109 / 149
永遠の約束
微睡み
しおりを挟む
ゆっくりと包みを開いていく。
約二年ものあいだ、引き出しに入れっぱなしだった。
勿論忘れていたわけじゃない。でも、楓とのことがあったり宗光と盃を交わしたりで、堂々と懐かしむには後ろめたくて、奥底深くに閉じ込めたまま日々が過ぎていた。
────そして、保科様は蘭を身請けされたし……でも、この鍔を持ってきて下さった日、おっしゃっていた。
「これだけは百合に持っていて欲しいのだ」と。
翌日には大阪に発たれて江戸にはいなくなるから、お守りの代わりって意味だったのかな?
保科様は自覚なく心を揺さぶる言葉や贈り物をするんだから……ほんと、ずるいね。
「あー、やっぱり……」
包みを開くと、赤や碧の塗りが紙みたいにめくれて、パラパラと白い布に落ちた。長いあいだ布に包んだまま引き出しの奥に入れていたのを、急に外気に当てたせいだ。
そうっと鍔を裏返す。裏には塗りが入ってないから、損傷はないはずだ。
「ん……? なんだろ。なにか彫ってある? 刀の作者名? 違う。漢文……?」
文字が刻まれていたなんて、全然知らなかった。
それを指でなぞり、確かめる。
「私、語、今、宵……」
は、と息が止まる。
裏に彫られていた文字。それは。
「私語今宵別無事 共修河誓又山盟 悠理」
戦国の世に生きた、直江兼続の漢詩だ。
「互いに愛を囁きあったが、別れの日が来ている。誰にも秘密の恋でも、あの山には誓おう。永遠の愛を」という意味が込められた、秘めたる恋の詩。
そして、俺の本当の名前も。
……いつ? いつから彫ってあった? 大阪に発つ前……違う、隆晃様の事件の直後、俺が刀を持つのを拒否した時にも言ってらしたんだ。
「鍔だけは持っていてほしい」って。
あの時にはもう彫ってあった?
「……最初に刀を下さった時から? あの日、必ずそばに置くようにって」
保科様と体を繋いだ最初で最後の夜、保科様は確かにおっしゃった。
単に、陰間の身を守るお守りとしてそう言ったのかと思っていたけど、それだけじゃなかった……?
秘密の恋? 永遠の愛を誓う……?
あの一夜限りではなく、保科様はずっとそんなふうに思ってくれてた?
宗光と別れて以来、出ていなかった涙が頬を濡らす。
保科様は大阪に行く前も、変わらず俺を思っていてくれた……? でも俺、あのあとすぐに楓と。そして一時期は本当に保科様への気持ちを断ち切って……。
楓との恋を後悔したりはしない。俺はあの時、本当に楓が好きだった。
でも、それとは別に、向けられている愛に気づかずに見過ごしていた自分に、どうしようもなく腹が立った。
宗光の時もそうだけど、俺は自分は愛を必死で求めているくせに、与えてくれる愛情にはなにひとつ報いていない。
「馬鹿だな、俺……ほんと、バカ」
今更後悔しても遅い。
────なにより、それができたとして、私の欲でお前のこの先の人生を摘み取りたくないのだ────
そう言っていた保科様は、楓の時も宗光の時も……俺が選んだことならそれでいい、と思ったのだろうか。
「でもさ、やっぱりずるいよ。はっきり言ってくんなきゃわかんないじゃん。ましてや思ってくれてたって、立場上結ばれないって思ってるんだから」
憎まれ口を叩いてみる。
誰にも、保科様にさえ、もうどうせ届かない、過去のことへの憎まれ口なのだから────
俺は簪と鍔を胸に抱き、涙が自然に止まるのを待った。
***
四つ半
三味線の音も止み、階下が静かになった。華の部屋が連なる二階に上がってくる足音もない。柊も椿も下で酔い潰れたのだろう。
今日は茶屋が休みで客はいないからって皆、気を抜きすぎだよ。明日も舞台だぞ、頑張ってよね。
ふふ、と笑いながら、でも少しだけ、華屋から旅立つ自分が寂しくて、布団に深く潜る。
暖かい布団の中で少しずつ微睡み、深い眠りへと入った。
***
「わああああ」とか「ぎゃああああ」と言う叫び声。それと、異様な暑さに薄く目が開く。
なんだ? それに、なんだか苦しい。
頭まで布団に潜っているのに、ツン、と鼻を突く煙の臭いと喉への刺激。
これ、おかしい……。
まだ半分寝ぼけまなこで布団から顔を出した。
「!」
部屋の中が煙で充満している。
階下からは熱気のようなものも上がってきていた。
「か、火事……!?」
布団から跳ね起き、格子窓から外を見ると、着の身着のまま、華屋から逃げ出す陰間達が見えた。女将や旦那も這うようにして外に出ている。
向こうを見れば、保科様のお屋敷あたりからこちらまで、まるで火の川みたいに炎が連なっている。
「に、逃げなきゃ」
そう思うのに、足を踏み出そうとした瞬間、力が抜けて尻もちをついた。嘘みたいに激しく足が震え、腰も抜けている。
「だめ、どうしよう、行かなきゃ……」
なんとか動く手だけで畳を這っていく。浴衣がはだけているけれど、直している余裕はない。
「あ……簪と、鍔……」
枕元にあるのに、遠く感じた。必死に手を伸ばすのに、全然届かない。
「だめだ、とにかく逃げなきゃ……」
体を動かしながらふと視界に入った金魚の水槽。中では二匹が目まぐるしく泳いでいる。
酸素が少ないのか……?
