水色桔梗光る〜明智光秀物語〜

たい陸

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第十幕 ~そして本能寺へ~

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 光秀が、重臣たちと計っていた前日の夜頃、信長は本能寺に居た。当代の貴族たちの主だった者達の、総てと言って良い顔ぶれが信長の元へ伺候しており、さながら内裏がこの寺に移ったかのような賑わいであったという。

 近衛前久(前関白)、近衛信基(内大臣)、九条兼孝(前関白)、一条内基(関白左大臣)、山科言経(前権中納言)、観修寺晴豊(武家伝奏)など、四十余名に及ぶ公卿を始めとした貴族たちがこぞって信長のご機嫌伺いに訪れていた。信長は酒宴を開き、客たちをもてなして、安土より持参した名物の茶器を、多数見せて喜んでいたという。

 この時の信長の官位は、正二位前右大臣であり、正しくは、朝廷の頂点を極めてはいない。貴族たちがこぞって信長の機嫌を取り計らうのには、実力者に媚びを売る他にも理由があった。それが三職推任問題である。

「天下いよいよ静謐に申しつけられ候、いかようの官も望み次第にて候」

 これは、信長が無官のままで居る事を不気味に思っていた朝廷が、信長に対して、征夷大将軍、太政大臣、関白という、日本の頂点に立つ、三つの職の内、信長が望むどれでも就く事が出来るとした事であった。

 朝廷から言い出したか、信長側から言ったのかは、未だに議論が続いているが、肝心なのは、朝廷は、信長を天下人として認めており、朝廷の守護者としての武家棟梁という地位を、信長に期待していたと言う事である。

 信長は、この件を武田征伐後の上洛時に返答するとしていた。公卿を始めとした朝廷側は、信長が何を望むかを戦々恐々として見守っていた。最早、どうなるのかは、信長の意志一つに委ねられており、朝廷側に決定権などは無いに等しかった。信長がもしも、征夷大将軍を望むならば、平氏を自称した者が始めて就く将軍職であった。

 実際には、この時に、信長より京を追い出された足利義昭が毛利氏に庇護されて健在であり、実体は無い物の未だに将軍で在り続けていた。それを朝廷から働きかけて、辞官させなければならいないであろう。

 また、関白を望めば、一条内基が就いており、信長就任によって、辞官せざるをえない。太政大臣もそうであるが、先の先例を見ると、平清盛が就任後にすぐ辞官した例があり、信長もこれに倣うのではないかと言う意見もあった。所謂、落としどころというやつだが、信長自身は、この話題に正直うんざりしていたのが本音であっただろう。

 信長にとってみれば、天下は実力で取る事が出来るまでになっているし、最早朝廷の権威をそこまで当てにする事も無いのではないかとも思っていた。信長自身が今後朝廷をどう扱おうとしていたのかは、現代の私たちは想像するしかない。

「余自身が内裏である」
「一統後は、艦隊を率いて中華を攻める」
 ルイス・フロイスによれば、信長がそう言っていたとあるが、これも諸説あってはっきりとはしていない。

 しかし、ここに信長自身が行おうとしていた事で証拠になる物がある。信長が築城した安土城は、今までの城とずいぶん違った造りをしていた。普通、城の正面は正門をくぐると、敵の侵入を防ぐためにわざと坂道の角度をつけたり、曲がりくねったり、道事体を細くするなどの戦を想定した縄張りをしている物だが、安土城では、正門から安土城までに坂道にはなっているものの、幅6m、長さにして180mもの大通りが整備されていた。

 これは、天皇が安土城に行幸した際に、通る事を想定した作りだと言われている。そして、城内には、天皇一行が宿泊する部屋も作られていた。その部屋は、天主閣の信長の部屋から、見下ろせる位置に作られていた。

