2 / 17
1巻
1-2
しおりを挟む
うちの会社は二ヶ月に一度、シャッフルランチという社内イベントを実施している。それは、他部署の社員とご飯を食べながらコミュニケーションをとる、というもので参加者はランダムに選ばれる。私は入社一年目の秋に選ばれてしまった。
長年勤務していてもまだシャッフルランチに選ばれたことのない人もいる中、まさかこんなに早く自分が選ばれるなんて夢にも思わなかった。でも私にとって、これが運命の出会いにも繋がったのだ。
その時のメンバーは人事部、経理部、海外事業部、企画部、営業部、物流部から選ばれた性別も年齢もバラバラの六人。そんな中、企画部からは梨音ちゃんが参加していた。このシャッフルランチがなければ、梨音ちゃんが同じ会社で働いていることに気がつかなかっただろう。偶然の再会に、梨音ちゃんと二人で喜んだ。それから連絡先を交換し、一緒に食事に行くなど交流が続いている。
「お疲れさま。仕事終わりに一緒になるの久しぶりだよね」
「そう言われるとそうかも」
梨音ちゃんと並んで、駅までの道のりを他愛もない話をしながら歩く。私は倉庫、梨音ちゃんは本社で働いているのでなかなか会えない。たまに、梨音ちゃんが倉庫まで商品を取りに来ることがあるけど、そういう時にかぎって私が席を外していたりする。
「そういえば、梨音ちゃんに教えてもらったジュース屋さん。私もすごいお気に入りになって、よく買っているんだよね」
梨音ちゃんから教えてもらった『フレッシュスター』は開店時間が八時なので、出社前に買えるので本当にありがたい。
「美味しいでしょ。私は毎週金曜日に買っているんだ」
「買う曜日、決めているんだね。私、週三は行ってるかも」
「それは多くない?」
そんなことを話していると、あっという間に駅に着いた。
「じゃ、私はあっちだからまたね」
「うん。お疲れさま。またね」
手を振り、笑顔で別れる。ふと腕時計を確認すると、電車の出発時間が二分後だと気づいて、急いで改札口へ向かった。
第二章 近づく距離
約束の土曜日、電車と徒歩で智美さんのマンションに向かった。玄関のドアが開き、智美さんが笑顔で迎えてくれる。彼女は、オフホワイトのブラウスにカーディガンを羽織り、下はネイビーのフレアスカートをはいている。
「どうぞ、あがって」
「お邪魔します」
靴が何足も並べられている玄関に足を一歩踏み入れると、隅には啓介くんの外で遊ぶ時のものであろうオモチャが置いてある。脱いだ靴を揃え、用意してくれたスリッパを履いた。
「しのちゃーん」
私の名前を呼び、笑顔で駆け寄ってきたのは啓介くん。柔らかな栗色の髪の毛にクリクリな大きな目、ぷっくりしたほっぺは本当に可愛くて天使みたいだ。
「こんにちは、啓介くん。今日は一緒に遊ぼうね」
しゃがんで啓介くんと目線を合わせる。
「うん。ぼく、すべりだいやりたい」
「そうだね、やろうね」
「志乃ちゃん、今日はありがとう」
啓介くんと話をしていると、廊下の奥から旦那さんの比嘉大介部長が歩いてきた。部長は彫りの深い顔つきでがっしりとした体格なので、ちょっと失礼かもしれないけど、動物に例えるなら熊というのがピッタリだ。そのせいで、社内の人から美女と野獣の夫婦と言われている。
啓介くんは間違いなく智美さん似で、将来は絶対にモテると思う。ちなみに、部長と智美さんは一回り年齢が離れていて、智美さんが積極的にアプローチして恋を実らせたと聞いている。
優しくて頼りがいのある比嘉部長、綺麗で気配りのできる智美さん。二人はいいバランスでお似合いの夫婦だ。
「とんでもないです。今日はゆっくり楽しんでくださいね」
私は笑顔で答えた。
「啓介。靴下を穿いて、パパと出かける準備をしよう」
「はーい」
啓介くんは元気に返事をして、比嘉部長の後を追いかける。その姿が可愛くて思わず頬が緩む。
「あの、今日は公園で遊んでお弁当を食べたあとはどうしましょうか? 長時間、外にいるのも啓介くんが疲れますよね?」
運転免許は持っているけど、車は持っていない。移動手段のことが頭からすっかり抜け落ちていた。
「それだったら大丈夫。助っ人がもう一人いるから」
「助っ人ですか?」
「そうなの。最初は志乃ちゃんだけにお願いするつもりだったけど、啓介の相手はかなり疲れると思うのね。それに足があった方がいいって大ちゃんが言うから、車を持っている人に来てもらうことになったの」
廊下を歩き、リビングに向かいながら智美さんが言う。
車があるのは助かるけど、見ず知らずの人と一緒に過ごすのは私にとってかなりハードルが高い。
「そうだったんですね。それで助っ人は誰なんですか? 私の知っている人ですかね?」
誰か気になっておずおずと尋ねた時、ピンポーンとインターホンが鳴った。
比嘉部長が出て「鍵は開いているから入ってきて」とモニター越しに告げる。
ふと、リビングを見ると隅の方にいくつかの段ボールが置かれている。そういえば、啓介くんが大きくなり、部屋が手狭になったので近々引っ越す予定だと言っていた。比嘉家は今、新築を建設中らしい。
玄関のドアが開き「お邪魔します」という男性の声が耳に届いた。助っ人って男性なの?
「遅れてすみません」
どこかで聞いたことのある、耳触りのいいバリトンボイスの持ち主に意識が集中する。
誰なんだろうとドキドキしながら、廊下を歩いてくる男性に目を向けた。
黒の薄手のニットにデニム、足元はくるぶし丈のソックス。髪の毛は無造作に下ろしていて、切れ長の目が印象的な男性だった。
この顔はもしかして……と、胸の鼓動がどんどん速くなっていく。
「政宗、今日は休みなのにすまないな」
「いえ、特になにもすることがなかったので構いませんよ」
比嘉部長の知り合いで、まさむね?