部屋の中、煙が一杯だから……まずい、俺も煙を吸わないようにしないと。
けれど、袂で口を覆うと手の力が足りなくなって、今度は前に進めなくなった。
「どうしよ、どうしよう、動け、足」
言うけど、俺の体なのに言うことを聞かない。
そのうちに炎が廊下に伝ってきたのが見えたのと、外から「百合、百合がいない! 百合!」と女将と柊の叫び声が合わさって聞こえたのが同時だった。
「助けて……誰か、助けて……ぉかみ……弥助さん……権さんっ……!」
俺も答えようと声を出すけど、震える小さな囁きしか出なかった。
恐怖と、喉の苦しさが限界だった。
火の手が部屋に近づく。
───駄目だ。逃げられない。みんな酔いが回ってる。じきに火に包まれるだろうこの部屋に助けに来るなんて無理だ。火消しは? 火消しはまだ来ないの?
頭の隅ではそれさえも無理だとはわかっていた。
湯島全体が火に包まれているんだ。火消しは火事の大元から回っていて、まだこっちまで辿り着けるわけがない。
なによりこんな大火事、水が足りない。
ああ、もう……。
部屋に上がらず広間で寝てればよかった。俺ってホントに不幸な運命。結局一人で死んでいくんだ。でもどうせら東京でも死んだことになっているんだろうし、もういいか……。
「って、駄目だろ! 俺は江戸でナンバーワンの女形になるんだ。絶対幸せになるんだから!」
逃げなきゃ!
腕に力を込める。ほふくでも、とにかく前に進むんだ。
その時。
ダンダンダン! と階段を上り、廊下の板を強く蹴って走ってくる音が響いた。そして。
「……百合!!」
俺の名を呼ぶ声。
顔を上げた俺の前に現れたのは……。
約二年ものあいだ、引き出しに入れっぱなしだった。
勿論忘れていたわけじゃない。でも、楓とのことがあったり宗光と盃を交わしたりで、堂々と懐かしむには後ろめたくて、奥底深くに閉じ込めたまま日々が過ぎていた。
────そして、保科様は蘭を身請けされたし……でも、この鍔を持ってきて下さった日、おっしゃっていた。
「これだけは百合に持っていて欲しいのだ」と。
翌日には大阪に発たれて江戸にはいなくなるから、お守りの代わりって意味だったのかな?
保科様は自覚なく心を揺さぶる言葉や贈り物をするんだから……ほんと、ずるいね。
「あー、やっぱり……」
包みを開くと、赤や碧の塗りが紙みたいにめくれて、パラパラと白い布に落ちた。長いあいだ布に包んだまま引き出しの奥に入れていたのを、急に外気に当てたせいだ。
そうっと鍔を裏返す。裏には塗りが入ってないから、損傷はないはずだ。
「ん……? なんだろ。なにか彫ってある? 刀の作者名? 違う。漢文……?」
文字が刻まれていたなんて、全然知らなかった。
それを指でなぞり、確かめる。
「私、語、今、宵……」
は、と息が止まる。
裏に彫られていた文字。それは。
「私語今宵別無事 共修河誓又山盟 悠理」
戦国の世に生きた、直江兼続の漢詩だ。
「互いに愛を囁きあったが、別れの日が来ている。誰にも秘密の恋でも、あの山には誓おう。永遠の愛を」という意味が込められた、秘めたる恋の詩。
そして、俺の本当の名前も。
……いつ? いつから彫ってあった? 大阪に発つ前……違う、隆晃様の事件の直後、俺が刀を持つのを拒否した時にも言ってらしたんだ。
「鍔だけは持っていてほしい」って。
あの時にはもう彫ってあった?
「……最初に刀を下さった時から? あの日、必ずそばに置くようにって」
保科様と体を繋いだ最初で最後の夜、保科様は確かにおっしゃった。
単に、陰間の身を守るお守りとしてそう言ったのかと思っていたけど、それだけじゃなかった……?
秘密の恋? 永遠の愛を誓う……?
あの一夜限りではなく、保科様はずっとそんなふうに思ってくれてた?
