サイレント・サブマリン ―虚構の海―

来栖とむ

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第8話 丘の上の監視者

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1
 七月下旬、東京。
 前田香里奈は、会社のデスクで山積みの資料と格闘していた。
 広島から戻って以来、前田は表向き通常業務に戻されていた。科学技術雑誌の記事執筆、取材のアポイント調整、編集会議——日常的な仕事だ。
 しかし、前田の頭の中は、常に「あの計画」のことでいっぱいだった。
 水嶋総の電磁推進システム。小与島の秘密施設。広島の地下に隠された何か。そして、呉で建造されているらしい、新型の潜水艦——
 それらの断片的な情報が、まだパズルとして完成していなかった。
 前田は上司から厳命されていた。「この件から手を引け」と。しかし、記者としての本能が、それを許さなかった。
 午後三時、郵便物の配達があった。
 社内便の担当者が、前田のデスクに数通の封筒を置いていく。その中に、一通だけ、私信らしき封筒があった。
 差出人の名前はない。消印は——呉市。
 前田は周囲を確認してから、静かに封筒を開けた。
 中には、一枚のメモと、数枚の写真が入っていた。
『呉の製鉄所跡地を調べろ。夜に何かが運び込まれている。写真を見れば分かる』
 写真は、夜間の工事現場を撮影したものだった。トレーラーで運ばれる巨大な構造物。布で覆われているが、その形状は明らかに円筒形だった。
 そして、最後の一枚——風で布が捲れ、構造物の一部が露出している写真。
 前田は息を呑んだ。
 その表面は、異様に滑らかで、通常の船舶や潜水艦とは明らかに異なっていた。外部に突起物がなく、完全な流線形——
 これは、水嶋の技術を応用したものだ。
 前田は写真をスマートフォンで撮影し、元の写真は鞄にしまい込んだ。
2
 その日の夕方、前田は上司に呼ばれた。
 会議室には、上司と編集長が待っていた。二人とも、厳しい表情をしている。
「前田、座れ」
 前田は指示された椅子に腰を下ろした。
「また、例の件で何か動いているんじゃないか」上司が単刀直入に尋ねた。
「いえ、別に——」
「嘘をつくな」編集長が遮った。「お前のデスクに、また匿名の手紙が届いただろう。郵便の担当者から報告があった」
 前田は黙った。
「前田」上司が言った。「お前の気持ちは分かる。記者として、真実を追求したい。それは正しい。しかし、今回の件は危険すぎる」
「でも——」
「聞け」編集長が厳しい口調で言った。「防衛省から、非公式に圧力がかかっている。『前田記者の動向に注意してほしい』とな」
 前田は驚いて顔を上げた。
「つまり、監視されているんだ。お前が何をしているか、どこに行くか。全て把握されている可能性がある」
「それは……言論統制では?」
「そうだ。しかし、それが現実だ」上司が言った。「国家安全保障という名目で、報道の自由が制限されている」
 編集長が立ち上がり、窓の外を見た。
「前田、お前は優秀な記者だ。だからこそ、ここで無理をしてほしくない。もし何かあれば、会社としても責任を負いきれない」
「でも……」前田は必死に訴えた。「このままでは、国民は何も知らされないままです。政府が秘密裏に進めている計画を、誰かが報道しなければ」
「それは分かっている」上司が言った。「だが、今は時期ではない。もう少し、状況を見よう」
 前田は唇を噛んだ。
 しかし、心の中では決めていた。
 もう一度、広島に行く。呉に行く。そして、真実を確かめる。
3
 次の日の早朝、前田は新幹線で広島に向かっていた。
 会社には、「体調不良で数日休む」と連絡してあった。上司は信じないだろうが、強引に引き留めることもできないはずだ。
 車窓を流れる景色を眺めながら、前田は計画を考えていた。
 まず呉の工事現場を確認する。可能なら、近隣住民から情報を集める。そして、夜間の搬入作業を記録する——
 新幹線が名古屋を過ぎた頃、前田はふと、後ろの車両に視線を感じた。
 振り返ると、数席離れた場所に、サングラスをかけた男性が座っていた。スーツ姿で、新聞を読んでいる。
