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第9話 移動する真実
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1
八月二日、午前十時。
前田は再び、広島市内の地域交流センター向かいのカフェにいた。
上司からの叱責を無視し、ホテルを転々としながら、前田は調査を続けていた。会社には「体調不良で療養中」と連絡してあったが、もはや信じてもらえないだろう。
しかし、前田には引き返せない理由があった。
八月六日——四日後には、広島で平和記念式典が開催される。総理も出席する大きな行事だ。安藤が言っていた「総理の広島訪問の準備」が、その式典のことだとすれば、何かが動くのはその前後のはずだった。
前田はカフェの窓際の席で、三日目の張り込みを続けていた。
地域交流センター——前回、安藤が消えた建物。あの中に、地下への入口がある。前田はそう確信していた。
午前中は、地域の人々が出入りするだけで、特に変わった様子はなかった。
昼過ぎ、前田は軽食を注文しながら、店員に申し訳なさそうに謝った。
「すみません、また長居してしまって……」
「いえいえ、お仕事大変そうですね」
若い女性店員は、優しく微笑んだ。前田が「小説の執筆で集中できる場所を探している」と説明していたことを、覚えてくれていた。
午後二時を回った頃——前田の目に、見覚えのある人物が飛び込んできた。
安藤だ。
紺色のスーツ、ブリーフケースを持ち、いつもの落ち着いた様子で地域交流センターに入っていく。
前田は急いで代金を支払い、店を出た。
2
前田は地域交流センターに入り、安藤の姿を探した。
一階のロビー、図書室——しかし、どこにもいない。また消えたのか——
前田が二階への階段を上がろうとした時、背後から声がかかった。
「前田さん、お探しですか?」
振り向くと、安藤が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「安藤さん……どこに?」
「ちょっと地下の資料室に。防災関連の書類を確認していたんです」
地下——やはり、この建物には地下施設がある。
「私は……あの、少しお話を」
「ああ、取材ですか」安藤は時計を見た。「これから呉に行く用事があるんですが、移動中なら構いませんよ」
「え……本当ですか?」
前田は予想外の申し出に驚いた。前回はあれほど警戒していたのに、なぜ今日は——
「ええ。ただし、車の中だけですよ。呉に着いたら、私は仕事がありますから」
「ありがとうございます!」
前田は喜んで同意した。安藤が何を考えているのか分からないが、これはチャンスだ。
施設の駐車場に停められていた黒いセダン——安藤の車だろう。前田は助手席に乗り込んだ。
安藤がエンジンをかけ、車は静かに発進した。
3
車は広島市内を抜け、高速道路の入口へと向かった。
「広島呉道路——通称クレアラインを使います。約三十分ほどで呉に着きますよ」
安藤は運転しながら、穏やかに話しかけてきた。
「それで、何を聞きたいんですか?」
前田はICレコーダーを取り出した。
「録音しても?」
「構いませんが、報道には使えませんよ。これは非公式な会話ですから」
「分かりました」
前田は録音を開始した。形式的なものだが、後で内容を確認するためには必要だった。
高速道路に入り、車は海沿いを走り始めた。窓の外には、瀬戸内海の美しい風景が広がっている。
「安藤さん、広島で何をしようとしているんですか?」
前田は単刀直入に尋ねた。
「通常業務の出張ですよ」安藤は淡々と答えた。「八月六日の平和記念式典に、総理が出席されます。その警備体制の確認や、関連施設の視察が主な目的です」
「それだけですか?」
「それだけです」
安藤の表情は変わらなかった。
「では、地域交流センターの地下施設は何なんですか?」
「防災用の施設と聞いていますよ」安藤は少し笑った。「前田さん、あそこに何か秘密があると思っているようですが、実際には備蓄倉庫と避難スペースがあるだけです」
「でも、電子ロック付きの扉が——」
「防災倉庫には、重要な物資が保管されていますからね。セキュリティは必要でしょう」
安藤の説明は、完璧に筋が通っていた。しかし、前田は納得できなかった。
4
車は海沿いを走り続けている。トンネルを抜けると、眼下に広島湾の景色が広がった。
「どうして呉に向かうんですか?」
「防衛省の人間だからね。呉には海上自衛隊の重要な基地があります。普通の業務ですよ」
「製鉄所跡地の新しい施設——あれは何ですか?」
「倉庫施設の建設です。老朽化した既存の倉庫を更新するためのものです」
安藤は、どの質問にも即座に答えた。まるで、予め用意していた答えを読み上げているかのように。
「水嶋先生のことを知っていますか?」
前田は、核心に近い質問をした。
安藤の表情が、ほんの一瞬だけ変わった。しかし、すぐに元の穏やかな笑みに戻る。
「会ったことはあるかな。日本先端技術大学で、一度お話ししたことがあります」
「一度だけですか?」
「詳しくは知らないんですよ。優秀な研究者だという話は聞いていますが」
嘘だ——前田は直感した。
安藤は水嶋のことを、よく知っている。おそらく、彼を説得してこの計画に引き込んだのも、安藤だ。
「安藤さん」前田は真っ直ぐに安藤を見た。「何かを隠していますよね」
安藤は前方を見たまま、答えた。
「前田さん、世の中には知らない方がいいこともあります」
「それは、国民を馬鹿にしていませんか?」
「いいえ」安藤は首を振った。「むしろ、国民を守るためです」
5
車はトンネルを抜け、再び海が見えた。
安藤は少し口調を変えて、話し始めた。
「前田さん、あなたは記者として、真実を伝えることが大切だと考えている。それは正しい」
「ええ、当然です」
「でも」安藤は続けた。「全ての真実を、全ての人に伝えることが、常に正しいとは限らない」
「どういう意味ですか?」
「例えば——」安藤は慎重に言葉を選んだ。「ある国が、我が国に対して軍事的脅威を強めているとします。それに対抗するため、政府が秘密裏に防衛力を強化している。その事実を報道すれば、どうなると思いますか?」
「国民は知る権利があります」
「そうです。しかし、その報道によって、敵国はこちらの手の内を知ることになる。結果として、防衛力の強化は無意味になる。国民の安全は、むしろ脅かされることになる」
前田は黙った。安藤の論理は、ある意味で正しかった。
「前田さん」安藤は言った。「あなたは、国会の様子をご覧になっていますね」
「ええ……」
「野党は防衛費の増額に反対し、審議は進まない。理想論を唱え、対話による解決を主張する。しかし、現実はそれを待ってくれない」
安藤の声には、僅かな苦みがあった。
「周辺国は着々と軍備を増強し、我が国の領海を侵す。その間、国会は空転している。このままでは、本当に国を守れなくなる」
「だから、国会を迂回して秘密裏に——」
「前にも言いましたが、私は何も認めていませんよ」安藤は微笑んだ。「ただ、仮定の話をしているだけです」
6
車は呉市内に入っていた。海沿いの道路を走り、やがて製鉄所跡地が見えてきた。
「安藤さん、一つだけ教えてください」
前田は最後の質問をした。
「あなたは、自分のやっていることが正しいと信じていますか?」
安藤は少し考えてから、答えた。
「正しいかどうかは、分かりません。ただ、必要なことだと信じています」
「必要……」
「ええ。国を守るために、誰かがやらなければならないことです」
車は工事現場の近くに停まった。
「さあ、着きましたよ」安藤は車を停めた。「ここで降りてください」
「ありがとうございました」
前田は車を降りた。
安藤は窓から顔を出し、最後に言った。
「前田さん、忠告します。これ以上、深入りしない方がいい」
「でも——」
「あなたは聡明な方だ。だからこそ、分かってほしい。あなたが追っているものは、想像以上に大きく、複雑で、そして危険なんです」
安藤の目は、真剣だった。
「もし、どうしても取材を続けるなら——せめて、八月六日までは待ってください」
「八月六日? 平和記念式典の日ですか?」
「ええ。その日を過ぎれば、少しは状況が変わるかもしれません」
安藤はそれだけ言うと、車を発進させた。
前田は、去っていく車を見送りながら、考え込んでいた。
八月六日——その日に、何かが起こる。
八月二日、午前十時。
前田は再び、広島市内の地域交流センター向かいのカフェにいた。
上司からの叱責を無視し、ホテルを転々としながら、前田は調査を続けていた。会社には「体調不良で療養中」と連絡してあったが、もはや信じてもらえないだろう。