宗光と別れて以来、出ていなかった涙が頬を濡らす。
保科様は大阪に行く前も、変わらず俺を思っていてくれた……? でも俺、あのあとすぐに楓と。そして一時期は本当に保科様への気持ちを断ち切って……。
楓との恋を後悔したりはしない。俺はあの時、本当に楓が好きだった。
でも、それとは別に、向けられている愛に気づかずに見過ごしていた自分に、どうしようもなく腹が立った。
宗光の時もそうだけど、俺は自分は愛を必死で求めているくせに、与えてくれる愛情にはなにひとつ報いていない。
「馬鹿だな、俺……ほんと、バカ」
今更後悔しても遅い。
────なにより、それができたとして、私の欲でお前のこの先の人生を摘み取りたくないのだ────
そう言っていた保科様は、楓の時も宗光の時も……俺が選んだことならそれでいい、と思ったのだろうか。
「でもさ、やっぱりずるいよ。はっきり言ってくんなきゃわかんないじゃん。ましてや思ってくれてたって、立場上結ばれないって思ってるんだから」
憎まれ口を叩いてみる。
誰にも、保科様にさえ、もうどうせ届かない、過去のことへの憎まれ口なのだから────
俺は簪と鍔を胸に抱き、涙が自然に止まるのを待った。
***
四つ半
三味線の音も止み、階下が静かになった。華の部屋が連なる二階に上がってくる足音もない。柊も椿も下で酔い潰れたのだろう。
今日は茶屋が休みで客はいないからって皆、気を抜きすぎだよ。明日も舞台だぞ、頑張ってよね。
ふふ、と笑いながら、でも少しだけ、華屋から旅立つ自分が寂しくて、布団に深く潜る。
暖かい布団の中で少しずつ微睡み、深い眠りへと入った。
***
「わああああ」とか「ぎゃああああ」と言う叫び声。それと、異様な暑さに薄く目が開く。
なんだ? それに、なんだか苦しい。
頭まで布団に潜っているのに、ツン、と鼻を突く煙の臭いと喉への刺激。
これ、おかしい……。
まだ半分寝ぼけまなこで布団から顔を出した。
「!」
部屋の中が煙で充満している。
階下からは熱気のようなものも上がってきていた。
「か、火事……!?」
布団から跳ね起き、格子窓から外を見ると、着の身着のまま、華屋から逃げ出す陰間達が見えた。女将や旦那も這うようにして外に出ている。
向こうを見れば、保科様のお屋敷あたりからこちらまで、まるで火の川みたいに炎が連なっている。
「に、逃げなきゃ」
そう思うのに、足を踏み出そうとした瞬間、力が抜けて尻もちをついた。嘘みたいに激しく足が震え、腰も抜けている。
「だめ、どうしよう、行かなきゃ……」
なんとか動く手だけで畳を這っていく。浴衣がはだけているけれど、直している余裕はない。
「あ……簪と、鍔……」
枕元にあるのに、遠く感じた。必死に手を伸ばすのに、全然届かない。
「だめだ、とにかく逃げなきゃ……」
体を動かしながらふと視界に入った金魚の水槽。中では二匹が目まぐるしく泳いでいる。
酸素が少ないのか……?
部屋の中、煙が一杯だから……まずい、俺も煙を吸わないようにしないと。
けれど、袂で口を覆うと手の力が足りなくなって、今度は前に進めなくなった。
「どうしよ、どうしよう、動け、足」
言うけど、俺の体なのに言うことを聞かない。
そのうちに炎が廊下に伝ってきたのが見えたのと、外から「百合、百合がいない! 百合!」と女将と柊の叫び声が合わさって聞こえたのが同時だった。
「助けて……誰か、助けて……ぉかみ……弥助さん……権さんっ……!」
俺も答えようと声を出すけど、震える小さな囁きしか出なかった。
恐怖と、喉の苦しさが限界だった。
火の手が部屋に近づく。
───駄目だ。逃げられない。みんな酔いが回ってる。じきに火に包まれるだろうこの部屋に助けに来るなんて無理だ。火消しは? 火消しはまだ来ないの?
頭の隅ではそれさえも無理だとはわかっていた。
湯島全体が火に包まれているんだ。火消しは火事の大元から回っていて、まだこっちまで辿り着けるわけがない。
なによりこんな大火事、水が足りない。
ああ、もう……。
部屋に上がらず広間で寝てればよかった。俺ってホントに不幸な運命。結局一人で死んでいくんだ。でもどうせら東京でも死んだことになっているんだろうし、もういいか……。
「って、駄目だろ! 俺は江戸でナンバーワンの女形になるんだ。絶対幸せになるんだから!」
逃げなきゃ!
腕に力を込める。ほふくでも、とにかく前に進むんだ。
その時。
ダンダンダン! と階段を上り、廊下の板を強く蹴って走ってくる音が響いた。そして。
「……百合!!」
俺の名を呼ぶ声。
顔を上げた俺の前に現れたのは……。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
637
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる