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第6話「影の戦争」
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極秘会議から三日後。健司は王宮の一室で、選抜された若者たちと向き合っていた。
部屋には十二人の男女。年齢は二十代前半から三十代前半まで。すべて健司が三年間の改革の中で見出し、育ててきた人材だった。
彼らは皆、優秀だった。農業改革を実地で学んだ者、教育制度の構築に携わった者、商業振興に貢献した者――それぞれが特定の分野で実績を上げていた。
しかし今日、健司が彼らを呼んだ理由は別にあった。
「皆を集めたのは、重要な任務について話すためだ」
健司は立ち上がり、窓辺に歩いた。
「この任務は、極秘だ。今日ここで聞いたことは、決して外部に漏らしてはならない」
若者たちは緊張した面持ちで頷いた。
「お前たちには、マサール王国に行ってもらう」
部屋がざわついた。
「マサール、ですか?」
一人の青年、カイルが声を上げた。彼は農業改革で頭角を現した、健司の最初の弟子だった。
「そうだ。マサールには優れた教育機関がある。お前たちには、そこで学んでもらう」
「しかし、私たちはすでに健司様から多くを学びました」
別の若者、エリカが言った。彼女は教育制度の構築に尽力した、聡明な女性だった。
「それでも足りない」
健司は振り返った。
「マサールは我が国より遥かに進んでいる。技術も、知識も、制度も、すべてにおいてだ。お前たちには、それを学んでほしい」
若者たちは顔を見合わせた。
「ただし」
健司の声が低くなった。
「それだけではない」
健司は一同を見回した。
「お前たちの真の任務は、学ぶことではない。マサールに根を下ろすことだ」
「根を下ろす?」
「そうだ。マサールで学び、マサールで働き、マサールの一員になる。そして――」
健司は一呼吸置いた。
「マサールを、内側から変えていく」
部屋が静まり返った。
長い沈黙の後、カイルが口を開いた。
「つまり、工作員として送られるということですか」
「工作員という言葉は好きではない」
健司は首を横に振った。
「お前たちは、エルスールとマサール、両国の架け橋になるのだ。友好の象徴として」
「しかし実際には」
エリカが鋭く指摘した。
「マサールを弱体化させるために働く、と」
健司は黙って頷いた。
「なぜ、そんなことを」
若い男が立ち上がった。トーマスという名の、商業振興に携わっていた青年だった。
「マサールは友好国ではないのですか。なぜ、彼らを弱体化させなければならないのですか」
「座れ、トーマス」
健司の声は静かだが、命令的だった。
トーマスは渋々座った。
健司は部屋の中央に歩み寄り、テーブルに手をついた。
「いいか、よく聞け」
健司の目は、冷徹だった。
「戦争は、もう始まっている」
「戦争?しかしマサールとの間に」
「剣を交えるだけが戦争ではない」
健司は遮った。
「国と国が、生き残りをかけて競い合う。それが戦争だ」
健司は窓の外を見た。
「マサールは強大だ。今は友好的だが、それが永遠に続く保証はない。もし彼らが方針を変え、我々を攻めようと決めれば、我々は抵抗すらできない」
「だから、予防するのですか」
エリカが問うた。
「そうだ」
健司は頷いた。
「我々は時間を買う必要がある。マサールが強くなりすぎる前に、我々も力をつけなければならない。しかし、それには二十年かかる」
「その二十年の間に、マサールを弱体化させる」
「その通りだ」
健司は一同を見回した。
「これは、汚い仕事だ。誇れることではない。しかし、必要なことだ」
カイルが口を開いた。
「具体的に、何をすればいいのですか」
健司は少し考えてから、答えた。
「まず、マサールで学べ。本気で学べ。そして信頼を得ろ」
「それから?」
「帰化しろ。マサール人になれ。そして、その社会で重要な位置を占めろ」
