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ちぎりきな かたみに袖を
終演 壱
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楓は部屋に入るなり俺の腕を掴んだ。
「昨日、保科様の屋敷に泊まったって……!」
「いたっ、楓、痛い。離して」
指が二の腕にくい込んでいる。
楓がこんなふうに俺に触るのは初めてで、その力の強さが怖かった。
「答えろ、百合。昨日保科家に泊まって保科様と一晩過ごして…………抱かれたのか!?」
…………!
瞬間、頭に血が昇って、楓の頬に平手を伸ばした。
バシャッ!
けれど、俺の手より早く、水が楓の頭に降った。
「煩いよ! 一度頭を冷やしな!」
水が降った先に顔を上げると、牡丹が湯呑みを逆さまにして立っている。
「牡丹……」
驚きで、呆然と名を呟やく。
楓は俺から腕を下ろし、畳に両手をついてうなだれた。水が太い筋になって、髪からぼたぼたと落ちている。
「嫉妬は舞台の上に置いてきたんじゃないのかい。見苦しいよ! 昨日、ここに帰ってこれなかった百合の気持ちも考えてやんな!」
それだけ言うと、フン、と鼻息荒く自分の部屋へと戻って行った。
楓はまだ同じ姿勢のままで動けないでいて、俺は、手拭いを出して頭を拭いてやった。
「……めん……」
絞り出された小さな声。
それから
「ごめん、こんなことが言いたかったんじゃない」
楓の顔がようやく上がった。
目が充血していて、たった一日で目の下にクマができ、肌もくすんでいる。昨日眠れなかったんだ。俺と同じように一晩泣き明かしたのかもしれない。
その顔を見ると苦しくて、頬を挟んで額を寄せずにはいられなかった。
「俺は楓を裏切らないよ。信じて。俺には楓だけだよ……」
今この言葉にどれだけの意味があるのだろう。でも、言わずにはいられなかった。それに、きっともうすぐ言えなくなるから……。
「わかってるんだ……! わかってるのに……!」
楓が俺を抱き寄せる。
腕に力が入り、骨が砕けそうになるくらいに強く。
「百合、百合、百合……っ」
何度も俺の名を呼ぶけど、俺には楓を抱き返して背を撫でてやることしかできない。
随分長い時あいだそうしていて、空が暗がり始めた頃、楓が静かに言った。
「百合、華屋を出よう……? 華屋を出て二人で暮らそう。仕事を見つけて、その日食べる分だけの稼ぎでもいい。二人で食べ物を分け合って……そうだ、自分たちで畑を耕したっていい」
楓が言葉を紡いで、頭の中に田舎の片隅で慎ましく暮らす俺達を想像した。
きっと楽しくて幸せだろう…………初めのうちは。
楽しい想像を、まばたきで遮断する。
けれどそのうち足りないものに気付くんだ。だって、俺達が求めた幸せはそこにはない。互いを愛していたって、こんなはずじゃなかったという思いがいつかは生まれて互いを傷つける。
そして、残してきた家族や華屋の皆の人生までをも狂わせたことを激しく後悔して苦しむだろう。
楓。人間は愛だけでも夢だけでも生きてはいけないんだ。
でも、楓なら……愛を一度失くしてもまた誰かが注いでくれるだろう。心のどこかに俺が残っていたとしても、新しい愛はきっと楓を満たしてくれる。
でも夢は。
夢だけは誰も代わりを与えてくれない。
楓が長い年月を掛けて努力して叶えようとしている夢は、変えがない。決して手放してはいけないんだ。
「楓、無理なのわかってるだろう? 楓のご両親の期待、華屋の期待、そして自分の夢。全部背負ってここまで来たんだ。簡単に手放しちゃいけない。もう夢が現実になる日がそこまで来てる」
「そんなこと……百合がいなければ俺は……」
楓が俺の肩から顔を離して訴える。楓の大きな目からは、涙が幾すじも流れていた。
ごめん、そんな顔をさせて。
俺は楓にそんな顔をさせたかったんじゃない。
「大丈夫。俺は楓を見てるよ。ずっと。楓が幸せならそれで嬉しい。楓の成功が俺の幸せだ。」
────必ず芸の世界で一番になりなさい。そうすれば私は何時でも……を見つけられる。例え近くにいられなくとも……の活躍を見聞きし嬉しく思うだろう───────
そう言ったのは誰だったか。
「例え一番近くにはいられなくても……楓の活躍を見ればいつでも幸せになれる。……愛してるよ、楓。だから、楓も形を変えて俺を幸せにして……!」
精一杯の笑顔を作る。
涙はもう枯れて出ないから大丈夫。
楓には俺の笑顔を覚えていて欲しい。楓に愛されて幸せだった俺のことをどうか。
「百合……っ……」
楓が俺の頬を両手で包んだ。楓の大きな涙の雫は、俺の頬をも濡らす。
でも俺は泣かない。
最後まで、楓の前では笑顔でいよう。そして、最後の時まで伝えよう。
一緒に過ごした日々を後悔しないように、させないように。
「楓、愛してるよ」
楓が泣きながら震える唇を寄せる。
「百合……俺も愛してる」
そうだね。俺達、痛いほど互いを想い合っている。
…………だから、さよならだよ。
「昨日、保科様の屋敷に泊まったって……!」
「いたっ、楓、痛い。離して」
指が二の腕にくい込んでいる。
楓がこんなふうに俺に触るのは初めてで、その力の強さが怖かった。
「答えろ、百合。昨日保科家に泊まって保科様と一晩過ごして…………抱かれたのか!?」
…………!
