サイレント・サブマリン ―虚構の海―

来栖とむ

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第15話 真実と嘘の境界

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1
 観音の工場、敷地内の建物——
 前田は、殺風景な部屋に座らされていた。
 コンクリートの壁、蛍光灯の白い光、スチール製の机と椅子。まるで警察の取調室のような部屋だ。
 カメラ、ICレコーダー、スマートフォン——全ての機材が取り上げられていた。
 ドアが開き、二人の男性が入ってきた。
 一人は五十代くらいのスーツ姿の男性。もう一人は、四十代と思しき、やや強面の男性だった。
「前田香里奈さんですね」
 スーツの男性が、椅子に座りながら言った。
「はい……」
「私は工場の警備責任者です。こちらは、警察の方」
 強面の男性は、無言で前田を見つめていた。その視線には、明らかな疑念があった。
「あなたは今夜、許可なく工場の敷地近くに侵入し、施設を撮影しました。これは、企業秘密の侵害にあたります」
「私は記者です。正当な取材活動——」
「記者であっても」男性は前田の言葉を遮った。「私有地への無断侵入、企業秘密の撮影は犯罪です」
 前田は唇を噛んだ。
 確かに、法的にはグレーゾーンだ。いや、完全にアウトかもしれない。
2
 取り調べは、一時間以上続いた。
 同じ質問が、何度も繰り返される。
「誰の指示で来たのか」
「何を撮影しようとしたのか」
「誰かに情報を流す予定だったのか」
 前田は、記者としての取材活動だと主張し続けた。しかし、相手は納得しない。
「あなたは、産業スパイではないのか」
「違います」
「では、なぜこの工場を?」
「情報提供があったんです。ここで何か重要なことが行われていると」
「情報提供? 誰から?」
 前田は黙った。森川のことは言えない。今、彼がどこで何をされているのか——心配だった。
 その時、ドアが開き、新しい人物が入ってきた。
 前田は驚いて顔を上げた。
 安藤だった。
「少し、席を外してもらえますか」
 安藤の言葉に、二人の男性は顔を見合わせた後、部屋を出ていった。
3
 部屋には、前田と安藤だけが残された。
 安藤は椅子に座り、静かに前田を見つめた。
「前田さん、またお会いしましたね」
「安藤さん……」
「忠告したはずです。これ以上、深入りしない方がいいと」
 安藤の声には、叱責というより、むしろ心配が混じっていた。
「でも、私は記者です。真実を——」
「真実」安藤は小さく笑った。「あなたは、今夜何を見ましたか?」
「巨大な……潜水艦が、海に下ろされるのを」
「潜水艦」安藤は頷いた。「しかし、どんな潜水艦ですか?」
「電磁推進システムを使った……完全に無音で航行できる、革命的な——」
「電磁推進」安藤は繰り返した。「よくご存知ですね。水嶋先生の研究について、かなり調べられたようだ」
 安藤は立ち上がり、窓の外を見た。
「前田さん、あなたが見たものは——確かに潜水艦のように見えたでしょう。しかし、それは兵器ではありません」
「それは嘘です」
 前田は、はっきりと言った。
「私が見たのは、明らかに軍事用の潜水艦でした。あの大きさ、あの構造——海洋調査用などという説明は、受け入れられません」
 安藤は振り返った。
「あなたは、頑固ですね」
「記者として、真実を見抜く目は持っています」
4
 安藤はため息をついた。
「前田さん、仮に——あくまで仮にですが、あれが軍事用の潜水艦だったとしましょう」
「……」
「それを報道して、何になりますか?」
「国民には知る権利があります」
「そうです。しかし、その報道によって、この国の安全が脅かされることになる。それでもいいんですか?」
 安藤は前田の目を見つめた。
「周辺国は、日々軍備を増強しています。領海を侵し、挑発を続けている。その間、国会は空転し、何も決められない」
「だからといって、国民を欺いていいことにはなりません」
「欺く……」安藤は苦笑した。「そうかもしれない。しかし、時には秘密が必要なんです。国を守るために」
 前田は黙った。
 安藤の論理には、一定の説得力があった。しかし、それは民主主義の原則に反する。
「前田さん」安藤が続けた。「あなたのカメラのデータは、全て消去させていただきました」
「何ですって……」
「企業秘密の保護のためです。そして、あなたを訴えるつもりはありません。今回のことは、不問にします」
「……」
「条件が一つあります」安藤は真剣な表情で言った。「今夜のことは、報道しないでください」
「それは、できません」
 前田は即座に答えた。