「小笠原さん、今日はよろしくお願いします」
智美さんはそう言って頭を下げる。二人の言った名前を繋げると、彼のフルネームは小笠原政宗ということになる。
「え、小笠原課長……?」
ようやく顔と名前が一致し、まさかそんなことがあっていいのかと動揺して何度も瞬きをする。
「こんにちは、木下さん。今日はよろしく」
課長は特に驚いた様子もなく、私の名前を呼んだ。服装や髪形が仕事の時とは違ってラフだけど、間違いなく小笠原課長だ。予想外の展開にドキドキが止まらない。
それよりも気になったのが、私がいることに課長は全く驚いていなかったことだ。
彼の反応に、少しの違和感を覚える。もしかして、私が一緒だと知っていたんだろうか。
私は助けを求めるように、智美さんを見た。
「志乃ちゃんも知っていると思うけど、経理部の小笠原課長。大ちゃんが『政宗なら車も持っているし、俺が一番信頼しているやつだから安心して啓介と志乃ちゃんを任せられる』って言うから、お願いしちゃった。志乃ちゃんも小笠原さんと何度か話をしたことがあるみたいだし、ちょうどいいかなと思って」
ふふ、と笑う智美さん。確かに話をしたことはあるけど、そういうことは前もって言ってほしかった。完全に事後報告だったので、心の準備ができていない。
「しのちゃん、いこ」
奥の部屋から、啓介くんが笑顔で歩いてきた。その頭にはクマの顔が付いたキャップをかぶっており、小さなリュックも背負っていてすごく可愛い。そんな啓介くんの視線が、課長をとらえた。
「まーくんだ!」
「啓介、大きくなったな」
「うん」
その場でしゃがみ、帽子の上から啓介くんの頭を撫でながら柔らかな笑顔で話す。
小笠原課長の見たこともない笑顔にドキッとする。こんな表情もするんだと、驚きを隠せない。
それに加えて、小笠原課長がまーくん……。その可愛らしい呼び方に、思わず顔がにやけた。
「それじゃあ、お預かりします」
「これ、食べ物とかおもちゃが入っているから、適当に遊んでやって。なにかあったらすぐに連絡してくれていいから」
「分かりました」
課長が比嘉部長からトートバッグを受け取った。本当に今から課長と一緒に過ごすの?
さっきの笑顔といい、ラフな服装や髪型。普段と全然違うので緊張が半端ない。
課長とは必要最低限の仕事の話しかしたことがないけど、今日一日大丈夫かと不安になる。
これはもう、啓介くんに頼るしかない。
「パパ、ママ、いってきまーす」
「行ってらっしゃい。まーくんと志乃ちゃんの言うことをちゃんと聞くのよ」
「はーい。しのちゃん、おててつなご」
ニコニコしながら手を差し出す啓介くんの可愛さに、母性本能をこれでもかとくすぐられて悶える。
「今日はゆっくり過ごしてくださいね」
「ありがとう。お願いね」
私は啓介くんと手をつなぎ、エレベーターに乗り込んだ。操作盤の前に立ち、ボタンを押している課長を見る。彼には、先ほどの言葉通り比嘉部長の絶対的な信頼があるんだろう。
それにしても、会社とは全然違う見慣れない姿にソワソワする。私の視線に気づいたのか、こちらに顔を向けた課長と目が合った瞬間、ドキッと心臓が跳ねた。とっさに啓介くんの方を見る。
ちょうど、私を見上げた啓介くんが「たのしみだね」と笑いかけてくれたおかげで、少し気持ちが落ち着いた。
比嘉家のマンションから歩いてすぐの公園にやってきた。徒歩で五分もかからない距離にあり、気軽に立ち寄れる場所だ。公園はそれほど広い敷地というわけではないけれど、滑り台やブランコ、鉄棒や砂場などが揃っていて、子どもが遊ぶには十分な設備がある。芝生も綺麗に整えられていて、レジャーシートを広げてくつろぐ家族連れの姿もチラホラ見かける。
今日は晴れているけど真夏のような強い日差しではないので、外で過ごすにはちょうどいい天気だ。
「しのちゃん、すべりだいにいこう」
啓介くんがグイグイと私の手を引っ張り、公園の滑り台の方へ向かう。
「ちょっと待って、啓介くん」
三歳児のパワーにすでに圧倒され、焦りながらもついて行った。
「いっしょにすべろ」
「え、私?」
可愛く誘われたはいいものの、滑り台なんて十年以上滑ってないので不安しかない。すると、課長が私の肩にかかっていたバッグに手を伸ばした。
「木下さん、荷物を持っておくから行っておいで」
「ありがとうございます。あの、小笠原課長は滑らないんですか?」
「俺? 指名されてないし、比嘉部長に啓介の写真を撮るように言われているんだ。だから、木下さんに任せるよ」
その口ぶりから、なんとなくだけど滑りたくないんだなとわかった。よく考えると、小笠原課長が滑り台を滑る姿なんて想像できない。
滑り台か……。こうなったら、明日以降の筋肉痛のことは考えず、とことん付き合おう。
公園に行くからと、今日はボーダーのニットにデニムという動きやすい服装にした。もちろん足元はスニーカーだ。
啓介くんに手を引っ張られ、私は十数年ぶりに滑り台を滑ることになった。向かった先はローラー滑り台。あまり高さはないけど、ローラーの部分が少し長いかなというぐらい。
さっきも小さい子どもが滑っていたから、三歳の啓介くんでもできそうだ。
啓介くんは小さな体で一歩ずつ、滑り台の階段を上る。私も、足を踏み外さないように気を配りながら後に続く。先に上った啓介くんが滑り台に座り、笑顔で振り返った。
「しのちゃん、ぼくじょうずにすべれるんだよ。みててね。おーい、まーくん」
滑り台のゴール地点にいる課長に、啓介くんが手を振る。そして滑り台の手すりを持ち、ガラガラと音を鳴らして上手に滑っていく。滑り終わった啓介くんが、下から催促してきた。
「しのちゃーん、はやく」
