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第四幕 上洛せし者たち
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光秀は、京の都に戻り、事の次第を将軍義輝に報告した。
「にわかには、信じられませぬが」
光秀の報告を聞いた藤孝は、そう苦言を呈したが、それも今までの事を考えると、はい、そうですかとは、いかないのも無理はないのであった。
「ともかくも、この光秀と長慶殿とで約定を交わした以上は、それを違える時は、双方とも命をかける事となり申そう」
光秀は、そう言って藤孝の言葉を遮った。時は戦国の世である。両者が、いくら仲が良くなっても、それだけで事を決する分けにはいかない事もある。光秀にも藤孝が考える事ぐらいの理屈は、十分理解しているつもりだった。
「今は光秀の言葉を信じよう。長慶とは、その内語り合う時も来よう」
義輝は、それだけを言い、特に長慶に対する対策を講じなかった。ただし、これは、義輝の優柔不断を示すものではなく、単に先に、優先事項が出来ただけの事だった。
義輝は、この時期に将軍の意志を示す、御内書を方々の大名に送っていた。その内容とは、上洛して将軍の意を汲むべし。つまりは、京に来て、義輝が将軍である事を認め、その力になれという命令のようなものであった。
しかし、ほとんどの大名がこれを黙殺した。それだけ当時の足利将軍家の力が衰えていた証拠だろう。しかし、この御内書にいち早く反応した男がいた。尾張国の織田信長である。
信長は、この時二十六歳。父、織田信秀の死から十八歳で家督を継いだ。信長の織田家は本流ではなく、その出自は、尾張守護代のそのまた分家の出にしか過ぎず、その力は尾張半国に満たない小さいものだった。
それが父信秀の代で躍進し、その家督を継いだ信長は、美濃の斉藤道三の娘を娶って誼を通じた。しかし、道三の死後に美濃国とは敵対関係となっていた。
この時期の信長は、まだ本国尾張をすべて手中に治めてもいない程度の小大名にしか過ぎなかった。その若者がどう思ったのか、京の都に来るという。義輝は、その対応をしなければ行けなかったのである。
「うつけ者が来るぞ」
この時の京の都ではそんな陰口が囁かれていた。若い時から信長はうつけ者と言われていたのは、つとに有名な話だが、この当時の誰もが彼のその後の躍進を予感してはいないだろう。
織田上総守信長とこの時の信長は、称していた。しかし、上総守とは、親王が命じられるべき官職であり、地方の小大名ごときが名乗れる物ではなかった。信長は当初、その事を知らなかったと見られる。誰かからその事実を聞いたらしく、次から上総介と称した。
この上総介とは、織田家が先祖だとしている平氏の開祖である高望王が、臣籍降下の際に天皇より賜った官職であり、それにあやかったのか、もしくは、隣国の大名である今川家の当主が、この当時に上総介を代々、称していたからそれを意識してかのどちらか、もしくは、両方からの理由であったろう。
信長が上総守としたのも、上総介より上位の官職であったので、俺は今川より上だというアピールであったのかもしれない。何はともあれ、この上総守と上総介という名乗りからしても、都人から見ると「うつけ者」らしいと噂になっていた。しかし、当の信長はそんな事をいっこうに気にしてはいない様子だった。この守と介の間違いを指摘された時も、
「左様か」
とだけ言い、次には上総介に代えてしまっていた。名前の名乗りなど、勢力争いの道具にしか過ぎず、必要だから使うという、この考え方と姿勢は、彼の生きているうちは徹底していたと言える。この一件だけ見ても、織田信長という人物の性格が分かる気がするのだ。
信長が将軍義輝に謁見したのは、永禄二年(1559年)二月二日と伝わる。史書では、そこで信長が、美濃攻めが滞りなく進んでいることを報告とだけ書かれている。
「織田上総介信長でござる」
「織田殿、上洛大儀である」
この時、義輝と信長との間では一体何が語られたのだろうか?義輝は、尾張の様子などを聞いたのではないだろうか?
