サイレント・サブマリン ―虚構の海―

来栖とむ

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第12話 夜の工場

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1
 午後七時まで、あと二時間。
 前田は平和記念式典が行われる平和公園と平和大通りの工事現場をもう一度見にいった後、広島市内のホテルにチェックインし、部屋で時間を潰していた。しかし、落ち着かない。何度も時計を確認し、窓の外を見る。
 森川——あの男は、一体何者なのか。
 前田は新幹線での会話を思い返した。自然で、親しみやすく、信頼できる印象。しかし、それが全て演技だったとしたら?
 コーヒーを飲んだ後、急激に眠くなった。あれは、普通の眠気ではなかった。何か——睡眠薬のようなものが混入されていたのではないか。
 しかし、なぜそんなことを?
 前田を眠らせて、手紙を握らせる。そして姿を消す。まるで、用意周到に計画されたシナリオのようだ。
 午後六時を過ぎた。前田は準備を始めた。
 カメラ、ICレコーダー、スマートフォン。それに、予備のバッテリーと、小型の懐中電灯。もし何かあった時のために、会社の上司と、信頼できる記者仲間二人に、これから向かう場所をメールで送った。
「午後七時、広島市西区観音新町◯-◯-◯の工場へ。もし午後十時までに連絡がなければ、警察に連絡してください」
 送信ボタンを押す。これで、最低限の保険はかけた。
 前田はホテルを出た。
2
 タクシーで観音新町に向かう。運転手は不思議そうに前田を見た。
「こんな時間に、工場ですか? お仕事?」
「ええ、取材で」
「気をつけてくださいね。この辺り、夜は人通りが少ないですから」
 タクシーは広島湾沿いの道を走った。工場や倉庫が立ち並ぶ地域で、夕暮れ時とはいえ、既に人影はまばらだった。
 やがて、巨大な工場が見えてきた。
 高い塀に囲まれた敷地。その中に、いくつもの大きな建物が立っている。看板には、世界的に有名な重工業メーカーの名前が掲げられていた。
「ここでいいですか?」
「はい、ありがとうございます」
 前田はタクシーを降りた。
 工場の正門は閉まっており、警備員室に明かりが灯っている。当然、勝手に入ることはできない。
 前田は手紙を見直した。「19:00」とだけ書かれている。具体的にどこで待てばいいのかは、書かれていなかった。
 前田は工場の塀沿いを歩き始めた。何か手がかりがあるはずだ。
3
 工場の西側に回り込んだ時、前田は小さな路地を見つけた。
 工場と隣の倉庫の間にできた、狭い通路。街灯がなく、薄暗い。
 前田が躊躇していると、その路地の奥から、小さな光が点滅した。
 誰かがいる。
 前田は意を決して、路地に入った。
 薄暗い通路を進むと、建物の影に人影が見えた。
「前田さん」
 低い声——男性の声だ。
 人影が一歩前に出てきた。
 森川だった。
「森川さん……」
「来てくれてありがとうございます。すみません、変な呼び出し方をして。でも、周りの人たちに気づかれないために必要だったんです」
 森川は、新幹線の時と同じ穏やかな笑みを浮かべていた。しかし、その雰囲気は微妙に違っていた。より緊張感があり、真剣だった。
「あなたは、一体……」
「説明する時間はあまりありません」森川は前田を遮った。「とにかく、まずこれを見てください」
 森川は、前田を建物の影に引き寄せた。そこからは、工場の海側の敷地が見渡せた。
「あそこ」
 森川が指差す方向には、海に面した大きな建物があった。まるで船の格納庫のような、巨大な構造物だ。
「あの建物で、今夜何かが起こります」
「何が……」
「それを、あなた自身の目で確かめてください」
 森川は双眼鏡を前田に渡した。
「私は、真実を知ろうとしている者です。あなたと同じように」
「でも、どうして私を——」
「あなたの取材のことは知っています。多分ですが、あなたはこの国の秘密に最も近づいた記者です」
 森川の目は、真剣だった。
「だからこそ、あなたに見てもらいたい。真実を」
4
 前田と森川は、建物の影に身を潜めて待機していた。
 午後七時十五分。
 工場の正門が開き、一台の黒い車が入ってきた。高級セダン——政府関係者が使うような車だ。
 車は工場の敷地内をゆっくりと進み、海側の建物に向かっていく。
「あの車……」
 前田は双眼鏡で観察した。
 後部座席に、人影が見える。スーツを着た男性——
 前田は息を呑んだ。
 安藤だ。
 あの謎の男、防衛省の人間だという安藤が、この工場に入っていった。
「やっぱり……」森川が呟いた。「安藤も来ましたね」
「森川さん、あなたは安藤を知っているんですか?」
「ええ。彼は、このプロジェクトの中心人物の一人です」
 森川は双眼鏡から目を離さずに答えた。
「プロジェクト……」
「日本政府が秘密裏に進めている、軍事計画です」
 前田の心臓が高鳴った。やはり、そうだったのか。
 しばらくして、さらに二台の車が入ってきた。一台は自衛隊の車両、もう一台は民間の車のようだった。
