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光の在処(ありか)後編
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――星は、行きたい場所を自分で選ぶ。
雨季の終わり、由比ヶ浜は透明だった。
白い泡がほどけるたび、
海底の砂紋が一瞬くっきり浮かぶ。
神崎璃々花は、スケッチブックではなく封筒を抱えて歩いていた。
Kokū Counseling のガラス戸を押すと、
沈香がいつものように迎える。
「おかえりなさい」
円城あかりの声が、潮のきわの光みたいにやわらかい。
「瓶の水、どうでした?」
「もう——濁らなくなりました」
机へ置いた封筒には、小さく“受諾”の印。
港のギャラリーの推薦で、共同制作プログラムから奨学レジデンスへ。
滞在先は北の沿岸都市。空気の層がもっと冷たく、青が深くなる場所。
朝比奈恋九郎は、窓を一センチだけ開けた。
「おめでとうございます」
「……怖いです。でも、行きます」
「怖さは、縁の入口です」
彼は黒い箱から一枚だけカードを抜き、裏向きで置く。
「最後に、**“向き合わせ”**をしましょう。開くのは帰り際に」
璃々花は頷いた。
怖さが完全に消えるわけではない。
ただ、歩幅が揃う。それで充分だった。
*
午後、三人で海沿いを歩いた。
プログラムの発表からわずか数日、風向きはもう変わっている。
学内サイトの見出し——
〈久我遼、受賞作取り消し 模写・改竄の認定〉
事務局は共同制作のログと過去の構図を照合し、処分を公表した。
“下塗り”と笑った言葉は、潮に引かれる泡みたいに消えていく。
「ざまあ、って言ってもいいところですけど」
あかりが苦笑する。
「……言いません」
璃々花は首を振った。
「“言葉にする時間”を、絵に使いたいから」
恋九郎が、横顔だけで微笑む。
「行動が縁を変える。あなたは最後まで、そのやり方を守りました」
*
部屋へ戻ると、窓は半分だけ開いていた。
潮と沈香が混ざり、風が紙の端をめくる。
「先生、これ……」
璃々花は小さな木枠を差し出した。
枠だけの、空のフレーム。
「“何も入れない額”です。風の通り道を持ち歩いてください。
色で塞がない“余白”も、先生に似合うと思って」
恋九郎は、少しだけ目を伏せた。
「受け取ります。——あなたからもらう“空白”は、きっと強い」
あかりは湯呑を取り替えながら、いたずらっぽく目を細める。
「先生、その額のまま壁に掛けたら“窓の予備”ですね」
「いいですね。窓は多いほど、祈りやすい」
*
出発前夜。
薄い雨が再び来て、音だけで街を洗っていた。
璃々花は、扉に手をかけてから振り返る。
「先生。——私、恋をしました」
沈香の火が、小さく揺れる。
「でも今は、“描く”を選びます。
選び直したら、またここに戻ってもいいですか」
恋九郎は、いつもの穏やかさで一瞬だけ言葉を選んだ。
「**選ぶたびに、戻って来てください。**
窓は、少しだけ開けておきます」
あかりは視線を落として笑う。
「戻る場所に**風番(かぜばん)**がいたほうが、安心ですから」
璃々花は深く息を吸い、頷いた。
——逃げるためではなく、向かうための呼吸。
「忘れ物をひとつ」
恋九郎は午前から伏せていたカードを、静かに表へ返した。
《星(The Star)》——正位置。
「向きは、そのまま。
夜の底で見つけた光を、今度は誰かの夜に置いてください」
彼女は笑った。
「はい。置いてきます」
*
駅へ向かう途中、短い虹が出た。
海霧にかかる、細い弧。
璃々花はスマホを構えず、目でだけ飲み込む。
——描く前に、置く。色の前に、風。
改札で、彼女は二人へ頭を下げた。
「ありがとうございました。丁寧に行ってきます」
「いってらっしゃい」
あかりが手を振る。
恋九郎も、窓を開ける仕草で答えた。
人波に呑まれる直前、璃々花は振り返る。
彼の指が額縁をつまむ真似をして、空を切り取る。
そこに、風がひとつ収まった。
*
季節がひとつ巡る。
北の沿岸都市から、厚手の封筒が届いた。
——ザラ紙のポストカード。
タイトルは**『光の在処』**。
海の藍は薄く、白の層が重く、中央には、掴めない後ろ姿。
〈先生へ。星は、置く場所を自分で選べました。
“額のない窓”は、こちらでもちゃんと開きました。
風は、あの日のままです。——璃々花〉
恋九郎は、窓を少しだけ開ける。
沈香の香がゆるく外へ逃げ、潮の湿りと入れ替わる。
額のない木枠を壁に掛けると、
向こう側の空気がこちらの部屋を明るくした。
「先生」
あかりが湯呑を置く。
「今日の先生、見送る顔じゃないですね」
「ええ。——見届ける顔です」
恋九郎は微笑んだ。
「星は、行きたい場所を選びました。私たちは、窓を残すだけです」
(風は、いつも誰かを運ぶ。惚れっぽい私の性分だ)
