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1巻
1-3
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「すみません、ちょっとブレてしまったので、もう一度撮り直してもいいですか」
「いいよ。ほら、啓介も志乃ちゃんの持っているスマホを見て」
そう言って課長は私のスマホを指差した。
課長が私の名前を呼んだ瞬間、胸がドキッと高鳴る。つい、どうして名前を知っているんだろうと思ってしまったけど、比嘉夫妻や啓介くんが私のことを志乃ちゃんと呼んでいたからかと思い直す。
ほんの一瞬の出来事だったのに、頭の中ではいろんな考えが駆け巡っていた。
「しのちゃん、まだ?」
啓介くんに呼ばれ、ハッとして私は慌ててスマホを構える。
「ごめん、今撮るね」
失敗しないように今度は連写した。これだけ撮れば一枚ぐらいはいい写真があるだろう。
「撮れたよ」
「みせてみせて」
課長の腕から下り、小走りで駆け寄ってくる啓介くんに、私は撮れた写真を見せてあげた。
「わぁ、まーくんとなかよしだ」
「そうだな」
「しのちゃんもいっしょにとろう」
不意に啓介くんが笑顔で言った。
「私も?」
「うん。ぼくとまーくんとしのちゃんのさんにんで」
そう言って小さい手を出し、指を三本立てる。
「木下さん、撮れる?」
「あ、はい」
啓介くんを挟み、私と課長のスリーショットで写真を撮ることになった。けれど日頃、自撮りなんてしないので、どういう感じで撮ればいいのか分からない。
とりあえず、腕を伸ばして三人が画面に収まるようにスマホを構える。そしてタイミングを見計らって画面をタップすると、少し斜めになったけどなんとかスリーショットの写真が撮れた。
思い切り遊び回った啓介くんは、休憩するためにレジャーシートに座ってお茶を飲む。
私はスマホで、さっき撮ったばかりの写真を見ていた。
「ぼくかっこいいでしょ」
「うん、すごくカッコいいよ」
啓介くんは戦隊ヒーローが好きなのか、同じようなポーズをして何枚も写っていた。
つい啓介くんのことを可愛いと言いたくなったけど、かっこいいと言って正解だった。
スマホの画面をスライドすると、スリーショットの写真が現れる。それを見た啓介くんが、笑顔で言う。
「まーくん、しのちゃんかわいいね」
「そうだな」
「ぼく、しのちゃんだいすき。まーくんは?」
無邪気に話す啓介くんにギョッとした。三歳でそんなにおませなことを言うの?
一人焦っていると、課長の口から発せられた言葉に耳を疑う。
「俺も好きだよ」
「よかった」
二人の会話に、私は顔が真っ赤になっていた。啓介くんに話を合わせているだけだと分かっているけど、“好きだよ”なんてワードを課長が言うとは卒倒ものだ。
「しのちゃんもまーくんのことすき?」
「えっ」
急に私の方にも飛び火して焦ってしまう。そんなことを聞かれても返事に困るよ、啓介くん!
「しのちゃんは、すきじゃないの?」
しょんぼりした表情で言われ、私は慌てて否定する。
「そんなことないよ」
「じゃあすき?」
「うん。す、好きだよ」
顔から火が出そうなぐらいの羞恥プレイだ。しかし、ふと視界に入った課長の顔も心なしか赤くなっているように見えた。
「ぼくもまーくんすき。みんなだいすきでなかよしだね」
満足そうに笑う啓介くんには、誰も勝てないだろう。
課長が腕時計を見て、時間を確認すると口を開く。
「啓介、そろそろ帰ろうか」
「えー、もうちょっとあそびたい」
「ダメだよ。ママからお昼寝するように言われているから」
「でもー」
口を尖らせ、帰りたくないアピールをする啓介くん。そんな顔も可愛いなと思ってしまう。
「じゃあ、アイスが食べられないけどいいのか?」
「えーアイス? やだ、たべる」
「じゃあ、帰ろうか」
「うん」
アイスにつられ、啓介くんは素直に言うことを聞いてくれた。
課長の子どもへの接し方が、あまりにも自然で思わず感心してしまう。
「木下さん、ここ片付けてもらってもいい?」
「はい」
声をかけられ返事をすると、そのまま課長は啓介くんを連れて手洗い場に向かう。
私はレジャーシートをバサバサと振って芝生や汚れを払い落とすと、綺麗にたたんでビニール袋にしまった。そして荷物をまとめると、啓介くんと一緒に課長の車に乗り込んだ。
「よく眠ってるなぁ」
ソファの上でスヤスヤと寝息を立てて寝ている啓介くんを見て、そっと呟く。
課長の住んでいるマンションは、公園から車で二十分ぐらいの場所にあった。
公園で遊んだあと、課長のマンションに行くことは比嘉部長たちと事前に決めていたらしい。
私は、自然とその流れについてきた感じだ。
遊び疲れたのか啓介くんは車の中でぐっすりと寝てしまったので、課長が抱っこして部屋まで運び、リビングのカウチソファに寝かせた。
最初は寝室のベッドに寝かそうとしたけど、起きた時に誰もいなかったら不安になるかもしれないと考えて、リビングのソファにしたのだ。
そして今、どさくさに紛れて課長の部屋にいる状況にソワソワしている。
課長が住んでいるのは、十五階建てのマンションの十階。
玄関から真っ直ぐ伸びる廊下の奥にリビングがあり、途中にはいくつか部屋の扉が並んでいる。
その中のひとつはバスルームと洗面所で、さっき手洗いうがいをさせてもらった。
リビングはすっきりとしていて、余計なものは置かれていない。
家具はモノトーンで揃えられていて、落ち着いた雰囲気だ。テーブルの上には、経済新聞が無造作に置かれている。私も当たり前のようにリビングに座っているけど、本当にいいのだろうかと不安になってくる。
課長に彼女がいるかもしれない、という考えが頭をちらつく。啓介くんは上司の息子だからいいとして、無関係な私がこの部屋にいるのはまずい気がする。居ても立ってもいられなくて、聞いてみることにした。
「あの、私ってここにいても大丈夫ですか?」
