サイレント・サブマリン ―虚構の海―

来栖とむ

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第6話 水中の幽霊

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1
 七月上旬、瀬戸内海。
 小与島の施設は、早朝の静寂に包まれていた。かつてバブル期の夢の残滓だったこの場所は、今や最先端技術の実験場として生まれ変わっている。
 水嶋総は、島の中央部にある大型水槽の前に立ち、モニターに映し出されるデータを凝視していた。白衣のポケットには、いつも持ち歩いているメモ帳が入っている。研究者として歩んできた十数年、常に傍らにあったものだ。
「水嶋先生、準備が整いました」
 若い技術者が声をかけてきた。この施設には、水嶋を含めて約二十名のスタッフがいる。全員が各分野の専門家で、厳格な機密保持契約のもとで働いていた。
「分かった。では、第十八回試験を開始する」
 水嶋の声に、緊張が混じっていた。
 水槽は長さ百五十メートル、幅五十メートル、深さ十メートルという巨大なものだ。かつてこの施設がホテルとして建造された頃、その広大な庭の池となるはずだった場所を改装したものだった。
 水槽の縁に、クレーンで吊り上げられた白い物体がある。
 長さ五メートル、直径約八十センチメートルの紡錘形。表面は滑らかで、継ぎ目もほとんど見えない。まるで巨大な魚雷のようだが、スクリューもプロペラも、外部に突き出た駆動部分は一切なかった。
 表面の上部三分の一ほどが、わずかに青みがかった黒色をしている。ペロブスカイト太陽電池——次世代の太陽光発電素子が、薄膜として貼り付けられていた。
「電磁推進システム、全系統正常」
「バッテリー充電率、九十八パーセント」
「制御系、オールグリーン」
 技術者たちが、次々と報告する。
 水嶋は深く息を吸い込んだ。
「投入」
 クレーンが動き、プローブがゆっくりと水面に降ろされていく。水しぶき一つ立てず、それは静かに水中に沈んでいった。
2
 水中カメラがプローブの姿を捉えている。モニターには、水中を漂う白い物体が映し出されていた。
「推進システム、起動」
 技術者がコマンドを入力する。
 その瞬間、プローブが動き出した。
 音はしなかった。完全な無音。水中マイクが拾う音は、施設の空調と、わずかな水の揺らぎだけだった。
 プローブは、まるで生き物のように水中を滑っていく。速度計が示す数値——時速三十二キロメートル。水槽の端から端まで、わずか十七秒足らずで到達した。加減速を考慮しても驚くべき速さだ。
「旋回テスト」
 プローブは水槽の端で、驚くほど滑らかに方向を変えた。急激な旋回にもかかわらず、その動きに乱れはなく、まるで水そのものと一体化しているかのようだった。
「すごい……」
 若い技術者が思わず呟いた。
 水嶋も、その光景に見入っていた。自分が理論として構築したものが、今、目の前で現実として動いている。科学者としての歓びと、しかし同時に、複雑な思いが胸に去来した。
 この技術は、使い方次第で世界を変える。
 海洋調査に使えば、人類の海洋理解は飛躍的に進むだろう。しかし、軍事利用されれば——それは見えない刃として、海の支配権を一変させる。
「先生、データは完璧です」
 技術者が興奮した様子で報告してきた。
「エネルギー効率は、従来のスクリュー式推進と同等。いや、水の抵抗が少ない分、むしろ上回っています。これなら、実用レベルです」
「ああ……」水嶋は頷いた。「ようやく、ここまで来た」
 大学の研究室で理論を構築し始めてから、十三年。数え切れないほどの失敗を繰り返し、ようやく辿り着いた成果だった。
「回収」
 プローブは再びクレーンで引き上げられ、水槽の縁に置かれた。技術者たちが駆け寄り、各部をチェックする。
「異常なし。全システム正常動作」
「表面の劣化も見られません」
「太陽電池パネルも無傷です」
 報告を聞きながら、水嶋は安堵の息をついた。
 そして——次のステップを考えた。
 実際の海での試験。それが成功すれば、この技術は本当に実用化される。
3
 昼過ぎ、水嶋は施設の会議室で、モニター越しに安藤と向かい合っていた。
 窓の外には、穏やかな瀬戸内海が広がっている。小さな漁船がゆっくりと航行し、遠くには瀬戸大橋が見えた。
「試験は成功しました」水嶋が報告した。「プローブは完全に設計通りの性能を発揮しています」
「それは素晴らしい」安藤は満足そうに頷いた。「では、次は実海域での試験ですね」
「ええ。しかし……」水嶋は言葉を選んだ。「私は、この技術がどう使われるのか、まだ納得しきれていません」
 安藤は静かに水嶋を見つめた。
「水嶋先生、あなたが不安に思う気持ちは理解しています。科学者として、自分の研究が兵器に転用されることへの懸念——それは当然のことです」
「私は、海洋調査のために」水嶋は言った。「人類の知識を広げるために、この技術を開発したかった」