「私は記者です。真実を伝えることが使命です」
5
 安藤は長い沈黙の後、口を開いた。
「分かりました。あなたの信念は尊重します」
 安藤はドアに向かった。
「ただし、証拠はありません。カメラのデータは消去されました。あなたの証言だけでは、誰も信じないでしょう」
「それでも、私は書きます」
「どうぞ。しかし——」安藤は振り返った。「その記事が、本当に国益になるのか、よく考えてください」
 ドアが開き、安藤は出て行った。
 しばらくして、警備員が前田を別の部屋に連れて行った。そこには、森川が座っていた。
「森川さん!」
 前田は駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「ええ、質問を受けただけです」森川は疲れた表情で言った。「でも、もう解放されるようです」
 二人は、工場の正門まで連れて行かれた。
「タクシーを手配しました。お帰りください」
 警備員がそう言って、立ち去った。
6
 タクシーを待つ間、前田と森川は並んで立っていた。
 深夜の工場地帯は静かで、遠くで海の波音が聞こえた。
「森川さん」前田が尋ねた。「あなたは、あれが何だと思いますか?」
「潜水艦でしょうね」森川は即座に答えた。「電磁推進システムを使った、革命的な」
「私もそう思います」
「安藤さんは、海洋調査用だと言いましたか?」
「いいえ。彼は最後まで、はっきりとは認めませんでした。でも、私は確信しています。あれは軍事用の潜水艦です」
 森川は頷いた。
「僕もそう思います。そして——これは、報道されるべきです」
「でも、証拠がありません」
「証拠がなくても、真実は真実です」森川は前田を見た。「昨日私が言ったことと矛盾しますが、あなたは記者として、見たことを書くべきです」
 その時、タクシーが到着した。
「僕は別のタクシーを呼びます」森川が言った。「前田さん、お先にどうぞ」
「ありがとうございます。森川さんも、気をつけて」
「ええ。また連絡します」
 前田はタクシーに乗り込んだ。
 車が発進する直前、前田は窓から工場を振り返った。
 あの中で、何が作られたのか。そして、それがこれから何をもたらすのか。
7
 ホテルに戻った前田は、すぐに上司に電話をかけた。
 午前三時を過ぎていたが、上司はすぐに出た。
「前田か。無事か?」
「はい。でも、部長、大変なことが分かりました」
「落ち着け。ゆっくり話せ」
 前田は、今夜見たことを全て話した。巨大な潜水艦、電磁推進システム、そして安藤の言葉。
「……そうか」上司は長い沈黙の後、言った。「前田、お前の言うことは信じる。しかし、証拠がない」
「分かっています。でも——」
「それに」上司の声が厳しくなった。「会社として、これ以上この件を追うことはできない。防衛省からの圧力が強すぎる」
「でも、真実を——」
「前田」上司は声を落とした。「お前の気持ちは分かる。しかし、今は無理だ。時期を待て。今はとりあえず、明日の平和記念式典の取材をしてこい」
「……はい」
 電話を切った前田は、ベッドに座り込んだ。
 疲労と無力感が、どっと押し寄せてきた。
 しかし、前田の心には、強い確信があった。
 日本政府は、秘密裏に革命的な潜水艦を開発した。それは事実だ。
 いつか、必ずそれを証明する。
8
 その時、前田は気づいていなかった。
 ホテルの向かいのビルから、望遠レンズが前田の部屋を捉えていることを。
 撮影していたのは、観光客を装った外国人の男だった。
 男はカメラを下ろし、スマートフォンで誰かに連絡した。
「対象者を確認。前田香里奈、日本人記者。今夜、観音の工場で何かを目撃した模様」
 電話の向こうから、指示が来た。
「彼女の様子は?」
「動揺している。しかし、諦めてはいない様子だ」
「ということは——」
「ええ。彼女が見たものは、本物だということです。日本は、本当に何かを隠している」
 男は窓から前田の部屋を見上げた。
「記者が必死に追いかけるほどの秘密。それは、我々が求めていたものだ」
「了解。引き続き監視を続けろ。そして、彼女の動きを全て報告しろ」
「了解しました」
 通話が切れた。
 男は再びカメラを構え、前田の部屋を撮影し続けた。
 前田が見た「真実」——それが本物であろうとなかろうと、もはや関係なかった。
 重要なのは、前田が「それを真実だと信じている」という事実だ。
 そして、彼女の必死な様子が——世界中のスパイたちに、確信を与えていた。
 日本には、革命的な潜水艦がある。
 その虚像が、今、現実として世界に広がり始めていた。
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