私も啓介くんがやったように、お尻をつけるように座ってローラーの上を滑り始めたけど、なぜか進みが悪い。途中で止まってしまったので、足でローラーを蹴りながらどうにか滑り終えた。
「しのちゃんもじょうずだね」
「あ……、ありがとう」
ローラーってあんなに振動してお尻に響くものだっただろうか。滑り台はこれで十分かもと思っていたところに、悪魔の囁きが聞こえた。
「もういっかいやろう」
「えっ」
有無を言わさず啓介くんに手を引かれ、私は再び滑り台を滑ることになってしまった。
「しのちゃん、たのしいね。もういっかいすべろ」
満面の笑みで言う啓介くんに、私は苦笑いしかできない。これで何回目だろう。
さっきから何度も滑ったので、お尻が痛くて楽しむどころではない。本音はもう勘弁してもらいたいけど、子ども相手に上手く断ることができない。また滑らないといけないのかと思うとため息が出てしまう。そんな私の心情を察知してくれたのか、課長が助け舟を出してくれた。
「啓介、滑り台は休憩して、そろそろ弁当を食べようか」
「えー」
「ママが作ってくれた弁当、俺が食べるぞ」
「それはだめ」
「じゃあ、弁当食べるか?」
「うん」
啓介くんの返事に私は胸を撫で下ろす。課長は意外にも子どもの扱いに慣れているようで心強い。彼のおかげで、無限ループ滑り台は終わりを告げた。
課長が芝生の上にレジャーシートを広げてくれている間に、私は啓介くんと一緒に手を洗いにいく。私たちが戻ってくると、交代するように課長が手洗い場に向かった。
レジャーシートの上には小さな弁当箱と水筒が置かれていた。これはもしかして啓介くんのお弁当かなと思った瞬間、頭の中で「あれ?」と疑問符が浮かぶ。
不思議に思っていると、手を洗って戻ってきた課長が言う。
「比嘉部長から渡されたトートバッグの中に、啓介の弁当が入っていたんだ」
「そうなんですね」
私はそう答えながらも首を傾げる。私も啓介くんのお弁当を作ってるんだけど……
啓介くんは小さな手を合わせ「いただきます」と言い、フォークでウインナーを刺して口の中に入れる。
その様子を見ながら、私も自分のバッグからお弁当を取り出す。ひとつは啓介くん仕様の小さめの弁当箱、もうひとつは私が仕事の時に使っている普通サイズのもの。
智美さんから『二人分のお弁当をお願いできる?』と頼まれていたので、てっきり自分と啓介くんの分だと思っていた。
なので、子ども向けの手作り弁当のサイトを参考に人気のおかずを選んで作っている。おにぎりも、啓介くんが食べやすいように小さめに握ってラップに包んである。だけど啓介くんが食べているお弁当は、比嘉部長が課長に渡していたトートバッグの中に入っていたものだ。
もしかして、智美さんが言っていた『二人分』というのは私と課長の分だったのかもしれない。
大人用が必要だったなら、それに合わせて作ってきたんだけどな。
そういえば、課長はなにか食べ物を持ってきているんだろうか。見たところ、彼の荷物はレザーのスタイリッシュなボディーバッグだけで、お弁当の類が入っているようには見えない。
私は、思い切って聞くことにした。
「あの、小笠原課長は食べるものとか、持ってきてますか?」
「いや、部長からこっちで弁当は用意するから、手ぶらでいいと言われていたんだ」
その言葉を聞いて、私は完全にやらかしてしまったと頭を抱えた。
「実は、智美さんから二人分のお弁当を頼まれていたんですけど、てっきり啓介くんの分かなと思っていたんです。それが、どうやら私の勘違いだったみたいで……。あの、お子様向けなおかずが多いしお口に合うか分かりませんが、よかったら食べますか?」
おずおずと聞くと、課長は驚いて目を見開いた。
「木下さんが作った弁当?」
「はい。もし、よければですが」
「じゃあ、遠慮なくいただこうかな」
課長の声色は、ほんの少し申し訳なさそうだった。
「どうぞ。本当にお口に合うか保証はできませんけど」
何度も念押しして、自分用の弁当箱を課長に渡した。
彼はお弁当箱の蓋を静かに開けて「いただきます」と言い、割り箸でベーコンの野菜巻きを持ち上げて口に運ぶ。その姿を、少し緊張しながら見守った。
「美味しい」
課長がそう呟いた瞬間、心がふっと軽くなる。
「本当ですか? よかった、お口に合って」
笑顔でそう返すと、課長は少し照れくさそうに言った。
「母親以外の手作り弁当を食べたのは初めてだ」
「そうなんですか?」
予想もしなかった言葉に驚きの声が出た。課長はモテそうだから、そういう経験は何度もあると思っていた。
「あぁ、なかなかそういう機会に恵まれなかったから」
課長は真面目な表情で答える。その言葉は、にわかには信じられないけど。
「なんかすみません。こんなお子様用のお弁当で」
以前、料理教室に通ったことはあった。しかし、料理に絶対的な自信があるわけではないので、彼の初めての手作り弁当が私で申し訳なくなる。
「どうして謝るんだ? すごく美味しいよ。この卵焼きも俺好みだし。ほうれん草が中に入っていて彩りも綺麗だよ」
卵焼きを箸で摘まんで持ち上げる。
「ありがとうございます」
面と向かって褒められて気恥ずかしくなる。お世辞かも知れないけど、そんな風に言ってもらえて素直に嬉しい。いつもは前日の残りのおかずを適当に詰めたり、冷凍食品を利用したりしている。
今日は啓介くん用だと思っていたこともあり、ちゃんと手作りしておいてよかったと心の底から思う。
課長は黙々と弁当を食べ進めているので、私は「お茶を買ってきます」と声をかけて自動販売機に向かった。
小走りで戻ってくると、二人はお弁当を食べ終えていた。啓介くんは、おやつの棒付きのアメを嬉しそうに舐めている。
「お茶、どうぞ」
「ありがとう」