「尾張未だ治まらずとも、心配ご無用にございまする」
信長は、そう言ったのかもしれない。また、大量の献上品を贈ったに違いない。
「これは、どれも見事な。尾張は噂通り富が盛んですな」
幕府は、大いに賑わった事だろう。
「して、織田殿よ。貴殿は、美濃を攻めておると聞く。その美濃よりも、幕府に誼を結びたい旨が来ておるが、使者の口上によれば、尾張の織田信長は、己の野望を遂げんがために美濃に出兵致した。これを許せば、ゆくゆくは京を攻めるは必定。今のうちに双方が協力して、信長を討つべしと」
「この信長にとって、美濃の前国主たる斉藤道三は、岳父にあたり申す。これを討った義龍を討伐するため、美濃に兵を向けたまで。岳父の仇を報ずるは、理の当然と思いまする」
信長は、義輝との謁見で実に堂々と振舞った。その武者ぶりに、尾張のうつけ者と揶揄していた幕府のお歴々も、信長を見直さずにはおれなかった。だがしかし、この時の信長の京への上洛の意味を真に理解している者は、皆無だったと言ってよい。
「あれは、ただの物好きに過ぎぬ」
これが、この時の信長への客観的に見た、周りの評価と言って差し支えがなかったであろう。だが唯一人、将軍義輝だけが、信長を理解したと言ってよい。信長を日本で最初に評価したのは、義輝であったかもしれなかった。
「あの男は、治世の能臣か、乱世の奸雄か!」
義輝は、信長をそう評した。当然ながら史書にその事実はない。
「御冗談でしょう?」
藤孝は、そう言って笑っていたが、その横で聞いていた光秀の心中は穏やかではなかった。光秀は、尾張の隣国である美濃の出身である。
信長の義父である道三とその息子の斉藤義龍との骨肉の争いに巻き込まれる形で明智氏が没落したことは、すでに述べた。その時から、尾張の若殿のうつけ振りは有名であった。その信長が、立派な武者振りで京に上洛したのだ。
それはいいとして、もっとも光秀を驚かしたのは、従えた兵のうち、百名からなる鉄砲隊であった。この時期に、それだけの数を有している大名など、まだ余り居なかったであろう。光秀は、鉄砲の先進性を信じている。それと同じことを感じて、しかも実践している信長に驚愕していたのだ。
三国志の英雄である曹操になぞらえた義輝の評価が、あながち的外れではないのではないかと、光秀は感じていたのである。
「あの男は、天下を見据えている」
義輝は、後に光秀に信長を評してそう語った。これこそが、信長の上洛の真の狙いなのだと。
謁見が終わり、歓迎の宴が行われていた。
「織田殿に従えし兵は、何とも異形な風体をしておるとか?」
この時のこの鉄砲隊の姿は、都人を驚かせるのに十分な演出をしていた。兵士一人一人が西洋人の恰好をしていたのである。
「織田殿は刺客に襲われたそうな」
刺客に襲われたのは事実であった。犯人は、美濃の斉藤氏から放たれた者たちであったが、この異形な集団を前に戦意を喪失して、そこを信長に一喝されて、逃げ散ってしまっていた。
「天子様や公方様がおわす京の都で、血なまぐさい事などできましょうや?」
刺客を討ち取らずに逃がしたことを聞かれた信長は、さらりと言い返した。これには、口さがない京の人々も、信長の勤皇家ぶりを褒め称えて隠さなかった。
「織田殿は、百名からなる鉄砲隊を引き連れて、上洛の由と聞くが、こんなに必要なのか?果たして、戦場では役に立ち申そうか?」
幕府の重臣の中には、そう信長に聞いたものがいたに違いない。
「鉄砲とは、十や二十では、手間だけがかかってしまい、戦果を上げ申さぬ。しかしながら、これを百個揃えて、戦の初手に一斉射撃を行えば、敵は怯み申す。そこを逃さずに槍衾で突撃をすれば、大いに戦果をあげる事が出来申す」
「それでは、鉄砲とは目くらましではないか?何とも金のかかる目くらましよのう。はっはっは!」
信長は、馬鹿にされようとただじっと聞いて反論はしなかった。信長には、自分が実戦で培った自信があったからだ。そして、この信長の考えが、後の世の戦の仕方そのものを変えて行く事になる。光秀がそれに重要な役割を担うのは、まだ後年の話しである。
しかしながら、幕府でも根来衆を使って、光秀が鉄砲隊を作ったというのに、未だに鉄砲自体を否定するかのような質問を信長に浴びせる老臣たちに、光秀は内心で、うんざりしていた。
宴も盛り上がって一段落がついた所で、光秀は酔いを醒ますために、中庭へ一人出てきた。月明かりが眩しく、綺麗に夜の世界を照らし出してくれていた。光秀はそこである奇妙な男と出会った。
「足利将軍家も、大したことは、ありませんなあ~」
「藤吉郎よ、そなたの目にはそう写ったか?」
「左様、殿のお話しを聞く上では、公方様は人物のようでございますが、周りに曲者が多すぎますな。いささか覇気を抑えねば、将軍とて害されかねませぬ」
「そうなれば、一間の…」
藤吉郎と呼ばれた男は、手を上に広げてジェスチャーをしてみせた。月明かりで逆光になっていて、始め、光秀にはそれが誰だか分からなかったが、近づくと藤吉郎と呼ばれた男と信長である事が分かった。光秀は、少し躊躇った後に二人に話しかけるべく近づいた。
