弟がいた時間(きせつ)

川本明青

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9 勇樹のいない家

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電車のドアのガラス越しに、最後に見た勇樹の姿が脳裏に浮かぶ。

向かいのホームに立って、少し笑って手を振り返してくれた勇樹。

今となっては、その微笑みも、食事に誘ってくれたことも、何か特別な意味があったように思えてならない。

居ても立っても居られなくなり、知世に電話をかけた。

〈どうかしたんですか?〉

よっぽど奈瑠の口調が切羽詰まっていたのか、電話の向こうで知世が驚いているのがわかる。

「勇樹どこに行ったか知らない?」

〈勇ちゃんですか? いえ、知りませんけど……〉

「あれから会ってないの?」

〈別れてからは、一度も。あの、勇ちゃんがどうかしたんですか?〉

「今家に行ってみたらいなかったの。縁側の雨戸も閉まってて、車もなくて。お隣の雨宮さんに聞いたら車は売ったらしいんだけど、それ以上の事情は知らないみたい。もう何日も帰って来てないって……」

〈何日も、ですか……〉

「知世ちゃん心当たりない?」

〈わたしは全然。奈瑠さんにも何も連絡はなかったんですか?〉

「五日前に会ったんだけど、それ以降連絡が取れなくなっちゃって……」

〈そうですか……〉

「ねえ知世ちゃん、勇樹、おかしなこと考えたりしてないよね? 例えば、隆治君のそばに行こうとか……」

〈奈瑠さん落ち着いてください。そんなこと絶対ないですから。心配し過ぎですって。仕事でしばらく家を空けてるだけかもしれないじゃないですか。撮影で遠くに行ってるのかもしれませんよ。車のことだって、何か事情があるんですよ。きっと。そもそもすごく古い車だし〉

知世の言うとおりだ。何を一人で慌てているのだろう。

「そうだよね……。なんか、ごめんね。いきなりこんな電話しちゃって」

知世と話すことで落ち着きを取り戻すことができた。なぜか勇樹のことになるとナーバスになっていけない。


駅の改札の手前で、ちょうど出て来た若い女性とたまたま目が合った。向こうがあっ、という顔をする。私服なので一瞬わからなかったが、それは件の女子高生だった。制服のときより少し大人びて見える。彼女はちょっとためらってから、奈瑠の方に近づいて来た。

「あの、すいません。勇樹先生の彼女さんですよね?」

「えっ? あ、えっと……」

「わたしのこと、わかります?」

「ああ、うん」

最初に顔を合わせたときも思ったが、本当にきれいな子だ。ナチュラルな太めの眉に黒目がちな目、細く通った鼻筋に、透明感のある瑞々しい肌。化粧は多分色付きのリップくらいだ。このぷっくりしたつやのある唇を、この子は勇樹に押し当てたのか。

「わたしのこと、勇樹先生から何か聞いてます?」

「えっと……」

何かとは、どういった何かだろう。

「昔うちのお兄ちゃんが勇樹先生に家庭教師してもらってたんです。それでわたしも勇樹先生と仲よくなったんです」

奈瑠は曖昧にうなずいた。知っているとはなんとなく言いにくいし、知らないふりも白々しい。

「あの、勇樹先生のお母さんの病気のことは」

「ああ、うん、知ってる」

「もう手術終わったんですよね?」

「うん」

「大丈夫だったんですか?」

「転移もなくて、その後の経過も良好みたい」

彼女はホッとしたように顔をほころばせた。そんなちょっとした表情の変化さえとても華やかで、女の奈瑠でさえ思わず見とれてしまう。

「あの、勇樹先生とは、別れたんですか?」

彼女は真顔に戻って聞いた。咄嗟のことでどう説明したらいいかわからない。

「わたし、あの日たまたまここで、うつむいて速足で歩いてく勇樹先生を見かけたんです。なんか泣いてるように見えたから気になっちゃって、こっそり後をついて行ったんです。だって大人の男の人が泣くって相当じゃないですか。でも、だからこそっていうか、声はかけちゃいけないのかなって思ってたんですけど、勇樹先生、家の玄関の前でうずくまっちゃって。それで思わず駆け寄って声をかけたんです。びっくりしてました。最初は『失恋でもしたの?』ってわざと冗談言ったりしてたんですけど、お母さんがガンだって聞いて……。うちのお母さんも同じ病気で亡くなってるんです。だから勇樹先生の気持ちはすごくわかる。わたしも自分のお母さんが乳ガンだって聞かされたときはすごく悲しくて、不安で押しつぶされそうになって、とても一人ではいられなかったから。だから『勇樹先生も誰かそばにいてもらった方がいいよ』って言ったら、『俺、一人ぼっちなんだ』って……。前に会ったときは大事な人がいるって言ってたのに……」

そのとき勇樹が言っていた大事な人とは知世のことだ。けれど目の前の少女は奈瑠のことだと思っているのだろう。

「本当に別れたんですか? もう絶対に元には戻りませんか?」

そんな瞳で真っすぐにこちらを見て、もし「戻らない」とでも言ったら、すぐに勇樹のところへ飛んで行くとでもいうのだろうか。

別れるも元に戻るもないけれど、怖いもの知らずの若さや溢れんばかりの美しさを湛えて挑んでくる彼女に、少しくらい意地悪したくなった。

「それは、まだわからない」

「本当ですか!? じゃあまだ希望はあるってことなんですね!」

は?

「だったら考え直してもらえませんか? もう一度勇樹先生のもとに戻ってあげてくれませんか?」

え?

「お母さんの手術は成功したっていっても、やっぱりまだ完全に治ったわけじゃないし、勇樹先生だって不安だと思うんです。だから勇樹先生のそばにいてあげてほしいんです。一人ぼっちなんて絶対かわいそう。勇樹先生を一人にしないであげてください」

「あの……」

「あ、ごめんなさい。もう家に行ったりしませんから。わたし、勇樹先生がお兄ちゃんの家庭教師でうちに来てた頃、まだ小学生だったけど、先生のこと大好きだったんです。憧れてたっていうか。それですっごく久しぶりに会えたもんだから、ちょっとテンション上がっちゃって。もう来ちゃダメだよって言われてたのに、またお家に行ったりして。だけどもうしません」

「えーっと……。あなたの気持ちは、それでいいの?」

「わたし彼氏いるんで」

「…………」

何だろう。ホッとしたような、ちょっと切ないような、温かいような、おちょくられているような。けれど彼女のやさしさは本物だろう。彼女もまた、大事な人を亡くす痛みを知っているのだ。

電車が駅に停まるたび、無意識に、外のホームの人ごみに勇樹の姿を探した。

もう少し時間が経てば、連絡をくれるだろうか。

またあの家に、戻って来てくれるだろうか。

できることなら今すぐにでも会いたい。声が聞きたい。けれど今はただ、勇樹を信じて待つことしかできない。

コンクリートの熱にうなされた夕方の街が、混んだ電車の窓の向こうを流れていった。

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