健司は資料を取り出し、配布した。
「お前たちには、それぞれ異なる分野を担当してもらう。政治、教育、軍事、メディア、宗教、商業――」
若者たちは資料に目を通し始めた。
「そして、その分野で影響力を持ったら」
健司の声が冷たくなった。
「ある種の思想を広めてほしい」
「思想?」
「民主主義、平和主義、平等主義――美しい理想だ」
健司は皮肉な笑みを浮かべた。
「しかし、極端に推し進めれば、国家機能を麻痺させることができる」
エリカが資料を読みながら言った。
「これは……恐ろしい計画ですね」
「恐ろしいか?」
健司は彼女を見た。
「しかし、戦争よりは人道的だ。この方法なら、一人の兵士も死なずに済む」
「でも」
トーマスが抗議した。
「マサールの人々は、何も知らずに衰退していくのですよね。それは、正しいことなんですか」
健司は長い沈黙の後、答えた。
「正しいかどうかは、分からない」
若者たちは驚いた表情を見せた。健司が、自分の行いに疑問を示したのは初めてだった。
「しかし、必要なことだ」
健司は続けた。
「お前たちは、この三年間、私と共に働いてきた。農業改革で、多くの人が豊かになったが、一部の人は職を失った。教育改革で、子供たちは学べるようになったが、伝統は失われた。税制改革で、民衆の負担は減ったが、既得権益を持っていた者たちは損をした」
健司は一同を見回した。
「改革とは、常に誰かを犠牲にする。全員を幸せにすることなど、できない。できるのは、全体としての利益を最大化することだけだ」
「そして今、エルスール王国全体の利益のために、マサールを犠牲にする」
カイルが言った。
「そうだ」
健司は認めた。
「冷酷だと思うか?」
「思います」
エリカが即答した。
「しかし、理解もします」
彼女は健司を見た。
「私たちは、エルスール人です。この国を守らなければならない。たとえ、他国を犠牲にすることになっても」
健司は静かに頷いた。
「その覚悟があるなら、この任務を引き受けてくれるか」
若者たちは顔を見合わせた。
長い沈黙が流れた。
最初に手を上げたのは、カイルだった。
「私は、引き受けます」
次にエリカが頷いた。
「私も」
一人、また一人と、手が上がっていった。
最後まで躊躇していたトーマスも、ついに手を上げた。
「分かりました。やります」
しかし彼の目には、迷いが残っていた。
健司はそれを見逃さなかった。
「トーマス」
「はい」
「お前は、この任務に疑問を持っている」
「……はい」
トーマスは正直に答えた。
「マサールの人々も、私たちと同じ人間です。彼らを騙すことに、抵抗があります」
「その気持ちは理解する」
健司は言った。
「しかし、聞いてくれ」
健司は窓辺に歩み寄った。
「もし我々が何もしなければ、どうなると思う?」
「それは……」
「マサールはさらに強くなり、いずれ我々を脅威と感じるようになる。そして、攻めてくる。その時、正面から戦えば、数万の兵士が死ぬ。そして我々は負ける」
健司は振り返った。
「負ければ、この国の人々はどうなる?征服され、略奪され、奴隷にされるかもしれない」
「お前の家族も、友人も、この三年間で豊かになった農民たちも、学校に通い始めた子供たちも――すべて、失われる」
健司の声は静かだが、重かった。
「それを防ぐために、我々は動く。マサールの一部の人々を犠牲にして、我が国の数百万の人々を守る」
トーマスは唇を噛んだ。
「天秤にかければ、答えは明白だろう?」
健司は厳しい目でトーマスを見た。
「もし、それでも受け入れられないなら、この任務を断っても構わない。強制はしない」
トーマスは長い間、黙っていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「いえ……やります」
「本当に?」
「はい」
トーマスは決意を固めた目で健司を見た。
「私は、エルスール人です。この国のために働きます」