「おや?人が居ったとは。貴殿はさっきの話しを聞いておったか」
「立ち聞きした分けではござらぬ。お二人の話し声が耳に入ってきたまで。して、そこにいるお方は、織田殿とお見受けいたす。拙者は幕府直臣、明智十兵衛光秀と申す」
「明智?左様か」
信長は短く答えた。
「拙者は、信長公が家臣にて、織田家で足軽を務める木下藤吉郎秀吉と申す」
「明智殿、先ほどの殿と拙者の話しが聞こえてしまっては致し方ござらぬが、さりとて、たかだか一足軽がほざいた与太話でござれば、特に気になさらぬよう」
秀吉は、おどけた表情をして言った。
「主が害されるなどと言う事を聞いて、与太話などで済ませる事など出来ぬ相談だ。詳しくその話をお聞かせ願おう」
そう言うと光秀は、秀吉に凄んだ。秀吉は少し溜息を付きながら、やれやれと言った表情をした。信長は無言で光秀を見ていた。
「ならばお話し申そう。この日の本が戦乱の世になってからというもの、足利将軍家は、武家の棟梁とは言え、実権を家臣に奪われており申した。実権を握った者たちは、将軍の威を大いに利用し申した。しかるに、何の力もない所に、将軍の価値があったのでござる。なればこそ、今まで幕府の命脈は保たれてきたと言え申す」
「しかるに、現公方様は、お強うございます。武芸に優れ、自ら政務を執ろうとなされまする。これでは、諸大名や現在の実権を握る三好家は、面白うござりませぬなあ」
光秀は、秀吉の言葉をだまって聞いている。
「さりとて、三好長慶殿は、公方様を害する気持ちはありますまい。しかしながら、公方様は長慶殿を害そうとなされている。もし、長慶殿が亡くなるような事があれば、残された三好一党にとって、公方様は邪魔者以外の何者でもありますまい」
光秀は、秀吉の指摘に言い返す事が出来なかった。それは、秀吉が言った事がそのまま光秀も感じていた事と一緒だったからである。だからこそ、光秀は長慶と真に和解し、幕府の危機を回避すべく動いてきたのだった。
「今、申し上げたことは、拙者が京に上って感じたことを、我が殿に率直に申し上げた事にござる。明智殿、他意はござらぬゆえ、お忘れ下され」
そう言って、秀吉と信長は再び、宴会の場へと戻っていった。残された光秀は、とても宴会に戻る気にならず、しばらくそこで輝く月を見ながら、先ほど秀吉が言った事について、考え込むのであった。
次の日、将軍義輝のたっての希望から、義輝と信長は鷹狩を共に興じる事となった。無論、光秀と秀吉もそのお供に加わっていた。
「どうした?光秀よ。冴えぬ顔をして。まだ昨夜の酒が抜けておらぬと見える」
「上様、これはお戯れを」
光秀の表情に何かを感じた義輝は光秀をからかったが、光秀の心中は、昨晩より少し沈んでしまっていた。自分でも考えすぎていると思わぬでもなかったが、自分の心の内を見透かされてしまったようで、内心穏やかでは、とてもいられなかったのである。
「明智殿、昨日はどうも」
信長の乗る馬の手綱を引く秀吉が、光秀を見つけて挨拶をした。光秀はそれに会釈で返した。光秀は、この秀吉という男がどうも気にかかっていた。小男で冴えない容貌をしており、身分は一足軽でしかない。ただ、何とも可笑しみのある表情をして、憎めない感じのする男だった。
それが馬廻役でもないのに信長の手綱をしっかりと握って、片時も傍を離れようとしない。まるで小姓のような振る舞いだが、小姓でもなく、まして側近と呼べるほどの身分でもない。ただの道化にしか見えないだろう。しかし、一言自分の意見を述べれば、その国の内情をズバリと言い当てたりするのだ。
(この男は一体何だろう?)
光秀は、一人思っていた。
光秀も気づいていないのだが、秀吉の凄さは、自分を隠す能力にあった。己の役割を通り越した働きをしながら、それを周りに不自然さを与えない振る舞いを出来る事が、この時の秀吉という男を現していると言えた。
そして、唯一その事に気づいているのは、主人である信長一人だけであった。
この秀吉と言う男が、世間に周知されるのには、今しばらくの時間が必要であった。
「ヒュンッ」
弓より矢が射られる音が辺りに鳴り響く。義輝と信長は互いに有意義な時を過ごしていた。
「織田殿よ、これからこの国はどうなって行くと思うか?」
「上様、今この日の本には、鉄砲を始め、外国の知識や文化が入ってきておりまする。この国は、古いしきたりを捨てて、生まれ変わらなければなりませぬ。いや、現に変わってきていると言えまする。この国を一つにまとめるのです」
「ふむ、この国を一つにまとめる為には、強大な武力が必要となる」
そう言いながら、義輝は、矢を弓につがえて構えた。目線の先には獲物になる野兎が見えた。
「まさしく、それこそが将軍である余の責務である。信長よ、余に力を貸せ」
そう言うと義輝は矢を放った。放たれた矢は見事、獲物を捕らえていた。周りで歓声が起こっていた。
「承知!」
信長は、馬上ながら義輝に対して頭を垂れて、敬意を表していた。
義輝と信長は妙に馬が合っていたようである。年も近いし、相性と言うべきものであろう。二人の境遇にも共感する所があったのかもしれない。
