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40話 アイザックとの時間
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「太一君! 忙しいところ悪いけど、こっち少し手伝って!」
「今行く!」
ヨーゼフ爺さんの工房で働き始めて一か月。
慣れたようでまだ慣れきらない匂い――熱された金属の匂いと油の混じった空気――が、今日も肌にまとわりつく。
不思議と嫌じゃない。むしろ日を追うごとに、この空気が好きになっている。
学ぶことは尽きず、爺さんの手つきを横で見ているだけで新しい発見がある。
それに、ここへ通ううちに常連の客から裏事情を少しずつ聞き出すことにも慣れてきた。
最近掴んだ情報は、貴族の間で人身売買が密かに広まっているという話。
その中に〈落ち人〉も混じっているらしい。
胸の奥が冷たくなる。
俺自身、一度奴隷商人に捕まったことがある。あの時の息苦しさを覚えているからこそ、他人事にはできない。
兄さんを早く見つけないと――焦りが、作業の手元を少しだけ固くした。
「……ちくん、太一君!」
「うわっ、びっくりした!」
「さっきからずっと呼んでるのに返事しないんだもん」
「ごめん、ちょっと考え事してた」
歩夢よりも柔らかい、けれどはっきりとした言い方をする女の子――工房の先輩だ。
心配そうに覗き込む顔に、俺は思わず苦笑した。
「眉間に皺寄ってるよ。それより太一君、今日はどうする? 泊まってく?」
「いや、今日はアイザックと約束があるから帰るよ」
「そっか! じゃあお爺にも伝えておくね。楽しんで!」
いつも通りの明るさに、胸の張りつめが少しほどける。
そう、今日はアイザックと夕飯に行く約束をしている。
工房に通い出してから、あいつはほぼ毎日のように送り迎えをしてくれるようになった。
帰り道になると当然みたいに「飯行くか」と誘ってくる。
最初の警戒心はどこへ行ったのか、自分でも呆れるくらい流されている。
……まあ、今となっては嫌じゃない。
そんなあれこれをぼんやり考えているうちに、作業はどんどん片づいていった。
───────────────────
「太一、終わったか?」
「あと少し。すぐ行く」
気づけば外は薄暗く、工房の窓が夕焼けを吸ったみたいに赤く染まっている。
俺は急いで仕事を切り上げ、片づけを済ませて帰り支度を整えた。
「いつも迎えありがとな。でも、無理して来なくても平気だけど」
「無理なんてしてねぇ。俺がやりたくてやってることだし、これが一日の楽しみなんだぞ。俺の楽しみを奪わないでくれ」
さらりと、けれど真剣に言うものだから、返す言葉に困る。
その顔は妙に優しくて、胸の奥がむずがゆくなる。
「そ、それより今日はどこ行くんだ?」
「今日は外じゃなくて、俺の家でもいいか? 珍しい肉を手に入れたんだが、ひとりじゃ食い切れなくてな」
「俺は全然いいけど……俺、料理できないぞ?」
「気にすんな。もう作ってある。盛り付けるだけだ」
「あ、そうだった。アイザックって、意外に料理もできるハイスペック男だったわ」
「意外じゃねぇだろ。それと泊まりに来ればいつでも食わせてやるぞ」
軽口を叩き合いながら家に向かう道は、もうすっかりおなじみだ。
着いた頃には空は夜の色に変わっていて、家の窓から漏れる灯りが暖かい。
夕飯は想像以上に豪華で、肉の旨味が口いっぱいに広がる。
リサさんの家庭の温もりある料理とはまた別で、アイザックのは冒険者らしい力強さがある。
「ごちそうさまでした」
「おう。太一は細いわりにいい食いっぷりだな。作り甲斐がある」
「また食べられない時期が来るかもって思うと、つい限界まで食っちまうんだよ。太る前に直さないとな」
アイザックが微かに眉を寄せた。