「そして、それは実現します」安藤は穏やかな口調で続けた。「このプローブは、海洋資源の探査、環境調査、様々な平和目的に使われます。しかし同時に——」
 安藤は窓の外を見た。
「我が国を取り巻く状況は、日々厳しさを増しています。周辺国の海洋進出、領海侵犯。それらに対抗するためには、新しい技術が必要なんです」
「でも、国会は——」
「国会は機能していません」安藤の声が、僅かに厳しくなった。「理想論を唱える者たちが、現実を見ようとしない。その間に、どれだけの危機が迫っているか」
 水嶋は黙った。安藤の言うことは、一理ある。しかし、だからといって、民主的なプロセスを無視していいのか。
「先生」安藤が言った。「あなたの技術は、誰かを傷つけるためのものではありません。むしろ、傷つけられることを防ぐためのものです。抑止力——それこそが、本当の平和を作るんです」
 水嶋は答えなかった。
 ただ、窓の外の海を見つめていた。
4
 その夜、水嶋は一人、プローブの最終調整を行っていた。
 明日の夜、実海域での試験が実施される。瀬戸内海に実際に投入し、航行能力、通信能力、そして最も重要な——ステルス性を検証するのだ。
 プローブの内部には、高性能なセンサーとカメラ、そして通信機器が搭載されている。海底の地形、水温、塩分濃度を記録し、リアルタイムで施設に送信する。
 さらに、AIによる自律航行システムも組み込まれていた。一度目的地を設定すれば、プローブは自動で障害物を避け、最適なルートを選んで航行する。
 そして、ペロブスカイト太陽電池——曇天でも発電効率が高いこの素材により、プローブは定期的に水面近くまで浮上して充電することができる。理論上は、半永久的に稼働し続けることが可能だった。
 つまり、一度海に放てば、プローブは無限に情報を集め続ける。
 それは研究者として夢見た理想であり、同時に、軍事利用者にとっての完璧な偵察機でもあった。
 水嶋は工具を置き、プローブの表面に手を当てた。
 冷たく、滑らかな感触。
「お前は、何のために生まれてきたんだ」
 独り言が、静かな実験室に響いた。
5
 翌日の夕方、施設の桟橋では最終準備が進められていた。
 プローブはクレーンで慎重に吊り上げられ、海に面した搬出口へと運ばれていく。夕陽が瀬戸内海を赤く染め、その光がプローブの白い表面に反射していた。
 水嶋と技術者たちは、コントロール室でモニターを確認していた。プローブの全システムが正常に機能している。
「投入準備完了」
 安藤も立ち会っていた。その隣には、防衛省から来たという二人の男性がいた。
「では、始めましょう」安藤が言った。
 水嶋は頷き、マイクに向かって指示を出した。
「投入開始」
 桟橋で、クレーンがゆっくりとプローブを海面に降ろしていく。
 波一つ立てず、プローブは海に入った。オレンジ色の夕陽を映し込みながら、静かに水中へと沈んでいく。
 モニターには、プローブの位置を示すGPSの信号と、搭載カメラが捉えた海中の映像が表示されていた。
「推進システム起動」
 プローブが動き出した。施設から離れ、瀬戸内海の沖合へと進んでいく。
 その姿は、まるで幽霊のようだった。音もなく、気配もなく、ただ静かに水中を滑っていく。
「データ受信良好」
「全システム正常」
「深度二十メートルで安定」
 次々と報告が上がる。
 水嶋は画面を見つめながら、複雑な思いに駆られていた。成功の喜び。そして、取り返しのつかない一線を越えてしまったという後悔。
 プローブは、夕暮れの海を進み続けた。
6
 その同じ頃——
 小与島から約一キロ離れた海上に、一隻の小型漁船が停泊していた。
 船には二人の男が乗っていた。一人は釣り竿を持ち、のんびりと釣りをしているように見える。しかし、もう一人の男は、船室の中で特殊な機器に向かっていた。
 水中音響センサー。海中の音を拾い、分析する装置だ。
 男は注意深くヘッドフォンで音を聞いていた。船のエンジン音、遠くを通る船舶の音、魚の群れが動く音——
 そして、何かが動く気配。
 しかし、音はしない。完全な無音だった。
 男は画面を確認した。水温センサーが、わずかな変化を捉えている。何かが水中を移動している。しかし、音響センサーは何も拾っていない。
「これは……」
 男は急いでカメラを取り出し、海面を撮影し始めた。何も見えない。しかし、確かに何かがそこにいる。
 漁船は、そのまま夕暮れの海に浮かび続けていた。
 小与島の施設にいる者は、その漁船の存在には気づいていない。
 しかし、漁船の男たちは、確かに何かを察知していた。
 日本の新しい技術——完全無音で航行する水中プローブの存在を。
 その情報は、やがて、遠い国へと送られることになる。
 瀬戸内海の夕暮れは、穏やかで美しかった。
 しかし、その水面下では、新たな時代の幕が静かに開こうとしていた。
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