弟がいた時間(きせつ)

川本明青

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4 彼からの電話

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保之がどこから電話して来たのかはわからない。普段ならまだ仕事中のはずだが、それにしては様子がおかしい。電話の向こうからは人の気配は感じられなかった。しかもテレビがついていたということは……。奈瑠は大きく手を上げてタクシーを止めると、運転手に保之のマンションの住所を告げた。

タクシーの中から何度も保之の携帯に電話するけれど出ない。意識を失ってしまっているのだろうか。急病か、事故か、それともまさか――。タクシーが赤信号で停まる度に焦りを覚え、最悪の事態まで考えた。そして、とにかく無事でいて、と心の中で祈った。


保之が自宅にいるという確証はないけれど、マンション前でタクシーを降りると階段を駆け上がった。保之の部屋は二階の階段を上がってすぐの場所なので、エレベーターを待つより早い。

もう訪れることなど無いはずだった見慣れたドアの前に立つと、肩で息をしながらチャイムを押した。だが何度押しても応答はない。

ドンドンドンとドアを叩いて名前を呼んでみた。やはり、反応は無い。

ふと、ドアのレバーに手をかけてみる。すると鍵はかかっておらず、レバーはすっと下がった。

勢いよくドアを開けて中に入り、バタバタと上り込む。そして廊下の先の室内ドアを開けて電気を点けた瞬間、ハッと息を呑んだ。テレビの大音量が流れる散らかり放題の部屋の真ん中に、保之が倒れていたのだ。しかも床には血が広がっている。奈瑠は頭が真っ白になった。

「保之!! 保之!!」

何も考えられないまま、しゃがんで保之の体を揺さぶった。顔をのぞき込むと、口の周りが血で汚れている。吐血したということだろうか。

「保之!! ねえ!! 保之!!」

すると保之は苦しそうに、かすかにうーんとうなった。生きている。とにかく生きている。一瞬ほっとして力が抜けたが、思い出したように慌てて救急車を呼んだ。

汚れた血生臭い部屋で救急車を待つ時間が、とても長く感じられた。テーブルの上にはカップラーメンやコンビニ弁当の食べ残しが放置され、床の上にはアルコール類の空き缶や空き瓶、そして脱ぎっぱなしの服などが散乱している。奈瑠とつきあっていた頃はこんな人ではなかった。何だか悲しくて、不安で、涙がこみ上げるのをじっと我慢して待っているしかなかった。

救急隊が到着するといろいろと質問をされたが、最近の保之の様子など知るはずもなく、半べそをかきながら、ほとんど「わかりません」と答えるしかなかった。救急隊員たちはてきぱきと保之を担架に乗せ、救急車へと運んだ。荒れ放題で、血で赤く染まった部屋を見ても慌てることなく、奈瑠にもやさしい言葉をかけてくれた。そんな頼もしい救急隊員たちのおかげで、少しは落ち着くことができた。

病院に着くと保之はすぐに処置室に運ばれ、奈瑠は一人、廊下のソファで待たされた。

あんなに血を吐くなんて、いったいどうしたと言うのだろう。もしかして奈瑠とつき合っていた頃から、気付かないうちに病魔が忍び寄っていたのだろうか。それとも何か、自分で悪い薬物でも口にして……。ものすごく不安で、また涙が滲んできた。


どのくらい経った頃か、処置室の扉が開きストレッチャーが出て来た。保之が目を閉じて横たわっている。病院に到着してからほんの数分だったのか、それとも何時間も経ったのか、時間の感覚がよくわからなかった。

立ち上がった奈瑠に、処置室の隣の部屋から顔を出した看護師が手招きした。緊張しながら呼ばれた部屋へ入ると、中には中年の痩せた医者がいた。

「患者さんの容態ですが……」

無表情で医者はそう切り出した。鼓動が早くなる。

「一時血圧の低下もみられましたが、今は安定しています。急性の胃潰瘍だと思われますね。一応確認のために細胞を生検に出すことになるとは思いますが。しばらくは入院が必要でしょう」

「入院すれば、大丈夫なんでしょうか」

「そうですね。安静にして、しばらくは絶飲食で点滴をしながら様子を見ていくことになるでしょう」

胃潰瘍が軽い病気というわけではないけれど、ホッとして、こらえ切れずに医者の前でわっと泣き出してしまった。もしかしたら保之はこのまま死んでしまうのではないかと思っていたからだ。それに、自分で何か悪い薬物を飲んだのでもないとわかって安心した。

医者は「そんなに泣かなくても大丈夫ですよ」と慰めてくれた。そして、急性の胃潰瘍にも原因は様々あるが、ストレスなどもその一因だと話してくれた。

説明を受けたあと病室に行き、ベッド脇の椅子に座って、眠っている保之の顔を眺めた。奈瑠が苦しんだように、保之もまた苦しんでいたのだなと思う。こうなったのも全て自分が悪いくせに。今さら都合よく連絡してくるなんて。でも、無事でよかった。本当に……。

世の中には浮気をする人もたくさんいるけれど、それでみんながみんな別れてしまうわけではない。中には反対に絆を深めるケースだってあると聞く。だが、奈瑠と保之の場合はそうはいかなかった。自分でも驚くほど、いともたやすく壊れてしまった。けれどどうしようもなかったのだ。保之は許してくれと頭を下げたのではなく、別れてくれと頭を下げたのだから。奈瑠は許すか許さないかさえ、選ばせてはもらえなかったのだから。
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