「どういうこと?」
課長は意味が分からないというように、首を傾げている。
「えっと、啓介くんはともかく、私なんかが小笠原課長の部屋にいることを彼女さんが知ったら、いい気持ちはしないんじゃないかと思って……」
戸惑いながら口にすると、課長は穏やかな笑みを浮かべて言った。
「彼女はいないから、そんな心配はしなくてもいいよ」
「そうなんですね」
その言葉に安堵している私がいた。
「それより、木下さんは和菓子好きだよね?」
急に話題が変わり、戸惑いながら答える。
「はい、好きですけど……」
「よかった。ちょっと待ってて」
課長は立ち上がってキッチンに向かった。どうしてそんなことを聞くのか不思議に思っていると、戻ってきた課長がコーヒーと栗まんじゅうが載ったお皿をローテーブルにそっと置いた。
この栗まんじゅうは有名な和菓子屋『霜月堂』のもので、数量限定で並ばないと手に入らないはずだ。
「本当は温かいお茶の方がいいかと思ったけど、うちにはないからコーヒーで我慢して」
「いえ、とんでもないです。ありがとうございます。小笠原課長は甘いもの、好きなんですか?」
「嫌いじゃないよ。この栗まんじゅうは、木下さんがうちに来ると思って朝一で並んだんだ」
笑顔でそう言われ、その顔に思わずときめいてしまった。
私のために、わざわざ並んで買ってくれたってこと?
申し訳ないやら嬉しいやらで、なんとも言えない複雑な気持ちが胸の中に広がる。
「木下さんといえば、白玉あんみつだからね」
どういうことだろう。意味が分からず首を傾げていたが、あることを思い出して大きな声を出してしまう。
「あっ!」
「シャッフルランチの時、デザートの白玉だんごをテーブルに転がしたよね」
「覚えているんですか?」
「あれは、なかなかのインパクトがあったから忘れないよ」
クスクスと笑いながら言われ、その時の光景がよみがえり苦い表情になった。
あれは入社一年目の時のシャッフルランチ。
梨音ちゃんと再会したあの日、まだ“課長”になる前の小笠原課長も経理部から参加していた。
当時、新入社員だった私は他の部署の人たちを前にとても緊張していて、思わぬ失態を犯してしまったのだ。
食後のデザートとして出された白玉あんみつを食べようとした時、スプーンから白玉だんごが落ちてコロコロと転がった。しかも、それがよりにもよって私の真正面に座っていた課長の方へ転がってしまった。
もしこれが友達同士の場だったら、誰かが笑いながら『なにやってんの~』『そのだんご、生きてるんじゃないの?』なんて突っ込んでくれたかもしれない。
でも、その場のほとんどが初対面の人たちだったので、みんな反応に困っていた。
しかも運悪く梨音ちゃんとは席が離れていて、助けを求めることもできなかった。
転がっただんごを拾おうと手を伸ばした時、課長が黙って目の前のだんごを紙ナプキンで包んで拾ってくれた。
そして『俺は甘いものが苦手だから、君が食べてくれたら助かる』と言って、自分の白玉あんみつのお皿を私の前に置いてくれた……ってあれ?
おかしいな。私の記憶が間違っていないなら、あの時は『甘いものが苦手だ』と言っていたはず。
それなのに、さっきは「嫌いじゃない」と言って栗まんじゅうを食べていた。
もしかして、あの時は私のことを気遣ってくれたのか。
実際、課長がフォローしてくれたおかげで場の空気が和んだので、その優しさに救われた。
口数が少ないだとか融通が利かない堅物だと博美は言っていたけど、やはりそんなことはないと思う。
プライベートと仕事は、きっちり分ける人なんだろう。
栗まんじゅうを食べながらチラチラと課長を見ていると、目が合った。その瞬間、まんじゅうが気管に入ってむせてしまう。
「んっ、ゴホッ……」
「大丈夫? ちょっと待ってて」
咳込む私を見て、課長は慌てた様子でキッチンに向かった。ペットボトルの蓋を開けてコップに水を注ぎ、急いで戻ってくる。
「これ飲める?」
水の入ったコップを渡してくれて、優しく背中をさすってくれる。私は水を飲んでようやく落ち着いた。
「大丈夫?」
「はい、ありがとうございます。お騒がせしてすみません」
「いや、落ち着いてよかったよ」
ふと、課長との距離がとても近いことに気づく。それに、さっきは私の背中をさすってくれていた。課長の手が私の体に触れたことを思い出し、顔が真っ赤に染まる。
「木下さん、顔が赤いけど本当に大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
恥ずかしくて、これはむせて赤くなっているわけではないので気にしないでくださいと言いたいくらいだ。
たった数時間、一緒に過ごしただけなのに、課長は本当に優しい人だと実感する。
「そうだ、連絡先を教えてもらってもいい?」
「えっ」
突然の言葉にドキッとする。
「さっき撮った啓介の写真を送ってもらおうかと思って。俺の撮った写真と一緒にアルバムに保存して、まとめて部長に送りたいんだ」
なんだ、そういうことか。写真のことをすっかり忘れていた。
連絡先というワードに勝手にドキドキした自分が恥ずかしい。バッグからスマホを取り出し、連絡先を交換する。そのまま、メッセージアプリで啓介くんの写真を送信した。
私のスマホの連絡先一覧に課長の名前が登録されているなんて、不思議な気持ちだ。
それをまじまじと眺めていると、ピコンと通知音が鳴り、目の前にいる課長から写真が送られてきた。
「これは……」
画面をタップすると、啓介くんと一緒に滑り台を滑っている時の写真と、私が大きな口を開けて笑っている二枚の写真があった。
「木下さん、いい笑顔で笑っていたから思わず撮ってみたんだ」
「こんな不細工な顔はちょっと……」
「全然不細工じゃないよ。すごく可愛い」
思わず肩が揺れる。啓介くんとの会話の中でも私のことを『可愛い』と言っていたけど、それは話を合わせていたからだと思っていた。じゃあ、今の言葉は?