瞬間、頭に血が昇って、楓の頬に平手を伸ばした。
バシャッ!
けれど、俺の手より早く、水が楓の頭に降った。
「煩いよ! 一度頭を冷やしな!」
水が降った先に顔を上げると、牡丹が湯呑みを逆さまにして立っている。
「牡丹……」
驚きで、呆然と名を呟やく。
楓は俺から腕を下ろし、畳に両手をついてうなだれた。水が太い筋になって、髪からぼたぼたと落ちている。
「嫉妬は舞台の上に置いてきたんじゃないのかい。見苦しいよ! 昨日、ここに帰ってこれなかった百合の気持ちも考えてやんな!」
それだけ言うと、フン、と鼻息荒く自分の部屋へと戻って行った。
楓はまだ同じ姿勢のままで動けないでいて、俺は、手拭いを出して頭を拭いてやった。
「……めん……」
絞り出された小さな声。
それから
「ごめん、こんなことが言いたかったんじゃない」
楓の顔がようやく上がった。
目が充血していて、たった一日で目の下にクマができ、肌もくすんでいる。昨日眠れなかったんだ。俺と同じように一晩泣き明かしたのかもしれない。
その顔を見ると苦しくて、頬を挟んで額を寄せずにはいられなかった。
「俺は楓を裏切らないよ。信じて。俺には楓だけだよ……」
今この言葉にどれだけの意味があるのだろう。でも、言わずにはいられなかった。それに、きっともうすぐ言えなくなるから……。
「わかってるんだ……! わかってるのに……!」
楓が俺を抱き寄せる。
腕に力が入り、骨が砕けそうになるくらいに強く。
「百合、百合、百合……っ」
何度も俺の名を呼ぶけど、俺には楓を抱き返して背を撫でてやることしかできない。
随分長い時あいだそうしていて、空が暗がり始めた頃、楓が静かに言った。
「百合、華屋を出よう……? 華屋を出て二人で暮らそう。仕事を見つけて、その日食べる分だけの稼ぎでもいい。二人で食べ物を分け合って……そうだ、自分たちで畑を耕したっていい」
楓が言葉を紡いで、頭の中に田舎の片隅で慎ましく暮らす俺達を想像した。
きっと楽しくて幸せだろう…………初めのうちは。
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けれどそのうち足りないものに気付くんだ。だって、俺達が求めた幸せはそこにはない。互いを愛していたって、こんなはずじゃなかったという思いがいつかは生まれて互いを傷つける。
そして、残してきた家族や華屋の皆の人生までをも狂わせたことを激しく後悔して苦しむだろう。
楓。人間は愛だけでも夢だけでも生きてはいけないんだ。
でも、楓なら……愛を一度失くしてもまた誰かが注いでくれるだろう。心のどこかに俺が残っていたとしても、新しい愛はきっと楓を満たしてくれる。
でも夢は。
夢だけは誰も代わりを与えてくれない。
楓が長い年月を掛けて努力して叶えようとしている夢は、変えがない。決して手放してはいけないんだ。
「楓、無理なのわかってるだろう? 楓のご両親の期待、華屋の期待、そして自分の夢。全部背負ってここまで来たんだ。簡単に手放しちゃいけない。もう夢が現実になる日がそこまで来てる」
「そんなこと……百合がいなければ俺は……」
楓が俺の肩から顔を離して訴える。楓の大きな目からは、涙が幾すじも流れていた。
ごめん、そんな顔をさせて。
俺は楓にそんな顔をさせたかったんじゃない。
「大丈夫。俺は楓を見てるよ。ずっと。楓が幸せならそれで嬉しい。楓の成功が俺の幸せだ。」
────必ず芸の世界で一番になりなさい。そうすれば私は何時でも……を見つけられる。例え近くにいられなくとも……の活躍を見聞きし嬉しく思うだろう───────
そう言ったのは誰だったか。
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「楓、愛してるよ」
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…………だから、さよならだよ。
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