一瞬、空気が変わった気がしたが、気のせいだと思いかけた――その時。
「太一」
「ん?」
皿を片づけて振り返ると、そのまま強く抱きしめられた。
「うわっ、い、いきなり何っ──!」
アイザックの胸は壁みたいに硬くて、顔がすっぽり埋もれる。
体温がじんわり伝わり、逃げ場がない。
「太一が今までどんな思いをしてきたのか、ベンさんたちから聞いた。思い出したくもないだろうが、その全部まとめて俺が受け止めてやりたい。無理に話せとは言わない。だが、いつか……お前の痛みを、少しは俺にも分けてほしい。その時は、お前がその痛みを忘れるくらい、全力で愛してやる」
「…………」
大きな手が頭をゆっくり撫でる。
背中まで包み込まれて、相手の鼓動がやけに近い。
両親のことはもう割り切れている。
けれど、昔の恋愛の残滓だけは、いつまで経っても心の奥に刺さったままだ。
誰かを信じて全てを預けるなんて、怖くてできなかった。
……でも、この腕なら。
この声なら、もしかしたら――。
こいつがおれの最初の恋人だったら、どれだけ楽だったんだろう。
どうしようもない後悔が胸を締めつけて、でも同時に心が少し軽くなる。
俺はアイザックの胸の中でそっと泣いた。
********
side アイザック
太一が食後に言った言葉が、頭の奥で何度も繰り返された。
「また食べれない時期が来るかもって考えたら――」
細い身体でそんなことを言う。
歩夢も、昔の太一は今よりもっと痩せていたと話していた。
想像するだけで胃が熱くなる。
どんな扱いを受けてきたんだ。
何を我慢させられたんだ。
太一が過去の話をするとき、さりげなく笑って誤魔化すのが余計に胸に刺さる。
まだ出会う前の太一を傷つけたやつらが憎い。
繋がってもいないのに胸の奥でうずくこの怒りを抑えきれず、俺は衝動のまま太一を抱き寄せた。
思ってることを全部伝えた。
お前が望むなら、俺はどんなことだってしてやる。
お前が嫌になるくらい、徹底的に愛してみせる。
だから――
早く俺に堕ちてこい。
心の底から、そう願った。
「今行く!」
ヨーゼフ爺さんの工房で働き始めて一か月。
慣れたようでまだ慣れきらない匂い――熱された金属の匂いと油の混じった空気――が、今日も肌にまとわりつく。
不思議と嫌じゃない。むしろ日を追うごとに、この空気が好きになっている。
学ぶことは尽きず、爺さんの手つきを横で見ているだけで新しい発見がある。
それに、ここへ通ううちに常連の客から裏事情を少しずつ聞き出すことにも慣れてきた。
最近掴んだ情報は、貴族の間で人身売買が密かに広まっているという話。
その中に〈落ち人〉も混じっているらしい。
胸の奥が冷たくなる。
俺自身、一度奴隷商人に捕まったことがある。あの時の息苦しさを覚えているからこそ、他人事にはできない。
兄さんを早く見つけないと――焦りが、作業の手元を少しだけ固くした。
「……ちくん、太一君!」
「うわっ、びっくりした!」
「さっきからずっと呼んでるのに返事しないんだもん」
「ごめん、ちょっと考え事してた」
歩夢よりも柔らかい、けれどはっきりとした言い方をする女の子――工房の先輩だ。
心配そうに覗き込む顔に、俺は思わず苦笑した。
「眉間に皺寄ってるよ。それより太一君、今日はどうする? 泊まってく?」
「いや、今日はアイザックと約束があるから帰るよ」
「そっか! じゃあお爺にも伝えておくね。楽しんで!」
いつも通りの明るさに、胸の張りつめが少しほどける。
そう、今日はアイザックと夕飯に行く約束をしている。
工房に通い出してから、あいつはほぼ毎日のように送り迎えをしてくれるようになった。
帰り道になると当然みたいに「飯行くか」と誘ってくる。
最初の警戒心はどこへ行ったのか、自分でも呆れるくらい流されている。
……まあ、今となっては嫌じゃない。
そんなあれこれをぼんやり考えているうちに、作業はどんどん片づいていった。
