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7 真実
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そのとき、奈瑠と勇樹は同時に同じ方向に顔を向けた。誰かがグスンと洟をすすり上げる音がしたのだ。縁側からは見えないけれど、玄関脇を通って庭へ来ようとしていたらしい。
「知世?」
勇樹は小さくつぶやくと、外に置いてあったサンダルに足を突っ込んで玄関脇へと回った。
「待てよ」
「離して!」
「待てってば」
「いやっ!」
言い争う声が聞こえる。いつからいたのか、知世が奈瑠と勇樹の話を聞いていたようだ。姿は見えないけれど、立ち去ろうとする知世を勇樹が引き留めているのがわかる。そして一人が駆け出す足音が聞こえたかと思うと、ほどなく勇樹が戻ってきた。
「知世ちゃんは?」
勇樹は何も答えずに縁側から家に上がり、自分の部屋に消えた。が、すぐにまた出て来たかと思うと、行き先も告げずに車で出て行った。
その夜、奈瑠は後悔していた。
笹野さんに聞いた話は、胸の奥にしまっておくべきではなかったのか。
たとえいつか勇樹が過去と正面から向き合うべきときが来るとしても、それは今ではなかったのではないか。
きっと勇樹は勇樹なりに考えてもいただろうに、自分がつい感情的になって偉そうにその場の思いをぶつけてしまったことで、結果として知世との関係まで引っ掻き回すことになってしまった。
勇樹が誰にも明かさず、ずっと胸の中に抱えてきた思いに、昨日今日現れた部外者である自分が、無遠慮にずかずかと踏み込んでしまったのだ。そうはすまいと決めていたはずなのに。
遅くにベッドに入りはしたものの眠れずにいると、車庫に車の入って来る音がした。勇樹が帰って来たらしい。
枕元に置いたスマホを手に取って画面を表示する。時刻は午前二時を回っていた。
知世と会っていたのだろうか。
ちゃんと話ができたのならいいけれど、あのあとすぐでは二人とも冷静でいられるとは思えない。もしかしたら、一人になりたくてただ車を走らせていただけかもしれない。
奈瑠は、やっぱり自分がいてはいけないと思った。部外者は早く消えるべきなのだ。
知世が勇樹の話を聞いてしまった以上、きちんと向き合って、今までのこともこれからのことも話し合わなくてはいけないだろう。
これ以上立ち入るつもりはないけれど、やはり自分がここにいるわけにはいかない。迷っている暇はない。すぐにでも引っ越しの手配をしよう。そう考えながら、固く目を閉じた。
翌朝目を覚ますと、すでに勇樹は出かけた後だった。時間が無かったのか、コーヒーさえも飲んだ形跡はない。もしかしたら奈瑠と顔を合わせるのが嫌で、早々に家を出たのかもしれないと思った。
午前中、奈瑠は連絡もせずに突然実家に顔を出した。土曜だったので父もみや子さんも家にいた。
結婚がダメになったときも帰らなかったし、マンションを出て勇樹の家に転がりこんだときも「しばらく友達の家に泊めてもらう」と父に電話で伝えただけだった。けれど父は、そんな娘が数か月ぶりにひょっこり顔を出しても驚いたりはしなかった。昔からそうだ。元々目尻が下がっているので表情は穏やかに見えるが、ひょうひょうとしていてあまり感情を表に出さない。
「久しぶりだね」
奈瑠がリビングに入って行くと父はそう言って、読みかけの本をソファの前のテーブルに伏せた。
「ごめんね。ずっと帰らなくて」
奈瑠はソファの端っこに腰を下ろした。
「元気でやってたのか」
「なんとかね」
「そうか。それならいいんだけど」
相変わらず淡々とした語り口だ。
「奈瑠さんはコーヒーよね」
みや子さんは奈瑠の好みをちゃんと覚えていてくれて、父の分の紅茶と、奈瑠の分のコーヒーを用意してくれた。
「奈瑠さん、お昼何食べたい?」
みや子さんが聞いた。
「うーん……何でも」
あまり食欲もなく、特に食べたいものも思いつかなかったが、即座に「何でも」と答えるのはみや子さんに悪い気がして、少し考えるふりをしてからそう言った。
「じゃあ、任せてもらっていいかしら」
数か月ぶりに顔を合わせたというのに、少し話をしただけで、みや子さんは「ちょっとお買い物に行って来ますね」と言って外出してしまった。
「気を遣っているんだよ」
父は言った。
「彼女はね、奈瑠が保之君とあんなことになったのに実家に戻らないなんて、自分がいるからだって気に病んでいたんだ。奈瑠がどんなに辛い思いをしているだろうって。やっと帰って来たんだから、僕と奈瑠とでゆっくり話をすればいいって思っているんだと思うよ」
決してみや子さんが嫌いなわけではないけれど、気の置けない仲とは言えない。結婚がダメになったときは、どん底の精神状態の上に、実家に帰って更に気を遣わなければならないくらいなら一人でいたいと思っていたのは事実だ。だがそれをみや子さんが気にしていたと知ると、それはそれで申し訳なく思った。
「まだ友達の家にいるの?」
「うん。でもいつまでも迷惑かけられないから、そろそろ出ようと思ってるんだけど……」
とりあえず、ここに帰って来たい。自分の実家なのに、その一言がすぐには言い出せなかった。しかも“友達”が実はあの勇樹だと知ったらさすがの父も驚くだろう。十五年前、一度は親子だったのだから。勇樹がもし弟ではなく妹だったら、父に今の状況を話していたかもしれない。けれど実際は、さすがにそれは話せない。
