弟がいた時間(きせつ)

川本明青

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2 弟の彼女

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父は昔から奈瑠のすることに何も口を出さなかったし、反対することもなかった。あまり一緒に過ごすこともなかったから、深く話をした記憶もない。父の前ではなぜか、冷静で行儀のいい娘でいなければいけないような気がしていた。

中学二年のとき、捨ててあった子犬を連れて帰って飼いたいと言うと、父が異論を唱えることはなかった。その代わり、思ってもみなかったことを口にした。

「お父さんからも話があるんだ。お父さん、再婚しようと思うんだ。向こうも再婚で子供がいてね。奈瑠に弟ができるよ」

 何と言ったらいいかわからなかった。一瞬父の顔を見たけれど、すぐに胸に抱いていた子犬に視線を落とし、その小さな体をなでた。

父は「どう思う?」とは聞かなかった。これはもう決まったことなのだ。奈瑠が勝手に飼うと決めて子犬を連れて帰ったように、父の再婚に、奈瑠の気持ちや意見など入る余地はないのだ。

反抗的な態度に出たりはしなかったけれど、決していい気はしなかった。突然母親と弟ができると言われても。けれどどの道受け入れるしかないのだ。

もし嫌な人達だったとしても、自分にはこの子がいる。この子は、自分の味方でいてくれる。奈瑠は出会って間もない子犬を、やさしくやさしく撫で続けた。



父に再婚のことを告げられてから二週間ほどして、顔合わせの食事会みたいな形で、新しく家族になるという二人と初めて会った。母親になる人は、上質そうなベージュのスーツをすらりと着こなしていて、いかにも仕事をしている人、といった感じだった。

化粧品メーカーに勤めていると聞いていたけれど、想像していたほど化粧は濃くなかった。でも友達のお母さんのように、所帯じみているからこその安らぎみたいなものは感じられなかった。

クールというわけでもないけれど、親しみやすい印象ではなかった。弟になる子は奈瑠よりも四つ年下で、小学四年生だった。

母親に促されて、「勇樹です。よろしくお願いします」と小さな声で挨拶した。四年生にしては小柄で、もう少し幼く見えた。


二人が奈瑠の家に引っ越してきたのは、それから一ヶ月半後、やっと梅雨が明けて、夏の日差しが照りつけ始めた頃だった。

引っ越し荷物がまだ片付かないうちから、父も母も、今までどおり自分のペースで仕事をしていた。父同様、母もあまり家にはいない生活らしく、新しく母親ができたという感じはしなかった。

ただものすごく変わったのは、弟ができたということだった。ずっと一人で過ごしてきた時間を、小学生の男の子と一緒に過ごすことになったのだ。お互いをあまり知らないうちから、二人して放り出された格好だ。当然、どうしたらいいのか戸惑った。でも奈瑠以上に、弟の方が戸惑っているのがわかった。弟は知らない人たちと家族になるために知らない家に連れて来られ、転校も余儀なくされた。つまり、友達とも離れ離れになったのだ。なのに母親にもそばにいてもらえない。きっとものすごく心細いに違いないのだ。

「ねえ、犬好き?」

引っ越しから数日後、奈瑠はそう話しかけた。先に学校から帰って来て、ソファに座り、所在無げに庭を眺めていた弟は、こくんとうなずいた。

「実はねえ、わたし犬飼ってるんだ」

弟の目が微かに光を帯びたのがわかった。

「わたしの部屋にいるの。見に来る?」

弟は「うん」と言ってソファから立ち上がった。

学校に行っている間、子犬は昔から何かとよくしてくれる隣のおばさんに預かってもらっていた。おばさんは犬好きで、飼い方についてもいろいろと教えてくれた。なかなか教わったとおりにはいかなかったけれど、自分なりに一生懸命世話をしていた。

「入って」

 部屋に弟を招き入れた。二階の自分の部屋に犬用のサークルを置いて、そこに子犬を入れてあるのだ。

「どう? かわいいでしょ」

弟の頬が少し緩んだ。

「抱っこしていいよ」

「いいの?」

奈瑠は子犬を抱き上げ、そっと弟に渡した。

「わたし、犬飼うのこの子が初めてなの。隣のおばちゃんにいろいろ教えてもらってるんだけど、だんだん大きくなってきて、けっこう大変。キミ、犬飼ったことは?」

弟は横に首を振って小さな声で言った。

「お母さんがダメだって言うから」

「そうなんだ? でもこの子はキミたちより先にうちの子だったんだから、ダメとは言わないよ。だから一緒にお世話してくれない? 二人で飼おうよ」

弟は少し戸惑ったような顔で奈瑠を見た。

「二人なら、なんとかなると思わない?」

弟は頬に現れたうれしさをごまかすように口をきゅっと結んで、こくんとうなずいた。

「それとさ……、わたしたち姉弟って言われてもピンとこないけど、キミのこと、勇樹って呼んでいい? 早く本当の姉弟みたいに仲良くなりたいし。だからキミも、わたしのことお姉ちゃんって呼んでよ」

