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XXII 思い出せない記憶-III
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結局あの後、主犯格の男は街へと消えてしまい、情報を得る事すら叶わなかった。
男の名前も、素性も、なぜ俺を知っているのかさえ分からないまま。あの男は謎ばかり残していく。
「まぁ、そんな思い詰めなくてもなんとかなるって」
漸くテーブルに運ばれてきた、淵ぎりぎりまで注がれた酒を片手にマーシャが笑った。僅かに零れた酒が、彼女の細い腕を伝い落ちる。
「良いよな、お前は他人事で」
分かっている事は、記憶している顔と声のみ。人の記憶程あてにならない物は無く、第三者に共有する事も、形にする事も当然出来ない。これでは情報が無いも同然だ。
やはり、あの場で始末しておけば良かった。
あの男を見つけ出し、犯行を止める事など不可能だ。考えれば考える程、打つ手が無くなっていく様に感じ苛立ちが増す。
「やっぱ、あんたは考え方がまだまだ子供だよねぇ……」
マーシャが含み笑いを浮べ、俺のジャケットからシガレットケースを抜き取った。慣れた手付きで煙草に火を付け、口に咥える。
「……お前、煙草吸えたっけ」
その問いに彼女は何も答えず、ただ意味有り気に笑った。
「なんだろうね。あんたの考えが子供というよりも、私の考えが普通じゃないのかなぁ」
「……それは否定できねぇな」
マーシャに続く様に、シガレットケースから煙草を1本取り出す。テーブルの隅に置かれたアッシュトレイを彼女と俺の間に引き寄せ、咥えた煙草の先に火を付けた。
「今回の件、他人事だなんて思ってないよ。セディは大事な弟みたいなもので、そんな弟が連れて来た可愛い奥さんを、邪険になんてする訳無いでしょ。エルちゃんを守りたいって思うのは、私も同じ」
「……あっそ」
「反応薄いなぁ」
赤いリップが惹かれたマーシャの口から、細い煙が吐き出される。
普段から煙草の臭いを嫌うマーシャが、自ら煙草を手にする姿など今迄見た事が無かった。何処か別人の様に見えてしまい、落ち着かない。
煙草をレストに置き、温くなった酒を喉奥へ流し込む。
「苛立ちは誤った選択の引き金になりかねない。冷静で居れば、選択肢は他にある事や、その選択をすればどうなるか、理想の結果にするにはどの選択をすればいいか、自ずと見えてくる。だから、あの時セディを止めたの」
「……殺す以外に、方法はあるってか?」
「いや別に? そうは言ってないよ」
「……なんだそれ。さっきは殺人は犯罪だとか道徳的な事ほざいてたじゃねぇか」
「あれはセディを止める為の出任せ」
もう煙草には飽きてしまったのか、彼女が半分以上残った煙草をアッシュトレイに押し付けた。
「殺人は重罪。殺人者は罪人。罪人には刑罰を。“制裁”なんて言葉、自分の殺人を肯定する為の体のいい言い訳でしょ。“何故人を殺してはいけないのか?”本当の理由なんて、誰も答えられないんだよ。口では道徳的な事を詠っても、誰もが心の奥では“国で定められた法律に反する行為だから”程度にしか思ってない」
軽い口調で、彼女は言葉を続ける。
「あの場で男を殺したとして、殺した犯人はセディじゃないって証明出来る? ナイフを手に返り血を浴びた男と、その前に転がる死体を目にして“事故だ”と言ってくれる程、警察も馬鹿では無いんだな」
レストに置いた煙草の火がゆっくりと進み、灰になっていく。
温くなった酒も煙草も手に取る気になれず、左目に掛かった長い前髪を無造作に掻き上げた。
「もし仮に正当防衛だったとしても、数ヵ月は留置所から出て来れないよ」
「……うるせぇな、そんな事言われなくても分かってる」