しかし、前田には引き返せない理由があった。
八月六日——四日後には、広島で平和記念式典が開催される。総理も出席する大きな行事だ。安藤が言っていた「総理の広島訪問の準備」が、その式典のことだとすれば、何かが動くのはその前後のはずだった。
前田はカフェの窓際の席で、三日目の張り込みを続けていた。
地域交流センター——前回、安藤が消えた建物。あの中に、地下への入口がある。前田はそう確信していた。
午前中は、地域の人々が出入りするだけで、特に変わった様子はなかった。
昼過ぎ、前田は軽食を注文しながら、店員に申し訳なさそうに謝った。
「すみません、また長居してしまって……」
「いえいえ、お仕事大変そうですね」
若い女性店員は、優しく微笑んだ。前田が「小説の執筆で集中できる場所を探している」と説明していたことを、覚えてくれていた。
午後二時を回った頃——前田の目に、見覚えのある人物が飛び込んできた。
安藤だ。
紺色のスーツ、ブリーフケースを持ち、いつもの落ち着いた様子で地域交流センターに入っていく。
前田は急いで代金を支払い、店を出た。
2
前田は地域交流センターに入り、安藤の姿を探した。
一階のロビー、図書室——しかし、どこにもいない。また消えたのか——
前田が二階への階段を上がろうとした時、背後から声がかかった。
「前田さん、お探しですか?」
振り向くと、安藤が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「安藤さん……どこに?」
「ちょっと地下の資料室に。防災関連の書類を確認していたんです」
地下——やはり、この建物には地下施設がある。
「私は……あの、少しお話を」
「ああ、取材ですか」安藤は時計を見た。「これから呉に行く用事があるんですが、移動中なら構いませんよ」
「え……本当ですか?」
前田は予想外の申し出に驚いた。前回はあれほど警戒していたのに、なぜ今日は——
「ええ。ただし、車の中だけですよ。呉に着いたら、私は仕事がありますから」
「ありがとうございます!」
前田は喜んで同意した。安藤が何を考えているのか分からないが、これはチャンスだ。
施設の駐車場に停められていた黒いセダン——安藤の車だろう。前田は助手席に乗り込んだ。
安藤がエンジンをかけ、車は静かに発進した。
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車は広島市内を抜け、高速道路の入口へと向かった。
「広島呉道路——通称クレアラインを使います。約三十分ほどで呉に着きますよ」
安藤は運転しながら、穏やかに話しかけてきた。
「それで、何を聞きたいんですか?」
前田はICレコーダーを取り出した。
「録音しても?」
「構いませんが、報道には使えませんよ。これは非公式な会話ですから」
「分かりました」
前田は録音を開始した。形式的なものだが、後で内容を確認するためには必要だった。
高速道路に入り、車は海沿いを走り始めた。窓の外には、瀬戸内海の美しい風景が広がっている。
「安藤さん、広島で何をしようとしているんですか?」
前田は単刀直入に尋ねた。
「通常業務の出張ですよ」安藤は淡々と答えた。「八月六日の平和記念式典に、総理が出席されます。その警備体制の確認や、関連施設の視察が主な目的です」
「それだけですか?」
「それだけです」
安藤の表情は変わらなかった。
「では、地域交流センターの地下施設は何なんですか?」
「防災用の施設と聞いていますよ」安藤は少し笑った。「前田さん、あそこに何か秘密があると思っているようですが、実際には備蓄倉庫と避難スペースがあるだけです」
「でも、電子ロック付きの扉が——」
「防災倉庫には、重要な物資が保管されていますからね。セキュリティは必要でしょう」
安藤の説明は、完璧に筋が通っていた。しかし、前田は納得できなかった。
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車は海沿いを走り続けている。トンネルを抜けると、眼下に広島湾の景色が広がった。
「どうして呉に向かうんですか?」
「防衛省の人間だからね。呉には海上自衛隊の重要な基地があります。普通の業務ですよ」