健司は満足そうに頷いた。
「よし。では、準備を始める」
健司は再びテーブルに戻った。
「出発は三ヶ月後だ。それまでに、各自、専門分野の知識を深めろ。そして、マサール語の習得を最優先しろ」
「三ヶ月で、マサール語を?」
「既に基礎は学んでいるはずだ。それを完璧にしろ。マサール人と区別がつかないレベルまで」
健司は厳しい口調で続けた。
「マサールでは、お前たちは常に監視されていると思え。言動のすべてが、評価の対象だ」
「表向きは、純粋な留学生だ。エルスールを良くしたいという思いで、マサールに学びに来た若者たち――そう振る舞え」
「そして、本当に学べ。形だけではなく、心から学べ。そうでなければ、信頼は得られない」
カイルが質問した。
「マサールで、私たちはどうやって連絡を取り合えばいいのですか」
「定期的に、暗号化された手紙を送ってもらう」
健司は別の資料を配った。
「これが暗号の基礎だ。完全に覚えろ。そして、絶対に人に見せるな」
若者たちは真剣な表情で資料を読み始めた。
「あと一つ」
健司は厳しい顔で言った。
「お前たちの中には、マサールで家族を持つ者も出てくるだろう。結婚し、子供が生まれるかもしれない」
若者たちは顔を上げた。
「その時、お前たちはどちらを選ぶ?エルスールへの忠誠か、マサールでの家族か」
誰も答えられなかった。
「今、答える必要はない」
健司は言った。
「しかし、いずれその選択を迫られる日が来るかもしれない。その時、覚悟を決めておけ」
部屋は重苦しい空気に包まれた。
健司は少し表情を和らげた。
「だが、過度に心配する必要はない。お前たちは、両国の友好のために働くのだ。マサールの人々を傷つけるわけではない」
「ただ、少しだけ――彼らの選択を、我々に都合の良い方向に誘導するだけだ」
健司は窓の外を見た。
「そして、二十年後。お前たちの働きで、両国は平和的な関係を維持できる。誰も血を流さず、誰も死なない」
「それが、最良の結果だ」
健司は振り返った。
「だから、胸を張れ。お前たちは、両国の平和のために働くのだ」
若者たちの表情が、少し明るくなった。
しかし健司は、心の中で苦笑していた。
これは自己欺瞞だ。平和のためではない。エルスールの生き残りのために、マサールを犠牲にする。それが真実だ。
しかし、その真実をすべて告げる必要はない。若者たちには、正義を信じて働いてもらった方が、効率的だ。
「では、今日はこれで終わりだ」
健司は言った。
「各自、準備を始めてくれ。また一週間後に集まろう」
若者たちは立ち上がり、一礼して部屋を出て行った。
最後に、カイルが残った。
「健司様」
「何だ」
「一つ、聞いてもよろしいですか」
「言ってみろ」
カイルは少し躊躇してから、口を開いた。
「健司様は、この計画を正しいと思っていますか」
健司は長い間、沈黙していた。
そして、静かに答えた。
「分からない」
カイルは驚いた。
「しかし、必要だと思っている」
健司は窓の外を見た。
「正しいかどうかは、歴史が判断するだろう。我々にできるのは、今この瞬間、最善だと思うことをするだけだ」
「そして、その結果を受け入れる」
健司はカイルを見た。
「お前は、自分の行いに誇りを持て。たとえそれが、後世から非難されることになっても」
カイルは深く頷いた。
「分かりました。私は、エルスールのために働きます」
「頼む」
カイルも部屋を出て行った。
一人残された健司は、椅子に座り、深く息を吐いた。
窓の外では、夕日が沈みかけていた。
影の戦争が、今、始まろうとしていた。
剣も使わず、血も流さず、しかし確実に、一つの国を滅ぼすための戦争が。
そしてその戦争を指揮するのは、健司自身だった。
健司は机の上の地図を見つめた。
エルスール王国と、マサール王国。
二つの国の運命が、これから大きく変わっていく。
そして、その変化を引き起こすのは、今日この部屋にいた、純粋な目をした若者たちだった。
健司は目を閉じた。