ペットボトルのお茶を渡して、私は残っていた小さなおにぎりを頬張った。
公園にはゆったりとした時間が流れていて、たまにはこんな休日もいいものだなと感じる。
ぼんやりとしていると突然、緑色の物体が跳ねてきて私の足に飛び乗った。
「うわっ」
驚きで思わず大きな声が出る。
そして反射的に足を上げた瞬間、バランスを崩してしまった。
「大丈夫か?」
課長が倒れそうになった私の体を手で支えてくれた。バッタに驚いてひっくり返りそうになったなんて、恥ずかしすぎる。
「す、すみません」
「しのちゃん、どうしたの?」
私が慌てて体を起こすと、啓介くんが心配そうに聞いてくる。大人が突然、大きな声で叫んだら気になるよね。
「緑のバッタが足に飛んできたからビックリして、大きな声が出ちゃった」
「バッタ?」
今度は課長が口を開く。
「はい。バッタです。虫は見るのはギリギリ大丈夫なんですけど、触ったりするのはちょっと苦手で」
「それは災難だったな」
課長が苦笑いしながら言う。
「しのちゃん、バッタきらいなの?」
啓介くんがクリクリした目をして聞いてくる。苦手という言葉の意味は、三歳の子には難しいかもしれない。好きとか嫌いが分かるなら、怖いと言えば大丈夫そうかな。
「嫌いというか、ピョンピョン跳ねるのが怖いんだよね」
「しのちゃん、おとななのにバッタがこわいの? ママはてでつかまえてくれるよ」
啓介くんはクスクス笑う。この答えは正解だったみたいだ。
それにしても、バッタを手で捕まえられるなんて智美さんはすごいな。私は、絶対に無理だ。
「まーくん、ボールであそぼ」
啓介くんがトートバッグをゴソゴソとあさり、手のひらサイズのボールを取り出す。
「よし、やろうか」
課長は立ち上がり、啓介くんの後を追いかけていく。そして、二人はボールを転がして遊び始めた。私はその姿を見ながら、なんだか不思議な気持ちになる。
あの無口で堅物だと噂される人が、笑顔で子どもとボール遊びするなんて信じられない。
しかも、走っているなんてレアすぎる。博美がこの光景を見たら、発狂するんじゃないだろうか。
スーツ姿しか見たことがなかったから、私服のラフなスニーカーとデニム姿にドキドキしてしまう。数時間一緒に過ごしてみて、改めて素敵な人だと思った。常に啓介くんのことを気にかけていて、彼が転びそうになった時はすぐに手を伸ばして支えていた。何気ない一瞬だったけど、課長の優しさと反射的な行動を見て、将来はきっといいお父さんになりそうだと思った。
それに、私が作ったお弁当を残さず食べてくれて『ごちそうさま、弁当ありがとう』と言ってくれた。その一言からも、気遣いや感謝の気持ちが伝わってきて嬉しくなる。
『お礼に今度、なにかご馳走する』と言われたけど、遠慮しておいた。そこまでしてもらうほどのことではないと思ったからだ。
それにしても、博美は課長に彼女はいないと断言していたけど、どうしても信じられない。
こんなに穏やかで気遣いができて、子どもに対しても優しく接することができる人なのだから、特別な人がいるはずだ。そう考えた瞬間、胸がチクリと痛んだ。
「しのちゃーん、しゃしんとって」
不意に、ボールを手に持った啓介くんが、課長に抱っこされながら嬉しそうに叫ぶ。
そういえば、課長も比嘉部長に写真を撮るように頼まれていると言っていた。
だから、さっきも滑り台を滑っている啓介くんの写真を撮っていたっけ。
私はバッグからスマホを取り出す。カメラを起動してピントを合わせていると、画面越しに課長と目が合ったような気がした。写真を撮るんだから、こちらを見るのは当然のこと。
それなのに、変に意識してしまい動揺から手が震える。
「い、いくよ。はいチーズ」
どうにか気持ちを落ち着かせて、掛け声とともに画面をタップする。しかし、撮れた画像を見ると少しブレていた。
長年勤務していてもまだシャッフルランチに選ばれたことのない人もいる中、まさかこんなに早く自分が選ばれるなんて夢にも思わなかった。でも私にとって、これが運命の出会いにも繋がったのだ。
その時のメンバーは人事部、経理部、海外事業部、企画部、営業部、物流部から選ばれた性別も年齢もバラバラの六人。そんな中、企画部からは梨音ちゃんが参加していた。このシャッフルランチがなければ、梨音ちゃんが同じ会社で働いていることに気がつかなかっただろう。偶然の再会に、梨音ちゃんと二人で喜んだ。それから連絡先を交換し、一緒に食事に行くなど交流が続いている。
「お疲れさま。仕事終わりに一緒になるの久しぶりだよね」
「そう言われるとそうかも」
梨音ちゃんと並んで、駅までの道のりを他愛もない話をしながら歩く。私は倉庫、梨音ちゃんは本社で働いているのでなかなか会えない。たまに、梨音ちゃんが倉庫まで商品を取りに来ることがあるけど、そういう時にかぎって私が席を外していたりする。
「そういえば、梨音ちゃんに教えてもらったジュース屋さん。私もすごいお気に入りになって、よく買っているんだよね」
梨音ちゃんから教えてもらった『フレッシュスター』は開店時間が八時なので、出社前に買えるので本当にありがたい。
「美味しいでしょ。私は毎週金曜日に買っているんだ」
「買う曜日、決めているんだね。私、週三は行ってるかも」
「それは多くない?」
そんなことを話していると、あっという間に駅に着いた。
「じゃ、私はあっちだからまたね」
「うん。お疲れさま。またね」
手を振り、笑顔で別れる。ふと腕時計を確認すると、電車の出発時間が二分後だと気づいて、急いで改札口へ向かった。
第二章 近づく距離
約束の土曜日、電車と徒歩で智美さんのマンションに向かった。玄関のドアが開き、智美さんが笑顔で迎えてくれる。彼女は、オフホワイトのブラウスにカーディガンを羽織り、下はネイビーのフレアスカートをはいている。