義輝は不遇な将軍であった。自らの軍勢を持てず、将軍宣下も京の都で華々しくとは行かず、その後も戦っては京を追われる日々が続いていた。
一方の信長は、若いころより、うつけ者と呼ばれて、父の死後には実の弟が謀反し、これを討ってようやく織田家の実権を握るに至っている。二人に共通するのは、将軍と大名という恵まれた地位にありながら、当初、周りから余り期待されていなかった点である。
そして、その評価を覆すべく、自分の力で切り開こうとしている所も互いに似ていると思ったのかもしれない。
鷹狩の後、数日して信長は尾張へ帰っていった。
「また、お会いする事になりましょう」
去り際に秀吉は、そう言い残していったが、光秀も不思議とそんな気がしていた。そして、信長が京を去ってから、ほどなくして京の人々は織田信長と言う男の事をしばらく忘れる事となる。入れ替わるかのようにして、幕府が待ちに待った、越後の長尾景虎が上洛したのである。
その年の四月二十七日、上洛して景虎は早速、義輝に拝謁している。
「やあ景虎殿、お待ち申しておりましたぞ」
そう言って、景虎達一行をもてなすのは、京に戻っていた大館晴光だった。
「光秀よ、我が事成らずじゃ」
京に戻って光秀と晴光が再会した時、そう言って落胆し、肩を落とす姿を、景虎達をもてなす晴光の横で光秀は思い出していた。
「残念でござりましたなぁ~」
光秀はそれだけを言ったが、それしか言葉が見つからなかった。この時の二人は、京を出立した時の険悪さはすでに無くなっており、同じ目的を共有した同志の意識が芽生えていたに違いない。
さて、長尾景虎について今一度、説明したい。この男は、この戦国時代の武将の中において、稀有と言うべき存在であった。
何しろ、この時代の、どの大名も持っていたはずの領土を拡大するという野心という物が、全くと言って良い程無く、自分の戦いは義心から来るべき正義の戦いだと信じていた。いや、正確を記すなら、そう信じ込もうとしていたと言うべきである。
信じ込もうとしていたと言う事を、もう少し詳細に示すならば、長尾景虎という男は、野心は持たぬ。なれど、戦いを欲するという事であろう。この事が端的に彼の人となりを現しているように思われる。
何しろ、自分が戦いに勝てるように、生涯妻帯する事をせず、毘沙門天に帰依していた事は周知の事実だし、彼が戦って取った領土を恒久的に自分の物にすべく、戦略を立てて武田や北条と戦っていれば、歴史はもう少し違ったものとなっていたかもしれない。
もっともそうしなかった事が、長尾景虎が目の前にある戦いに集中して、その一つ一つの戦いに勝利する事だけに執着し、戦術的芸術家としての生涯を送った事が、彼を歴史的な英雄とした要因の最たる物だろうと思うのだ。
この一見すると矛盾する人格(野心は持たねど、戦いを欲する)こそが、長尾景虎という男の最大の魅力である事は、確かな事実であった。
そして、この異常とも取れる程の義心が、彼を動かして、越後より遠く離れた京にいる苦境の将軍を助けるべく、五千の兵を率いての上洛という行動に結びついている。
「例え、国を傾けようとも、上様をお助け参る」
景虎は、そう義輝に語ったと伝えられる。将軍義輝の喜びようはなかったであろう。これには、幕府も最大限の栄誉を持って景虎に報いている。
まず、関東管領の上杉憲政の養子となり、上杉姓と関東管領職を継ぐご内書を与える。(景虎はすぐには継いでいない)
そして、文の裏書、塗輿、菊桐の紋章、朱柄の傘、屋形号の使用を許され、白傘袋と毛氈の鞍覆の使用と合わせて、上杉の七免許と後世に伝わる破格の待遇ぶりを示した。
これは、将軍家に連なる身分の者にしか与えられない栄誉であり、実利より、形式や格式を重んじる景虎に取っては、嬉しかったに違いなく、実利の面から言っても、これで家格は、源氏の名門である武田晴信より上の、関東管領の上杉氏となり、また北条氏と関東で争う時にも、その正当性を幕府から認められた事になる。
これこそが、光秀と晴光とが協議して、景虎を上洛させるための奥の手であったのだ。
そして、景虎はこの時に参内して、時の帝である正親町天皇に拝謁する栄誉を受けている。これは、先に上洛した信長は天皇に拝謁しておらず、他の大名でも余り見られない出来事であった。もっとも、この時に落ちぶれた天皇家を有難がる武家も少数であった事も影響しているだろうが。
また、上洛時に景虎は事件を二つ起こしている。一つは、堺で見物中に旅宿の町主を無礼討ちにし、旅宿を放火しており、またこの仕打ちに抗議した町人たちに刃を向けて追い散らすという暴挙に出ている。
この放火のため、旅宿町は大火に見舞われ、その結果、数千の家が焼け落ちたという逸話が残っている。
もう一つは、無礼を働いたという理由で、三好家の家人を惨殺している。この時に堺を治めていたのは、むろん三好長慶であるが、この二つの事件に関して、長慶側からは抗議だった事はされていない。言うまでもないが、これはあからさまな挑発行為であり、何かあればそれを口実に、上洛した五千の兵を率いて、三好一党を討つつもりだったに違いない。