「俺は、正しいことをしているのか」
答えは出ない。
ただ、もう引き返せないことだけは確かだった。
部屋には十二人の男女。年齢は二十代前半から三十代前半まで。すべて健司が三年間の改革の中で見出し、育ててきた人材だった。
彼らは皆、優秀だった。農業改革を実地で学んだ者、教育制度の構築に携わった者、商業振興に貢献した者――それぞれが特定の分野で実績を上げていた。
しかし今日、健司が彼らを呼んだ理由は別にあった。
「皆を集めたのは、重要な任務について話すためだ」
健司は立ち上がり、窓辺に歩いた。
「この任務は、極秘だ。今日ここで聞いたことは、決して外部に漏らしてはならない」
若者たちは緊張した面持ちで頷いた。
「お前たちには、マサール王国に行ってもらう」
部屋がざわついた。
「マサール、ですか?」
一人の青年、カイルが声を上げた。彼は農業改革で頭角を現した、健司の最初の弟子だった。
「そうだ。マサールには優れた教育機関がある。お前たちには、そこで学んでもらう」
「しかし、私たちはすでに健司様から多くを学びました」
別の若者、エリカが言った。彼女は教育制度の構築に尽力した、聡明な女性だった。
「それでも足りない」
健司は振り返った。
「マサールは我が国より遥かに進んでいる。技術も、知識も、制度も、すべてにおいてだ。お前たちには、それを学んでほしい」
若者たちは顔を見合わせた。
「ただし」
健司の声が低くなった。
「それだけではない」
健司は一同を見回した。
「お前たちの真の任務は、学ぶことではない。マサールに根を下ろすことだ」
「根を下ろす?」
「そうだ。マサールで学び、マサールで働き、マサールの一員になる。そして――」
健司は一呼吸置いた。
「マサールを、内側から変えていく」
部屋が静まり返った。
長い沈黙の後、カイルが口を開いた。
「つまり、工作員として送られるということですか」
「工作員という言葉は好きではない」
健司は首を横に振った。
「お前たちは、エルスールとマサール、両国の架け橋になるのだ。友好の象徴として」
「しかし実際には」
エリカが鋭く指摘した。
「マサールを弱体化させるために働く、と」
健司は黙って頷いた。
「なぜ、そんなことを」
若い男が立ち上がった。トーマスという名の、商業振興に携わっていた青年だった。
「マサールは友好国ではないのですか。なぜ、彼らを弱体化させなければならないのですか」
「座れ、トーマス」
健司の声は静かだが、命令的だった。
トーマスは渋々座った。
健司は部屋の中央に歩み寄り、テーブルに手をついた。
「いいか、よく聞け」
健司の目は、冷徹だった。
「戦争は、もう始まっている」
「戦争?しかしマサールとの間に」
「剣を交えるだけが戦争ではない」
健司は遮った。
「国と国が、生き残りをかけて競い合う。それが戦争だ」
健司は窓の外を見た。
「マサールは強大だ。今は友好的だが、それが永遠に続く保証はない。もし彼らが方針を変え、我々を攻めようと決めれば、我々は抵抗すらできない」
「だから、予防するのですか」
エリカが問うた。
「そうだ」
健司は頷いた。
「我々は時間を買う必要がある。マサールが強くなりすぎる前に、我々も力をつけなければならない。しかし、それには二十年かかる」
「その二十年の間に、マサールを弱体化させる」
「その通りだ」
健司は一同を見回した。
「これは、汚い仕事だ。誇れることではない。しかし、必要なことだ」
カイルが口を開いた。
「具体的に、何をすればいいのですか」
健司は少し考えてから、答えた。
「まず、マサールで学べ。本気で学べ。そして信頼を得ろ」
「それから?」
「帰化しろ。マサール人になれ。そして、その社会で重要な位置を占めろ」
健司は資料を取り出し、配布した。
「お前たちには、それぞれ異なる分野を担当してもらう。政治、教育、軍事、メディア、宗教、商業――」
若者たちは資料に目を通し始めた。
「そして、その分野で影響力を持ったら」