「どうぞ、あがって」
「お邪魔します」
靴が何足も並べられている玄関に足を一歩踏み入れると、隅には啓介くんの外で遊ぶ時のものであろうオモチャが置いてある。脱いだ靴を揃え、用意してくれたスリッパを履いた。
「しのちゃーん」
私の名前を呼び、笑顔で駆け寄ってきたのは啓介くん。柔らかな栗色の髪の毛にクリクリな大きな目、ぷっくりしたほっぺは本当に可愛くて天使みたいだ。
「こんにちは、啓介くん。今日は一緒に遊ぼうね」
しゃがんで啓介くんと目線を合わせる。
「うん。ぼく、すべりだいやりたい」
「そうだね、やろうね」
「志乃ちゃん、今日はありがとう」
啓介くんと話をしていると、廊下の奥から旦那さんの比嘉大介部長が歩いてきた。部長は彫りの深い顔つきでがっしりとした体格なので、ちょっと失礼かもしれないけど、動物に例えるなら熊というのがピッタリだ。そのせいで、社内の人から美女と野獣の夫婦と言われている。
啓介くんは間違いなく智美さん似で、将来は絶対にモテると思う。ちなみに、部長と智美さんは一回り年齢が離れていて、智美さんが積極的にアプローチして恋を実らせたと聞いている。
優しくて頼りがいのある比嘉部長、綺麗で気配りのできる智美さん。二人はいいバランスでお似合いの夫婦だ。
「とんでもないです。今日はゆっくり楽しんでくださいね」
私は笑顔で答えた。
「啓介。靴下を穿いて、パパと出かける準備をしよう」
「はーい」
啓介くんは元気に返事をして、比嘉部長の後を追いかける。その姿が可愛くて思わず頬が緩む。
「あの、今日は公園で遊んでお弁当を食べたあとはどうしましょうか? 長時間、外にいるのも啓介くんが疲れますよね?」
運転免許は持っているけど、車は持っていない。移動手段のことが頭からすっかり抜け落ちていた。
「それだったら大丈夫。助っ人がもう一人いるから」
「助っ人ですか?」
「そうなの。最初は志乃ちゃんだけにお願いするつもりだったけど、啓介の相手はかなり疲れると思うのね。それに足があった方がいいって大ちゃんが言うから、車を持っている人に来てもらうことになったの」
廊下を歩き、リビングに向かいながら智美さんが言う。
車があるのは助かるけど、見ず知らずの人と一緒に過ごすのは私にとってかなりハードルが高い。
「そうだったんですね。それで助っ人は誰なんですか? 私の知っている人ですかね?」
誰か気になっておずおずと尋ねた時、ピンポーンとインターホンが鳴った。
比嘉部長が出て「鍵は開いているから入ってきて」とモニター越しに告げる。
ふと、リビングを見ると隅の方にいくつかの段ボールが置かれている。そういえば、啓介くんが大きくなり、部屋が手狭になったので近々引っ越す予定だと言っていた。比嘉家は今、新築を建設中らしい。
玄関のドアが開き「お邪魔します」という男性の声が耳に届いた。助っ人って男性なの?
「遅れてすみません」
どこかで聞いたことのある、耳触りのいいバリトンボイスの持ち主に意識が集中する。
誰なんだろうとドキドキしながら、廊下を歩いてくる男性に目を向けた。
黒の薄手のニットにデニム、足元はくるぶし丈のソックス。髪の毛は無造作に下ろしていて、切れ長の目が印象的な男性だった。
この顔はもしかして……と、胸の鼓動がどんどん速くなっていく。
「政宗、今日は休みなのにすまないな」
「いえ、特になにもすることがなかったので構いませんよ」
比嘉部長の知り合いで、まさむね?
「小笠原さん、今日はよろしくお願いします」
智美さんはそう言って頭を下げる。二人の言った名前を繋げると、彼のフルネームは小笠原政宗ということになる。
「え、小笠原課長……?」
ようやく顔と名前が一致し、まさかそんなことがあっていいのかと動揺して何度も瞬きをする。
「こんにちは、木下さん。今日はよろしく」
課長は特に驚いた様子もなく、私の名前を呼んだ。服装や髪形が仕事の時とは違ってラフだけど、間違いなく小笠原課長だ。予想外の展開にドキドキが止まらない。
それよりも気になったのが、私がいることに課長は全く驚いていなかったことだ。
彼の反応に、少しの違和感を覚える。もしかして、私が一緒だと知っていたんだろうか。
私は助けを求めるように、智美さんを見た。
「志乃ちゃんも知っていると思うけど、経理部の小笠原課長。大ちゃんが『政宗なら車も持っているし、俺が一番信頼しているやつだから安心して啓介と志乃ちゃんを任せられる』って言うから、お願いしちゃった。志乃ちゃんも小笠原さんと何度か話をしたことがあるみたいだし、ちょうどいいかなと思って」
ふふ、と笑う智美さん。確かに話をしたことはあるけど、そういうことは前もって言ってほしかった。完全に事後報告だったので、心の準備ができていない。
「しのちゃん、いこ」
奥の部屋から、啓介くんが笑顔で歩いてきた。その頭にはクマの顔が付いたキャップをかぶっており、小さなリュックも背負っていてすごく可愛い。そんな啓介くんの視線が、課長をとらえた。
「まーくんだ!」
「啓介、大きくなったな」
「うん」
その場でしゃがみ、帽子の上から啓介くんの頭を撫でながら柔らかな笑顔で話す。
小笠原課長の見たこともない笑顔にドキッとする。こんな表情もするんだと、驚きを隠せない。
それに加えて、小笠原課長がまーくん……。その可愛らしい呼び方に、思わず顔がにやけた。
「それじゃあ、お預かりします」
「これ、食べ物とかおもちゃが入っているから、適当に遊んでやって。なにかあったらすぐに連絡してくれていいから」
「分かりました」
課長が比嘉部長からトートバッグを受け取った。本当に今から課長と一緒に過ごすの?