しかし、長慶は切れる武将である。景虎と争うリスクを承知しており、ただただじっと耐えていた。口実を与えず、五千の越後勢が北国に帰るのをじっと待っていたのである。
そして、四ヶ月の滞在の後に、景虎は帰ることとなった。上洛の帰途、近江・坂本で義輝は、鉄砲と鉄放薬之方調合次第という火薬の作り方を詳細に記した一巻を景虎に贈った。これは、光秀の進言によるものであったが、越後では、これを機に鉄砲製造に力を注ぐ事となるのである。
「帰るのか、景虎よ…」
「上様、何事もこの景虎が居る事を思い出し下さりませ」
義輝以下、幕府の人間は景虎が帰るのを悲しんだ。義輝にとっては最大の協力者でもあり、腹を割って話せる数少ない友との別れである。ここで離れれば、いつまた会えるとも限らない。この時代の京と越後は、遠すぎる距離であったのだ。
ただ、一つ言える事は、この景虎の上洛があった事で、義輝が長慶と真に和睦する機会を逸したと言えるだろう。義輝にしてみれば、越後による後ろ盾が出来たことで、三好一党が居ない幕府を模索する道が開けたと思っただろうし、長慶にして見れば、勝手に外野から出てきて、好き放題をされるのを、良しとは思わなかったであろうから。
「にわかには、信じられませぬが」
光秀の報告を聞いた藤孝は、そう苦言を呈したが、それも今までの事を考えると、はい、そうですかとは、いかないのも無理はないのであった。
「ともかくも、この光秀と長慶殿とで約定を交わした以上は、それを違える時は、双方とも命をかける事となり申そう」
光秀は、そう言って藤孝の言葉を遮った。時は戦国の世である。両者が、いくら仲が良くなっても、それだけで事を決する分けにはいかない事もある。光秀にも藤孝が考える事ぐらいの理屈は、十分理解しているつもりだった。
「今は光秀の言葉を信じよう。長慶とは、その内語り合う時も来よう」
義輝は、それだけを言い、特に長慶に対する対策を講じなかった。ただし、これは、義輝の優柔不断を示すものではなく、単に先に、優先事項が出来ただけの事だった。
義輝は、この時期に将軍の意志を示す、御内書を方々の大名に送っていた。その内容とは、上洛して将軍の意を汲むべし。つまりは、京に来て、義輝が将軍である事を認め、その力になれという命令のようなものであった。
しかし、ほとんどの大名がこれを黙殺した。それだけ当時の足利将軍家の力が衰えていた証拠だろう。しかし、この御内書にいち早く反応した男がいた。尾張国の織田信長である。
信長は、この時二十六歳。父、織田信秀の死から十八歳で家督を継いだ。信長の織田家は本流ではなく、その出自は、尾張守護代のそのまた分家の出にしか過ぎず、その力は尾張半国に満たない小さいものだった。
それが父信秀の代で躍進し、その家督を継いだ信長は、美濃の斉藤道三の娘を娶って誼を通じた。しかし、道三の死後に美濃国とは敵対関係となっていた。
この時期の信長は、まだ本国尾張をすべて手中に治めてもいない程度の小大名にしか過ぎなかった。その若者がどう思ったのか、京の都に来るという。義輝は、その対応をしなければ行けなかったのである。
「うつけ者が来るぞ」
この時の京の都ではそんな陰口が囁かれていた。若い時から信長はうつけ者と言われていたのは、つとに有名な話だが、この当時の誰もが彼のその後の躍進を予感してはいないだろう。
織田上総守信長とこの時の信長は、称していた。しかし、上総守とは、親王が命じられるべき官職であり、地方の小大名ごときが名乗れる物ではなかった。信長は当初、その事を知らなかったと見られる。誰かからその事実を聞いたらしく、次から上総介と称した。
この上総介とは、織田家が先祖だとしている平氏の開祖である高望王が、臣籍降下の際に天皇より賜った官職であり、それにあやかったのか、もしくは、隣国の大名である今川家の当主が、この当時に上総介を代々、称していたからそれを意識してかのどちらか、もしくは、両方からの理由であったろう。
信長が上総守としたのも、上総介より上位の官職であったので、俺は今川より上だというアピールであったのかもしれない。何はともあれ、この上総守と上総介という名乗りからしても、都人から見ると「うつけ者」らしいと噂になっていた。しかし、当の信長はそんな事をいっこうに気にしてはいない様子だった。この守と介の間違いを指摘された時も、
「左様か」
とだけ言い、次には上総介に代えてしまっていた。名前の名乗りなど、勢力争いの道具にしか過ぎず、必要だから使うという、この考え方と姿勢は、彼の生きているうちは徹底していたと言える。この一件だけ見ても、織田信長という人物の性格が分かる気がするのだ。
信長が将軍義輝に謁見したのは、永禄二年(1559年)二月二日と伝わる。史書では、そこで信長が、美濃攻めが滞りなく進んでいることを報告とだけ書かれている。
「織田上総介信長でござる」
「織田殿、上洛大儀である」
この時、義輝と信長との間では一体何が語られたのだろうか?義輝は、尾張の様子などを聞いたのではないだろうか?