弟は今度は真剣な顔でうなずいた。とても真面目そうな子だと思った。

「この子の名前、ぽんたって言うの。かわいいでしょ」

ちょっぴり緊張している勇樹の気持ちをほぐすように、さっきよりも明るく言った。捨ててあるぽんたを初めて見たとき、奈瑠にはオスなのかメスなのか見分けがつかなかったが、お腹がぽんと出ていたので直感でそう決めたのだった。後で隣のおばさんに聞いたらオスだということだったので変えずにすんだ。

「なんかたぬきみたい」

勇樹は少し笑いながらそう言って、ぎこちなく胸に抱いたぽんたの顔を覗き込んだ。

「そうだね。たぬきの名前みたいだね」

勇樹が笑ったのがうれしくて、奈瑠も笑った。

その後、サークルはリビングに移した。勇樹は奈瑠よりも帰りが早いので、帰ったら面倒をみるということで、ぽんたを隣のおばさんに預かってもらうのはやめた。

二人して散歩に連れて行ったり、自分たちも泡だらけになりながらシャンプーしてあげたり、ぽんたがいることで会話も増え、二人の距離は縮まった。

元々境遇が似ていたということもあっと思う。聞けば、両親は勇樹が小さい頃に離婚したが、母親は仕事であまり家におらず、代わりにお手伝いさんが面倒を見てくれていたのだという。

奈瑠も全く同じだった。中学に上がってすぐ、それまで長年来てくれていたお手伝いさんが辞めることになったのを機に、一人で大丈夫だからと次のお手伝いさんは断ってもらった。それまではだいたい夜の八時ごろまでお手伝いさんが家にいて、洗濯やら掃除やら食事の準備やら、家事全般のことをしてくれていた。どちらかというと、父よりもお手伝いさんの方が家族みたいだった。

奈瑠一人になってからは、食事も、コンビニでお弁当を買ってきたり、インスタントやレトルトの食品を食べたりしていたが、勇樹が来てからは、それまでほとんどしたことのなかった料理に挑戦するようになった。昔、お手伝いさんがやっているのを見て「やりたい」と言ったことがあったけれど、ケガでもしたら大変だからと手伝わせてはもらえなかった。

まず最初は、『誰でも出来る! カンタン料理』とか、『こどもがよろこぶレシピ集』とかいう本を買ってきて、見ながらやってみた。けれど全然うまくいかなかった。犬の世話もそうだけれど、きちんと言われたとおりにやっているのに、その通りにはならない。いくらやってもダメなので、料理が得意だという友達のお母さんに頼んで、実際一緒に料理しながら教えてもらったりした。まだ中学生だったからそんなにたいそうなものは作れなかったけれど、それでもカレーやハンバーグなど、子供の好きそうなメニューはいくつか作れるようになった。もちろん失敗もするし、出来合いのものをスーパーで買って来ればよかったと思うことも多々あったけれど、勇樹はよろこんで食べてくれた。あんまり美味しくなくても、二人で一緒に食べると楽しかった。

勇樹の新しい友達が家に遊びに来たときは、ジュースやお菓子を出してもてなした。

友達が「勇樹のお姉ちゃん、優しくてうらやましいな。うちのお姉ちゃんと全然違うよ」と言っているのが聞こえてきて、こっそりガッツポーズをしたりもした。

自分の中に憧れもあったのだと思う。こんなお姉ちゃんがいたらいいな、素敵だな、という理想像みたいなもの。もしかしたら半分くらいはままごと気分だったのかもしれない。本当の姉弟ではないから、あんな風にできたのかもしれない。それでもやっぱり、お姉ちゃんお姉ちゃんと慕ってくる勇樹がかわいかったし、ずっと一緒に暮らしたいと思っていた。

だが、三度目の夏を待たずして、そんな生活は終わりを告げた。親同士が離婚したのだ。そもそも中学生の奈瑠の目から見ても、なんであの二人が結婚する必要があったのかわからなかった。共通の知人を通じて知り合ったのだそうだが、結婚当初から二人とも仕事が中心の生活で、家族でどこかへ出かけるなんてこともなかった。けれどそんなことはどうでもよかった。そんなに仕事がしたいのならすればいい。ただ、勇樹との生活を壊してほしくなかった。それだけだった。なのに、それはかなわなかった。

始まるときもそうだったように、終わりも突然やってきた。

離婚すると聞かされてから一週間もたたないうちに、母と勇樹は家を出て行った。学校から帰ると荷物が無くなっていたから、勇樹とちゃんとお別れも言えなかった。ものすごく寂しかったのを覚えている。

父に聞いても、新しい連絡先は教えてもらえなかった。

父も知らないと言っていたのだったが、本当にそうだったのかもしれない。奈瑠はぽんたを抱きしめて泣いた。ぽんたも、勇樹がいなくなったことがわかるのか悲しそうだった。


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