さっきの笑顔といい、ラフな服装や髪型。普段と全然違うので緊張が半端ない。
課長とは必要最低限の仕事の話しかしたことがないけど、今日一日大丈夫かと不安になる。
これはもう、啓介くんに頼るしかない。
「パパ、ママ、いってきまーす」
「行ってらっしゃい。まーくんと志乃ちゃんの言うことをちゃんと聞くのよ」
「はーい。しのちゃん、おててつなご」
ニコニコしながら手を差し出す啓介くんの可愛さに、母性本能をこれでもかとくすぐられて悶える。
「今日はゆっくり過ごしてくださいね」
「ありがとう。お願いね」
私は啓介くんと手をつなぎ、エレベーターに乗り込んだ。操作盤の前に立ち、ボタンを押している課長を見る。彼には、先ほどの言葉通り比嘉部長の絶対的な信頼があるんだろう。
それにしても、会社とは全然違う見慣れない姿にソワソワする。私の視線に気づいたのか、こちらに顔を向けた課長と目が合った瞬間、ドキッと心臓が跳ねた。とっさに啓介くんの方を見る。
ちょうど、私を見上げた啓介くんが「たのしみだね」と笑いかけてくれたおかげで、少し気持ちが落ち着いた。
比嘉家のマンションから歩いてすぐの公園にやってきた。徒歩で五分もかからない距離にあり、気軽に立ち寄れる場所だ。公園はそれほど広い敷地というわけではないけれど、滑り台やブランコ、鉄棒や砂場などが揃っていて、子どもが遊ぶには十分な設備がある。芝生も綺麗に整えられていて、レジャーシートを広げてくつろぐ家族連れの姿もチラホラ見かける。
今日は晴れているけど真夏のような強い日差しではないので、外で過ごすにはちょうどいい天気だ。
「しのちゃん、すべりだいにいこう」
啓介くんがグイグイと私の手を引っ張り、公園の滑り台の方へ向かう。
「ちょっと待って、啓介くん」
三歳児のパワーにすでに圧倒され、焦りながらもついて行った。
「いっしょにすべろ」
「え、私?」
可愛く誘われたはいいものの、滑り台なんて十年以上滑ってないので不安しかない。すると、課長が私の肩にかかっていたバッグに手を伸ばした。
「木下さん、荷物を持っておくから行っておいで」
「ありがとうございます。あの、小笠原課長は滑らないんですか?」
「俺? 指名されてないし、比嘉部長に啓介の写真を撮るように言われているんだ。だから、木下さんに任せるよ」
その口ぶりから、なんとなくだけど滑りたくないんだなとわかった。よく考えると、小笠原課長が滑り台を滑る姿なんて想像できない。
滑り台か……。こうなったら、明日以降の筋肉痛のことは考えず、とことん付き合おう。
公園に行くからと、今日はボーダーのニットにデニムという動きやすい服装にした。もちろん足元はスニーカーだ。
啓介くんに手を引っ張られ、私は十数年ぶりに滑り台を滑ることになった。向かった先はローラー滑り台。あまり高さはないけど、ローラーの部分が少し長いかなというぐらい。
さっきも小さい子どもが滑っていたから、三歳の啓介くんでもできそうだ。
啓介くんは小さな体で一歩ずつ、滑り台の階段を上る。私も、足を踏み外さないように気を配りながら後に続く。先に上った啓介くんが滑り台に座り、笑顔で振り返った。
「しのちゃん、ぼくじょうずにすべれるんだよ。みててね。おーい、まーくん」
滑り台のゴール地点にいる課長に、啓介くんが手を振る。そして滑り台の手すりを持ち、ガラガラと音を鳴らして上手に滑っていく。滑り終わった啓介くんが、下から催促してきた。
「しのちゃーん、はやく」
私も啓介くんがやったように、お尻をつけるように座ってローラーの上を滑り始めたけど、なぜか進みが悪い。途中で止まってしまったので、足でローラーを蹴りながらどうにか滑り終えた。
「しのちゃんもじょうずだね」
「あ……、ありがとう」
ローラーってあんなに振動してお尻に響くものだっただろうか。滑り台はこれで十分かもと思っていたところに、悪魔の囁きが聞こえた。
「もういっかいやろう」
「えっ」
有無を言わさず啓介くんに手を引かれ、私は再び滑り台を滑ることになってしまった。
「しのちゃん、たのしいね。もういっかいすべろ」
満面の笑みで言う啓介くんに、私は苦笑いしかできない。これで何回目だろう。
さっきから何度も滑ったので、お尻が痛くて楽しむどころではない。本音はもう勘弁してもらいたいけど、子ども相手に上手く断ることができない。また滑らないといけないのかと思うとため息が出てしまう。そんな私の心情を察知してくれたのか、課長が助け舟を出してくれた。
「啓介、滑り台は休憩して、そろそろ弁当を食べようか」
「えー」
「ママが作ってくれた弁当、俺が食べるぞ」
「それはだめ」
「じゃあ、弁当食べるか?」
「うん」
啓介くんの返事に私は胸を撫で下ろす。課長は意外にも子どもの扱いに慣れているようで心強い。彼のおかげで、無限ループ滑り台は終わりを告げた。
課長が芝生の上にレジャーシートを広げてくれている間に、私は啓介くんと一緒に手を洗いにいく。私たちが戻ってくると、交代するように課長が手洗い場に向かった。
レジャーシートの上には小さな弁当箱と水筒が置かれていた。これはもしかして啓介くんのお弁当かなと思った瞬間、頭の中で「あれ?」と疑問符が浮かぶ。
不思議に思っていると、手を洗って戻ってきた課長が言う。
「比嘉部長から渡されたトートバッグの中に、啓介の弁当が入っていたんだ」
「そうなんですね」
私はそう答えながらも首を傾げる。私も啓介くんのお弁当を作ってるんだけど……
啓介くんは小さな手を合わせ「いただきます」と言い、フォークでウインナーを刺して口の中に入れる。
その様子を見ながら、私も自分のバッグからお弁当を取り出す。ひとつは啓介くん仕様の小さめの弁当箱、もうひとつは私が仕事の時に使っている普通サイズのもの。
智美さんから『二人分のお弁当をお願いできる?』と頼まれていたので、てっきり自分と啓介くんの分だと思っていた。
なので、子ども向けの手作り弁当のサイトを参考に人気のおかずを選んで作っている。おにぎりも、啓介くんが食べやすいように小さめに握ってラップに包んである。だけど啓介くんが食べているお弁当は、比嘉部長が課長に渡していたトートバッグの中に入っていたものだ。
もしかして、智美さんが言っていた『二人分』というのは私と課長の分だったのかもしれない。
大人用が必要だったなら、それに合わせて作ってきたんだけどな。
そういえば、課長はなにか食べ物を持ってきているんだろうか。見たところ、彼の荷物はレザーのスタイリッシュなボディーバッグだけで、お弁当の類が入っているようには見えない。
私は、思い切って聞くことにした。
「あの、小笠原課長は食べるものとか、持ってきてますか?」
「いや、部長からこっちで弁当は用意するから、手ぶらでいいと言われていたんだ」