「尾張未だ治まらずとも、心配ご無用にございまする」
信長は、そう言ったのかもしれない。また、大量の献上品を贈ったに違いない。
「これは、どれも見事な。尾張は噂通り富が盛んですな」
幕府は、大いに賑わった事だろう。
「して、織田殿よ。貴殿は、美濃を攻めておると聞く。その美濃よりも、幕府に誼を結びたい旨が来ておるが、使者の口上によれば、尾張の織田信長は、己の野望を遂げんがために美濃に出兵致した。これを許せば、ゆくゆくは京を攻めるは必定。今のうちに双方が協力して、信長を討つべしと」
「この信長にとって、美濃の前国主たる斉藤道三は、岳父にあたり申す。これを討った義龍を討伐するため、美濃に兵を向けたまで。岳父の仇を報ずるは、理の当然と思いまする」
信長は、義輝との謁見で実に堂々と振舞った。その武者ぶりに、尾張のうつけ者と揶揄していた幕府のお歴々も、信長を見直さずにはおれなかった。だがしかし、この時の信長の京への上洛の意味を真に理解している者は、皆無だったと言ってよい。
「あれは、ただの物好きに過ぎぬ」
これが、この時の信長への客観的に見た、周りの評価と言って差し支えがなかったであろう。だが唯一人、将軍義輝だけが、信長を理解したと言ってよい。信長を日本で最初に評価したのは、義輝であったかもしれなかった。
「あの男は、治世の能臣か、乱世の奸雄か!」
義輝は、信長をそう評した。当然ながら史書にその事実はない。
「御冗談でしょう?」
藤孝は、そう言って笑っていたが、その横で聞いていた光秀の心中は穏やかではなかった。光秀は、尾張の隣国である美濃の出身である。
信長の義父である道三とその息子の斉藤義龍との骨肉の争いに巻き込まれる形で明智氏が没落したことは、すでに述べた。その時から、尾張の若殿のうつけ振りは有名であった。その信長が、立派な武者振りで京に上洛したのだ。
それはいいとして、もっとも光秀を驚かしたのは、従えた兵のうち、百名からなる鉄砲隊であった。この時期に、それだけの数を有している大名など、まだ余り居なかったであろう。光秀は、鉄砲の先進性を信じている。それと同じことを感じて、しかも実践している信長に驚愕していたのだ。
三国志の英雄である曹操になぞらえた義輝の評価が、あながち的外れではないのではないかと、光秀は感じていたのである。
「あの男は、天下を見据えている」
義輝は、後に光秀に信長を評してそう語った。これこそが、信長の上洛の真の狙いなのだと。
謁見が終わり、歓迎の宴が行われていた。
「織田殿に従えし兵は、何とも異形な風体をしておるとか?」
この時のこの鉄砲隊の姿は、都人を驚かせるのに十分な演出をしていた。兵士一人一人が西洋人の恰好をしていたのである。
「織田殿は刺客に襲われたそうな」
刺客に襲われたのは事実であった。犯人は、美濃の斉藤氏から放たれた者たちであったが、この異形な集団を前に戦意を喪失して、そこを信長に一喝されて、逃げ散ってしまっていた。
「天子様や公方様がおわす京の都で、血なまぐさい事などできましょうや?」
刺客を討ち取らずに逃がしたことを聞かれた信長は、さらりと言い返した。これには、口さがない京の人々も、信長の勤皇家ぶりを褒め称えて隠さなかった。
「織田殿は、百名からなる鉄砲隊を引き連れて、上洛の由と聞くが、こんなに必要なのか?果たして、戦場では役に立ち申そうか?」
幕府の重臣の中には、そう信長に聞いたものがいたに違いない。
「鉄砲とは、十や二十では、手間だけがかかってしまい、戦果を上げ申さぬ。しかしながら、これを百個揃えて、戦の初手に一斉射撃を行えば、敵は怯み申す。そこを逃さずに槍衾で突撃をすれば、大いに戦果をあげる事が出来申す」
「それでは、鉄砲とは目くらましではないか?何とも金のかかる目くらましよのう。はっはっは!」
信長は、馬鹿にされようとただじっと聞いて反論はしなかった。信長には、自分が実戦で培った自信があったからだ。そして、この信長の考えが、後の世の戦の仕方そのものを変えて行く事になる。光秀がそれに重要な役割を担うのは、まだ後年の話しである。
しかしながら、幕府でも根来衆を使って、光秀が鉄砲隊を作ったというのに、未だに鉄砲自体を否定するかのような質問を信長に浴びせる老臣たちに、光秀は内心で、うんざりしていた。
宴も盛り上がって一段落がついた所で、光秀は酔いを醒ますために、中庭へ一人出てきた。月明かりが眩しく、綺麗に夜の世界を照らし出してくれていた。光秀はそこである奇妙な男と出会った。
「足利将軍家も、大したことは、ありませんなあ~」
「藤吉郎よ、そなたの目にはそう写ったか?」
「左様、殿のお話しを聞く上では、公方様は人物のようでございますが、周りに曲者が多すぎますな。いささか覇気を抑えねば、将軍とて害されかねませぬ」
「そうなれば、一間の…」
藤吉郎と呼ばれた男は、手を上に広げてジェスチャーをしてみせた。月明かりで逆光になっていて、始め、光秀にはそれが誰だか分からなかったが、近づくと藤吉郎と呼ばれた男と信長である事が分かった。光秀は、少し躊躇った後に二人に話しかけるべく近づいた。
「おや?人が居ったとは。貴殿はさっきの話しを聞いておったか」
「立ち聞きした分けではござらぬ。お二人の話し声が耳に入ってきたまで。して、そこにいるお方は、織田殿とお見受けいたす。拙者は幕府直臣、明智十兵衛光秀と申す」
「明智?左様か」
信長は短く答えた。
「拙者は、信長公が家臣にて、織田家で足軽を務める木下藤吉郎秀吉と申す」
「明智殿、先ほどの殿と拙者の話しが聞こえてしまっては致し方ござらぬが、さりとて、たかだか一足軽がほざいた与太話でござれば、特に気になさらぬよう」
