醜く美しいものたちはただの女の傍でこそ憩う

ふぁんたず

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第五章 異世界ですが、再就職をしたいです

11.福となれ

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 そして夜になり、明け方を迎えた。

 夜明け独特の冷え込みと湿気とで私は目を覚ました。
 私はリビングの床で眠ってしまっていたようだった。丸めていた背中が痛む。
 ゆっくりと身体を起こせば、毛布がしゅるりと滑り落ちた。誰かがかけてくれたのだろう。

 まだ薄暗い部屋。その隅には、背を壁に預けて体育座りをしたような格好のゾエさんもいた。眠りは深いようで、目を覚ます様子はない。彼女の身体も毛布に包まれている。

 観音開きの窓から斜めに差し込む、まだ控えめの朝の光が、宙に舞う埃を照らし出していた。

 私はこわばった関節をいたわるようにゆっくりと立ち上がって、エッサラさんの寝台を伺う。

 真夜中を過ぎたころにはエッサラさんの痙攣はおさまり、呼吸も穏やかなものへと戻っていた。
 薄闇のなか、目を凝らして顔を覗き込む。その色はまだ青い。しかし昨夜の、蒼白とも言えるときよりずいぶん回復しているようだ。
 今もかすかな呼吸音とともに胸は上下している。私は息を吐いた。

 寝台のわきのまるい椅子にもソファにも、誰も座っていない。ユーリオットさんとディオゲネスさんはここにはいないようだった。

 私は物音を立てないようにそっと足を運ぶ。かたほう脱げてしまっていたサンダルが邪魔に思えたので、脱いでしまうことにした。それを指でつまんで中庭へ出る。

 さあっと、清潔な夜明け前の空気が身体を包む。私は無意識に大きく息を吐き、身体を伸ばした。
 朝の湿った地面の感触が足の裏に心地いい。
 私はもう一度大きく深呼吸して、あたりを見回す。エッサラさんの小さな庭。腰の高さまでの薔薇の木の茂み。目の前にある小さな池。アメンボが気まぐれに水面を蹴る。

 その池の奥、大きな樹が何本か身を寄せあうそばに、瀟洒な東屋がたたずんでいる。まるで白亜の鳥かごのような中に、親子の姿を見つけた。 

 私は思わず胸が詰まった。
 明け方の透明な空気の中。咲く花々に翻る蝶の羽。白い東屋のよく似たふたり。それはまるで、よくできたひとつの映画のワンシーンのようだった。
 異なる世界が近づいた瞬間だったのかもしれない。ごみを拾うことを善きこととする人と、悪しきこととする人とが。仮に今までそうであっても、すべては対話から始まる。終わりと始まり。

 何も悪いことはしていないのだが、どうにも居心地はよくないので、私は近くの樹に身を寄せる。そのまま覗き込めば、彼らは正面から対峙して小声でなにやら会話をしているようだ。

 私はちょっと眉をひそめた。遠くから見ても、そこには静かな緊張があるのがわかる。
 ただ、お互い激しく憎しみ合うような様子でもなかった。
 まともに会話をしたことなんて今までなかっただろう。でも今は近くに座って、目を見て話す努力をし始めている。

 私は静かに踵を返して、もう一度エッサラさんの様子を伺うために部屋に戻った。変わらず彼女に異常はない。
 再び外に出る。裏手の井戸から新鮮な水を汲みなおし、寝台の近くに置かれたたらいの水を入れ替える。

 水差しにも冷たい水を入れ直してコップを机においておく。
 
 さあ、帰ろう。私にできることはもう何もない。







「……ここにいたのか」
「あっ、おかえりなさい。ちょっと待って下さいね。もう少しでできますから」

 ユーリオットさんの邸に戻った私は、朝食を作っていた。いまやすっかり日も昇り、ガラス窓を通して差し込む光が床や壁を反射して、部屋じゅうをきらきらと輝かせている。

 完徹をして、さらには父親と会話をしてきたのであろう彼の顔には、さすがに疲れが滲んでいた。私が座るように声をかけると小さくうなずいて、ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。

 パンはおそらくユーリオットさんには重いだろうと思ったので、スープを作った。たまねぎを刻んでキャベツもちぎってゆでる。塩で味を付けるが、どうしても旨みが足りないので肉を入れたかった。だがあいにく生肉はないので(冷蔵庫、ほんとうに欲しい)、保存用の燻製肉をえいやっとぶち込んでごった煮にしてみた。
 結果。燻された感じがスープに染み出て独特の風味が出た。悪く言えば、ちょっとえぐい感じになってしまったが、それはそれ。栄養的にはね、ばっちりなので! と心の中で言いわけしつつ皿に盛る。

