。

「……あぁ、夕日が沈む。アデリーナ様は無事だろうか」

 ヴァレリオにつられて窓のほうをちらりと見ると、確かに茜色が消えかかっている。すぐに夜になるだろう。猫の姿から、人間に戻るだろう。
 ジータは来ない。ヴァレリオを部屋の外に連れ出してくれる人はいない。アディは、覚悟を決めた。

「ナァ」
「ん? アディ? 起きたか?」
「ナー」
「あ、あぁ、水、水」

 ソファの近くにある皿に水が張ってある。ヴァレリオはソファに座り、アディは水を飲む。何だか無性に喉が渇くのだ。

「アディ、大丈夫か? お前、温室で倒れていたんだぞ。俺が見つけなければ、今頃……やんちゃなのは構わないが、アデリーナ様を悲しませるようなことだけはしてくれるなよ」
「ナァー」

 ――いいのよ。わたくしがアデリーナなんだもの。

 アディの心の声は、ヴァレリオには届かない。だが、ヴァレリオは微笑みながら愛しそうにアディを見つめている。

 ――あぁ、そろそろ日が落ちるわね。

 アディはひょいとソファに飛び乗る。そして、いつも置いてあるブランケットの下に潜り込む。ヴァレリオは「どうした?」と心配そうにブランケットの下の猫を見つめる。

 ――ヴァレリオ。どうか、わたくしを受け入れて。

 そのときが来るのは一瞬だ。
 四肢が、背中が、音を立てて大きくなる。体毛やしっぽが消え、艷やかな白い肌が戻ってくる。髪が伸び、ささやかな胸の膨らみが現れる。痛みはない。一瞬で、猫から人間に戻るのだ。

「ん、なっ」

 ヴァレリオは、目の前で何が起こったのかわからないまま、目を丸くして口を大きく開けている。猫のアディが突然アデリーナになったのだから、当然の反応だ。

「こんばんは、ヴァレリオ。上着を貸してくださるかしら?」

 アディ――アデリーナはようやく、想い人にありのままの姿を見せることができたのだった。


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