健司の声が冷たくなった。
「ある種の思想を広めてほしい」
「思想?」
「民主主義、平和主義、平等主義――美しい理想だ」
健司は皮肉な笑みを浮かべた。
「しかし、極端に推し進めれば、国家機能を麻痺させることができる」
エリカが資料を読みながら言った。
「これは……恐ろしい計画ですね」
「恐ろしいか?」
健司は彼女を見た。
「しかし、戦争よりは人道的だ。この方法なら、一人の兵士も死なずに済む」
「でも」
トーマスが抗議した。
「マサールの人々は、何も知らずに衰退していくのですよね。それは、正しいことなんですか」
健司は長い沈黙の後、答えた。
「正しいかどうかは、分からない」
若者たちは驚いた表情を見せた。健司が、自分の行いに疑問を示したのは初めてだった。
「しかし、必要なことだ」
健司は続けた。
「お前たちは、この三年間、私と共に働いてきた。農業改革で、多くの人が豊かになったが、一部の人は職を失った。教育改革で、子供たちは学べるようになったが、伝統は失われた。税制改革で、民衆の負担は減ったが、既得権益を持っていた者たちは損をした」
健司は一同を見回した。
「改革とは、常に誰かを犠牲にする。全員を幸せにすることなど、できない。できるのは、全体としての利益を最大化することだけだ」
「そして今、エルスール王国全体の利益のために、マサールを犠牲にする」
カイルが言った。
「そうだ」
健司は認めた。
「冷酷だと思うか?」
「思います」
エリカが即答した。
「しかし、理解もします」
彼女は健司を見た。
「私たちは、エルスール人です。この国を守らなければならない。たとえ、他国を犠牲にすることになっても」
健司は静かに頷いた。
「その覚悟があるなら、この任務を引き受けてくれるか」
若者たちは顔を見合わせた。
長い沈黙が流れた。
最初に手を上げたのは、カイルだった。
「私は、引き受けます」
次にエリカが頷いた。
「私も」
一人、また一人と、手が上がっていった。
最後まで躊躇していたトーマスも、ついに手を上げた。
「分かりました。やります」
しかし彼の目には、迷いが残っていた。
健司はそれを見逃さなかった。
「トーマス」
「はい」
「お前は、この任務に疑問を持っている」
「……はい」
トーマスは正直に答えた。
「マサールの人々も、私たちと同じ人間です。彼らを騙すことに、抵抗があります」
「その気持ちは理解する」
健司は言った。
「しかし、聞いてくれ」
健司は窓辺に歩み寄った。
「もし我々が何もしなければ、どうなると思う?」
「それは……」
「マサールはさらに強くなり、いずれ我々を脅威と感じるようになる。そして、攻めてくる。その時、正面から戦えば、数万の兵士が死ぬ。そして我々は負ける」
健司は振り返った。
「負ければ、この国の人々はどうなる?征服され、略奪され、奴隷にされるかもしれない」
「お前の家族も、友人も、この三年間で豊かになった農民たちも、学校に通い始めた子供たちも――すべて、失われる」
健司の声は静かだが、重かった。
「それを防ぐために、我々は動く。マサールの一部の人々を犠牲にして、我が国の数百万の人々を守る」
トーマスは唇を噛んだ。
「天秤にかければ、答えは明白だろう?」
健司は厳しい目でトーマスを見た。
「もし、それでも受け入れられないなら、この任務を断っても構わない。強制はしない」
トーマスは長い間、黙っていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「いえ……やります」
「本当に?」
「はい」
トーマスは決意を固めた目で健司を見た。
「私は、エルスール人です。この国のために働きます」
健司は満足そうに頷いた。
「よし。では、準備を始める」
健司は再びテーブルに戻った。
「出発は三ヶ月後だ。それまでに、各自、専門分野の知識を深めろ。そして、マサール語の習得を最優先しろ」
「三ヶ月で、マサール語を?」