 貴族のお坊ちゃまに出すものではないが、まあいいでしょう。厨を出て食堂のテーブルへ運ぶ。カトラリーはすでに置いてある。

「食欲はないんだが」
「だめですよ。すこしでいいからおなかに入れてください」

 私が丹精込めて作ったスープを、まるで毛虫のプールのように見ないでほしい。
 一日のエネルギーは朝ごはんからなのだ。
 ぐいぐいとお皿を押し付けて、スプーンも手渡した。私もご相伴に預かるので、いただきますと手を合わせる。腹ぺこである。

 スープをすくって口に含み、レモン水(井戸水に、庭になっているレモンを薄切りにして水差しに浸したものだ)でのどを潤す。

 ユーリオットさんは渋々というように、たまねぎをスプーンでつついた。

 お皿と金属のこすれる音が食堂に響く。

「――おまえが言ったことだが」

 はい。と私は小さくうなずく。

「エッサラが、おれをたいせつにしているって」

 私は手を止めてユーリオットさんに向き直る。彼もまた、意を決したかのように唇を引き結んでいる。
 治療をしたときにあったあの人形。彼はそれをすでに見ている。賢い彼は、きっとおおよその見当はついているのだろう。

「はい。彼女は、生まれる前からあなたのことを大切にしていたんです」

 私はゆっくりと、順を追って話した。
 エッサラさんは、ディオゲネスさんとユーリオットさんのふたりとも愛していること。
 ユーリオットさんを、嫉妬に狂う父親の妻から守るために毒杯を手にしたこと。
 一日のうち、わずかな間正気を持っていたこと。
 ふたりに認め合ってほしいこと。
 ユーリオットさんの幸せを願っていること。

 そうして毒花を食べたこと。

「……こう言っては、不快に思うかもしれませんが。彼女は家から出たこともない貴族の娘だったわけで。ましてやユーリオットさんを生んだのも十三のときです。追い詰めたら深く考えずにやってしまうようなところがあっても、やむをえないというか」

 だから今回も自分がいなくなれば父親が息子を愛すだろうと、浅はかにも、楽天的にも、ドクニンジンを食べたのだ。

 ユーリオットさんは、詰めていた息をほそく長く吐き出した。
 それから、そうかと呟いた。

「こっそり街へ下るたび。広場や道で家族のやりとりを目にした。いたずらをした子どもを母親が叱る。父親は、なんていうんだろうな、子どもを首に乗っけて、すごく高い目線にしてやっている。おやつをねだる子どもがいる。母親が仕方ないように買い与えている。そういうものをおれはずっと、異国の果物のように見ていた」

 美味しそうなのはわかる。
 だが、どうしたらいい。剥き方も食べ方もわからない――。

「遠くから、仕事をする父親を眺めたこともある。こっそり母親も。だが目の前に飛び出して、こんな子は知らないと、生まれてはいけない生き物だと、そういわれるのが、こわくて」

 肘をつき、頭をくしゃりと抱えるようにうつむいて、ユーリオットさんは堰が切れたように話し続ける。

「何が悪いのか、どうすればいいのかもわからず、おれはただすべてを憎んだ。ぜんぶこの世界が悪いんだって。すると気持ちが少し楽になる。そして同じぶんだけ寂しくもなった」

 私は黙った。黙って、彼の震える声を聞いていた。

「きっと、母の白痴からの回復は時間がかかる。それに完全には治るのは難しいかもしれない。そしてディオゲネスはやっぱり、おれが気に食わないだろう。あいつは母を独り占めしたいんだ。そのことがよくわかった。たださっきふたりで会話をした。無視を、しなかったんだ。あいつはおれの存在をはじめて認めた」

 ユーリオットさんの存在を、頑なに拒絶していたあのディオゲネスさんが。
 エッサラさんの望みだと知ったからだろうか。だとしたら、彼もまた愛する人のために変わろうとしているのかもしれない。

 ユーリオットさんの語尾に滲むのは、苦々しさでもあり、喜びでもあり、そして長年耐え続けたあとの開放感でもあった。
 私はそっと微笑んだ。エッサラさん、あなたはこれで満足するかな?