その言葉を聞いて、私は完全にやらかしてしまったと頭を抱えた。
「実は、智美さんから二人分のお弁当を頼まれていたんですけど、てっきり啓介くんの分かなと思っていたんです。それが、どうやら私の勘違いだったみたいで……。あの、お子様向けなおかずが多いしお口に合うか分かりませんが、よかったら食べますか?」
おずおずと聞くと、課長は驚いて目を見開いた。
「木下さんが作った弁当?」
「はい。もし、よければですが」
「じゃあ、遠慮なくいただこうかな」
課長の声色は、ほんの少し申し訳なさそうだった。
「どうぞ。本当にお口に合うか保証はできませんけど」
何度も念押しして、自分用の弁当箱を課長に渡した。
彼はお弁当箱の蓋を静かに開けて「いただきます」と言い、割り箸でベーコンの野菜巻きを持ち上げて口に運ぶ。その姿を、少し緊張しながら見守った。
「美味しい」
課長がそう呟いた瞬間、心がふっと軽くなる。
「本当ですか? よかった、お口に合って」
笑顔でそう返すと、課長は少し照れくさそうに言った。
「母親以外の手作り弁当を食べたのは初めてだ」
「そうなんですか?」
予想もしなかった言葉に驚きの声が出た。課長はモテそうだから、そういう経験は何度もあると思っていた。
「あぁ、なかなかそういう機会に恵まれなかったから」
課長は真面目な表情で答える。その言葉は、にわかには信じられないけど。
「なんかすみません。こんなお子様用のお弁当で」
以前、料理教室に通ったことはあった。しかし、料理に絶対的な自信があるわけではないので、彼の初めての手作り弁当が私で申し訳なくなる。
「どうして謝るんだ? すごく美味しいよ。この卵焼きも俺好みだし。ほうれん草が中に入っていて彩りも綺麗だよ」
卵焼きを箸で摘まんで持ち上げる。
「ありがとうございます」
面と向かって褒められて気恥ずかしくなる。お世辞かも知れないけど、そんな風に言ってもらえて素直に嬉しい。いつもは前日の残りのおかずを適当に詰めたり、冷凍食品を利用したりしている。
今日は啓介くん用だと思っていたこともあり、ちゃんと手作りしておいてよかったと心の底から思う。
課長は黙々と弁当を食べ進めているので、私は「お茶を買ってきます」と声をかけて自動販売機に向かった。
小走りで戻ってくると、二人はお弁当を食べ終えていた。啓介くんは、おやつの棒付きのアメを嬉しそうに舐めている。
「お茶、どうぞ」
「ありがとう」
ペットボトルのお茶を渡して、私は残っていた小さなおにぎりを頬張った。
公園にはゆったりとした時間が流れていて、たまにはこんな休日もいいものだなと感じる。
ぼんやりとしていると突然、緑色の物体が跳ねてきて私の足に飛び乗った。
「うわっ」
驚きで思わず大きな声が出る。
そして反射的に足を上げた瞬間、バランスを崩してしまった。
「大丈夫か?」
課長が倒れそうになった私の体を手で支えてくれた。バッタに驚いてひっくり返りそうになったなんて、恥ずかしすぎる。
「す、すみません」
「しのちゃん、どうしたの?」
私が慌てて体を起こすと、啓介くんが心配そうに聞いてくる。大人が突然、大きな声で叫んだら気になるよね。
「緑のバッタが足に飛んできたからビックリして、大きな声が出ちゃった」
「バッタ?」
今度は課長が口を開く。
「はい。バッタです。虫は見るのはギリギリ大丈夫なんですけど、触ったりするのはちょっと苦手で」
「それは災難だったな」
課長が苦笑いしながら言う。
「しのちゃん、バッタきらいなの?」
啓介くんがクリクリした目をして聞いてくる。苦手という言葉の意味は、三歳の子には難しいかもしれない。好きとか嫌いが分かるなら、怖いと言えば大丈夫そうかな。
「嫌いというか、ピョンピョン跳ねるのが怖いんだよね」
「しのちゃん、おとななのにバッタがこわいの? ママはてでつかまえてくれるよ」
啓介くんはクスクス笑う。この答えは正解だったみたいだ。
それにしても、バッタを手で捕まえられるなんて智美さんはすごいな。私は、絶対に無理だ。
「まーくん、ボールであそぼ」
啓介くんがトートバッグをゴソゴソとあさり、手のひらサイズのボールを取り出す。
「よし、やろうか」
課長は立ち上がり、啓介くんの後を追いかけていく。そして、二人はボールを転がして遊び始めた。私はその姿を見ながら、なんだか不思議な気持ちになる。
あの無口で堅物だと噂される人が、笑顔で子どもとボール遊びするなんて信じられない。
しかも、走っているなんてレアすぎる。博美がこの光景を見たら、発狂するんじゃないだろうか。
スーツ姿しか見たことがなかったから、私服のラフなスニーカーとデニム姿にドキドキしてしまう。数時間一緒に過ごしてみて、改めて素敵な人だと思った。常に啓介くんのことを気にかけていて、彼が転びそうになった時はすぐに手を伸ばして支えていた。何気ない一瞬だったけど、課長の優しさと反射的な行動を見て、将来はきっといいお父さんになりそうだと思った。
それに、私が作ったお弁当を残さず食べてくれて『ごちそうさま、弁当ありがとう』と言ってくれた。その一言からも、気遣いや感謝の気持ちが伝わってきて嬉しくなる。
『お礼に今度、なにかご馳走する』と言われたけど、遠慮しておいた。そこまでしてもらうほどのことではないと思ったからだ。
それにしても、博美は課長に彼女はいないと断言していたけど、どうしても信じられない。
こんなに穏やかで気遣いができて、子どもに対しても優しく接することができる人なのだから、特別な人がいるはずだ。そう考えた瞬間、胸がチクリと痛んだ。
「しのちゃーん、しゃしんとって」
不意に、ボールを手に持った啓介くんが、課長に抱っこされながら嬉しそうに叫ぶ。
そういえば、課長も比嘉部長に写真を撮るように頼まれていると言っていた。
だから、さっきも滑り台を滑っている啓介くんの写真を撮っていたっけ。
私はバッグからスマホを取り出す。カメラを起動してピントを合わせていると、画面越しに課長と目が合ったような気がした。写真を撮るんだから、こちらを見るのは当然のこと。
それなのに、変に意識してしまい動揺から手が震える。
「い、いくよ。はいチーズ」
どうにか気持ちを落ち着かせて、掛け声とともに画面をタップする。しかし、撮れた画像を見ると少しブレていた。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】エリート産業医はウブな彼女を溺愛する。
花澤凛
恋愛
第17回 恋愛小説大賞 奨励賞受賞
皆さまのおかげで賞をいただくことになりました。
ありがとうございます。
今好きな人がいます。
相手は殿上人の千秋柾哉先生。
仕事上の関係で気まずくなるぐらいなら眺めているままでよかった。
それなのに千秋先生からまさかの告白…?!
