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1 運命の(?)再会
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「でもあの勇樹がカメラマンになってるなんてねえ」
奈瑠はしみじみと言ってからジョッキに口をつけた。
「二十二のときに大学辞めて、写真の世界に飛び込んだ」
「二十二で辞めたって、じゃあ卒業間近でってこと? よくお母さんがそんなこと許したね」
「許すわけないじゃん。勘当もんだよ」
「でもお母さんの気持ちもわかるかも。だって卒業まで待ったってそんなに先じゃなかったわけだし」
「そうだけど、どうしてもそうしたかったんだ。しかも俺は大学で写真のことを勉強してたわけじゃないから、今思えば無謀すぎるけど、あのときはそんなこと全く考えなかった。とにかくスタジオとかカメラマンの事務所とかの求人受けまくったんだ。ど素人のくせに。そしたら奇跡的に採ってくれる所があってさ。あるカメラマンのアシスタントだったんだけど、最初はそりゃあもう怒鳴られっぱなしで」
勇樹の口調からは、後悔など一つもない、揺るぎない信念みたいなものが伝わってきた。どちらかというと内気で、自分から何かをしたがる子ではなかったのに。
「あとになって、あのときなんで俺なんか採ってくれたんですかって聞いたら、目が血走ってて怖かったから、なんて言ってたけど。実はその人も、俺みたいな道を歩んでカメラマンになった人でさ。二十五歳で脱サラして写真の専門学校に行ったけど、授業料が払えなくなって途中でやめたんだって。それでも皿洗いとかしながらどうにかこの業界の仕事にありついて、苦労して今に至る、みたいな。でもその人が言うには、写真の学校に行って勉強したからって、一線ですぐうまくできるもんじゃないって。とにかく実際の感覚っていうか、実践の積み重ねで覚えるしかないんだ、って。だからへたに多少の知識とか経験があってプライドの高いやつより、何にも知らないけどやる気があるやつを採用したんだって言ってた」
勇樹はそのカメラマンのアシスタントを四年近く務めたあと、独立したのだそうだ。
「ねえ、こんな言い方はあれだけど、フリーのカメラマンって、ちゃんと食べていけてるの?」
ずっと大手企業で安定した給料をもらっていた奈瑠からしてみれば、フリーのカメラマンなどという職業は雲を掴むような感覚でしかない。
「安定を求めるのは難しいかもね。カメラマンって言ったってピンキリで、たくさんの人が知ってるような有名写真家もいれば、それこそバイトしながらやってるやつもいるよ」
「勇樹はどうなの?」
「今のところはなんとかね。ホントに最初何にも知らなかったんだけど、俺をアシスタントに使ってくれてた人って、実はこの業界では結構有名な人でさ。その人のアシスタントをしてたことで顔を覚えてもらったし、信頼してももらえる。そのおかげで撮影依頼がきて、そしてまた次に繋げられる、みたいな。自分でもホント強運だと思うよ。もちろん、仕事を選んだりできる立場じゃないし、贅沢な暮らしはできないけど、バイトはしないで済んでる。俺の場合、家賃払わなくていいし」
「今もお母さんと一緒に住んでるんだ?」
勇樹は横に首を振った。
「母さんとはあんまり会ってない。俺ほら、勘当もんのバカ息子だから」
「じゃあ勇樹今どこに住んでるの?」
「ばあちゃんち。母親の実家。ずっとそうだよ。高校生の頃から。母さんは自分のマンションで、俺はばあちゃんちで暮らしてた。高校がばあちゃんちからの方が近かったんだ。だからそれを口実にして、俺はばあちゃんちに住んでた。ばあちゃんっ子だったし」
そういえば昔、一緒に勇樹のお祖母ちゃんの家へ遊びに行ったことがあった。たしかそのときにはもうお祖父ちゃんは亡くなっていた。一度だけだったから、詳しい場所も、お祖母ちゃんがどんな顔だったかも覚えてはいないけれど、古い平屋の一軒家だったことだけはなんとなく覚えている。
「お祖母ちゃんはお元気なの?」
勇樹は今流し込んだビールをごくんと飲み込んでから、また横に首を振った。
「一昨年亡くなった」
「そうだったんだ」
