天下静謐~光秀奔る~

たい陸

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第十幕 夢潰える

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 話しは、光秀が京の都より、越前へと向かった頃まで遡る。ある一人の男の死が、幾内を揺るがす大事件へと発展して行くのである。その三好長慶が亡くなったのは、永禄七年(1564年)七月四日と伝わる。

 一説には、久秀による毒殺説も根強い。真相は、どうかは分からないが、その死がまだ四三歳という若さにして、老人のように、精神的にも肉体的にも衰弱死のような、死に様であった事は確かであった。

 しかし、この喪は、二年間も秘された。長慶の後を継いだ義継が若年であったために、その権力移行が、盤石に整うのを待ったためと思われる。その遺体は、二年の間にかなり破損していたと思われ、天下人と謳われた男の、哀れな最後であった。後年、細川藤孝が長慶の事をこう語っている。

「三好修理大夫殿は、その優美さにおいて、如何なる時でも変わることがなかった」

 過去にある茶会にて、長慶と藤孝は列席した。その時のことである。
 夏の暑い日であった。京の都は暑い。じめじめした暑さが身に堪える。しかし、上座には将軍義輝もいるため、扇子を広げてバタバタとは扇げない状況だった。列席した者は、汗を時折拭きながら、皆我慢していた。

 その状況下で、藤孝がふと長慶に目をやると、長慶は、手前に置いてあった扇子を右手で取り上げ、それをごく自然な動作で広げたかと思うと、

「サーッサーッ」
 と二回だけ扇ぎ、そしてまた扇子を閉じて、元のように手前に置いた。

 藤孝が驚いた事に、置き直した扇子は、元々置いてあった場所と寸分違わぬ正確さであったという。

「皆が競って彼の模倣をした。優美さと強靭さを兼ね備えた、稀有な人物であった」
 藤孝は、長慶に対して最大限の評価の言葉を残している。


 永禄八年(1565年)五月十九日、その日、京の都では朝から小雨がパラパラと降っていた。まだ起きる時間には早かったが、何かの気配を感じて目を覚ました。横には、側室の小侍従が、まだ寝息を立てている。義輝が身を起こして、寝床から起き上がると、小侍従がハッと目を覚ました。

「もそっと寝ておれ」
 義輝は、愛しむように小侍従に声をかけた。この時、彼女は義輝の子を懐妊していた。

「上様、御所の周りに何やら軍勢が居る様子」
 廊下を小走りに走る音が聞こえて、障子の向こうで声がした。その声の主は、前将軍から使える沼田上野介光兼であることを、義輝には分かっていた。

「誰かある。具足を持て!」
 義輝が大声で呼ばわると、奥の部屋から二人の小姓がすぐに現れた。義輝が具足をつける様子を小侍従が不安そうに見ていた。

「上様、御武運を!」
 しかし、自らの不安をかき消すかのように、小侍従は、力強く義輝を激励する。

「うむ」
 義輝は、それだけ言うと、寝室を後にして、大広間へと向かっていった。その頃、二条御所の外では、着々と軍勢が集まり、御所の周りを取り囲もうとしていた。

「三好修理大夫より、上様に訴訟の儀、これあり。開門を求む」
 軍勢の旗には、三好家の家紋である三階菱に釘貫が見られた。その他には、蔦の家紋の旗があり、それが松永久秀の軍勢も居ることを証明していた。

 しかし、三好長慶は、すでに死去したはずであり、正式な葬儀は、この二年後に執り行われた事は、すでに述べた。この時、長慶の名を偽って大声で口上を述べたのは、三好三人衆の一人である三好長逸であった。

 そして、残りの二人である三好政康と岩成友通も軍勢を引き連れて、二条御所に到着していた。それから、その中心には、長慶の後を継いだ三好義継の姿もあった。

 最初、三好長逸ら始め、三人衆の面々は、将軍襲撃に難色を示していた。これは、長慶の生前から何度も計画されていた事であったが、長慶が存命中は、決して許さなかったという。

 しかし、長慶の死を持って、その呪縛から解き放たれた義輝が、自らの実権を盛り返そうとする動きが強くなってきたため、三好三人衆としては、将軍を牽制するために軍勢を出したのが本音のようであった。