スマホから顔を上げると、課長は真っ直ぐにこちらを見ていた。こんな風に見つめられるのは初めてで、胸がドキドキと高鳴る。
ピンポーン──
突然、無機質なインターホンの音が鳴り、私はビクッと体を震わせた。
「部長たちだな」
課長はすぐに立ち上がり、モニターで来客の対応をしたあとに玄関に向かった。私はその背中を見送りながら小さく息を吐く。課長に真っ直ぐに見つめられて胸がざわついた。
あんな風にじっと見られるのは初めてで、どうしていいのか分からなくなる。
しばらくして、玄関の方から足音が聞こえてきた。
啓介くんが寝ていると聞かされた比嘉夫妻は、気を遣ってそっとリビングに入ってくる。
智美さんは柔らかく微笑みながら私を見た。
「志乃ちゃん、今日は本当にありがとう」
「とんでもないです。啓介くんと遊べてすごく楽しい一日でした」
「そう言ってもらえてよかったわ。啓介もよく寝ているわね」
智美さんは、リビングのカウチソファで寝ている啓介くんを見た。
「かれこれ一時間ぐらい寝てますよ。おやつのアイスは食べ損ねてますけど」
「ふふ、遊び疲れたのね。啓介、わがまま言ったりしなかった?」
「全然言ってませんよ。すごくいい子でした」
滑り台の無限ループはあったけど、子どもと触れ合える機会なんてめったにないので楽しかった。
「あっ、智美さん。お弁当のことなんですけど、私に二つ作ってと言いましたよね?」
「うん。それがどうしたの?」
智美さんはキョトンとした表情で私を見る。
「あれは、小笠原課長の分だったんですね」
「そうだけど。私、言ってなかったっけ?」
そんな話をされた記憶がない。ということは、智美さんは私にちゃんと伝えたつもりだったんだろう。
「はい。だから、てっきり啓介くんの分かなと思っていたんです」
「あちゃー、ごめんね。言ったつもりでいたわ。困らなかった?」
「はい、大丈夫でした」
結果的に問題はなかったし、上手く対応できたのでよしとしよう。
「起こしてグズッたらうるさいから、このまま運ぶか」
「そうね」
比嘉部長が小声で智美さんに声をかける。そして、寝ている啓介くんをそっと抱き上げた。
「車まで荷物を運びますよ」
「悪いな、政宗」
課長はトートバッグを持って立ち上がると、玄関に向かう。私も三人を見送るために外へ出た。
エレベーターを降りて駐車場まで歩いていると、智美さんに小声で話しかけられる。
「志乃ちゃん。今日一日、小笠原さんと一緒に過ごしてどうだった?」
なぜか、期待を込めた目で見つめてくる。
「えっ、あの……楽しかったです」
少し戸惑いながら答えると、智美さんは首を傾げた。
「それだけ?」
「それだけ、とは?」
聞き返すと、智美さんは眉を寄せながら尋ねてきた。
「ちょっと聞きたいんだけど、志乃ちゃんって小笠原さんのこと気になっているよね?」
「えっ」
思わず絶句した。誰にも話していないはずの、憧れというか、私の片想い。
秘めていた私の気持ちを言い当てられて困惑する。どうして智美さんが知っているんだろう。
すると、私が言葉にしなかった疑問に応えるように智美さんが言った。
「志乃ちゃんに経理部に行くようにお願いする時、いつも嬉しそうな顔をしているなと思っていたの。最初は同期の子がいるからかなと思っていたけど、ある時それは違うなと確信したわ」
智美さんが自信ありげな表情を浮かべる。
「伝票に不備があった時に小笠原さんが物流部に来たことがあったでしょ。その時、志乃ちゃんが恋する乙女みたいな表情で、小笠原さんの方を見ていたんだよね」
嘘でしょ……。そんなつもりはなかったのに。
私は一体、どんな表情を人前で晒していたんだろう。恥ずかしすぎて、穴があったら入りたい。
「あの、気になっているのは確かですけど、本当にそういうのじゃないので……」
「智美、行くぞ」
付き合いたいだとか、そんな大それたことは考えていないと必死に伝えようとしていると、先に車に乗り込んだ比嘉部長が不意に声をかけてきて、話はそこで中断した。
智美さんは「分かった」と言って助手席へと足を進めた。
「二人とも、今日は本当に世話になった。おかげで智美とのデートを楽しめたよ」
「それはよかったです」
当初の目的が達成されて、ホッと胸を撫で下ろす。
「あとは若い二人で、晩飯でも食べに行ったらどうだ?」
比嘉部長が課長に向かって言う。二人って、それはハードルが高いです!