 気のせいかもしれない。しかし、前田は警戒心を高めた。
 もし本当に監視されているなら、尾行されている可能性がある。
 広島駅に到着後、前田はわざと構内を複雑に歩き回った。書店に入り、トイレに寄り、売店で買い物をする。そして、時折振り返って、後ろを確認する。
 サングラスの男は、見当たらなかった。
 気のせいだったのか——前田はホッとしながら、駅前のホテルにチェックインした。
 しかし、前田が気づかなかったのは、サングラスの男とは別の人物が、離れた場所から前田を見ていたことだった。
 若い女性——観光客のような服装で、スマートフォンを操作しながら、前田の動きを記録していた。
4
 その日のうちに、前田は呉市に向かった。
 広島駅から呉線で約三十分。海沿いを走る電車の窓から、瀬戸内海の穏やかな風景が見えた。
 呉駅に降り立ち、前田はまず市内の様子を確認した。海上自衛隊の基地が近いため、制服を着た自衛官の姿が目立つ。観光客も多く、大和ミュージアムや鉄のくじら館などの施設が賑わっていた。
 前田はタクシーで、製鉄所跡地の近くまで行った。
「この辺で結構です」
 工事現場から少し離れた場所で降り、徒歩で周辺を調査する。
 フェンス越しに見える工事現場は、写真で見た通りだった。巨大な格納庫が海沿いに建ち、その周囲はまだ更地のままだ。
 警備は厳重で、出入り口には警備員が常駐している。不審者が近づけば、すぐに気づかれるだろう。
 前田は、格納庫を見下ろせる高台を探すことにした。
 地図を確認すると、工事現場の北側、少し高くなった場所に住宅地があった。そこからなら、現場の様子を観察できるかもしれない。
5
 住宅地は、古い家屋と新しい建物が混在する、静かな場所だった。
 坂道を上がり、工事現場が見渡せる位置を探す。いくつかの家の前を通り過ぎると、二階建ての比較的新しい家が目に入った。
 表札には「田中」と書かれている。
 その家の二階、西側の窓にはカーテンが引かれていたが、窓際に何か機材らしいものが見えた。望遠鏡か、それともカメラか——
 前田が観察していると、家の玄関が開き、一人の女性が出てきた。
 四十代半ば、明るい雰囲気の主婦風の女性だ。前田に気づくと、にこやかに挨拶してきた。
「こんにちは。この辺りは迷いやすいでしょう?」
「あ、はい……ちょっと道に迷ってしまって」
 前田は咄嗟に言い訳を考えた。
「観光ですか? それとも、お仕事?」
「観光です。呉は初めてで」
「そうなんですか。ここからだと自衛隊の船だとか潜水艦がよく見えるのよ。ほら、たくさん浮かんでるでしょ。わたしたちは見慣れちゃったけどね。そうだ。良かったら、大和ミュージアムはもう行かれました? あそこは本当に素晴らしいですよ」
 女性——田中弘美は、熱心に観光スポットを教えてくれた。その話し方は自然で、地元を愛している様子が伝わってきた。
「ありがとうございます。参考になりました」
 前田は礼を言って、その場を離れた。
 しかし、心の中で違和感を覚えていた。
 あの家の二階の窓。あれは、本当に天体観測用の機材だろうか。それとも——
6
 その夜、前田は住宅地の少し離れた場所で、田中家を観察していた。
 午後八時を過ぎ、住宅地は静かになっていた。街灯の光が、道路を淡く照らしている。
 田中家の一階には明かりが灯り、時折人影が動くのが見えた。しかし、二階は暗いままだった。
 午後十時頃、一台の車が田中家に停まった。運転席から、スーツ姿の男性が降りてきた。田中健二——夫だろう。
 健二は家に入り、しばらくして一階の明かりが消えた。
 そして、午後十一時過ぎ——二階の一室に、わずかな明かりが灯った。
 前田は双眼鏡で、その部屋を観察した。
 カーテンの隙間から、室内の様子がわずかに見える。男性の影が動き、何か機材を操作しているようだった。
 そして、窓際に設置された機材——それは望遠鏡ではなく、明らかにカメラだった。高性能な望遠レンズを備えたカメラが、三脚に固定され、工事現場の方を向いていた。
 前田は確信した。
 田中夫妻は、工事現場を監視している。
 しかし、なぜ? 彼らは何者なのか?
