弟がいた時間(きせつ)

川本明青

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3 蚊帳の外

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居候するようになってから、食事は奈瑠が作るようになった。今まで勇樹は、朝食はたまに作っても、夕食は外で済ませたり、何か買って帰ったりしていたようだった。自分は不規則だから、姉ちゃんは自分の分だけ考えていればいいと言ってくれたけれど、無理に頼んで置いてもらっているという負い目もあるし、勇樹に少しでもバランスのいい食事を摂らせてあげたいという思いもある。それに、何もせず、生きているのか死んでいるのかわからないような自堕落な生活に嫌気がさしていたから、誰かのために何かするというのは楽しくもあるのだ。

たまにネットで部屋探しのサイトを覗いてみたりもするのだが、まだ本腰を入れて探そうという気にはなっていない。とにかく今は、「しばらくここでゆっくりすればいいよ」という勇樹の言葉に甘えさせてもらっている。

「別に無理して帰ってから食べなくてもいいんだよ。わたしが勝手に作ってるだけなんだから。残ったら残ったで次の日のお昼にでも食べるし」

 勇樹にはそう言ってあるが、「今日はメシいらない」と言って出かけた日以外は、たいていは帰ってから奈瑠の作ったものを食べている。帰りは遅いことが多いので一緒に食べることはそうないものの、「ただいま」と帰って来て、自分の作った料理を食べてくれる誰かがいるというのはいいものだった。

少し前までは、それは保之だった。一緒に暮らしていたわけではないけれど、週末にはどちらかの家に泊まりに行って、よく手料理を振る舞った。保之が作ってくれることもあって、彼は基本的にイタリアンが好きだったから、輸入物の食品を多く取り扱っているスーパーに二人で一緒に買い物に行ったりした。

和食はあまり自信がないけれど、和食党の勇樹の口に合うものをと思い、ネットでレシピを検索し、それを元に食材を買いに行く。なんだか子供の頃を思い出して、そんな生活を楽しんでいた。


その日はメニューを決めずに買い物に出た。よく行くスーパーの特売日だったので、行ってから決めようと思ったのだ。

店に着くとまず、小分けにして持って来たペットボトルのキャップを入り口付近に設置してある回収ボックスに入れた。勇樹が大量にためこんでいるものだ。そこのスーパーに行くときは必ず少しずつ持っていくようにしていたから、台所にあるキャップの量はだいぶ減った。

店内に入るといつもより人が多かった。野菜売り場から順に見て回って、キャベツやほうれん草、豆腐、ひき肉など、二、三日先まで見越して買い物かごに入れていく。鮮魚コーナーの新鮮そうなアジを見て、“顔ごと”塩焼きにするのもいいかも、といつかの勇樹の発言を思い出していると、ふいに声をかけられた。

「久しぶり。あれ? 家この辺じゃなかったよね?」

 声をかけてきたのは、この前まで勤めていた会社の先輩で、谷さんという女性だった。奈瑠が辞めるときには違う部署だったが、以前一緒だったこともあって、会えば何かと言葉を交わす間柄だった。まだ仕事中の時間のはずだが、水色の保育園の格好をした息子を連れて買い物をしていた。

「ちょっと前に引っ越したんです。こっちの方に。谷さんはどうしたんですか? こんな時間に」

「この子を病院に連れて行ってたの」

 谷さんは隣にいる息子を見下ろした。

「病院? どうかしたんですか?」

「一週間ちょっと前にね、ブランコから落っこちて頭を怪我しちゃったの。それで何針か縫って、今日やっと抜糸でね。さっき終わったとこ」

「ねえママぼくお菓子ほしい」

「お菓子は買わないって言ったでしょ」

「えーやだほしい。お腹空いたお菓子ほしい~」

「わかったわかったから。あとで買ってあげるからちょっとだけ待ってて」

 谷さんは子供を諫めると、他の買い物客の邪魔にならないよう少し場所をずれながら聞いた。

「で、その後どう? 少しは落ち着いた?」

「ええ、まあ。まだ次の仕事も決まってないし、何にもない状態ですけど」

「慌てることないわよ。辛いことがあったら、次は必ずいいことがあるって」

 奈瑠は苦笑いした。

「でもホント、あの人たちは自業自得よね。人を騙したり傷つけたりして幸せになれるわけないのよ」

 なんとなく気になる言い方だ。

「自業自得って、何がですか?」

「何がって、誰が見てもそうじゃない。沢井さんのこと傷つけておいてさ、結局……」

 谷さんは一度話を止めてからまた口を開いた。

「沢井さん、もしかして知らないの?」

「何をですか?」

「あの二人、別れたでしょ? 彼のバンコク行きも無しになったみたいだし」

「えっ?」

「本当に知らないの?」

 谷さんの顔は少し強張っていた。

「保之と彼女が別れたってことですか? 本当に? どうして?」

「それは……」

 谷さんは戸惑っているようだったが、今さら話を引っ込められるはずもなく、少し声を落として続けた。

「あの子の妊娠、嘘だったんだって。診断書もエコー写真も偽物で、彼のこと騙してたみたいよ。それがバレて、結局別れたんだって」

別れ際、谷さんは何か言っていたけれど、奈瑠は軽く会釈をするのが精いっぱいだった。ショックで買い物どころではなくなったが、かごの中身をいちいち元に戻す気にもなれずそのままレジへ持って行った。


家に帰ると玄関にへたり込んだ。本当だろうか。本当なのだとしたら、保之はなぜひとことも言ってくれないのだろう。周りは知っていて当事者の自分だけ蚊帳の外なんて許せない。……違う。自分は当事者なんかじゃない。別れたのは保之とあの女であって、すでに自分には関係のないことで……。

とにかく、他の人にも話の真偽を確かめてみようと思った。もしかしたら谷さんの勘違いかもしれないし、ただの噂話かもしれない。奈瑠は会社時代の同僚にメールを送った。プライドがどうとか、同僚からどう思われるかなどどうでもよかった。そんなことより、事実を確認せずにはいられなかったのだ。

返信はほどなく来た。本当だよ。まさか知らなかったの、と。

保之はなぜあの女と別れたんだろう。妊娠が嘘だったとしても別れる必要などないはずだ。

保之にとってあの女は、言いようによっては、そんな嘘をついて婚約者を蹴落としてまで、一緒にいたいと思ってくれた人なのだ。それなのに、子供などできていないとわかった途端に別れたということは、保之はやはりあの女を愛してなどいなかったということだ。保之が本当に愛していたのはやっぱり……。

でも、だとしたら、どうして電話の一本もくれないのだろう。

別に待っていたわけではない。それどころか声も聞きたくない相手だ。保之の連絡先もとっくに削除した。けれど何か一言、あってもいいのではないだろうか。今さらまた話がしたいとか、謝ってほしいとかそういうことではない。じゃあどうしてほしいのか、自分でもわからない。ただこのままでは、どう気持ちを収めたらいいのかわからない……。


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