「そうですね。木下さんがよければ行こうと思っています」
てっきり課長は断ると思っていたので、まさかの肯定の返事に驚きを隠せない。
「そうか。志乃ちゃん、なにか美味いものでも食わせてもらいなよ」
「二人とも、今日はお世話になりました。それじゃあ、また会社で」
智美さんがにこやかに手を振り、比嘉部長の車は走り出した。
行ってしまった。残された私はどうしたらいいんだろう。
本当にご飯を食べに行くのかな。チラリと視線を向けると、課長と目が合った。
「晩飯、どうする?」
「えっと……」
返答に困る。今日を逃すと課長と一緒に食事ができる機会は二度とないと思うけど、二人きりなんて緊張するに決まっている。返事に迷っていると、課長が口を開いた。
「実は比嘉部長から、今日のお礼ってことで食事代を預かっているんだ。さすがに食事に行きませんでしたと言ってお金を返すことは、俺にはできないけど」
そう言われてしまうと、行くしかないのでは?
「あの、課長がよろしければ」
「じゃあ行こうか。近くに美味い定食屋があるんだ。本当ならイタリアンかフレンチでもと思ったけど、お互いに服装がこれだからな」
そう言って課長は苦笑いした。確かに私たちの服装は、イタリアンやフレンチに行くにはカジュアルすぎる。そんな服装でも気軽に食事できる定食屋さんをチョイスしてくれたんだろう。
「定食屋でいい?」
「はい」
「店はここからすぐ近くにあるんだけど、車で行く?」
「いえ、近くなら歩きでも大丈夫ですよ」
「それじゃあ、行こうか」
わざわざ車を出してもらうのは申し訳ないので、課長と並んで歩き出す。さっきまでは啓介くんも一緒だったので、二人きりになるのはすごく不思議な気分だ。課長は私の歩幅に合わせて歩いてくれ、そんな些細な気遣いにも嬉しくなる。
他愛もない話をしながら歩いていると、あっという間に課長の行きつけの定食屋『能倉』に到着した。店の扉を開けて暖簾をくぐると、ふんわりと出汁のいい香りが鼻をくすぐる。
私たちは四人掛けのテーブル席に案内された。
「あらあら、今日は可愛い子と一緒なのね」
五十代ぐらいの優しそうなおばさんが、私たちのテーブル席にお冷を持ってきた。
にこやかに笑いかけてくれたので、私も会釈する。
「また、メニューが決まったら声をかけてね」
そう言ってカウンターの奥に入っていった。
この店には、課長が働きだしてから通うようになったらしい。カウンター六席と四人掛けのテーブルが三つというこぢんまりとしたお店で、夫婦で切り盛りしているようだ。
「木下さん、なににする?」
「おススメとかってありますか?」
「なんでも美味しいけど、メンチカツは絶品だな」
課長が絶品と評価するメンチカツを食べてみたくなった。
「じゃあ、メンチカツ定食にします」
「そうか。おばちゃん、メンチカツ定食ひとつと日替わり定食ひとつ」
「はいよ」
課長が注文してくれたあと、私はお冷に口を付けて一息つく。冷たい水が喉を通り、やっと落ち着けた感じがした。
「今日は啓介の世話で疲れただろ」
「少し……でも、楽しかったです」
「三歳児のパワーはすごいな。滑り台も一体、何回滑ったんだろうな」
その言葉に滑り台の記憶がよみがえり、どっと疲れが押し寄せてくる。
何度も何度も滑り台を滑ったので、お尻が痛くなっていた。
「ホントですよね。絶対に筋肉痛になると思います」
「風呂に入ってしっかりとマッサージしないとな」
「そうですね」
私は苦笑いしながら答えた。いつもはシャワーで済ませるけど、今日はちゃんと湯船にお湯を張ろう。
和やかな雰囲気のまま食事を終え、私は手を合わせる。
「ごちそうさまでした。すごく美味しかったです」
メンチカツは噛むたびに肉汁が口の中に広がり、課長が絶品だと言うのも頷ける。ボリュームたっぷりでお腹が満たされた。
「それはよかった。また、いつでも連れてきてあげるよ。それと約束通り、弁当のお礼もさせてもらうから」
私は慌てて首を横に振った。
「いえ、そんなことをしてもらわなくても大丈夫です。今日もご馳走になっていますし」
本当に気持ちだけで十分だったし、課長のおかげで美味しい食事を楽しめた。
これ以上なにかをしてもらうなんて、申し訳ない気がする。でも、課長は少し表情を引き締めて真っ直ぐに私を見つめた。
「そうはいかない。それに、さっきの食事代は比嘉部長が出してくれたんだ。だから、弁当のお礼はまた別でさせてもらう」
強い決意を込めて言われ、私は頷くことしかできなかった。
第三章 意外な接点
昼休憩が終わり、私は入荷予定の伝票を一枚ずつチェックしていた。伝票には商品コードや数量などが記載されていて、それを見ながらデータを入力していると目の前の電話が鳴った。
「はい、物流部の木下です」
「営業部の小松です。申し訳ないんですけど、もふりんの文房具一式を揃えて営業部に持ってきてもらえますか?」
「はい。いつまでとか期限はありますか?」
言われたことをメモしながら尋ねる。
「できれば、十六時までに持ってきてもらえると助かる」
受話器の向こうからそう言われ、私は壁にかかっている時計に目をやった。
時刻は十三時半。今から準備すれば、もう少し早く届けることができそうだ。
「いいよ。ほら、啓介も志乃ちゃんの持っているスマホを見て」
そう言って課長は私のスマホを指差した。
課長が私の名前を呼んだ瞬間、胸がドキッと高鳴る。つい、どうして名前を知っているんだろうと思ってしまったけど、比嘉夫妻や啓介くんが私のことを志乃ちゃんと呼んでいたからかと思い直す。
ほんの一瞬の出来事だったのに、頭の中ではいろんな考えが駆け巡っていた。