「明日は総理も来るはずです」森川が言った。「明後日の平和記念式典の前に、ここで何かの視察——いや、お披露目があるんでしょう」
「お披露目……何の?」
 森川は前田を見た。
「新しい兵器です。世界を揺るがすほどの——」
5
 午後七時三十分を過ぎた頃、工場の海側で動きがあった。
 大きな照明が点灯し、海に面した建物の一部——巨大なシャッターのような扉が、ゆっくりと開き始めた。
「始まりました」
 森川が緊張した声で言った。
 前田はカメラを構えた。望遠レンズ越しに、建物の内部が見える。
 そこには——
 巨大な何かがあった。
 まだ詳細は見えない。しかし、その大きさは尋常ではなかった。おそらく、長さ数十メートルはある構造物だ。
「あれは……」
「明日の夜——いや、今夜かもしれません。あれが海に下ろされます」
 森川が言った。
「原子力潜水艦……ですか?」前田は尋ねた。
 森川は少し沈黙してから、答えた。
「そんなありきたりのものじゃありません。もっと革新的な——全く新しい推進機関を持つ潜水艦だと思います」
 前田の頭の中で、全てが繋がった。
 電磁推進。水嶋の技術。そして、それを実用化した——
 森川は建物を指差した。
「音を立てない潜水艦。完全なステルス性を持つ、海中の幽霊です」
6
 その時、建物の中から、何人もの人が出てきた。
 スーツを着た人々——政府関係者、自衛隊の幹部、そして企業の関係者だろう。彼らは建物の前で立ち止まり、中を見つめていた。
 その中に、安藤の姿も見えた。
 そして——
 前田は双眼鏡の倍率を上げた。
 一人の男性が、他の人々に何かを説明しているようだった。痩身で、白衣を着た——
 水嶋先生……。
 前田は確信した。あれは、水嶋総だ。
 彼は、このプロジェクトに深く関わっている。おそらく、技術責任者として。
「明後日は平和記念式典です」森川が言った。「総理が広島を訪れる。その機会に、このプロジェクトの関係者を集めて、視察が行われるんでしょう」
「でも、なぜ今夜、私たちを?」
「あなたに見てもらいたかったんです」森川は真剣な目で前田を見た。「記者として、これを記録してほしい」
「記録……報道するんですか?」
「それは、あなたが決めることです」森川は言った。「ただ、国民は知る権利がある。秘密裏に、巨額の税金を使って、こんな兵器を作っていることを」
 前田は迷った。
 これを報道すれば、間違いなく大スキャンダルになる。政府は追及され、防衛計画は白日の下にさらされる。
 しかし同時に、日本の防衛力は損なわれる。周辺国は、この技術の詳細を知ることになる。
 安藤の言葉が、再び脳裏に蘇った。
「全ての真実を、全ての人に伝えることが、常に正しいとは限らない」
7
 午後八時を過ぎた。
 建物の中の人々は、まだ中を見ている。おそらく、詳しい説明を受けているのだろう。
 前田は、可能な限り写真を撮り続けた。建物、人々、そして——建物の中に見える巨大な構造物の一部。
 しかし、詳細はまだ見えない。完全な姿は、おそらく海に下ろされる時まで、見ることができないだろう。
「森川さん」前田は尋ねた。「あなたは、一体何者なんですか?」
 森川は少し考えてから、答えた。
「私は……真実を求める者です。それ以上は、今は言えません」
「でも、どうしてこんなに詳しく——」
「私にも、情報源があります。そして、あなたと同じように、この国の秘密が気になるんです」
 森川は微笑んだ。
「もうすぐ、全てが明らかになります。明日の夜——八月五日の夜、あの潜水艦が海に下ろされる。その時、私たちは決定的な証拠を掴むことができる」
「明日……」
「ええ。準備をしておいてください。その時、私が連絡します」
 森川はスマートフォンを取り出し、前田に番号を教えた。
「何かあったら、この番号に連絡してください」
 前田は番号を登録した。
 その時、工場の中から人々が出始めた。視察は終わったようだ。
「そろそろ離れましょう」森川が言った。「あまり長くいると、警備に気づかれます」
 二人は静かに、その場を離れた。
8
 工場から離れた場所で、前田と森川は立ち止まった。
「今夜はありがとうございました」森川が言った。
「いえ……でも、まだ何も分かっていません」
「大丈夫です。明日、全てが分かります」
 森川は前田に、一枚の紙を渡した。
「これ、明日の昼、食事でもどうですか。ゆっくり話しましょう」
 紙には、ホテルの名前と時間が書かれていた。
「あ、はい……」
 前田は、森川という人物にますます興味を持ってしまっていた。彼は敵なのか、味方なのか。それとも——
「では、また明日」
 森川は軽く手を上げて、闇の中に消えていった。
 前田は一人、工場を振り返った。
 あの中に、日本の秘密が隠されている。
 そして、明日——その秘密が、海に解き放たれる。
 前田は深呼吸をして、ホテルに戻るタクシーを拾った。
 今夜撮影した写真を、会社に送るべきか。それとも、明日まで待つべきか。
 前田の心は、揺れ動いていた。
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