 そして私は、これからの、この家族について考えた。揺り椅子で寛ぐ母親。その側で静かに勉強する息子。開け放たれたテラスから風が抜け、ゾエさんがお茶を淹れてくれる。夕方には父親が花束を持って帰宅する。
 夢見がちだろうか。でも可能性は、もうゼロではないのだ。

「――それにしたって、おまえは女中失格だな。雇い主を引きずりまわしたり、怒鳴ったり。以前、部屋に飛び込んできて押しつぶそうとすらしたな? まえの勤め先でどういう教育をされたんだ」

 湿っぽい空気を押しやるように、ユーリオットさんは顔を上げて渋面を作った。私は彼のこういうところがとても素敵だと思う。他人のために自分を立て直すことができる人。さめざめと泣かれて感謝されるより、よっぽど気持ちがいいではないか。

 私はそれに合わせるように、にっこりと笑ってみせる。

「そうですね、とても素敵なご主人さまたちでしたけど、厳しい教育ってされなくて」

 とても、を強調した言葉をきいて、ユーリオットさんはぴくりと眉を動かす。

「ふうん。複数いたのか。ずいぶん可愛がられていたようだ」
「四人いました。可愛がる……そう。そうですね。今思えばそうだったのかも」

 そのうちのひとりはあなたですとはさすがに言えないまま、私はククルージャにいたころを思い出す。
 乾いた風が洗濯物の間を通り抜ける。私は中庭の椅子に座っている。気づけば手の届くところに座っているご主人さまたち。
 いま思い返せばほんとうに甘やかされていた。あそこが居心地よくて当然だ。彼らは私を、いつだって守っていてくれたのだ。
 平和な箱庭。だがそれに慣れることは危険を意味する。私は守られるために彼らと一緒にいたわけではない。
 もりもり稼いで借金を完済し、拓斗の待つアパートへ帰るためだったのだ。

 そういえば、もういいかげんたまと腹を割って話をせねば。そろそろ回復しただろうし、ギブアンドテイクの関係ならば、私にも情報は開示されてしかるべきだ。もう探り合いはなしにしたい。

 そんなことをつらつらと考えていると、隣でかたんと椅子の動く音がした。
 見ると、正面にいたユーリオットさんがすぐ右隣に移動したところだった。

「何を考えていた」
「拓斗のことを」
「は?」
「いえ、昔のことを思い出していました」
「……おまえの、いまの主人はおれだろう」
「そのとおりです」
「おれ以外のことを考えるのは、怠慢では?」
「ああ、確かにそうですね。失礼しました」
「わかればいい」

 そういいながら、じっと私の目を覗き込んだ。
 確信を求めて揺れる瞳。そうだ、彼はようやく、人に愛され、愛することをはじめたばかりだ。私はふっと微笑んだ。花が土と水、光が必要なのと同じで、子どもには親の限りない愛が要る。

「そんな不安そうな顔をしないでください。きっとこれからうまくいきますよ」
「は。知ったような口を」
「なんなら、私はいつでもお母さん代わりになりますよ」
「なに?」
「年齢的にもなんとか母親と言える年ですし。寂しくなったり甘えたくなったら、ほら、寄りかかってもいいわけで」
「ばかな」

 仮にユーリオットさんが14、15歳くらいだとして、……ぎりぎりアウトか。姉のほうがよかったかな?
 ユーリオットさんは不機嫌そうな顔になる。

「母親は、ひとりでじゅうぶんだ」
「じゃあお姉さんでもいいですよ」

 答えながらも、私は彼がしっかりと母親の存在を認めていることが、うれしくてたまらなかった。

「姉もいらない。おまえが母親でも姉でも、俺は困る」
「困りますか」
「そうだ。どうしようもなく、困るんだ」

 語尾に滲むのは確固とした意志だった。私はちょっと驚いて、彼の目を見返した。
 先ほどまで不安に揺らめいていた瞳ではなかった。
 熾火のように、かすかな、しかし確かな熱がそこにはあった。私はびっくりしてしまう。確かに男の子だった顔つきが、いまや男性のものへと変化しているのだ。どうしてこんな一瞬で変わってしまうのだろう。
 彼はそのまま、とっておきのないしょ話をするように、私の耳に口元を寄せた。私はちょっと身構えたが、せっかく人に対して近づこうとしているユーリオットさんを否定したくなくて、受け入れるように首を傾けてみる。

「なあ聞け。おれはこの前、名を手に入れた」
「な?」
「そうだ。そして真実、女を愛せる身体になった」

 なんの話だろうと頭を巡らせて、私はあっと、思い当たる。
 前にたまが説明してくれた、真名まなのことだろうか。家族にすら明かさない真実の名。たしか、女は初潮とともに、男は――
 彼が言わんとすることがぼんやりわかり、私は真っ赤になった。そういう個人的なことを下働きに言うのって、ふつうなの?