「しのちゃん、まだ?」
啓介くんに呼ばれ、ハッとして私は慌ててスマホを構える。
「ごめん、今撮るね」
失敗しないように今度は連写した。これだけ撮れば一枚ぐらいはいい写真があるだろう。
「撮れたよ」
「みせてみせて」
課長の腕から下り、小走りで駆け寄ってくる啓介くんに、私は撮れた写真を見せてあげた。
「わぁ、まーくんとなかよしだ」
「そうだな」
「しのちゃんもいっしょにとろう」
不意に啓介くんが笑顔で言った。
「私も?」
「うん。ぼくとまーくんとしのちゃんのさんにんで」
そう言って小さい手を出し、指を三本立てる。
「木下さん、撮れる?」
「あ、はい」
啓介くんを挟み、私と課長のスリーショットで写真を撮ることになった。けれど日頃、自撮りなんてしないので、どういう感じで撮ればいいのか分からない。
とりあえず、腕を伸ばして三人が画面に収まるようにスマホを構える。そしてタイミングを見計らって画面をタップすると、少し斜めになったけどなんとかスリーショットの写真が撮れた。
思い切り遊び回った啓介くんは、休憩するためにレジャーシートに座ってお茶を飲む。
私はスマホで、さっき撮ったばかりの写真を見ていた。
「ぼくかっこいいでしょ」
「うん、すごくカッコいいよ」
啓介くんは戦隊ヒーローが好きなのか、同じようなポーズをして何枚も写っていた。
つい啓介くんのことを可愛いと言いたくなったけど、かっこいいと言って正解だった。
スマホの画面をスライドすると、スリーショットの写真が現れる。それを見た啓介くんが、笑顔で言う。
「まーくん、しのちゃんかわいいね」
「そうだな」
「ぼく、しのちゃんだいすき。まーくんは?」
無邪気に話す啓介くんにギョッとした。三歳でそんなにおませなことを言うの?
一人焦っていると、課長の口から発せられた言葉に耳を疑う。
「俺も好きだよ」
「よかった」
二人の会話に、私は顔が真っ赤になっていた。啓介くんに話を合わせているだけだと分かっているけど、“好きだよ”なんてワードを課長が言うとは卒倒ものだ。
「しのちゃんもまーくんのことすき?」
「えっ」
急に私の方にも飛び火して焦ってしまう。そんなことを聞かれても返事に困るよ、啓介くん!
「しのちゃんは、すきじゃないの?」
しょんぼりした表情で言われ、私は慌てて否定する。
「そんなことないよ」
「じゃあすき?」
「うん。す、好きだよ」
顔から火が出そうなぐらいの羞恥プレイだ。しかし、ふと視界に入った課長の顔も心なしか赤くなっているように見えた。
「ぼくもまーくんすき。みんなだいすきでなかよしだね」
満足そうに笑う啓介くんには、誰も勝てないだろう。
課長が腕時計を見て、時間を確認すると口を開く。
「啓介、そろそろ帰ろうか」
「えー、もうちょっとあそびたい」
「ダメだよ。ママからお昼寝するように言われているから」
「でもー」
口を尖らせ、帰りたくないアピールをする啓介くん。そんな顔も可愛いなと思ってしまう。
「じゃあ、アイスが食べられないけどいいのか?」
「えーアイス? やだ、たべる」
「じゃあ、帰ろうか」
「うん」
アイスにつられ、啓介くんは素直に言うことを聞いてくれた。
課長の子どもへの接し方が、あまりにも自然で思わず感心してしまう。
「木下さん、ここ片付けてもらってもいい?」
「はい」
声をかけられ返事をすると、そのまま課長は啓介くんを連れて手洗い場に向かう。
私はレジャーシートをバサバサと振って芝生や汚れを払い落とすと、綺麗にたたんでビニール袋にしまった。そして荷物をまとめると、啓介くんと一緒に課長の車に乗り込んだ。
「よく眠ってるなぁ」
ソファの上でスヤスヤと寝息を立てて寝ている啓介くんを見て、そっと呟く。
課長の住んでいるマンションは、公園から車で二十分ぐらいの場所にあった。
公園で遊んだあと、課長のマンションに行くことは比嘉部長たちと事前に決めていたらしい。
私は、自然とその流れについてきた感じだ。
遊び疲れたのか啓介くんは車の中でぐっすりと寝てしまったので、課長が抱っこして部屋まで運び、リビングのカウチソファに寝かせた。
最初は寝室のベッドに寝かそうとしたけど、起きた時に誰もいなかったら不安になるかもしれないと考えて、リビングのソファにしたのだ。
そして今、どさくさに紛れて課長の部屋にいる状況にソワソワしている。
課長が住んでいるのは、十五階建てのマンションの十階。
玄関から真っ直ぐ伸びる廊下の奥にリビングがあり、途中にはいくつか部屋の扉が並んでいる。
その中のひとつはバスルームと洗面所で、さっき手洗いうがいをさせてもらった。
リビングはすっきりとしていて、余計なものは置かれていない。
家具はモノトーンで揃えられていて、落ち着いた雰囲気だ。テーブルの上には、経済新聞が無造作に置かれている。私も当たり前のようにリビングに座っているけど、本当にいいのだろうかと不安になってくる。
課長に彼女がいるかもしれない、という考えが頭をちらつく。啓介くんは上司の息子だからいいとして、無関係な私がこの部屋にいるのはまずい気がする。居ても立ってもいられなくて、聞いてみることにした。
「あの、私ってここにいても大丈夫ですか?」
「どういうこと?」
課長は意味が分からないというように、首を傾げている。
「えっと、啓介くんはともかく、私なんかが小笠原課長の部屋にいることを彼女さんが知ったら、いい気持ちはしないんじゃないかと思って……」
戸惑いながら口にすると、課長は穏やかな笑みを浮かべて言った。
「彼女はいないから、そんな心配はしなくてもいいよ」