秀吉は、おどけた表情をして言った。
「主が害されるなどと言う事を聞いて、与太話などで済ませる事など出来ぬ相談だ。詳しくその話をお聞かせ願おう」
そう言うと光秀は、秀吉に凄んだ。秀吉は少し溜息を付きながら、やれやれと言った表情をした。信長は無言で光秀を見ていた。
「ならばお話し申そう。この日の本が戦乱の世になってからというもの、足利将軍家は、武家の棟梁とは言え、実権を家臣に奪われており申した。実権を握った者たちは、将軍の威を大いに利用し申した。しかるに、何の力もない所に、将軍の価値があったのでござる。なればこそ、今まで幕府の命脈は保たれてきたと言え申す」
「しかるに、現公方様は、お強うございます。武芸に優れ、自ら政務を執ろうとなされまする。これでは、諸大名や現在の実権を握る三好家は、面白うござりませぬなあ」
光秀は、秀吉の言葉をだまって聞いている。
「さりとて、三好長慶殿は、公方様を害する気持ちはありますまい。しかしながら、公方様は長慶殿を害そうとなされている。もし、長慶殿が亡くなるような事があれば、残された三好一党にとって、公方様は邪魔者以外の何者でもありますまい」
光秀は、秀吉の指摘に言い返す事が出来なかった。それは、秀吉が言った事がそのまま光秀も感じていた事と一緒だったからである。だからこそ、光秀は長慶と真に和解し、幕府の危機を回避すべく動いてきたのだった。
「今、申し上げたことは、拙者が京に上って感じたことを、我が殿に率直に申し上げた事にござる。明智殿、他意はござらぬゆえ、お忘れ下され」
そう言って、秀吉と信長は再び、宴会の場へと戻っていった。残された光秀は、とても宴会に戻る気にならず、しばらくそこで輝く月を見ながら、先ほど秀吉が言った事について、考え込むのであった。
次の日、将軍義輝のたっての希望から、義輝と信長は鷹狩を共に興じる事となった。無論、光秀と秀吉もそのお供に加わっていた。
「どうした?光秀よ。冴えぬ顔をして。まだ昨夜の酒が抜けておらぬと見える」
「上様、これはお戯れを」
光秀の表情に何かを感じた義輝は光秀をからかったが、光秀の心中は、昨晩より少し沈んでしまっていた。自分でも考えすぎていると思わぬでもなかったが、自分の心の内を見透かされてしまったようで、内心穏やかでは、とてもいられなかったのである。
「明智殿、昨日はどうも」
信長の乗る馬の手綱を引く秀吉が、光秀を見つけて挨拶をした。光秀はそれに会釈で返した。光秀は、この秀吉という男がどうも気にかかっていた。小男で冴えない容貌をしており、身分は一足軽でしかない。ただ、何とも可笑しみのある表情をして、憎めない感じのする男だった。
それが馬廻役でもないのに信長の手綱をしっかりと握って、片時も傍を離れようとしない。まるで小姓のような振る舞いだが、小姓でもなく、まして側近と呼べるほどの身分でもない。ただの道化にしか見えないだろう。しかし、一言自分の意見を述べれば、その国の内情をズバリと言い当てたりするのだ。
(この男は一体何だろう?)
光秀は、一人思っていた。
光秀も気づいていないのだが、秀吉の凄さは、自分を隠す能力にあった。己の役割を通り越した働きをしながら、それを周りに不自然さを与えない振る舞いを出来る事が、この時の秀吉という男を現していると言えた。
そして、唯一その事に気づいているのは、主人である信長一人だけであった。
この秀吉と言う男が、世間に周知されるのには、今しばらくの時間が必要であった。
「ヒュンッ」
弓より矢が射られる音が辺りに鳴り響く。義輝と信長は互いに有意義な時を過ごしていた。
「織田殿よ、これからこの国はどうなって行くと思うか?」
「上様、今この日の本には、鉄砲を始め、外国の知識や文化が入ってきておりまする。この国は、古いしきたりを捨てて、生まれ変わらなければなりませぬ。いや、現に変わってきていると言えまする。この国を一つにまとめるのです」
「ふむ、この国を一つにまとめる為には、強大な武力が必要となる」
そう言いながら、義輝は、矢を弓につがえて構えた。目線の先には獲物になる野兎が見えた。
「まさしく、それこそが将軍である余の責務である。信長よ、余に力を貸せ」
そう言うと義輝は矢を放った。放たれた矢は見事、獲物を捕らえていた。周りで歓声が起こっていた。
「承知!」
信長は、馬上ながら義輝に対して頭を垂れて、敬意を表していた。
義輝と信長は妙に馬が合っていたようである。年も近いし、相性と言うべきものであろう。二人の境遇にも共感する所があったのかもしれない。
義輝は不遇な将軍であった。自らの軍勢を持てず、将軍宣下も京の都で華々しくとは行かず、その後も戦っては京を追われる日々が続いていた。
一方の信長は、若いころより、うつけ者と呼ばれて、父の死後には実の弟が謀反し、これを討ってようやく織田家の実権を握るに至っている。二人に共通するのは、将軍と大名という恵まれた地位にありながら、当初、周りから余り期待されていなかった点である。
そして、その評価を覆すべく、自分の力で切り開こうとしている所も互いに似ていると思ったのかもしれない。
鷹狩の後、数日して信長は尾張へ帰っていった。
「また、お会いする事になりましょう」
去り際に秀吉は、そう言い残していったが、光秀も不思議とそんな気がしていた。そして、信長が京を去ってから、ほどなくして京の人々は織田信長と言う男の事をしばらく忘れる事となる。入れ替わるかのようにして、幕府が待ちに待った、越後の長尾景虎が上洛したのである。
その年の四月二十七日、上洛して景虎は早速、義輝に拝謁している。
「やあ景虎殿、お待ち申しておりましたぞ」