奈瑠も中身が残り少なくなった二杯目の中ジョッキを口に運んだが、唇の手前でふと止めた。
「じゃあ、勇樹今一軒家に一人で住んでるの?」
「そうだよ」
さっと手を伸ばし、枝豆の皿に伸びた勇樹の手を掴む。
「何だよっ」
勇樹はびくっとして手を引っ込めた。
「一軒家なら空いてる部屋あるでしょ? しばらく置いてくれない?」
「何を」
「わたしを」
「なんで」
「家がなくなるからよ」
「はあ?」
どうしてそんなことになったのかは「大人の事情」としか話さなかったが、仕事を辞めたこと、今住んでいるマンションは四月いっぱいで出なくてはならないこと、でもできれば実家には帰りたくないことなどを、切々と勇樹に訴えた。
「ね、だからお願い。住む部屋が見つかるまででいいの」
「見つかるまでって、まだ今のマンション出るまでに一ヶ月あるんだろ?」
「そうだけど、今のマンションは早く出たいの」
それは本音だった。結婚が破談になったあと一度は契約更新しようとしたものの、やはり今の部屋にいてはどうしても過去から抜け出せない。なのに新しい部屋を探そうとしなかったのは、気力を失い切っていたからだけではなく、まだどこかで過去にすがっていたからかもしれない。
「あ、そういえば交番のおまわりさんが言ってた。遺失物法っていうのがあってね、落とし物を拾ってあげた人は、落とし主からお礼をもらう権利があるんだって。ということは、わたしは勇樹からお礼を貰えるってことでしょ? だからお礼として、しばらく置いてくれるってことで」
「その権利を放棄してるから、名前も連絡先も教えられませんって言われたけど?」
「弟ならお姉ちゃんが困ってるんだから助けなさいよ。だいたいねえ、さっきから姉ちゃん姉ちゃんって言ってるけど、昔はちゃんとお姉ちゃんって言ってたでしょ」
「アホか。この歳にもなってお姉ちゃんなんて呼べるかよ。それにだいたいさ、しばらく置いてくれとか、十五年ぶりに会っていきなり言う? 普通」
不思議な感覚だった。見た目も声も話し方も、全く変わっている。なのにたった二年だけ弟だった勇樹は、十五年たってもちゃんと弟だった。
勇樹と話している間は、懐かしくて、楽しくて、辛いことも忘れていた。
奈瑠はしみじみと言ってからジョッキに口をつけた。
「二十二のときに大学辞めて、写真の世界に飛び込んだ」
「二十二で辞めたって、じゃあ卒業間近でってこと? よくお母さんがそんなこと許したね」
「許すわけないじゃん。勘当もんだよ」
「でもお母さんの気持ちもわかるかも。だって卒業まで待ったってそんなに先じゃなかったわけだし」
「そうだけど、どうしてもそうしたかったんだ。しかも俺は大学で写真のことを勉強してたわけじゃないから、今思えば無謀すぎるけど、あのときはそんなこと全く考えなかった。とにかくスタジオとかカメラマンの事務所とかの求人受けまくったんだ。ど素人のくせに。そしたら奇跡的に採ってくれる所があってさ。あるカメラマンのアシスタントだったんだけど、最初はそりゃあもう怒鳴られっぱなしで」
勇樹の口調からは、後悔など一つもない、揺るぎない信念みたいなものが伝わってきた。どちらかというと内気で、自分から何かをしたがる子ではなかったのに。
「あとになって、あのときなんで俺なんか採ってくれたんですかって聞いたら、目が血走ってて怖かったから、なんて言ってたけど。実はその人も、俺みたいな道を歩んでカメラマンになった人でさ。二十五歳で脱サラして写真の専門学校に行ったけど、授業料が払えなくなって途中でやめたんだって。それでも皿洗いとかしながらどうにかこの業界の仕事にありついて、苦労して今に至る、みたいな。でもその人が言うには、写真の学校に行って勉強したからって、一線ですぐうまくできるもんじゃないって。とにかく実際の感覚っていうか、実践の積み重ねで覚えるしかないんだ、って。だからへたに多少の知識とか経験があってプライドの高いやつより、何にも知らないけどやる気があるやつを採用したんだって言ってた」
勇樹はそのカメラマンのアシスタントを四年近く務めたあと、独立したのだそうだ。
「ねえ、こんな言い方はあれだけど、フリーのカメラマンって、ちゃんと食べていけてるの?」