「そうなんですね」
その言葉に安堵している私がいた。
「それより、木下さんは和菓子好きだよね?」
急に話題が変わり、戸惑いながら答える。
「はい、好きですけど……」
「よかった。ちょっと待ってて」
課長は立ち上がってキッチンに向かった。どうしてそんなことを聞くのか不思議に思っていると、戻ってきた課長がコーヒーと栗まんじゅうが載ったお皿をローテーブルにそっと置いた。
この栗まんじゅうは有名な和菓子屋『霜月堂』のもので、数量限定で並ばないと手に入らないはずだ。
「本当は温かいお茶の方がいいかと思ったけど、うちにはないからコーヒーで我慢して」
「いえ、とんでもないです。ありがとうございます。小笠原課長は甘いもの、好きなんですか?」
「嫌いじゃないよ。この栗まんじゅうは、木下さんがうちに来ると思って朝一で並んだんだ」
笑顔でそう言われ、その顔に思わずときめいてしまった。
私のために、わざわざ並んで買ってくれたってこと?
申し訳ないやら嬉しいやらで、なんとも言えない複雑な気持ちが胸の中に広がる。
「木下さんといえば、白玉あんみつだからね」
どういうことだろう。意味が分からず首を傾げていたが、あることを思い出して大きな声を出してしまう。
「あっ!」
「シャッフルランチの時、デザートの白玉だんごをテーブルに転がしたよね」
「覚えているんですか?」
「あれは、なかなかのインパクトがあったから忘れないよ」
クスクスと笑いながら言われ、その時の光景がよみがえり苦い表情になった。
あれは入社一年目の時のシャッフルランチ。
梨音ちゃんと再会したあの日、まだ“課長”になる前の小笠原課長も経理部から参加していた。
当時、新入社員だった私は他の部署の人たちを前にとても緊張していて、思わぬ失態を犯してしまったのだ。
食後のデザートとして出された白玉あんみつを食べようとした時、スプーンから白玉だんごが落ちてコロコロと転がった。しかも、それがよりにもよって私の真正面に座っていた課長の方へ転がってしまった。
もしこれが友達同士の場だったら、誰かが笑いながら『なにやってんの~』『そのだんご、生きてるんじゃないの?』なんて突っ込んでくれたかもしれない。
でも、その場のほとんどが初対面の人たちだったので、みんな反応に困っていた。
しかも運悪く梨音ちゃんとは席が離れていて、助けを求めることもできなかった。
転がっただんごを拾おうと手を伸ばした時、課長が黙って目の前のだんごを紙ナプキンで包んで拾ってくれた。
そして『俺は甘いものが苦手だから、君が食べてくれたら助かる』と言って、自分の白玉あんみつのお皿を私の前に置いてくれた……ってあれ?
おかしいな。私の記憶が間違っていないなら、あの時は『甘いものが苦手だ』と言っていたはず。
それなのに、さっきは「嫌いじゃない」と言って栗まんじゅうを食べていた。
もしかして、あの時は私のことを気遣ってくれたのか。
実際、課長がフォローしてくれたおかげで場の空気が和んだので、その優しさに救われた。
口数が少ないだとか融通が利かない堅物だと博美は言っていたけど、やはりそんなことはないと思う。
プライベートと仕事は、きっちり分ける人なんだろう。
栗まんじゅうを食べながらチラチラと課長を見ていると、目が合った。その瞬間、まんじゅうが気管に入ってむせてしまう。
「んっ、ゴホッ……」
「大丈夫? ちょっと待ってて」
咳込む私を見て、課長は慌てた様子でキッチンに向かった。ペットボトルの蓋を開けてコップに水を注ぎ、急いで戻ってくる。
「これ飲める?」
水の入ったコップを渡してくれて、優しく背中をさすってくれる。私は水を飲んでようやく落ち着いた。
「大丈夫?」
「はい、ありがとうございます。お騒がせしてすみません」
「いや、落ち着いてよかったよ」
ふと、課長との距離がとても近いことに気づく。それに、さっきは私の背中をさすってくれていた。課長の手が私の体に触れたことを思い出し、顔が真っ赤に染まる。
「木下さん、顔が赤いけど本当に大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
恥ずかしくて、これはむせて赤くなっているわけではないので気にしないでくださいと言いたいくらいだ。
たった数時間、一緒に過ごしただけなのに、課長は本当に優しい人だと実感する。
「そうだ、連絡先を教えてもらってもいい?」
「えっ」
突然の言葉にドキッとする。
「さっき撮った啓介の写真を送ってもらおうかと思って。俺の撮った写真と一緒にアルバムに保存して、まとめて部長に送りたいんだ」
なんだ、そういうことか。写真のことをすっかり忘れていた。
連絡先というワードに勝手にドキドキした自分が恥ずかしい。バッグからスマホを取り出し、連絡先を交換する。そのまま、メッセージアプリで啓介くんの写真を送信した。
私のスマホの連絡先一覧に課長の名前が登録されているなんて、不思議な気持ちだ。
それをまじまじと眺めていると、ピコンと通知音が鳴り、目の前にいる課長から写真が送られてきた。
「これは……」
画面をタップすると、啓介くんと一緒に滑り台を滑っている時の写真と、私が大きな口を開けて笑っている二枚の写真があった。
「木下さん、いい笑顔で笑っていたから思わず撮ってみたんだ」
「こんな不細工な顔はちょっと……」
「全然不細工じゃないよ。すごく可愛い」
思わず肩が揺れる。啓介くんとの会話の中でも私のことを『可愛い』と言っていたけど、それは話を合わせていたからだと思っていた。じゃあ、今の言葉は?