「書物では知っていたが。興味深いものだ。そこに定期的に血がたぎるのはふつうのことなのだという。女に"男忌み"があるのと同じように。だがどうしてだろうな。おまえのことを考えると、より熱く、苦しくなるんだ。のみならず、心臓までがどくどくと脈打ちだす」

 私はとても聞いていられなかった。ユーリオットさんは同世代の男の子との関わりもなく、学校で保健体育の性教育も受けていないのだ。恥ずかしいとか、そういう概念がないのかもしれない。
 不思議に思ったり、不安に思うのは当然なのだろうが、男きょうだいのいない私には免疫がなさすぎる!

「おまえの目は心地いい。おれの肌を肉を通り過ぎ、その奥を見ている、そういう目だ。おまえの声も。他意なく流れる水のような声。そしてその目と声は、誰に対しても平等だ。ゾエを見る目もエッサラを見る目も、そしておれへの目も、おなじ温度」

 ユーリオットさんは椅子から身を乗り出し、ちょっと身体を引いた私を下から見上げるようにして話し続ける。
 顕微鏡を覗き込むように、目を細めながら私の瞳を見ている。もどかしそうにくすぶる熱。

「おれはわがままだ。向けられる視線が、ほかの子どもと同じならいいのにと。平等に見られたいとずっと思っていたのに。でも、おまえには」

 困ったように、それとも怒ったように。ユーリオットさんは小さく息を吐いた。

「おまえ――おれのことを、とくべつに思えばいい」

 私は鳥肌が立った。彼の声は苦しげに震え、切なげに眉が寄せられた。溺れる人間が助けを求めるかのように、私を絡めとる。
 言わせてはいけない。

「おれの名は」
「だめです。ユーリオットさん、それはだめ」

 私は彼の口を、あわててふさぐ。無礼にも手のひらを彼の口に押し当てた。
 ユーリオットさんは驚いたように目を見開いて、私の卑怯を責めるようにこちらをにらむ。

「いろいろあって、いまのユーリオットさんは心が弱っているんです。そういう状況でたいせつな名前を与えてはいけません」

 そう。どんなに大人びて見えてもまだ少年。ずっと軟禁状態で、人と接したこともわずかの。少しずつ、これからいろんな人と知り合って、いろいろな感情を知るだろう。
 少なくともこういう場面で口にしていいことではない。

 すると彼は舌を出して私の手のひらを舐めた。ぎょっとして手を引くと、腕を掴まれて思い切り引っ張られた。
 私は座る椅子からずり落ちそうになる。とっさに目の前の肩にしがみつく。想像よりもずっと厚みのある硬い身体で、私はそれにもまた驚いてしまう。
 腰に彼のもう片方の手が力強く回される。中途半端に抱っこされているような格好だ。すごく居心地が悪いのは、彼が誰かを抱きしめ慣れていない証拠のよう。前髪が彼のあごに当たっている。

「うるさい」

 うるさい!?

「子どもだからと、甘く思ってるんだろう。見てろよ。すぐに大人になる。立派な医師にもなる。おまえは、それをずっとそばで見てるんだ。おれから離れてはならない――」

 そしてもどかしそうに額を額にこすりつけられた。男の子の汗のような体臭に包まれる。それを不快と思えない自分に、私は焦る。

「待って、ユーリオットさん、まって」
「うるさいから、名を渡すのはまたにしてやる。いまは、これだけで」

 そう言って彼は私の手を持ち上げた。私の目の前に誘導し、私の目を焦がすように見つめながら、その掌(てのひら)にそっと唇を押し付けた。やわらかくあたたかいものが吸い付いて、微かな音を立てる。触れ合ったところから彼の心が流れ込んでくるかのような、無垢なのに扇情的な口づけ。その視線はずっと逸らされることなく、私の身体の奥にある眠った熱を揺り動かそうとした。腰に肩に回された腕もまた、離さないという彼の意思を反映して、稚さからは程遠い。

 口づけられた手のひら、そこから鈍色の光が生まれた。瞬く間にその光は強く大きくなり、まぶしさに目を閉じる。

 ユーリオットさんが触れている箇所が、溶かした鉄を埋め込まれたかのように熱くなる。身に覚えのある熱だ。
 そして光が弾けた。ちかちかとまぶたの裏が点滅している。

 そして徐々に光が弱まっていく。ゆっくりとまぶたを開けば、ふたつめの天珠ラーラ・アモが、生まれたての蒼玉サファイアのように輝いていた。




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