7
 翌朝、前田は目の前に係留されている潜水艦がよく見える地元の喫茶店で、近隣住民から情報を集めることにした。
 常連客らしい高齢の男性に話しかけると、彼は快く応じてくれた。
「田中さん? ああ、四ヶ月くらい前に越してきた夫婦だね」
「どんな方たちなんですか?」
「奥さんは明るくて、すぐに近所に溶け込んだよ。ご主人は外資系の会社に勤めていて、よく海外出張してるらしい」
「仲の良いご夫婦なんですね」
「ああ、そう見える。ただ……」
 男性は声を潜めた。
「少し不思議なんだ。あの家、二階の西側の部屋、いつもカーテンが閉まっているんだよ。ご主人の趣味で天体観測をしてるって話だが、昼間から閉めてる必要はないだろう?」
「確かに……」
「それに、時々夜中に、あの部屋に明かりが灯るのを見たことがある。何をしているのか、気にはなるんだが」
 前田はメモを取りながら、考えを巡らせていた。
 田中夫妻——彼らは、本当に普通の夫婦なのか。それとも、何か別の目的を持って、この場所に住んでいるのか。
 喫茶店を出た前田は、再び住宅地に向かった。しかし、今度は別のルートを通り、田中家の裏手から観察することにした。
 裏庭は小さく、植木が植えられている。一見すると普通の家庭の庭だ。しかし、二階の窓——西側の部屋の窓は、やはりカーテンで完全に覆われていた。
 その時、前田の背後から声がかかった。
「何をしているんですか?」
 振り向くと、田中弘美が立っていた。昨日の明るい表情とは違い、警戒した目で前田を見つめている。
「あ、昨日お会いした……」
「はい。でも、どうしてうちの裏にいるんですか?」
 弘美の声には、明らかな疑念が含まれていた。
「すみません、写真を撮るのに良い場所はないかと思っていたら、道に迷って……」
「この辺りは、私道です。勝手に入らないでください」
 弘美の態度は、昨日とは全く違っていた。冷たく、そして——威圧的だった。
 前田は急いでその場を離れた。
 心臓が高鳴っていた。弘美の目——あれは、ただの主婦の目ではなかった。訓練された者の、鋭い目だった。
8
 ホテルに戻った前田は、今日得た情報を整理していた。
 田中夫妻は、工事現場を監視している。しかし、彼らは何者なのか。
 前田はパソコンで、田中健二という名前を検索してみた。しかし、該当する人物は数多く、特定することはできなかった。
 外資系の貿易会社——それも、本当かどうか分からない。
 前田のスマートフォンが鳴った。上司からだ。
「部長——」
「前田、お前、呉にいるのか?」
「……はい」
「バカ野郎! 何をやってるんだ!」上司の声は怒りに震えていた。「お前の動きは、全て監視されている。すぐに東京に戻れ!」
「でも、重要な情報が——」
「いいから戻れ! これは命令だ!」
 電話が切れた。
 前田は窓の外を見た。夜の呉の街が、静かに広がっている。
 この街の地下で、海で、何かが動いている。そして、それを監視する者たちがいる。
 前田は、この謎の渦中に、深く入り込んでしまっていた。
 もう、後戻りはできない。
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