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第三部:信長包囲網と天運の行方
第20話 光秀、疑心暗鬼
しおりを挟む 俺、呉学人が京の周辺で己の方向音痴と格闘していた、まさにその頃。
京の西にそびえる愛宕山では、一人の男が、歴史を揺るがす謀反の決意を固めていた。
その男の名は、明智光秀
信長様からの信頼も厚く、織田家臣団の中でも随一の知性と教養を誇る名将である。
彼は、愛宕権現に戦勝を祈願するとして催した連歌会の席で、自らの決意を込めた一句を発していた。
── 時は今 天が下しる 五月かな ──
「時」は、明智家の祖先である土岐一族を指し、「天が下しる」は天下を治めることを意味する。
それは、主君・織田信長を討ち、自らが天下人となることを高らかに宣言した、謀反の狼煙であった。
山を下りた光秀は、丹波亀山城に集結させた自らの軍勢一万三千と合流した。
表向きの目的は、備中高松城の羽柴秀吉への援軍。
だが、真の目的地はただ一つ……
信長様が、わずかな手勢と共に滞在している、京の本能寺。
作戦は、完璧なはずだった……
信長様は、完全に無防備。
秀吉は遠く中国地方。
柴田勝家は北陸。
織田家の主力は、京から遠く離れている。
電光石火の速さで信長様を討ち、京を制圧すれば、天下は我が手中に。
光秀は、出陣を前に、腹心の家臣である斎藤利三らを、陣の近くにある人目につかない静かな寺院の一室に集め、最後の密議を交わしていた。
「……良いか。 皆の者、心して聞け。
我が敵は、本能寺にあり」
光秀のその言葉に、家臣たちは息を飲んだ。
謀反の計画が、その全貌を現した瞬間だった。
部屋には、極度の緊張感が張り詰めていた。
その、時だった。
寺の廊下を、一人の足軽が血相を変えて駆け込んできた。
「も、申し上げます!明智様!」
「何事だ、騒々しい!」
「そ、それが……寺の門前にて、旅の者が一夜の宿を借りたいと……」
「断れ!今、取り込み中であると!」
光秀が苛立たしげに言い放つが、足軽は震えながら首を横に振った。
「そ、それが……その旅の者……織田信長様の側近、『誤先生』こと、呉学人殿にございます!」
「――なっ!?」
部屋にいた全員が、凍りついた。
呉学人
その名は、今の明智光秀にとって、悪魔の囁きにも等しい響きを持っていた。
(呉学人だと……?)
光秀の背筋を、冷たい汗が滝のように流れた。
(なぜ、あの男が、この刻に、この場所にいる!?)
彼の脳裏に、これまでの呉学人にまつわる、数々の不可解な伝説が蘇る。
あり得べからざる勝利を呼び込み、天運さえも味方につけるという、神がかった軍師。
亡き竹中半兵衛が、「あの人は違う理で見ている」とまで評した、得体の知れない男。
「……して、呉学人殿の様子は」
光秀は、声を絞り出した。
「はっ、それが……お一人だけのようで、馬もひどく疲弊しており……『道に迷ってしまった』と、ひどく困り果てたご様子で……」
道に、迷った?
その言葉を聞いて、光秀の疑心は、確信へと変わった。
(……見え透いた嘘を!)
光秀の思考が、高速で回転を始める。
(道に迷っただと? 馬鹿な!
このわしが、中国攻めの援軍として出陣するこの日に、この丹波と京の境で、信長様の側近が、一人で、偶然、道に迷うなどということがあるものか!)
これは、罠だ !
いや、罠というより、警告だ。
(信長様は……! 我が心を、我が謀反の企てを、全てお見通しなのだ!)
全てが繋がった。
信長様は、俺の動きをすでに察知し、あえてこの男を、たった一人で放ったのだ。
軍勢で囲めば、こちらが警戒する。
だからこそ、最も無害で、最も不可解なこの男を……
「お前の考えは、全て分かっているぞ」という、無言の圧力をかけるために。
「どうされますか、御屋形様……!」
斎藤利三が、青ざめた顔で問う。
「……計画が、漏れていると……?」
家臣たちの間に、動揺が走る。
完璧だったはずの計画に、呉学人という、あまりにも不条理で、あまりにも巨大な「偶然」という名の楔が、打ち込まれたのだ。
光秀は、唇を噛みしめた。
寺の外の暗闇の向こうにいるであろう、一人のうっかり者の姿が、彼には全てを見通す信長様の、冷たい笑みを浮かべた巨大な幻影に見えていた。
決行か、中止か……
明智光秀の心は、疑心暗鬼という名の深い闇の中へと、急速に沈んでいくのだった……
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