「軍勢で取り囲めば、公方様とて観念するであろう」
 将軍義輝が大人しく従うのならば良し。そうでないのであれば、公方様にはご出家あそばされ、他の足利家連枝を持って、将軍職に付ける。将軍とは権威であればいい。他の事を望むべきではないのである。これが、三好一党の考えであった。しかし、松永久秀だけは違っていた。

(将軍を殺す!)
 久秀の心には、その真っ黒に塗り潰された殺意しかなかったのである。

 一方、その頃、御所内では、徹底抗戦か和平か逃亡かで、義輝の奉公衆達側近らが議論を重ねていた。

(やれやれ、もう少しで門扉の修繕が済んだものを)
 その中にいた藤孝は、別の思案をしていた。この二条御所は、数年前から少しずつであったが、このような時を想定して、防備を固めるべく修繕を重ねていたのであった。

 しかし、後は正面の門だけの所であったものが、金の都合と、修繕を始めてしまうと、完成まで、出入りに不自由となってしまうので、その時期を考えていた時だったのである。敵もその修繕が済んでいない事を百も承知なので、そこを攻めて来るであろう。

「余は、将軍職を継いだ時に近江にあった。それからも将軍とは名ばかりに幾度も敗走を強いられ、何度も京の都を離れた。もはや余の代で、将軍の権威を失墜するがごとき、敵に降ることも、ましてや逃亡などもせぬ」

 義輝の決断は素早かった。そう、もはや敵は目の前におり、議論などの余地はないのであった。あるのは、勝利か死か。義輝のその言葉で、家臣一同の目の色が変わった。徹底抗戦あるのみ。足利幕府の矜持に賭けた戦いが始まろうとしていた。

「五十だと?少なくとも、百は用意しろ!」
 久秀は、床几に腰をおろし、手厳しく、家臣にそう命令していた。鉄砲の数をであった。すでに鉄砲隊が装填の準備を進めているところであったのだ。この時、早朝より降っていた雨は、いつの間にかに止んでいた。

「明智よ、見ておれよ。貴様の大義とやらを、ここで打ち砕いてくれるわ」
 久秀は、下卑た笑いを浮かべた。それを久秀の重臣たちは、誰もが不気味に感じていた。

 この時、にわかに御所の大手門が開門しようとしていた。これには事情があった。将軍義輝の生母である慶寿院が、近臣の進士晴舎に命じて、三好・松永方と談判するために使者を命じていたのである。

「相手方の言い分を聞けば、兵を退くのではないか?」
 そう考えての事であったが、晴舎が使者として、口上を述べ、開門しようとしていたその時であった。門が開いていくのを見た松永隊は、門が開ききるよりも早くに、門の両開きに取り付き、というよりも殺到し、御所内への突入を開始してしまったのである。

 義輝の母、慶寿院は、関白近衛家より将軍家へ輿入れし、第十二代将軍義晴の御台所となった女性であった。義輝は、幼少の頃に将軍家を継いで、その後に、すぐ父を亡くしている。母である慶寿院は、幼少の息子を補佐して、幕政にも参画していたようである。

 今回の件では、それがいけなかったと思われる。察するに、進士晴舎を使者に立てた事を義輝は恐らく知らなかったであろう。晴舎は、義輝の側室である小侍従の父とも伝わる人物である。義輝の側近として、重臣の一人として活躍していたに違いない。

 義輝はこの時すでに、御所より逃亡することを潔しとせずに、御所内で抗戦することを決めていた。慶寿院はその息子の覚悟を知って、義輝の命だけでも助けるために、敵と話しを付けようとしたのではないだろうか。その事が仇となり、久秀らに付け込まれる格好となってしまったのだ。

 しかし、この時には、まだ三好長逸などは、将軍弑逆を快しと思えずにいた節があり、もしも、正門近くにいた隊が松永隊ではなく、この三好長逸の部隊であったならば、歴史は変わっていたのかもしれなかった。晴舎や門番たちは、松永隊の動きをすぐに察知したものの、殺到する松永隊を食い止める事が出来ずに、結果として、敵を城内に入れてしまう役割を担ってしまうのであった。

 晴舎は、この事を恥じて、御所内に戻ると静かに座りこみ、威厳を正した。そして、義輝と慶寿院が居る方向に向って深々と一礼した。
「我、無念の使者となりました事、痛恨の極みなり。上様に会す顔を失い申した」