「既に基礎は学んでいるはずだ。それを完璧にしろ。マサール人と区別がつかないレベルまで」
健司は厳しい口調で続けた。
「マサールでは、お前たちは常に監視されていると思え。言動のすべてが、評価の対象だ」
「表向きは、純粋な留学生だ。エルスールを良くしたいという思いで、マサールに学びに来た若者たち――そう振る舞え」
「そして、本当に学べ。形だけではなく、心から学べ。そうでなければ、信頼は得られない」
カイルが質問した。
「マサールで、私たちはどうやって連絡を取り合えばいいのですか」
「定期的に、暗号化された手紙を送ってもらう」
健司は別の資料を配った。
「これが暗号の基礎だ。完全に覚えろ。そして、絶対に人に見せるな」
若者たちは真剣な表情で資料を読み始めた。
「あと一つ」
健司は厳しい顔で言った。
「お前たちの中には、マサールで家族を持つ者も出てくるだろう。結婚し、子供が生まれるかもしれない」
若者たちは顔を上げた。
「その時、お前たちはどちらを選ぶ?エルスールへの忠誠か、マサールでの家族か」
誰も答えられなかった。
「今、答える必要はない」
健司は言った。
「しかし、いずれその選択を迫られる日が来るかもしれない。その時、覚悟を決めておけ」
部屋は重苦しい空気に包まれた。
健司は少し表情を和らげた。
「だが、過度に心配する必要はない。お前たちは、両国の友好のために働くのだ。マサールの人々を傷つけるわけではない」
「ただ、少しだけ――彼らの選択を、我々に都合の良い方向に誘導するだけだ」
健司は窓の外を見た。
「そして、二十年後。お前たちの働きで、両国は平和的な関係を維持できる。誰も血を流さず、誰も死なない」
「それが、最良の結果だ」
健司は振り返った。
「だから、胸を張れ。お前たちは、両国の平和のために働くのだ」
若者たちの表情が、少し明るくなった。
しかし健司は、心の中で苦笑していた。
これは自己欺瞞だ。平和のためではない。エルスールの生き残りのために、マサールを犠牲にする。それが真実だ。
しかし、その真実をすべて告げる必要はない。若者たちには、正義を信じて働いてもらった方が、効率的だ。
「では、今日はこれで終わりだ」
健司は言った。
「各自、準備を始めてくれ。また一週間後に集まろう」
若者たちは立ち上がり、一礼して部屋を出て行った。
最後に、カイルが残った。
「健司様」
「何だ」
「一つ、聞いてもよろしいですか」
「言ってみろ」
カイルは少し躊躇してから、口を開いた。
「健司様は、この計画を正しいと思っていますか」
健司は長い間、沈黙していた。
そして、静かに答えた。
「分からない」
カイルは驚いた。
「しかし、必要だと思っている」
健司は窓の外を見た。
「正しいかどうかは、歴史が判断するだろう。我々にできるのは、今この瞬間、最善だと思うことをするだけだ」
「そして、その結果を受け入れる」
健司はカイルを見た。
「お前は、自分の行いに誇りを持て。たとえそれが、後世から非難されることになっても」
カイルは深く頷いた。
「分かりました。私は、エルスールのために働きます」
「頼む」
カイルも部屋を出て行った。
一人残された健司は、椅子に座り、深く息を吐いた。
窓の外では、夕日が沈みかけていた。
影の戦争が、今、始まろうとしていた。
剣も使わず、血も流さず、しかし確実に、一つの国を滅ぼすための戦争が。
そしてその戦争を指揮するのは、健司自身だった。
健司は机の上の地図を見つめた。
エルスール王国と、マサール王国。
二つの国の運命が、これから大きく変わっていく。
そして、その変化を引き起こすのは、今日この部屋にいた、純粋な目をした若者たちだった。
健司は目を閉じた。
「俺は、正しいことをしているのか」
答えは出ない。
ただ、もう引き返せないことだけは確かだった。
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