忍びしのぶれど

裳下徹和

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第三章

⑪ 鮫河橋の貧民窟

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 四人目の火消しは、名を右森といった。跳は右森の火消し仲間だった者や、街で聞き込みを続け、右森の居場所の見当をつけた。鮫河橋の貧民窟だ。
 皇居からさほど離れていない貧民窟は、御一新により職にあぶれた者、脛に傷を持つ者など、社会の底辺にいる者が流れ着き、衛生も治安も最悪の状況にある。犯罪など日常茶飯事で、警察官でも立ち入るのをためらう程だ。
 跳は郵便配達夫の制服のまま来たことを後悔しつつ、貧民窟の中へ足を踏み入れる。
 粗末で狭い家が軒を連ね、その間を細い路地が走っている。無計画に増築されているので、中はまるで迷路のようだ。
 住人達は、見慣れぬ闖入者に警戒心のこもった目を向けてくる。
 最近は、郵便配達夫が、拳銃を携行していることが広まってきたので、襲われることもないだろうが、油断は出来ない。
 緊張しながら進む跳に、半裸の薄汚れた少年が声をかけてきた。
「郵便屋さん。手紙届けにきたの?」
「いや。人を捜しにきたんだ。右森さんという人を知らないかな? 背中に龍の彫物が入っている人なのだが」
 少年は大きくうなずき、跳に手招きをして歩き出す。
 子供を使って罠にはめるのは常套手段だが、怪しい気配はない。跳は少年の後に続いた。
「龍の彫物のおじさんがここにいると、町ごと火を噴く龍に燃やされて、家を煉瓦に変えられちゃうんだって。だから、早く出ていけってみんな言っている」
 噂は貧民窟の中にまで浸透してきているようだ。それにしても、異分子に対し酷薄な対応だ。しかし、火事が起これば、貧民窟は容易く全焼するだろう。致し方ない部分もある。
 少年は、今にも崩れ落ちそうな小さな家の前まで跳を案内した。
 小銭を握らせてやると、少年は笑顔で走り去っていく。
 戸を叩き、外から呼びかけてみたが、返事はない。薄く気配を感じるが、敵意はなさそうだ。戸を引くと、軋んだ音を立てて開いた。
 室内は狭い土間の向こうに、散らかった板の間が見え、そこにはぼろきれに包まれた枯れ木のような男が寝転がっていた。
「あなたが右森さんか?」
 男はどんよりとした目だけ動かし、跳を見上げる。
「俺を燃やしにきたのか?」
 元火消しの右森で間違いないようだ。
「違う。話を聞きにきただけだ」
 跳の言葉を信じることが出来ないのだろう。右森から警戒心がとけることはなかった。
 現在の右森は、酒の飲み過ぎで体は痩せ衰え、肌も日焼けとは違う黒さをしている。消防団や鳶の連中が出している活気は、まるで感じられない。
 口ごもっている右森に、少額の金を渡しながら跳は言う。
「殺された火消し三人。そして、あんたに何があったんだ?」
 右森は渡された金を握り締め、歯の抜けた口を開いた。
「もう犯人は捕まったのか?」
「いや。捕まってない。だから、あんたの話を聞きにきたんだ」
 右森は手の中の金を一瞥してから、訥々と語り出す。
「火を噴く龍が、俺達を殺しにくるんだ……」
「火を噴く龍?」
 虚ろな視線を跳には向けず、右森は言葉を続けた。