「知世?」
勇樹は小さくつぶやくと、外に置いてあったサンダルに足を突っ込んで玄関脇へと回った。
「待てよ」
「離して!」
「待てってば」
「いやっ!」
言い争う声が聞こえる。いつからいたのか、知世が奈瑠と勇樹の話を聞いていたようだ。姿は見えないけれど、立ち去ろうとする知世を勇樹が引き留めているのがわかる。そして一人が駆け出す足音が聞こえたかと思うと、ほどなく勇樹が戻ってきた。
「知世ちゃんは?」
勇樹は何も答えずに縁側から家に上がり、自分の部屋に消えた。が、すぐにまた出て来たかと思うと、行き先も告げずに車で出て行った。
その夜、奈瑠は後悔していた。
笹野さんに聞いた話は、胸の奥にしまっておくべきではなかったのか。
たとえいつか勇樹が過去と正面から向き合うべきときが来るとしても、それは今ではなかったのではないか。
きっと勇樹は勇樹なりに考えてもいただろうに、自分がつい感情的になって偉そうにその場の思いをぶつけてしまったことで、結果として知世との関係まで引っ掻き回すことになってしまった。
勇樹が誰にも明かさず、ずっと胸の中に抱えてきた思いに、昨日今日現れた部外者である自分が、無遠慮にずかずかと踏み込んでしまったのだ。そうはすまいと決めていたはずなのに。
遅くにベッドに入りはしたものの眠れずにいると、車庫に車の入って来る音がした。勇樹が帰って来たらしい。
枕元に置いたスマホを手に取って画面を表示する。時刻は午前二時を回っていた。
知世と会っていたのだろうか。
ちゃんと話ができたのならいいけれど、あのあとすぐでは二人とも冷静でいられるとは思えない。もしかしたら、一人になりたくてただ車を走らせていただけかもしれない。
奈瑠は、やっぱり自分がいてはいけないと思った。部外者は早く消えるべきなのだ。
知世が勇樹の話を聞いてしまった以上、きちんと向き合って、今までのこともこれからのことも話し合わなくてはいけないだろう。
これ以上立ち入るつもりはないけれど、やはり自分がここにいるわけにはいかない。迷っている暇はない。すぐにでも引っ越しの手配をしよう。そう考えながら、固く目を閉じた。
翌朝目を覚ますと、すでに勇樹は出かけた後だった。時間が無かったのか、コーヒーさえも飲んだ形跡はない。もしかしたら奈瑠と顔を合わせるのが嫌で、早々に家を出たのかもしれないと思った。
午前中、奈瑠は連絡もせずに突然実家に顔を出した。土曜だったので父もみや子さんも家にいた。
結婚がダメになったときも帰らなかったし、マンションを出て勇樹の家に転がりこんだときも「しばらく友達の家に泊めてもらう」と父に電話で伝えただけだった。けれど父は、そんな娘が数か月ぶりにひょっこり顔を出しても驚いたりはしなかった。昔からそうだ。元々目尻が下がっているので表情は穏やかに見えるが、ひょうひょうとしていてあまり感情を表に出さない。
「久しぶりだね」
奈瑠がリビングに入って行くと父はそう言って、読みかけの本をソファの前のテーブルに伏せた。
「ごめんね。ずっと帰らなくて」
奈瑠はソファの端っこに腰を下ろした。
「元気でやってたのか」
「なんとかね」
「そうか。それならいいんだけど」
相変わらず淡々とした語り口だ。
「奈瑠さんはコーヒーよね」
みや子さんは奈瑠の好みをちゃんと覚えていてくれて、父の分の紅茶と、奈瑠の分のコーヒーを用意してくれた。
「奈瑠さん、お昼何食べたい?」
みや子さんが聞いた。
「うーん……何でも」
あまり食欲もなく、特に食べたいものも思いつかなかったが、即座に「何でも」と答えるのはみや子さんに悪い気がして、少し考えるふりをしてからそう言った。
「じゃあ、任せてもらっていいかしら」
数か月ぶりに顔を合わせたというのに、少し話をしただけで、みや子さんは「ちょっとお買い物に行って来ますね」と言って外出してしまった。
「気を遣っているんだよ」
父は言った。
「彼女はね、奈瑠が保之君とあんなことになったのに実家に戻らないなんて、自分がいるからだって気に病んでいたんだ。奈瑠がどんなに辛い思いをしているだろうって。やっと帰って来たんだから、僕と奈瑠とでゆっくり話をすればいいって思っているんだと思うよ」
決してみや子さんが嫌いなわけではないけれど、気の置けない仲とは言えない。結婚がダメになったときは、どん底の精神状態の上に、実家に帰って更に気を遣わなければならないくらいなら一人でいたいと思っていたのは事実だ。だがそれをみや子さんが気にしていたと知ると、それはそれで申し訳なく思った。
「まだ友達の家にいるの?」
「うん。でもいつまでも迷惑かけられないから、そろそろ出ようと思ってるんだけど……」
とりあえず、ここに帰って来たい。自分の実家なのに、その一言がすぐには言い出せなかった。しかも“友達”が実はあの勇樹だと知ったらさすがの父も驚くだろう。十五年前、一度は親子だったのだから。勇樹がもし弟ではなく妹だったら、父に今の状況を話していたかもしれない。けれど実際は、さすがにそれは話せない。
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