そう言って、景虎達一行をもてなすのは、京に戻っていた大館晴光だった。
「光秀よ、我が事成らずじゃ」
京に戻って光秀と晴光が再会した時、そう言って落胆し、肩を落とす姿を、景虎達をもてなす晴光の横で光秀は思い出していた。
「残念でござりましたなぁ~」
光秀はそれだけを言ったが、それしか言葉が見つからなかった。この時の二人は、京を出立した時の険悪さはすでに無くなっており、同じ目的を共有した同志の意識が芽生えていたに違いない。
さて、長尾景虎について今一度、説明したい。この男は、この戦国時代の武将の中において、稀有と言うべき存在であった。
何しろ、この時代の、どの大名も持っていたはずの領土を拡大するという野心という物が、全くと言って良い程無く、自分の戦いは義心から来るべき正義の戦いだと信じていた。いや、正確を記すなら、そう信じ込もうとしていたと言うべきである。
信じ込もうとしていたと言う事を、もう少し詳細に示すならば、長尾景虎という男は、野心は持たぬ。なれど、戦いを欲するという事であろう。この事が端的に彼の人となりを現しているように思われる。
何しろ、自分が戦いに勝てるように、生涯妻帯する事をせず、毘沙門天に帰依していた事は周知の事実だし、彼が戦って取った領土を恒久的に自分の物にすべく、戦略を立てて武田や北条と戦っていれば、歴史はもう少し違ったものとなっていたかもしれない。
もっともそうしなかった事が、長尾景虎が目の前にある戦いに集中して、その一つ一つの戦いに勝利する事だけに執着し、戦術的芸術家としての生涯を送った事が、彼を歴史的な英雄とした要因の最たる物だろうと思うのだ。
この一見すると矛盾する人格(野心は持たねど、戦いを欲する)こそが、長尾景虎という男の最大の魅力である事は、確かな事実であった。
そして、この異常とも取れる程の義心が、彼を動かして、越後より遠く離れた京にいる苦境の将軍を助けるべく、五千の兵を率いての上洛という行動に結びついている。
「例え、国を傾けようとも、上様をお助け参る」
景虎は、そう義輝に語ったと伝えられる。将軍義輝の喜びようはなかったであろう。これには、幕府も最大限の栄誉を持って景虎に報いている。
まず、関東管領の上杉憲政の養子となり、上杉姓と関東管領職を継ぐご内書を与える。(景虎はすぐには継いでいない)
そして、文の裏書、塗輿、菊桐の紋章、朱柄の傘、屋形号の使用を許され、白傘袋と毛氈の鞍覆の使用と合わせて、上杉の七免許と後世に伝わる破格の待遇ぶりを示した。
これは、将軍家に連なる身分の者にしか与えられない栄誉であり、実利より、形式や格式を重んじる景虎に取っては、嬉しかったに違いなく、実利の面から言っても、これで家格は、源氏の名門である武田晴信より上の、関東管領の上杉氏となり、また北条氏と関東で争う時にも、その正当性を幕府から認められた事になる。
これこそが、光秀と晴光とが協議して、景虎を上洛させるための奥の手であったのだ。
そして、景虎はこの時に参内して、時の帝である正親町天皇に拝謁する栄誉を受けている。これは、先に上洛した信長は天皇に拝謁しておらず、他の大名でも余り見られない出来事であった。もっとも、この時に落ちぶれた天皇家を有難がる武家も少数であった事も影響しているだろうが。
また、上洛時に景虎は事件を二つ起こしている。一つは、堺で見物中に旅宿の町主を無礼討ちにし、旅宿を放火しており、またこの仕打ちに抗議した町人たちに刃を向けて追い散らすという暴挙に出ている。
この放火のため、旅宿町は大火に見舞われ、その結果、数千の家が焼け落ちたという逸話が残っている。
もう一つは、無礼を働いたという理由で、三好家の家人を惨殺している。この時に堺を治めていたのは、むろん三好長慶であるが、この二つの事件に関して、長慶側からは抗議だった事はされていない。言うまでもないが、これはあからさまな挑発行為であり、何かあればそれを口実に、上洛した五千の兵を率いて、三好一党を討つつもりだったに違いない。
しかし、長慶は切れる武将である。景虎と争うリスクを承知しており、ただただじっと耐えていた。口実を与えず、五千の越後勢が北国に帰るのをじっと待っていたのである。
そして、四ヶ月の滞在の後に、景虎は帰ることとなった。上洛の帰途、近江・坂本で義輝は、鉄砲と鉄放薬之方調合次第という火薬の作り方を詳細に記した一巻を景虎に贈った。これは、光秀の進言によるものであったが、越後では、これを機に鉄砲製造に力を注ぐ事となるのである。
「帰るのか、景虎よ…」
「上様、何事もこの景虎が居る事を思い出し下さりませ」
義輝以下、幕府の人間は景虎が帰るのを悲しんだ。義輝にとっては最大の協力者でもあり、腹を割って話せる数少ない友との別れである。ここで離れれば、いつまた会えるとも限らない。この時代の京と越後は、遠すぎる距離であったのだ。
ただ、一つ言える事は、この景虎の上洛があった事で、義輝が長慶と真に和睦する機会を逸したと言えるだろう。義輝にしてみれば、越後による後ろ盾が出来たことで、三好一党が居ない幕府を模索する道が開けたと思っただろうし、長慶にして見れば、勝手に外野から出てきて、好き放題をされるのを、良しとは思わなかったであろうから。
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毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
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