(余の太政大臣就任と引き換えに、帝の安土行幸を実現させる」

 これこそが、信長が考えた朝廷への計画ではなかったのではないかと思う。

(そして、帝の譲位も併せて行う)
 そうすれば、信長と昵懇の仲である誠仁親王が即位する。信長は、誠仁親王の子である邦慶親王の猶子親となっている。

(日本は、余の子孫が統べ、中華は家臣どもに分け与える)

 信長がそう考えていたのは、この先の秀吉晩年の行動を考えると、荒唐無稽とは言えないであろう。信長の考えが実現していたならば、一体、天皇家と朝廷はどうなっていただろうか?その晩の酒宴は、夜半過ぎまで続いていた。


 一方、丹波路より洛中に進軍した明智軍は、本能寺のある下京を目指して北上した。都の周りは堀や土壁があったが、これを押し通らずに、南北にある門を通過したと思われる。警戒も薄く、軍兵も少なかった京では、やすやすと明智軍が通過出来たであろう。

 明智軍は、一つの通りではなく、油小路通、西洞院通、室町通などを、隊を分けて進軍したに違いない。先手の大将である斎藤内蔵助利三は、進軍にあたっての指示を出している。

「門を押し開けよ。くぐり戸に、指物、幟がかからないように注意せよ。道は一筋にこだわるなかれ。さいかちの木を、雲間から見える月明かりを頼りに進むべし」

 さいかちの木とは、本能寺の境内に植えられていた10mの高さにもなる木々の事である。これを目印として、隊を分けても、大軍が進むには、狭い街の中で滞らない配慮が見られる。

「馬に履かせていたわら沓を切り捨てよ。草履を足半に履き替え、火縄を切って火をつけ、五本ずつ火先を逆さに下げよ」

 京に侵入を果たした軍に光秀から、細かい指令が渡った。臨戦態勢を整えるためであった。今や、信長が眠る本能寺は、明智軍に完全に包囲されていた。

 利三の息子である利宗が率いる一隊が、本能寺内へと侵入を果たしていた。そこに本城惣右衛門がいた。

「一番乗り也!」
 惣右衛門は、一番乗りを果たしたが、利宗より物音を立てぬように注意されてしまった。ならばと、出会い様に一人の白い着物を来た武士を、袈裟懸けに一刀の元に斬れ伏せてみせた。

「獲った首は、討ち捨てとせよ」
 しかし、非常の命令に惣右衛門は、手柄首をしぶしぶ捨てる事を余儀なくされた。ここで、彼が後年認めた覚書きの内容が興味深い。

 惣右衛門らの一隊は、門よりの侵入を敵に妨害されずに易々と侵入出来た。境内に入ると閑散とした有様にて、人が居ない事に驚いている。惣右衛門たちは、手近な建物より中へ入り、そこで蚊帳が多数吊っているのを目撃している。次の間で一人の女中を捉えたので、大将の利三へと引き渡した。

「上様は、白い着物をお召しのご様子…」
 女が証言し、利三は白い着物の男を探すように厳命した。惣右衛門らは、その上様が誰なのか、自分たちが、京のどこに侵入したのかも知らされずに戦っていたらしかった。

「信長様の命令で三河国主の家康を討つのでは?」
 惣右衛門らは、同輩らとそんな話をしていたらしい。

 これが、単なる噂であったか、それとも光秀ら首脳陣が流す情報操作であったかは、議論が待たれる。屋敷内に侵入して次の間を進む惣右衛門らの前に、二、三人の武士が斬りかかってきた。その一人を惣右衛門は斬った。他の二人も難なく討ち取られている。

 その討ち取られた男の一人は、着物の帯も結んでいない有様であった。信長側の混乱が見て取れる内容だ。惣右衛門は、この時の働きが認められて、戦後に槍を褒美に貰っている。まだ戦闘は、始まったばかりであった。