「製鉄所跡地の新しい施設——あれは何ですか?」
「倉庫施設の建設です。老朽化した既存の倉庫を更新するためのものです」
安藤は、どの質問にも即座に答えた。まるで、予め用意していた答えを読み上げているかのように。
「水嶋先生のことを知っていますか?」
前田は、核心に近い質問をした。
安藤の表情が、ほんの一瞬だけ変わった。しかし、すぐに元の穏やかな笑みに戻る。
「会ったことはあるかな。日本先端技術大学で、一度お話ししたことがあります」
「一度だけですか?」
「詳しくは知らないんですよ。優秀な研究者だという話は聞いていますが」
嘘だ——前田は直感した。
安藤は水嶋のことを、よく知っている。おそらく、彼を説得してこの計画に引き込んだのも、安藤だ。
「安藤さん」前田は真っ直ぐに安藤を見た。「何かを隠していますよね」
安藤は前方を見たまま、答えた。
「前田さん、世の中には知らない方がいいこともあります」
「それは、国民を馬鹿にしていませんか?」
「いいえ」安藤は首を振った。「むしろ、国民を守るためです」
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車はトンネルを抜け、再び海が見えた。
安藤は少し口調を変えて、話し始めた。
「前田さん、あなたは記者として、真実を伝えることが大切だと考えている。それは正しい」
「ええ、当然です」
「でも」安藤は続けた。「全ての真実を、全ての人に伝えることが、常に正しいとは限らない」
「どういう意味ですか?」
「例えば——」安藤は慎重に言葉を選んだ。「ある国が、我が国に対して軍事的脅威を強めているとします。それに対抗するため、政府が秘密裏に防衛力を強化している。その事実を報道すれば、どうなると思いますか?」
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「そうです。しかし、その報道によって、敵国はこちらの手の内を知ることになる。結果として、防衛力の強化は無意味になる。国民の安全は、むしろ脅かされることになる」
前田は黙った。安藤の論理は、ある意味で正しかった。
「前田さん」安藤は言った。「あなたは、国会の様子をご覧になっていますね」
「ええ……」
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安藤の声には、僅かな苦みがあった。
「周辺国は着々と軍備を増強し、我が国の領海を侵す。その間、国会は空転している。このままでは、本当に国を守れなくなる」
「だから、国会を迂回して秘密裏に——」
「前にも言いましたが、私は何も認めていませんよ」安藤は微笑んだ。「ただ、仮定の話をしているだけです」
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車は呉市内に入っていた。海沿いの道路を走り、やがて製鉄所跡地が見えてきた。
「安藤さん、一つだけ教えてください」
前田は最後の質問をした。
「あなたは、自分のやっていることが正しいと信じていますか?」
安藤は少し考えてから、答えた。
「正しいかどうかは、分かりません。ただ、必要なことだと信じています」
「必要……」
「ええ。国を守るために、誰かがやらなければならないことです」
車は工事現場の近くに停まった。
「さあ、着きましたよ」安藤は車を停めた。「ここで降りてください」
「ありがとうございました」
前田は車を降りた。
安藤は窓から顔を出し、最後に言った。
「前田さん、忠告します。これ以上、深入りしない方がいい」
「でも——」
「あなたは聡明な方だ。だからこそ、分かってほしい。あなたが追っているものは、想像以上に大きく、複雑で、そして危険なんです」
安藤の目は、真剣だった。
「もし、どうしても取材を続けるなら——せめて、八月六日までは待ってください」
「八月六日? 平和記念式典の日ですか?」
「ええ。その日を過ぎれば、少しは状況が変わるかもしれません」
安藤はそれだけ言うと、車を発進させた。
前田は、去っていく車を見送りながら、考え込んでいた。
八月六日——その日に、何かが起こる。
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