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暁ばかり憂きものは

思いの重さ 四

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 部屋に入った楓は立ったまましばらく俺を見つめていて、次に膝をくっ付けて座るとすぐ、着物のたもと(そで)で俺の顔をゴシゴシと拭き始めた。

  「楓……んん、痛い、痛いって!」

  「まったく……きったない顔して」
 言いながら、ぺろ、と舌を滑らせて涙の筋を拭う。まるで親猫が子猫の毛並みを揃えるように、ぺろり、ともう一度。

  「ほら、水飲んでもう一度寝な。しばらくは私が一緒に寝てやるから」

  「えっ!?」
 渡された水を吹きこぼしそうになるのを堪えて楓を見ると、あっという間に布団に押し込まれ、楓が「よいしょ」と隣に入った。

 え、なんで? 一緒に寝るってどう言う……

  「こんな時は昔から上が面倒を見るって決まってるんだよ。刃傷沙汰を目の前で見たんだ。いくら良くあることだって言い聞かせても、心についた傷はすぐには癒えないだろ。そんな状態で一人でいたら、なにするかわかんないし、夜も眠れない。だから少し楽になるまでは私があんたを見ててやる」
  「そうなんだ……」

 寝かしつけするみたいに背中をポンポン、とされると、肩の力が抜けた。  
 確かに、人肌はひどく安心する。

 夜着の下をもぞ、と動いて、楓の胸へ顔を寄せた。

  「近いな」
  楓はそう言ったけど、体を離したりはせず、腕枕を作って頭を乗せてくれたし、もう片方の腕は夜着の上から俺を包むように乗せてくれた。

 布団の中の温度が上がったせいかな。楓から香る匂いがいつもより強い……ああ、やっぱり保科様と同じ香りだ……。

 切ない。切なさに胸が軋むのに、求めたくなるのはなぜなんだろう。
  「楓、いい匂いする」
 襟元を鼻ですりすりとこすると、俺を包んでいた腕が動き、頭の後ろやうなじを撫でてくれた。

 あったかい……気持ちいい。

 そして、不思議なくらい、すうっと眠りの底に落ちていた。


 でも、何度も夜中に目が覚める。
  夢の中でしつこいくらいにあの場面が繰り返され、たくさんの生首が俺を恨めしそうに見る。
 刀を持った隆晃様は大きな影になり、俺を飲み込み、膨張してバン、と破裂して、真っ赤な血飛沫を俺に浴びせて「愛しているよ、逃がしはしないよ」と囁くのだ。

  「百合、大丈夫だ。夢だよ。私がいるよ」
 うなされるたび、楓の声が俺を現実に引き戻し、暖かい手は冷や汗と涙を拭ってくれた。

 俺は休みでも楓には毎日仕事があるのに、可能な限り一緒にいてくれて、俺が苦しむと必ず助けてくれる。


  「楓、ごめん。俺のせいで馴染みのお客が泊まれてないんだよね? 俺は舞台も休んでるから負担をかけてるのに……わかってるのに、ごめん」
 事件から二週間が過ぎても、仕事に出ることができず、未だ一人で眠ることもできない俺は、今夜もまた、楓と一つの布団で横になっていた。

 流石に女将や他の陰間のお荷物になっているのはわかる。タダ飯食らいの俺の生活費を賄ってもらっているだけでなく、大華の仕事を制限しているんだから……。

 でも、駄目なんだ。
 体の中に大きな石がたくさん詰まっているみたいで、どこもかしこも重くて動かない。どうしても一歩が出ないんだ。

  「いいんだよ。その分、座敷や一切り2時間を多目にやってるから」

「えっ、一切り?」
 華が一切りをやるなんて聞いたことがない。一切りは盃を交わさない一見さんや、高い揚げ代を出せないお客が利用するもので、主に若草の担当だ。そんなことを楓にさせているなんて……。

 困惑して見上げると、楓は柔く笑った。
  「馬鹿。最後まではさせてないよ。話をして、ほんの少し手や肩を触らせるだけ。今まで華の利用を諦めてたお客さんもそれで喜んで下さってるんだ」
  「でも……」  
 大華の安売りだ。女将も旦那もいい顔はしていないはずだ。

  「私がいいんだからいいんだよ……百合の方が大事」
 言い終わりに、眉間に唇が落ちる。

 突然に触れたその暖かさに驚いて瞬きをすると、次は瞼に熱が触れた。
 
  「楓……?」
 見上げた先で視線が絡む。あるのは熱く濡れた楓の眼差し。
 どうしてそんな眼をする? 熱さに吸い込まれちゃいそうだよ。

 布団に横になっているのに、体が浮いているみたいで怖くて、楓の浴衣の襟元をぎゅ、と掴んでしがみついた。

 楓の手が俺の手に重なり、また顔が近づく。
 唇が重なる、と思った。
 ……思ったのに。俺はそのまま、逃げずに顔を上げて瞼を閉じていた。

 柔らかい感触がくすぐるように触れる。 一度離れて微かな吐息が漏れて、再び柔く触れたあと、自然に互いの口元は緩んだ。

 口付けが深くなる。
 下唇を食まれて、ちゅる、と吸われると、甘い痺れが電気みたいに、頭の天辺に走った。

  「ん……ん……」
 滑るように侵入する舌を当たり前みたいに受け入れ、首にしがみついてあとを追う。なのに楓の舌は意地悪で、すばしっこく逃げては俺を翻弄した。
 舌の裏も、上顎も、歯の並びも頬の内側も全部。俺の中をつるり、つるりと巧みに撫でてはまた逃げて。
 ねぇ、待って? 俺を置いて行かないで。

 首に回した手に力を入れると、楓の唇に舌を挟まれる。舌先を吸われたら、そのまま溶けて無くなりそう。熱くて柔らかくて、いい気持ち。

  「……ふ……」
 唇が離れても、目や鼻の中にまで熱さが残っていた。
 きっと俺、夢現ゆめうつつの中にいるような、呆けた情けない顔をしている。

  「……これも、下の子の世話のうち?」

  「……そうだよ」
  俺の唇の端に残った唾液を舌でぺろっと拭って、口角を上げる。
 その顔は、艶めかしくて妖しくて……そして男の色を浮かべていて、俺の胸をえぐって苦しくさせた。


 下の子の世話のうちだ、と笑った楓とのキスは毎晩になり、貪り合う時間が徐々に長くなっていく。
 そのうちに楓がそばにいれば、苦しいことを忘れていられるようになり、事件から一ヶ月が過ぎようとする頃、ようやく俺は見世に復帰を果たした。

 そして、以前よりさらに楓との距離は近くなり、時間を探しては二人で過ごした。

 楓の客が泊まりでない時は一緒に眠るし、昼間でも人がいなければ肩を寄せ、隠れてこっそりキスをする。
 どちらからというのではなく、近くにいれば自然と寄り添うくらい、俺達には当たり前の行為になっていた。
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