 六月二日卯之刻頃であれば、最早陽は昇り始めていたであろう。すでに起きていた信長が、その自分を襲う敵が光秀である事もすぐに分かった筈である。

 信長の小姓を務める森蘭丸は、信長の寝所へと、敵に悟られぬよう注意を払いながら向かっていた。敵が何者であるかは、源氏の白地旗に、水色桔梗花の鮮やかな紋を見れば、それが誰かは明白であった。

 蘭丸の頭の中に、
「なぜに?」

 の言葉が浮かんでは消えた。今は、考えるよりも、主の元に、この事実を伝えねばならなかった。信長は、御殿の奥書院の一室に居た。蘭丸が息を切らしながら部屋の前に跪くと、信長はすでに起きていた。

「上様…」
 明智軍の謀叛を伝える蘭丸の言葉に、少しの間、信長は反応を示さなかった。その眼は、塀の外の鬨の声を向いていた。

「そうか、余は自らの手で、死を招いたな…」
 信長は、右手で自らの顔を覆うと呟いた。そして、

「是非もなし。来い蘭丸!」
 信長は大声を上げると、戦闘の真中に歩を進めて行った。そう、今は議論している時ではない。光秀の謀叛は事実であり、それが「なぜ?」かも、「どうしてか?」も考えている時ではなかった。今は、目の前の事をどうするのか?どう行動するかが重要であり、唯一の選択肢であった。

「御意!」
 この絶体絶命の非常時にも、決して怯まない、蘭丸にとって英雄であり、憧憬の対象でもある信長の意志が、一つも欠けていない事に対して、蘭丸は、嬉しさを隠しきれない顔をしていた。

 一方その頃、光秀は本能寺を包囲した本隊の後方にて、指揮を執っていた。
「首は討ち捨てとせよ」

 光秀の横では、全軍の総指揮を任されていた、筆頭家老の明智秀満が全軍に指示を出していた。首討ち捨てとは、明智軍に、いつもとは違う特例の非常態勢が取られていた事を示している。

 戦において、武士は、敵の首を獲る事で自らの武勲を示してきた。それを討ち捨てるとは、首を獲らずに、事後で報告と、敵を討った際の証人が必要となるために、家臣たちから好まれない指示である。それでも、光秀がそう命令したのには、理由があった。

(首は…、首は一つで良い…)
 光秀は、そう考えていた筈で、首(手柄)を獲る事に拘っていては、時間がかかる。速やかに攻めて、目的を達成し、信長に逃げる暇を与えない事が肝要であったのだ。

「上様は…いや、信長は奥の院に居るはずだ」
 光秀の言葉を横で聞いていた秀満は、一つ頷くと右手を高らかと挙げた。そして、それを合図に境内へと火矢の放射が開始された。

(殿の心中は、揺れているようだ…)
 言葉にこそ出さないが、秀満は舅でもある主が、ここに来て、迷いが出る事を懸念していた。光秀にとって、織田信長とは、今になってみても、やはり特別な存在で在る事に違いないのだから。

 
「うおおおおーーーーっつ」
「わあーーーつつ」
 信長が表に出ると、すでに境内は明智軍でいっぱいであり、寺中で凄まじい戦闘が始まっていた。

「上様、火が!」
 明智軍の放った火矢により、寺の建物に引火し、屋根が燃え始めていた。しかし、蘭丸の叫びにも、信長はいささかも動じる風を見せず、片足を廊下の欄干の上に乗せると、右手を差し出した。蘭丸は、その動作だけで、信長が何を欲してるのかが、すぐに分かった。

 信長は、蘭丸が差し出した弓の弦のしなり具合を確かめると、差し出された矢をつがえて躊躇なく発射した。

「命中!」
 敵の胸に見事当り蘭丸が叫ぶ。すかさず次の二射目をつがえる。発射!
「お見事!」

 次は敵の背中に当たり、信長が矢を放つ度に、明智軍の兵が一人、また一人と倒れた。そして、矢を放った十数射目の時である。

「バチーーーンッ」
 そのような音と共に、信長の持つ弓の弦が切れた。信長は、すかさず弦の切れた弓を敵に投げつけると、近くにいた自軍の武者が持っていた薙刀を奪い取った。それを見た蘭丸は、自分の腰にあった大刀をゆっくりと抜いた。

