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第四章: 内なる敵、外からの脅威
第19話 うつけの刃、信行包囲網
しおりを挟む父・信秀の葬儀での一件は、絶大な効果を発揮した。
ただし、それは林秀貞や柴田勝家といった宿老たちが期待した方向とは、真逆のベクトルにだ。
「もはや、上総介様が自ら家督を辞退されるのも時間の問題よ」
「うむ。あれでは、誰もついてはいくまい。我らが勘十郎様を盛り立て、一日も早く織田家を安泰に導かねばな」
彼らは俺を完全に「終わった人間」とみなし、その警戒をすっかり解いていた。
公然と信行を次期当主として扱い、自分たちの派閥こそが織田家の中心であると、何の疑いもなく信じ込んでいる。
その、あまりにも分かりやすい油断と慢心こそが、俺たちにとって最高の隠れ蓑となった。
うつけの仮面の下で、俺たちの反撃は静かに、そして緻密に始まっていた。
まず動いたのは、海(帰蝶)だった。
彼女の部屋は、さながら織田家を蝕む静かなる司令室と化していた。
「楓……林秀貞の屋敷に、こう噂を流しなさい。
『柴田様は、勘十郎様が御屋形様となられた暁には、清洲の城代職を望んでおられる』と」
「かしこまりました。柴田勝家様の元へは?」
「柴田様には、『林様は己の息のかかった商人を使い、津島の湊の利権を独占しようと画策している』と。
火種は、小さく、もっともらしく。あとは、彼らの猜疑心が勝手に燃え上がってくれます」
海は持ち前の冷静な分析力で、信行派の重臣たちの性格や欲望を正確に把握していた。
剛直だが単純な柴田、老獪で欲深い林。
二人の間に、ほんの少し不信の種を蒔くだけで、その結束には容易く亀裂が入る。
さらに、海は信行派に与する中堅どころの家臣で、経済的に困窮している者たちをリストアップしていた。
「この者たちには堺の商人を介して、わたくしからの『内々の援助』として金を。見返りは求めません。
ただ、『美濃の姫君は、貴方様の武勇を高く評価しておられる』とだけ伝えさせなさい」
直接的な買収ではない。
だが、金の力と「正室様が自分に注目している」という事実は、彼らの心に織田家への忠誠と信行派への疑念と云う、二つの楔を打ち込むことになるだろう。
一方、城の奥では、空(吉乃)が太陽のような笑顔を武器に情報網を広げていた。
彼女の周りには、いつの間にか侍女たちの輪ができている。
「ねえ、吉乃様。 勘十郎様の御側仕えの者が申しておりました。 最近の勘十郎様、林様たちに無理を言われて、お悩みのご様子だとか」
「まあ、そうなの? 勘十郎様、お可哀想に……」
空は、心から同情するような表情で相槌を打ちながら、その情報を正確に記憶する。
彼女が開くお茶会は、もはや奥様方の最高の娯楽であり、同時に生々しい情報が行き交う交換所となっていた。
誰々の旦那様が戦で手柄を立てた。
誰々が新しい側室を欲しがっている……
そんなゴシップに混じって、信行自身の精神的な動揺や家臣たちの妻たちの不満といった、貴重な「生きた情報」が、空の元へと集まってくる。
それは海の策略を、より人間的な側面から補強する重要なピースだった。
そして、その情報を元に表舞台で動くのが俺の役目だ。
俺は相変わらず、うつけの奇行を続けていた。
だが、その行動には全て明確な意図があった。
例えば、海の報告で忠誠心が揺らいでいると分かった家臣を狩りの獲物を分け与えるという名目で、わざと皆の前で激賞する。
逆に信行派の急先鋒となっている男の屋敷の前で、泥酔したフリをして意味不明な悪態をついてみせる。
一つ一つは、ただのうつけの気まぐれにしか見えない。
だが、その行動は確実に信行派の内部に混乱と不信感を生み出していた。
そして何より力を入れたのが、若い世代との交流だ。
「おう、又左! 今日は相撲じゃ!
俺に勝ったら、この太刀をくれてやる!」
俺は、前田利家をはじめとする若い小姓や馬廻り衆を集め稽古に明け暮れた。
身分を問わず、実力のある者とは直接言葉を交わし、その働きを正当に評価した。
旧臣たちが眉をひそめる一方で、俺の型破りなやり方は、旧来のしがらみに縛られない若者たちの心を強く惹きつけていった。
そんなある日の午後。
利家たちと槍の稽古を終え汗を拭っていると、空が頬を膨らませてやってきた。
「もー、大ちゃん!
最近、又左さんたち若い子ばっかり可愛がって!
わたしのことも、もっと構いなさいよー!」
そう言って、俺の腕にぷにぷにとした感触を押し付けながら絡んでくる。
「馬鹿、こっちはな、俺の親衛隊を育成してるんだよ! 邪魔すんな!」
「えー、わたしも親衛隊に入れてよー!」
そんなくだらないやり取りをしていると、背後から、静かだが有無を言わせぬ声がした。
「……殿。心を掴むのも結構ですが、頭脳を磨くこともお忘れなく」
振り返ると、いつの間にか海が分厚い書物の束を抱えて立っていた。
「今宵は、孫子の兵法について、わたくしがご教授いたします。よろしいですね?」
「げっ……マジかよ」
「えー、また難しいお勉強ー?」と、空が呻く。
だが結局、その夜……俺たちは三人、一つの火を囲んで、海の兵法講義を受けることになった。
まるで、現代で期末試験の勉強会をしていた、あの頃のように……
俺たちの見えない刃は、着実に信行派の足元を切り崩していた。
かつて一枚岩に見えた派閥は、今や疑心暗鬼と内部分裂の兆候を孕み始めている。
弟の信行もまた、家臣たちの暴走と兄である俺の不可解な行動との間で、その心を揺らしていた。
うつけの仮面を被った俺は、静かに笑う。
お前たちは、まだ気づいてさえいない。
俺たちが張り巡らせた見えない包囲網が、すぐそこまで狭まっていることに。
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