───────────────────
「太一、終わったか?」
「あと少し。すぐ行く」
気づけば外は薄暗く、工房の窓が夕焼けを吸ったみたいに赤く染まっている。
俺は急いで仕事を切り上げ、片づけを済ませて帰り支度を整えた。
「いつも迎えありがとな。でも、無理して来なくても平気だけど」
「無理なんてしてねぇ。俺がやりたくてやってることだし、これが一日の楽しみなんだぞ。俺の楽しみを奪わないでくれ」
さらりと、けれど真剣に言うものだから、返す言葉に困る。
その顔は妙に優しくて、胸の奥がむずがゆくなる。
「そ、それより今日はどこ行くんだ?」
「今日は外じゃなくて、俺の家でもいいか? 珍しい肉を手に入れたんだが、ひとりじゃ食い切れなくてな」
「俺は全然いいけど……俺、料理できないぞ?」
「気にすんな。もう作ってある。盛り付けるだけだ」
「あ、そうだった。アイザックって、意外に料理もできるハイスペック男だったわ」
「意外じゃねぇだろ。それと泊まりに来ればいつでも食わせてやるぞ」
軽口を叩き合いながら家に向かう道は、もうすっかりおなじみだ。
着いた頃には空は夜の色に変わっていて、家の窓から漏れる灯りが暖かい。
夕飯は想像以上に豪華で、肉の旨味が口いっぱいに広がる。
リサさんの家庭の温もりある料理とはまた別で、アイザックのは冒険者らしい力強さがある。
「ごちそうさまでした」
「おう。太一は細いわりにいい食いっぷりだな。作り甲斐がある」
「また食べられない時期が来るかもって思うと、つい限界まで食っちまうんだよ。太る前に直さないとな」
アイザックが微かに眉を寄せた。
一瞬、空気が変わった気がしたが、気のせいだと思いかけた――その時。
「太一」
「ん?」
皿を片づけて振り返ると、そのまま強く抱きしめられた。
「うわっ、い、いきなり何っ──!」
アイザックの胸は壁みたいに硬くて、顔がすっぽり埋もれる。
体温がじんわり伝わり、逃げ場がない。
「太一が今までどんな思いをしてきたのか、ベンさんたちから聞いた。思い出したくもないだろうが、その全部まとめて俺が受け止めてやりたい。無理に話せとは言わない。だが、いつか……お前の痛みを、少しは俺にも分けてほしい。その時は、お前がその痛みを忘れるくらい、全力で愛してやる」
「…………」
大きな手が頭をゆっくり撫でる。
背中まで包み込まれて、相手の鼓動がやけに近い。
両親のことはもう割り切れている。
けれど、昔の恋愛の残滓だけは、いつまで経っても心の奥に刺さったままだ。
誰かを信じて全てを預けるなんて、怖くてできなかった。
……でも、この腕なら。
この声なら、もしかしたら――。
こいつがおれの最初の恋人だったら、どれだけ楽だったんだろう。
どうしようもない後悔が胸を締めつけて、でも同時に心が少し軽くなる。
俺はアイザックの胸の中でそっと泣いた。
********
side アイザック
太一が食後に言った言葉が、頭の奥で何度も繰り返された。
「また食べれない時期が来るかもって考えたら――」
細い身体でそんなことを言う。
歩夢も、昔の太一は今よりもっと痩せていたと話していた。
想像するだけで胃が熱くなる。
どんな扱いを受けてきたんだ。
何を我慢させられたんだ。
太一が過去の話をするとき、さりげなく笑って誤魔化すのが余計に胸に刺さる。
まだ出会う前の太一を傷つけたやつらが憎い。
繋がってもいないのに胸の奥でうずくこの怒りを抑えきれず、俺は衝動のまま太一を抱き寄せた。
思ってることを全部伝えた。
お前が望むなら、俺はどんなことだってしてやる。
お前が嫌になるくらい、徹底的に愛してみせる。
だから――
早く俺に堕ちてこい。
心の底から、そう願った。
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