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暁ばかり憂きものは
大華 楓 四
しおりを挟む店先までは俺が付いていたけれど、表には旦那と女将、既にお客が終わった陰間達が保科様のお帰りを見送る為に出てきていた。
楓はまだ華屋に戻って来ておらず、菖蒲さんや牡丹も仕事が開けていないようだ。
「保科様、どうかお元気で」
今ここにいる陰間の中では俺が一番上。
「小花・百合」として背筋を伸ばし、するりと腰を落とす正式なお辞儀をして俺が言うと、皆一斉に頭を下げた。
「ああ、ありがとう。皆も体を大事に。活躍を祈っている」
保科様の瞳に映っているのはもう俺だけじゃない。そこにいた華屋の者達全員に対して笑顔を向けて言ったあと、お付きの方が後ろに付いて、保科様は屋敷の方向へ足を進めた。
あっさりした別れだった。
当たり前だ。今生の別れじゃない。江戸時代で簡単に行き来できる距離ではなくても、同じ日本にいるんだし、いつかは戻っていらっしゃるんだから。
それなのに、俺の指先は夏だと言うのにとても冷たくて、遠くなる背中との距離に比例してますます冷えていく。
曲がり角で保科様の姿がすっかり見えなくなると、皆は店の中へと戻って行ったけど、俺はその場でいつまでも立ち尽くしていた。
「百合?」
背中で声がして振り向くと、楓が帰って来ていた。
金剛を先に店に入らせた楓は俺に近づくと、いつかみたいに着物の袂で俺の顔をゴシゴシとこすった。
「ちょ、なに? 今は別に泣いてないよ」
楓の腕を掴んで顔を背ける。
「ならそんな顔するんじゃないよ。泣いてるのも一緒じゃないか。……今日は保科様が参られる日だって聞いていたけど……さっきまでいらしていたのか? そのせい?」
「ちが……」
違う、と言いたかったのに、保科様の名を聞いただけで涙腺が緩んで、大粒の涙がこぼれ落ちた。
楓はそんな俺にいらついた顔をして、店の中に俺を引っ張っる。有無を言わさぬ強い力に引かれて足がもたつき、今にもころげそうだ。
「楓? 痛いって。なにするんだよ」
背中に投げた言葉に返事一つしない。強引なまでに俺を引っ張り、二階最奥の大華部屋に押し込むと、大華の品が飛んでしまうくらいの大きな音を響かせて襖を閉めた。
「かえ……んんっ……!」
らしくない振る舞いに驚いている俺の顔をグイ、と引き寄せ、楓は荒々しく唇を重ねた。
これまでのような優しいキスではなく、唇も腕も、俺を支配下に置くような強制的なキス。楓の胸を押し返そうと、力を込めてもびくともしない。それどころか、腰と頭に回された手は、俺がもがくたびによりきつく締まり、窒息しそうなほどに俺をがんじがらめにした。
「! いっ……たっ……」
下唇の端を噛まれ、隙間から声を漏らすと、やっと唇が離れた。
なにすんだ、痛いだろ、と言いかけて顔を上げて、言葉を呑み込む。
痛いのは俺なのに、なぜだか楓の方が傷ついた顔をしていた。
「楓……?」
「なんで、保科様なんだよ……」
え……?
楓は俺の肩に顔を埋め、腰に両手を回した。
また、楓の腕に力が入る。
「百合が辛い時、保科様はそばにいてくれたか? 百合が泣きたい時、抱きしめていてくれたのか? 百合の近くにずっと居たのは俺だろう? ……百合、わかっているはずだ。保科様が一陰間と結ばれることはない。でも……俺なら。俺なら百合を置いていったりしない。いつも百合のそばにいて、百合だけを守る……!」
楓が顔を上げて俺の目を真っすぐに見た。
「俺を……好きになれよ……」
楓の茶色がかった瞳が濡れた。
俺の前では優しい表情を見せてくれるようになってはいても、普段は彫刻のように表情を崩すことがない楓。
けれど今、その顔は哀願するように眉を中央に寄せ、涙を堪えている。
舞台の時の「恋に苦しむ女形」の比ではなかった。
────間違いなく男の顔だ。
愛しさと切なさが憂いに乗り、真っ白い肌に赤みが差している。額には汗が滲み、さっきまで俺に噛み付いていた唇はきつく結ばれて。
そこに在るのは、男の強烈な色気。
この美しい男に感情をぶつけられて拒否できる人間がどれくらいいるんだろう。自分には心から求めてやまない人がいるはずなのに、この腕から逃げたら暗い奈落の闇に落ちる気がする。
なにより、これだけ「男」を感じさせていながら、突き放せば一瞬で壊れてしまいそうな危うい二面性に、どう抗えと言うのだろう。
だけど……受け入れてしまえばもう保科様を思い続けることは許されない。有り得もしないけど、保科様の胸に飛び込める日は二度とこない。
「百合、俺と一緒に生きて行こう? ……愛してる……!」
「─────!」
思考が流れていく。
「一緒に生きて行こう」
「愛してる」
追い求める人からは聞けなかったその言葉が、頭を埋め尽くす。
────神様、許して下さい。自分の心ひとつ守り通せない俺を。
保科様、許して下さい。貴方をずっと愛し抜くという誓いを守れない俺を────
俺は楓の背に手を回し、すぐ近くにあった頬に触れ、唇を重ねた。
もう、あと戻りはできない。
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