「おおっ!」
 信長は雄叫びを上げると、薙刀を奮い近づく敵を、一人、また一人と倒していった。その姿はさながら、鬼そのものであるようだと、横で敵に対峙しながら蘭丸は思っていた。
「バーーーンッ」

 その時であった。
 信長の片肘に明智軍の兵が放った鉄砲の弾が、命中したのだ。信長は、血が流れる肘を、薙刀を放った方の手で庇う仕草を見せた。そして、信長はその恰好のままに、しばらく戦況を眺めていた。

「ヒューンッヒュンッ」
 その間にも信長の耳元を、敵の放つ弾が飛んで来るが、信長はそれを気にしようとはしない。

「上様!お怪我を」
 対峙した敵を倒した蘭丸が、自分の着物の端を破り、信長の傷口をすかさずしばった。信長はその様子を、黙ってじっと見ている。少しして処置は終わり、蘭丸が信長の方を見上げた。信長は、その蘭丸の顔をこれまでに無いような優しい眼差しで見つめ、ゆっくりと蘭丸の肩に手を置いた。

「皆、大儀である!」
 信長は大喝した。その大きな叫び声に、その辺りにいた敵味方の数十名の動きが、一瞬止まった。信長は、叫んだ後は、振り返りもせず、火の放たれている奥の部屋へと進んでいった。その後ろを蘭丸だけが続いていた。信長の後ろ姿を認めた数名が、敵味方の区別なく、そっと一秒足らずだが頭を垂れていたのが印象的であった。

「女は苦しからず、急ぎ出よ」
 奥の部屋にて、女中らの数名がまだ残っているのを見た信長は、声をかけた。
「上様、これを!」

 一人の女が、女用の着物の羽織を渡そうとしたが、信長は微笑むだけで受け取ろうとはしなかった。この女は、信長の側室の一人であったかもしれない。

「蘭丸、しばし時を稼げ」
 信長はそう言うと、奥の部屋に一人入っていった。
「そなたを余の元に止めておいたのは、誤りであった。願わくは、そなたに一軍を与えてやりたかった」

 襖越しで、信長は蘭丸だけにそう語った。それが、信長がしてやれる精いっぱいの優しさであった。森蘭丸は、この時十八歳である。とうに元服を迎えて、立派な武士としていても、おかしくない年齢に達していたが、信長は利発な蘭丸を愛し、生涯手離そうとはしなかった。

(上様と共に死ねるのか…)
 蘭丸がこの事を理解した時、悲しみよりは、嬉しさが、体中に溢れてしまっていた。これほど憧れた男と共に、「一緒に死んでくれ」と言われたに等しい言葉を頂いた。

「覚なる上は…」
 蘭丸は、決死の表情で信長の居る部屋を後にした。

「兄上…」
 蘭丸が進むと、弟である森坊丸、力丸の姿があった。
「そなた達は、上様の時を稼ぐための盾となれ」

 兄である蘭丸は、非常の言葉を口にした。この三兄弟は、信長の最期の時を稼ぐために、今生の別れを告げる時間も許されなかった。

 蘭丸を討ち取った者は、安田国継(天野源右衛門)であった。国継は、十文字槍で蘭丸に腹を刺されるも、その槍を片手で抑えて、抜けない内にすばやく蘭丸を討ち取った。脱線するが、この国継は後年、蘭丸の兄である森長可に仕える事になる。