「俺と付き合ってくれませんか」
どうしよう。うそ。え?本当に?
「結構はじめから可愛いなあって思ってた」
「なんとか自分のものにできないかなって」
「果穂。名前で呼んで」
「今日から俺のもの、ね?」
福原果穂26歳:OL:人事労務部
×
千秋柾哉33歳:産業医(名門外科医家系御曹司出身)
氷の上司に、好きがバレたら終わりや
naomikoryo
恋愛
──地方から本社に異動してきた29歳独身OL・舞子。
お調子者で明るく、ちょっとおせっかいな彼女の前に現れたのは、
“氷のように冷たい”と社内で噂される40歳のイケメン上司・本庄誠。
最初は「怖い」としか思えなかったはずのその人が、
実は誰よりもまっすぐで、優しくて、不器用な人だと知ったとき――
舞子の中で、恋が芽生えはじめる。
でも、彼には誰も知らない過去があった。
そして舞子は、自分の恋心を隠しながら、ゆっくりとその心の氷を溶かしていく。
◆恋って、“バレたら終わり”なんやろか?
◆それとも、“言わな、始まらへん”んやろか?
そんな揺れる想いを抱えながら、仕事も恋も全力投球。
笑って、泣いて、つまずいて――それでも、前を向く彼女の姿に、きっとあなたも自分を重ねたくなる。
関西出身のヒロイン×無口な年上上司の、20話で完結するライト文芸ラブストーリー。
仕事に恋に揺れるすべてのOLさんたちへ。
「この恋、うちのことかも」と思わず呟きたくなる、等身大の恋を、ぜひ読んでみてください。
エリート御曹司に甘く介抱され、独占欲全開で迫られています
小達出みかん
恋愛
旧題:残業シンデレラに、王子様の溺愛を
「自分は世界一、醜い女なんだーー」過去の辛い失恋から、男性にトラウマがあるさやかは、恋愛を遠ざけ、仕事に精を出して生きていた。一生誰とも付き合わないし、結婚しない。そう決めて、社内でも一番の地味女として「論外」扱いされていたはずなのに、なぜか営業部の王子様•小鳥遊が、やたらとちょっかいをかけてくる。相手にしたくないさやかだったが、ある日エレベーターで過呼吸を起こしてしまったところを助けられてしまいーー。
「お礼に、俺とキスフレンドになってくれない?」
さやかの鉄壁の防御を溶かしていく小鳥遊。けれど彼には、元婚約者がいてーー?
苦手な冷徹専務が義兄になったかと思ったら極あま顔で迫ってくるんですが、なんででしょう?~偽家族恋愛~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「こちら、再婚相手の息子の仁さん」
母に紹介され、なにかの間違いだと思った。
だってそこにいたのは、私が敵視している専務だったから。
それだけでもかなりな不安案件なのに。
私の住んでいるマンションに下着泥が出た話題から、さらに。
「そうだ、仁のマンションに引っ越せばいい」
なーんて義父になる人が言い出して。
結局、反対できないまま専務と同居する羽目に。
前途多難な同居生活。
相変わらず専務はなに考えているかわからない。
……かと思えば。
「兄妹ならするだろ、これくらい」
当たり前のように落とされる、額へのキス。
いったい、どうなってんのー!?
三ツ森涼夏
24歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』営業戦略部勤務
背が低く、振り返ったら忘れられるくらい、特徴のない顔がコンプレックス。
小1の時に両親が離婚して以来、母親を支えてきた頑張り屋さん。
たまにその頑張りが空回りすることも?
恋愛、苦手というより、嫌い。
淋しい、をちゃんと言えずにきた人。
×
八雲仁
30歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』専務
背が高く、眼鏡のイケメン。
ただし、いつも無表情。
集中すると周りが見えなくなる。
そのことで周囲には誤解を与えがちだが、弁明する気はない。
小さい頃に母親が他界し、それ以来、ひとりで淋しさを抱えてきた人。
ふたりはちゃんと義兄妹になれるのか、それとも……!?
*****
千里専務のその後→『絶対零度の、ハーフ御曹司の愛ブルーの瞳をゲーヲタの私に溶かせとか言っています?……』
*****
表紙画像 湯弐様 pixiv ID3989101
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
恋に臆病な私と恋を知らなかった御曹司の距離が、ゼロになるまで
夏目萌
恋愛
過去の恋愛が原因で、「女にだらしない男」を何よりも嫌う向坂 来海(29)。
一方、御曹司で誰にでも優しく、来る者拒まず──けれど、誰にも本気になったことのない羽柴 充輝(29)。
本来なら交わるはずのなかった二人は、ある出来事をきっかけに関わるようになる。
他の女性とは違い媚びることも期待することもない来海の態度に、充輝は次第に強く惹かれていく。
「誰にも本気にならない」はずだった彼の、一途すぎる想いに触れ、恋を信じることを避けてきた来海の心は少しずつ揺らぎ始めていき――。
不器用で焦れったくて、簡単には進まない二人の恋の行方は……。
他サイト様にも掲載中
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
**2026.01.02start~2026.01.17end**
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。