スマホから顔を上げると、課長は真っ直ぐにこちらを見ていた。こんな風に見つめられるのは初めてで、胸がドキドキと高鳴る。
ピンポーン──
突然、無機質なインターホンの音が鳴り、私はビクッと体を震わせた。
「部長たちだな」
課長はすぐに立ち上がり、モニターで来客の対応をしたあとに玄関に向かった。私はその背中を見送りながら小さく息を吐く。課長に真っ直ぐに見つめられて胸がざわついた。
あんな風にじっと見られるのは初めてで、どうしていいのか分からなくなる。
しばらくして、玄関の方から足音が聞こえてきた。
啓介くんが寝ていると聞かされた比嘉夫妻は、気を遣ってそっとリビングに入ってくる。
智美さんは柔らかく微笑みながら私を見た。
「志乃ちゃん、今日は本当にありがとう」
「とんでもないです。啓介くんと遊べてすごく楽しい一日でした」
「そう言ってもらえてよかったわ。啓介もよく寝ているわね」
智美さんは、リビングのカウチソファで寝ている啓介くんを見た。
「かれこれ一時間ぐらい寝てますよ。おやつのアイスは食べ損ねてますけど」
「ふふ、遊び疲れたのね。啓介、わがまま言ったりしなかった?」
「全然言ってませんよ。すごくいい子でした」
滑り台の無限ループはあったけど、子どもと触れ合える機会なんてめったにないので楽しかった。
「あっ、智美さん。お弁当のことなんですけど、私に二つ作ってと言いましたよね?」
「うん。それがどうしたの?」
智美さんはキョトンとした表情で私を見る。
「あれは、小笠原課長の分だったんですね」
「そうだけど。私、言ってなかったっけ?」
そんな話をされた記憶がない。ということは、智美さんは私にちゃんと伝えたつもりだったんだろう。
「はい。だから、てっきり啓介くんの分かなと思っていたんです」
「あちゃー、ごめんね。言ったつもりでいたわ。困らなかった?」
「はい、大丈夫でした」
結果的に問題はなかったし、上手く対応できたのでよしとしよう。
「起こしてグズッたらうるさいから、このまま運ぶか」
「そうね」
比嘉部長が小声で智美さんに声をかける。そして、寝ている啓介くんをそっと抱き上げた。
「車まで荷物を運びますよ」
「悪いな、政宗」
課長はトートバッグを持って立ち上がると、玄関に向かう。私も三人を見送るために外へ出た。
エレベーターを降りて駐車場まで歩いていると、智美さんに小声で話しかけられる。
「志乃ちゃん。今日一日、小笠原さんと一緒に過ごしてどうだった?」
なぜか、期待を込めた目で見つめてくる。
「えっ、あの……楽しかったです」
少し戸惑いながら答えると、智美さんは首を傾げた。
「それだけ?」
「それだけ、とは?」
聞き返すと、智美さんは眉を寄せながら尋ねてきた。
「ちょっと聞きたいんだけど、志乃ちゃんって小笠原さんのこと気になっているよね?」
「えっ」
思わず絶句した。誰にも話していないはずの、憧れというか、私の片想い。
秘めていた私の気持ちを言い当てられて困惑する。どうして智美さんが知っているんだろう。
すると、私が言葉にしなかった疑問に応えるように智美さんが言った。
「志乃ちゃんに経理部に行くようにお願いする時、いつも嬉しそうな顔をしているなと思っていたの。最初は同期の子がいるからかなと思っていたけど、ある時それは違うなと確信したわ」
智美さんが自信ありげな表情を浮かべる。
「伝票に不備があった時に小笠原さんが物流部に来たことがあったでしょ。その時、志乃ちゃんが恋する乙女みたいな表情で、小笠原さんの方を見ていたんだよね」
嘘でしょ……。そんなつもりはなかったのに。
私は一体、どんな表情を人前で晒していたんだろう。恥ずかしすぎて、穴があったら入りたい。
「あの、気になっているのは確かですけど、本当にそういうのじゃないので……」
「智美、行くぞ」
付き合いたいだとか、そんな大それたことは考えていないと必死に伝えようとしていると、先に車に乗り込んだ比嘉部長が不意に声をかけてきて、話はそこで中断した。
智美さんは「分かった」と言って助手席へと足を進めた。
「二人とも、今日は本当に世話になった。おかげで智美とのデートを楽しめたよ」
「それはよかったです」
当初の目的が達成されて、ホッと胸を撫で下ろす。
「あとは若い二人で、晩飯でも食べに行ったらどうだ?」
比嘉部長が課長に向かって言う。二人って、それはハードルが高いです!