風が、枠の中を通り抜ける。
部屋のどこにも絵はないのに、青が増えた気がした。
雨季の終わり、由比ヶ浜は透明だった。
白い泡がほどけるたび、
海底の砂紋が一瞬くっきり浮かぶ。
神崎璃々花は、スケッチブックではなく封筒を抱えて歩いていた。
Kokū Counseling のガラス戸を押すと、
沈香がいつものように迎える。
「おかえりなさい」
円城あかりの声が、潮のきわの光みたいにやわらかい。
「瓶の水、どうでした?」
「もう——濁らなくなりました」
机へ置いた封筒には、小さく“受諾”の印。
港のギャラリーの推薦で、共同制作プログラムから奨学レジデンスへ。
滞在先は北の沿岸都市。空気の層がもっと冷たく、青が深くなる場所。
朝比奈恋九郎は、窓を一センチだけ開けた。
「おめでとうございます」
「……怖いです。でも、行きます」
「怖さは、縁の入口です」
彼は黒い箱から一枚だけカードを抜き、裏向きで置く。
「最後に、**“向き合わせ”**をしましょう。開くのは帰り際に」
璃々花は頷いた。
怖さが完全に消えるわけではない。
ただ、歩幅が揃う。それで充分だった。
*
午後、三人で海沿いを歩いた。
プログラムの発表からわずか数日、風向きはもう変わっている。
学内サイトの見出し——
〈久我遼、受賞作取り消し 模写・改竄の認定〉
事務局は共同制作のログと過去の構図を照合し、処分を公表した。
“下塗り”と笑った言葉は、潮に引かれる泡みたいに消えていく。
「ざまあ、って言ってもいいところですけど」
あかりが苦笑する。
「……言いません」
璃々花は首を振った。
「“言葉にする時間”を、絵に使いたいから」
恋九郎が、横顔だけで微笑む。
「行動が縁を変える。あなたは最後まで、そのやり方を守りました」
*
部屋へ戻ると、窓は半分だけ開いていた。
潮と沈香が混ざり、風が紙の端をめくる。
「先生、これ……」
璃々花は小さな木枠を差し出した。
枠だけの、空のフレーム。
「“何も入れない額”です。風の通り道を持ち歩いてください。
色で塞がない“余白”も、先生に似合うと思って」
恋九郎は、少しだけ目を伏せた。
「受け取ります。——あなたからもらう“空白”は、きっと強い」
あかりは湯呑を取り替えながら、いたずらっぽく目を細める。
「先生、その額のまま壁に掛けたら“窓の予備”ですね」
「いいですね。窓は多いほど、祈りやすい」
*
出発前夜。
薄い雨が再び来て、音だけで街を洗っていた。
璃々花は、扉に手をかけてから振り返る。
「先生。——私、恋をしました」
沈香の火が、小さく揺れる。
「でも今は、“描く”を選びます。
選び直したら、またここに戻ってもいいですか」
恋九郎は、いつもの穏やかさで一瞬だけ言葉を選んだ。
「**選ぶたびに、戻って来てください。**
窓は、少しだけ開けておきます」
あかりは視線を落として笑う。
「戻る場所に**風番(かぜばん)**がいたほうが、安心ですから」
璃々花は深く息を吸い、頷いた。
——逃げるためではなく、向かうための呼吸。
「忘れ物をひとつ」
恋九郎は午前から伏せていたカードを、静かに表へ返した。
《星(The Star)》——正位置。
「向きは、そのまま。
夜の底で見つけた光を、今度は誰かの夜に置いてください」
彼女は笑った。
「はい。置いてきます」
*
駅へ向かう途中、短い虹が出た。
海霧にかかる、細い弧。
璃々花はスマホを構えず、目でだけ飲み込む。
——描く前に、置く。色の前に、風。
改札で、彼女は二人へ頭を下げた。
「ありがとうございました。丁寧に行ってきます」
「いってらっしゃい」
あかりが手を振る。
恋九郎も、窓を開ける仕草で答えた。
人波に呑まれる直前、璃々花は振り返る。
彼の指が額縁をつまむ真似をして、空を切り取る。
そこに、風がひとつ収まった。
*
季節がひとつ巡る。
北の沿岸都市から、厚手の封筒が届いた。
——ザラ紙のポストカード。
タイトルは**『光の在処』**。
海の藍は薄く、白の層が重く、中央には、掴めない後ろ姿。
〈先生へ。星は、置く場所を自分で選べました。
“額のない窓”は、こちらでもちゃんと開きました。
風は、あの日のままです。——璃々花〉
恋九郎は、窓を少しだけ開ける。
沈香の香がゆるく外へ逃げ、潮の湿りと入れ替わる。
額のない木枠を壁に掛けると、
向こう側の空気がこちらの部屋を明るくした。
「先生」
あかりが湯呑を置く。
「今日の先生、見送る顔じゃないですね」
「ええ。——見届ける顔です」
恋九郎は微笑んだ。
「星は、行きたい場所を選びました。私たちは、窓を残すだけです」
(風は、いつも誰かを運ぶ。惚れっぽい私の性分だ)
風が、枠の中を通り抜ける。
部屋のどこにも絵はないのに、青が増えた気がした。
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