ずっと大手企業で安定した給料をもらっていた奈瑠からしてみれば、フリーのカメラマンなどという職業は雲を掴むような感覚でしかない。
「安定を求めるのは難しいかもね。カメラマンって言ったってピンキリで、たくさんの人が知ってるような有名写真家もいれば、それこそバイトしながらやってるやつもいるよ」
「勇樹はどうなの?」
「今のところはなんとかね。ホントに最初何にも知らなかったんだけど、俺をアシスタントに使ってくれてた人って、実はこの業界では結構有名な人でさ。その人のアシスタントをしてたことで顔を覚えてもらったし、信頼してももらえる。そのおかげで撮影依頼がきて、そしてまた次に繋げられる、みたいな。自分でもホント強運だと思うよ。もちろん、仕事を選んだりできる立場じゃないし、贅沢な暮らしはできないけど、バイトはしないで済んでる。俺の場合、家賃払わなくていいし」
「今もお母さんと一緒に住んでるんだ?」
勇樹は横に首を振った。
「母さんとはあんまり会ってない。俺ほら、勘当もんのバカ息子だから」
「じゃあ勇樹今どこに住んでるの?」
「ばあちゃんち。母親の実家。ずっとそうだよ。高校生の頃から。母さんは自分のマンションで、俺はばあちゃんちで暮らしてた。高校がばあちゃんちからの方が近かったんだ。だからそれを口実にして、俺はばあちゃんちに住んでた。ばあちゃんっ子だったし」
そういえば昔、一緒に勇樹のお祖母ちゃんの家へ遊びに行ったことがあった。たしかそのときにはもうお祖父ちゃんは亡くなっていた。一度だけだったから、詳しい場所も、お祖母ちゃんがどんな顔だったかも覚えてはいないけれど、古い平屋の一軒家だったことだけはなんとなく覚えている。
「お祖母ちゃんはお元気なの?」
勇樹は今流し込んだビールをごくんと飲み込んでから、また横に首を振った。
「一昨年亡くなった」
「そうだったんだ」
奈瑠も中身が残り少なくなった二杯目の中ジョッキを口に運んだが、唇の手前でふと止めた。
「じゃあ、勇樹今一軒家に一人で住んでるの?」
「そうだよ」
さっと手を伸ばし、枝豆の皿に伸びた勇樹の手を掴む。
「何だよっ」
勇樹はびくっとして手を引っ込めた。
「一軒家なら空いてる部屋あるでしょ? しばらく置いてくれない?」
「何を」
「わたしを」
「なんで」
「家がなくなるからよ」
「はあ?」
どうしてそんなことになったのかは「大人の事情」としか話さなかったが、仕事を辞めたこと、今住んでいるマンションは四月いっぱいで出なくてはならないこと、でもできれば実家には帰りたくないことなどを、切々と勇樹に訴えた。
「ね、だからお願い。住む部屋が見つかるまででいいの」
「見つかるまでって、まだ今のマンション出るまでに一ヶ月あるんだろ?」
「そうだけど、今のマンションは早く出たいの」
それは本音だった。結婚が破談になったあと一度は契約更新しようとしたものの、やはり今の部屋にいてはどうしても過去から抜け出せない。なのに新しい部屋を探そうとしなかったのは、気力を失い切っていたからだけではなく、まだどこかで過去にすがっていたからかもしれない。
「あ、そういえば交番のおまわりさんが言ってた。遺失物法っていうのがあってね、落とし物を拾ってあげた人は、落とし主からお礼をもらう権利があるんだって。ということは、わたしは勇樹からお礼を貰えるってことでしょ? だからお礼として、しばらく置いてくれるってことで」
「その権利を放棄してるから、名前も連絡先も教えられませんって言われたけど?」
「弟ならお姉ちゃんが困ってるんだから助けなさいよ。だいたいねえ、さっきから姉ちゃん姉ちゃんって言ってるけど、昔はちゃんとお姉ちゃんって言ってたでしょ」
「アホか。この歳にもなってお姉ちゃんなんて呼べるかよ。それにだいたいさ、しばらく置いてくれとか、十五年ぶりに会っていきなり言う? 普通」
不思議な感覚だった。見た目も声も話し方も、全く変わっている。なのにたった二年だけ弟だった勇樹は、十五年たってもちゃんと弟だった。
勇樹と話している間は、懐かしくて、楽しくて、辛いことも忘れていた。
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