「弟を討とうとも、武功には違いなし」
 反対する重臣を説得するのに、長可はそう語ったという。代々武辺者の家柄であった森家の家中が、これで分かるというものである。

 信長は、火が周っている室内に一人着座していた。目をじっと閉じている。
「残念であった…」
 信長は一つだけ呟いた。

 天下統一までもう少しの所であった。あと五年、いや三年あれば確実にそう出来ていた筈であった。一統後の構想もあった。天下静謐に付き、民を安んずる術もあった筈である。まだやりかけの事、これから行うべき事、山ほどあった。しかし、光秀の謀叛という、予想外の出来事で、それもすべて消える。

 だが、不思議と光秀に対しての恨みや憎しみの感情はなかった。

(よくもやったわ)
 そういう、一種の驚嘆とも言うべき、複雑な感情が心にはあった。だが心残りが無いと言えば嘘になる。

(光秀が作る天下を見てみたい。これからの世の中がどうなっていくのかが知りたい)

 それが叶わぬ望みであったとしても。そして、
「世界中をこの目で見たい!」
 それこそが、信長が望むたった一つの願いであったかもしれない。

「うおおおおおおおーーーーーーーっ」
 目をゆっくりと明けた信長は、膝元に置いてあった太刀を手に取ると、激しく、とても激しく太刀を振った。信長は、誰も居ない一室にて、何度も何度も、渾身の力を込めて、煙と火が迫る極限の中で、太刀を右に払い、袈裟懸けに斬り、上段から斬り下ろした。

 さながらその姿は、見えない敵と戦っているかのようであった。信長のその剣舞は、死が目前となった今においても力強く、そして、美しくさえあった。

「フゥッフゥッ」
 息を切らす程の動きを見せた信長は、右手で自分の左胸を押さえる。動いている。自分の心臓が強く、激しく活動しているのが、着物越しでもはっきりと分かった。

「ドサッ」
 おもむろに信長は、床に倒れる。そして、仰向けに大の字へ横たわった。

(この燃え盛る炎の中でも、床は冷たく、息も苦しくないのだな)

 どこか他人事のように、背中越しに床の感触を味わっていた。そして、天井を見た。その天井の、まだ燃えていない部分には、まるで日本地図を模したかのような染みが広がっていた。それが、今まさに炎で燃えようとしている。

「グックッ」
 信長は、そのままの態勢で、右手を伸ばして、その自分しか知らない日本を手に握ろうと試みた。しかし、次の瞬間、その日本は、炎に消えて、もう信長の眼には見えなくなってしまった。

「ハッハッッハツハツハ」
 信長は高笑いした。それはカラリとしていた。見事な笑い方であった。

(良き生であったわ…)
 無念とは思わなかった。
(余は、出来る限りの事はしたのだ。そうに違いない!) 

 自分の人生に対する自負が、そう思わせたのかもしれない。信長は、起き上がり、姿勢を正して、座り直す。

 信長は決意し、左手に持っていた太刀を右手に持ち替えて、自らの首の左側の頸動脈に当てて、一気に引き抜いた。その瞬間、大量の血が吹き出し、信長はその場に倒れた。次の瞬間、日本地図が描かれていた天井部分が、燃え盛る炎と共に信長の元へ、崩れ落ちた。

 ルイス・フロイスは信長の死について、こう記している。

「その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄せしめていた人間が、毛髪と言わず、骨と言わず、灰燼の化せざるは一つも無くなり、彼の者としては、地上に残存しなかったということである」


「首は、首はまだ見つからぬのか!」
 秀満が部下を叱責していた。明智軍は、炎と共に命を落した筈の信長の遺体を求めて、大幅な時間を割かねばならなかった。これには、理由があった。

(信長の首を曝す事で、天下にその罪状を訴え、我らの正統性を知らしめる)

 この一点のみにおいて、その効果は計り知れない。日本では、というか世界史においても、敗者は首を曝されて、勝者の正義を宣伝するための道具に使われてきた歴史があった。

 しかし、信長の遺体は、建物の損壊が激しく、容易には見つからない。光秀は、偽首を用いて、そうしておいても良かった筈であったが、そうしたと言う記録は、残っていない。

「殿、捕虜を捕らえましてございまする」
 遺体の捜索とは別に、残党狩りを行っていた部隊の者が、捕らえた者達を光秀の前に引き連れてきた。光秀は、一人一人を見て行くと、ある一人の男の前で目を止めた。