「俺達は、徳川の時代から町の火消しだった。普段は鳶の仕事をしていて、火事の時は駆けつけて、消火にあたるんだ。御一新の後も似たような暮らしをしていた。家はたくさん建てられていたし、火事もなくならなかったからな。そんな時、俺達は消防局の役人に呼び出しを受けた。まだ警察とは違う組織だった頃だ。外国から蒸気ポンプ消火器を輸入したというのだ。俺達にも使えるようにとお披露目された。蒸気の圧力で水を吸い上げ、放出するんだ。そりゃあ凄い威力だった。あれに比べたら、昔使っていた龍吐水なんて、ただの水鉄砲だ。俺達は蒸気ポンプ消火器に期待を込めて、龍神と呼んだ。だが、龍神を使いこなすのに、訓練が足りなかった。操作は複雑で、重くて運ぶのも大変だった。大量の水を放出する分、水源の確保しなければならない。問題は山積みだったのに、本番が来てしまった。銀座大火と呼ばれる大火事だ」
 右森は、溜まっていた苦しみを絞り出すように言葉をつなげていく。
「火事が起きたので呼び出され、俺達に龍神を使えと命令が下った。重い龍神を数人がかりで動かし、俺達は火災へと向かった。それは凄い火事だった。上野の戦争の時よりも凄かった。もう手の施しようがないようにも思えた。そんな時、逃げ遅れた子供を助ける為、母親が家の中に戻るのを目撃したんだ。俺達は龍神を使って、母子を助けようとした。近くの井戸に吸水管を差し入れ、水を放出するはずだった。だが、複雑な操作をすることが出来なかった」
 その時の焦燥と絶望を想像し、跳は眉間に皺を寄せた。
「俺達は、燃え上がり崩れ落ちる家を眺めるだけだった。母と子は黒焦げになって死に、街は灰になった。まるで西洋から来た火を噴く龍が、街を食らいつくしているようだった」
 跳も焼け跡の様子は、良く覚えている。東京の中心部が炭と灰になり、随分と遠くまで見渡すことが出来た。悲しい眺めだった。
「蒸気ポンプ消火器は、龍神から屑鉄に呼び名が変わり、倉庫の片隅で埃をかぶることになった。俺達には特にお咎めはなかった。昔の大火なら、何千、何万と死人が出たのに、死者は八人程度だった。そう考えれば、火消し達は頑張ったと思われたのだろう。だが、俺達の心には大きな傷が残った。救えるはずの命を救えなかった傷が。乾。富岡。垣原。あいつらは偉かった。失敗を活かし、より多くの命を救おうとした。背中の龍が握っていたのは、もともと玉だったんだ。それを銀座大火の後に髑髏に彫り変えた。救えなかった母と子を忘れない為にな」
 髑髏を持った龍は、おのれの力を誇示する為かと思っていたが、そんな意味があったのか。後の火事では、石走の妻子を救っている。殺された三人の男は、立派な人間だったのだ。
 自嘲的な薄笑いを浮かべ、右森は更に話す。
「それに比べて俺は駄目だった。銀座大火の時の燃え盛る炎に心底ぶるっちまった。あれ以来火が怖くて仕方ない。火消しはやめて、ついでに鳶までやめて、今じゃこの様だ。背中の龍も泣くに泣けないだろうな」
 服の端から右森の体に入った彫物が少しだけ見える。髑髏ではなく、玉を握った龍なのだろう。右森には犠牲者二人を背負うことが出来なかったのだ。
「三人を殺した犯人に、心当たりはないのか?」
「どうだろうな。残された亭主かな。火事が鎮火した後、消し炭になった妻と子を抱えて、どこかに消えたみたいだ。殺された三人が捜し出して詫びを入れようとしたが、みつからなかったそうだ。もしくは、本当に火を噴く龍だな。どちらにせよ次は俺だな。まあ、殺す価値もないか……」
 自虐的なことを言いつつも、右森は死を恐れ、生に執着しているところに、跳は憐れみを覚えた。
「死んだ母と子の名は覚えているか?」
 跳の問いかけに、右森は遠くを見るような目で、記憶を呼び起こそうとする。
「なんだったかな。確か……。きりくわたえ、きりくわさと、とかいう名前だったような…。警察に行けば、記録が残っていると思うぞ」
 きりくわ……。よくある名ではない。桐桑の妻子だったのか?
 急に押し黙った跳を不思議そうに眺める右森に、さらに少しの金を渡し、ぼろ長屋を後にした。
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