マーシャの言う事が、理解出来ない訳では無い。だが、男を探し出すまでにエルが被害に遭わない保証も無い。
こうしている間にも時間は過ぎ、エルに危険が差し迫っているというのに。
男の名前も、素性も、なぜ俺を知っているのかさえ分からないまま。あの男は謎ばかり残していく。
「まぁ、そんな思い詰めなくてもなんとかなるって」
漸くテーブルに運ばれてきた、淵ぎりぎりまで注がれた酒を片手にマーシャが笑った。僅かに零れた酒が、彼女の細い腕を伝い落ちる。
「良いよな、お前は他人事で」
分かっている事は、記憶している顔と声のみ。人の記憶程あてにならない物は無く、第三者に共有する事も、形にする事も当然出来ない。これでは情報が無いも同然だ。
やはり、あの場で始末しておけば良かった。
あの男を見つけ出し、犯行を止める事など不可能だ。考えれば考える程、打つ手が無くなっていく様に感じ苛立ちが増す。
「やっぱ、あんたは考え方がまだまだ子供だよねぇ……」
マーシャが含み笑いを浮べ、俺のジャケットからシガレットケースを抜き取った。慣れた手付きで煙草に火を付け、口に咥える。
「……お前、煙草吸えたっけ」
その問いに彼女は何も答えず、ただ意味有り気に笑った。
「なんだろうね。あんたの考えが子供というよりも、私の考えが普通じゃないのかなぁ」
「……それは否定できねぇな」
マーシャに続く様に、シガレットケースから煙草を1本取り出す。テーブルの隅に置かれたアッシュトレイを彼女と俺の間に引き寄せ、咥えた煙草の先に火を付けた。
「今回の件、他人事だなんて思ってないよ。セディは大事な弟みたいなもので、そんな弟が連れて来た可愛い奥さんを、邪険になんてする訳無いでしょ。エルちゃんを守りたいって思うのは、私も同じ」
「……あっそ」
「反応薄いなぁ」
赤いリップが惹かれたマーシャの口から、細い煙が吐き出される。
普段から煙草の臭いを嫌うマーシャが、自ら煙草を手にする姿など今迄見た事が無かった。何処か別人の様に見えてしまい、落ち着かない。
煙草をレストに置き、温くなった酒を喉奥へ流し込む。
「苛立ちは誤った選択の引き金になりかねない。冷静で居れば、選択肢は他にある事や、その選択をすればどうなるか、理想の結果にするにはどの選択をすればいいか、自ずと見えてくる。だから、あの時セディを止めたの」
「……殺す以外に、方法はあるってか?」
「いや別に? そうは言ってないよ」
「……なんだそれ。さっきは殺人は犯罪だとか道徳的な事ほざいてたじゃねぇか」
「あれはセディを止める為の出任せ」
もう煙草には飽きてしまったのか、彼女が半分以上残った煙草をアッシュトレイに押し付けた。
「殺人は重罪。殺人者は罪人。罪人には刑罰を。“制裁”なんて言葉、自分の殺人を肯定する為の体のいい言い訳でしょ。“何故人を殺してはいけないのか?”本当の理由なんて、誰も答えられないんだよ。口では道徳的な事を詠っても、誰もが心の奥では“国で定められた法律に反する行為だから”程度にしか思ってない」
軽い口調で、彼女は言葉を続ける。
「あの場で男を殺したとして、殺した犯人はセディじゃないって証明出来る? ナイフを手に返り血を浴びた男と、その前に転がる死体を目にして“事故だ”と言ってくれる程、警察も馬鹿では無いんだな」
レストに置いた煙草の火がゆっくりと進み、灰になっていく。
温くなった酒も煙草も手に取る気になれず、左目に掛かった長い前髪を無造作に掻き上げた。
「もし仮に正当防衛だったとしても、数ヵ月は留置所から出て来れないよ」
「……うるせぇな、そんな事言われなくても分かってる」
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