「この者も、頑強に抵抗した由にございまする」
 その怪我を負った、黒い肌をした大男の事を光秀は良く知っていた。

「サスケ?…」
 そう信長に名づけられた、元奴隷の黒人青年の名前であった。
「どのように致しましょうや?」
 部下の質問に光秀は、少し間を置いてから答えた。

「彼の者は、元々日本人でも無いゆえに命を取る必要はなし。宣教師共に引き取らせよ」

 光秀は、そう言うと、サスケを連れて行くように命じた。サスケは去り際に光秀に対して、頭を一つ下げる恰好をしたが、何も語りはしなかった。光秀がなぜサスケを助けたのかは不明である。だが、信長と自分との間に起こった諍いの事実を知る唯一人の証人を、殺す気にはなれなかったのかもしれない。その後のサスケの行方は、歴史の彼方に消えたままである。

 信長の首はまだ見つかっていなかった。
(信長は本当に死んだのか?本能寺には脱出口があって、そこから上手く逃げたのではないのか?)

 明智軍の中でも、そういう考えが出始めていた。そうした中、光秀は捜索中止の決定を下した。

「もうよい…」
 光秀は、そう静かに一言いったのみであった。

(はたして、私自身、あの方の首を見たいのだろうか?)

 光秀のこの自問自答が、後日、重大な問題となって、明智軍全体に圧し掛かってくるのであった。そして、光秀が信長の首の捜索を途中で打切らざるをえなくなったのには、理由があった。信長の嫡男で後継者である織田中将信忠が、本能寺の変を知ると、宿泊していた妙覚寺を抜け出して、二条御所に立て籠もっているとの報せが、光秀の元に届いたからであった。

 信長の嫡男である織田信忠は、この時二十六歳。すでに父信長より家督を譲られ、堂々たる織田家の後継者であった。信忠は、自らの近習二百余名を率いて上洛しており、明智軍が本能寺を襲撃した事を、妙覚寺の自分の寝所にて聞いた。

「最早、状況は絶望的かと…」
 信忠に報せたのは、京都所司代である村井貞勝親子であった。信忠はこの時、まだ就寝中であったという。すぐに本能寺に父親を救出に向かおうとしたが、時すでに遅しであった。この件からも、織田親子にとっても、世間にとっても光秀による襲撃が全くの無警戒であった事が理解出来る。

「この上は、堅固なる二条御所へお入り下され」
 信忠は、貞勝の進言を受けて、寺のすぐ近くにあった二条御所へと入る事にした。この時の二条御所は、誠仁親王の邸宅となっていた。ちなみに、室町将軍が居城としていた二条城とは別であり、二条氏が邸宅としていた物を信長が接収し、一時京都での宿泊先としていたものに改装を加えて、親王へ献上した物であった。

「敵が殺到しない内に脱出を」
 家臣たちからは、そう進言された信忠であったが、これを拒否し、御所に立て籠もる事を決意していた。

「明智程の男が謀反したとあらば、京周辺は封鎖されていよう。敵に捕まり、名もない者に討たれたとあっては、末代までの恥辱」

 信忠は、そう言って頭を振った。しかし、本能寺を襲撃すると共に、同時に妙覚寺を襲う手筈であった明智次右衛門の部隊の進軍が遅れており、まだ都に到着していない状況であり、この時の信忠の決断が、彼の、いや如いては、織田家の運命を変えてしまったとも言えた。

(光秀でさえも父上を裏切ったのだ。まして、父が居なくなった今となっては、誰が味方かも分からぬ)