「そうですね。木下さんがよければ行こうと思っています」
てっきり課長は断ると思っていたので、まさかの肯定の返事に驚きを隠せない。
「そうか。志乃ちゃん、なにか美味いものでも食わせてもらいなよ」
「二人とも、今日はお世話になりました。それじゃあ、また会社で」
智美さんがにこやかに手を振り、比嘉部長の車は走り出した。
行ってしまった。残された私はどうしたらいいんだろう。
本当にご飯を食べに行くのかな。チラリと視線を向けると、課長と目が合った。
「晩飯、どうする?」
「えっと……」
返答に困る。今日を逃すと課長と一緒に食事ができる機会は二度とないと思うけど、二人きりなんて緊張するに決まっている。返事に迷っていると、課長が口を開いた。
「実は比嘉部長から、今日のお礼ってことで食事代を預かっているんだ。さすがに食事に行きませんでしたと言ってお金を返すことは、俺にはできないけど」
そう言われてしまうと、行くしかないのでは?
「あの、課長がよろしければ」
「じゃあ行こうか。近くに美味い定食屋があるんだ。本当ならイタリアンかフレンチでもと思ったけど、お互いに服装がこれだからな」
そう言って課長は苦笑いした。確かに私たちの服装は、イタリアンやフレンチに行くにはカジュアルすぎる。そんな服装でも気軽に食事できる定食屋さんをチョイスしてくれたんだろう。
「定食屋でいい?」
「はい」
「店はここからすぐ近くにあるんだけど、車で行く?」
「いえ、近くなら歩きでも大丈夫ですよ」
「それじゃあ、行こうか」
わざわざ車を出してもらうのは申し訳ないので、課長と並んで歩き出す。さっきまでは啓介くんも一緒だったので、二人きりになるのはすごく不思議な気分だ。課長は私の歩幅に合わせて歩いてくれ、そんな些細な気遣いにも嬉しくなる。
他愛もない話をしながら歩いていると、あっという間に課長の行きつけの定食屋『能倉』に到着した。店の扉を開けて暖簾をくぐると、ふんわりと出汁のいい香りが鼻をくすぐる。
私たちは四人掛けのテーブル席に案内された。
「あらあら、今日は可愛い子と一緒なのね」
五十代ぐらいの優しそうなおばさんが、私たちのテーブル席にお冷を持ってきた。
にこやかに笑いかけてくれたので、私も会釈する。
「また、メニューが決まったら声をかけてね」
そう言ってカウンターの奥に入っていった。
この店には、課長が働きだしてから通うようになったらしい。カウンター六席と四人掛けのテーブルが三つというこぢんまりとしたお店で、夫婦で切り盛りしているようだ。
「木下さん、なににする?」
「おススメとかってありますか?」
「なんでも美味しいけど、メンチカツは絶品だな」
課長が絶品と評価するメンチカツを食べてみたくなった。
「じゃあ、メンチカツ定食にします」
「そうか。おばちゃん、メンチカツ定食ひとつと日替わり定食ひとつ」
「はいよ」
課長が注文してくれたあと、私はお冷に口を付けて一息つく。冷たい水が喉を通り、やっと落ち着けた感じがした。
「今日は啓介の世話で疲れただろ」
「少し……でも、楽しかったです」
「三歳児のパワーはすごいな。滑り台も一体、何回滑ったんだろうな」
その言葉に滑り台の記憶がよみがえり、どっと疲れが押し寄せてくる。
何度も何度も滑り台を滑ったので、お尻が痛くなっていた。
「ホントですよね。絶対に筋肉痛になると思います」
「風呂に入ってしっかりとマッサージしないとな」
「そうですね」
私は苦笑いしながら答えた。いつもはシャワーで済ませるけど、今日はちゃんと湯船にお湯を張ろう。
和やかな雰囲気のまま食事を終え、私は手を合わせる。
「ごちそうさまでした。すごく美味しかったです」
メンチカツは噛むたびに肉汁が口の中に広がり、課長が絶品だと言うのも頷ける。ボリュームたっぷりでお腹が満たされた。
「それはよかった。また、いつでも連れてきてあげるよ。それと約束通り、弁当のお礼もさせてもらうから」
私は慌てて首を横に振った。
「いえ、そんなことをしてもらわなくても大丈夫です。今日もご馳走になっていますし」
本当に気持ちだけで十分だったし、課長のおかげで美味しい食事を楽しめた。
これ以上なにかをしてもらうなんて、申し訳ない気がする。でも、課長は少し表情を引き締めて真っ直ぐに私を見つめた。
「そうはいかない。それに、さっきの食事代は比嘉部長が出してくれたんだ。だから、弁当のお礼はまた別でさせてもらう」
強い決意を込めて言われ、私は頷くことしかできなかった。
第三章 意外な接点
昼休憩が終わり、私は入荷予定の伝票を一枚ずつチェックしていた。伝票には商品コードや数量などが記載されていて、それを見ながらデータを入力していると目の前の電話が鳴った。
「はい、物流部の木下です」
「営業部の小松です。申し訳ないんですけど、もふりんの文房具一式を揃えて営業部に持ってきてもらえますか?」
「はい。いつまでとか期限はありますか?」
言われたことをメモしながら尋ねる。
「できれば、十六時までに持ってきてもらえると助かる」
受話器の向こうからそう言われ、私は壁にかかっている時計に目をやった。
時刻は十三時半。今から準備すれば、もう少し早く届けることができそうだ。
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