 信忠がそう考えていてもおかしくは無かった。彼は、そう考えてからこう結論に至った。

「ならば、父と同じく斬り死に致し候」
 この若い主の決断に、その場にいた家臣一同は、皆覚悟を決めた。明智軍による御所の包囲が成ったのは、それから少し遅れての事であった。遅れていた次右衛門の部隊がやっと到着したからである。

 信忠の上洛は、この前日にとっさに取られた行動であり、予想外の事であった。信忠は、前日には堺に居たのであり、光秀にとって信忠襲撃は、計画を修正しての行動であった。本能寺の変が用意周到に行われた事ではない事が、これで理解出来る。

 この時に、重臣の増田長盛は、信忠嫡男である三法師の傅役である事から御所を抜け出し、脱出に成功している。明智軍の包囲網は不完全であった。

 戦闘が行われる前に、両軍からの意見で、親王家族は、御所より退去する事が決められ、実行に移されている。誠仁親王は、一時は、「信長と運命を共にする」と覚悟を表していたが、信忠、光秀両首脳からの慰撫により、御所を後にすることをしぶしぶ承諾している。

 両軍の激突は、あっけなく終わったかに思えだが、思わぬ激戦となっていた。それも、織田軍が合計三度も明智軍の先鋒を追い返すなどの健闘を見せていた。
 明智軍の兵士たちは、本能寺を襲った時には、誰を相手にしているのか分からない状況であった。

 それが逆に功を奏したのか、軍内部でも動揺は見られなかった。しかし、二条御所での戦闘が、誰を相手にした物であるのかが明白であった点と、そして顔なじみが多数見られた所から、戦闘を躊躇してしまう場面がしばしば見られており、より戦闘を難しくしてしまっていた。

 また、本能寺に乗り遅れた、都の街中に宿泊していた兵たちが、二条御所へ集まり始めており、明智軍は後ろから、または横から敵に襲われるのを警戒しなければならなかった事も、影響していた。戦局が動いたのは、明智次右衛門の部隊が、御所の隣にあった近衛前久邸を占拠して、そこから丸見えとなる御所内に発砲した事から、信忠軍は大いに崩れた。

 しかし、信忠軍も意地を見せ、信忠自身も刀を手に取り、敵に斬り込み、信長同様に自ら負傷するまでの奮闘を見せている。この点の死に臨んだ戦い振りは、親子でここまで似ている武将も少ないであろう。

「何?次右衛門が撃たれただと?」
 光秀の元にその報せが入ったのは、自軍有利の展開となった直後の事であった。

「殿、面目次第も御座いませぬ…」
 光秀の元に運ばれたきた次右衛門は、その身体に数発の銃弾を受けており、重症であった。次右衛門は、冷静沈着で優れた将である。明智一族出身で、一説には、光秀の従兄弟とか甥であるとか言われている。その冷静な男が、数発の銃弾を受けるまで、猪突していたとは考えにくい。恐らくは、兵の到着が遅れて、思わぬ苦戦を強いられた責任と、焦りが生じさせた事であったろう。

「次右衛門、よく養生致せ。無理を重ねるな」
 光秀は、次右衛門の手を取って労ってやった。次右衛門の忠誠心を誰よりも評価していたからに他ならなかった。光秀が全軍による総攻撃を決意したのは、この次右衛門負傷による所が大きかったであろう。光秀は采を振った。

「若殿、ここまでに御座りましょう。ご決断を…」
 敵の大攻勢に最後を悟り、信忠に自決を進めたのは、信長の弟である織田長益、後の有楽斎であった。この言葉で信忠は覚悟を決めた。

「遺体は、御所の軒下に隠せ…」
 信忠は、そう指示して、腹を見事に斬って見せた。村井貞勝親子もこれに倣って自害して果てた。この時に信忠と共に果てた者は、斎藤利治(斉藤道三末子)や、猪子平介などが居た。そして、信忠に自害するように勧めた織田長益自身は、見事に御所を脱出し、その後も江戸時代まで生き残っている。
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