 そう言い残すと、自らの腹に刀を突きたてて、自害してしまった。何とも壮烈な死であった。一方、この時、大手門の守りは三十名に満たない人数であり、そこに二百名以上の松永・岩成隊が殺到したのである。大手門の守りは、一堪りもなく、次の門まで撤退を余儀なくされた。

 しかし、その次の門である屏重門までもが、すぐに破られた。義輝の元へは、この報せがすぐに届いている。その義輝はと言うと、屏重門が破られたのを聞くと、色めきだつ家臣たちをよそに、泰然自若とした様子で座っていた。そしてゆっくりと目を閉じた。

「紙と筆を…」
 義輝は、紙と筆を受け取ると、用意していた辞世の句を詠んだ。

「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をとげん 雲の上まで」

 その辞世を聞いた家臣一同は、皆義輝の心情を慮って泣いた。思えば不運な将軍であった。生まれて将軍職を継いだ時には、宗家にはすでに往年の力はなく、衰退の一途を辿っていた。

 これを打開するために、幾度も戦っては負けてを繰り返した。義輝自身の力量は、その武人としての強さは際立ち、外交手腕も、日本中の大名の紛争の調停に助力し、将軍の権威回復に努めた。

 鎌倉の御世から続く、征夷大将軍の中でも名将軍になり得る可能性が大いにあった。しかし、巨大な敵であった三好長慶が死去し、これから将軍としての力を示していけると思っていた矢先の出来事であったのだ。それを知っている家臣達は、義輝の無念な心情を痛い程理解し、涙を流すのであった。義輝と家臣たちはここで盃を交わしている。別れの盃であった。

「藤孝、近う」
 幾人かの盃の後に、義輝が藤孝を呼んだ。呼ばれた藤孝は、スーッと義輝の前に進みでて座った。年が近く、もっとも身近にいた二人である。主従を超えた想いもある。

 しかし、お互いに何も言わない。ただ静かに盃を交わすだけである。ゆっくりと藤孝は、義輝の杯を満たした。義輝は、藤孝の顔をじっと見る。そしてニコリと笑うと、一気に杯の中の酒を飲み干した。思わず藤孝が見入ってしまうほどの見事な痺れる笑顔であった。

 飲み干した義輝は、杯を切って、それを藤孝に手渡す。藤孝は、それを受け取ると、並々と酒を注いでやった。藤孝もそれを一気に飲み干した。

(この方と共に死ぬるなら、それも武士として、本望ではないか)
 藤孝は、酒を干しながらそう感じていた。しかし、その思いも、次の義輝の言葉に打ち砕かれることになった。

「これを光秀に渡せ!」
 そう言いながら、義輝は先程したためた辞世の句を記した文を藤孝に手渡した。これは、「お前は生きよ」ということを意味していた。

 しかし、共に死を決意していた藤孝には、自らに対する侮辱だと受けとった。
「どうか、一緒に死ねとおっしゃって下さりませ!」

 藤孝は涙ながらに訴えた。心からの涙であった。義輝は、そんな藤孝を殊の外、好ましく思った。
「幕府を終わらせてはならぬ。お前の他にはやり遂げられぬ。許せ」

 藤孝は、義輝のその言葉ですべてを察した。そして、藤孝は、その場に居る一人一人の仲間たちの顔を見渡した。そして、その場で男泣きするのだった。幼き頃より、共に苦楽を過ごしてきた仲間たちと、一緒に死ねない事が悔しくてならなかった。

 義輝もその藤孝の涙の理由を察し、熱くなった目頭をそっと袖で押さえた。そして、その場に居た者たちの誰もが涙を流していたのだった。その姿は、まるで一枚の屏風絵巻のように美しかった。

 そして、義輝らの別れの儀式が終わるのがまるで分っていたかのように、三好長逸からの書状が義輝の元に届いたのは、ちょうどその時であった。

 曰く、
「御台所様は、責任もって当方で、ご実家に送り届けましょう」
 という内容であった。

 義輝の正室、御台所は、前太政大臣近衛稙家の娘であった。もっと言えば、この近衛稙家は、義輝の生母である慶寿院の兄にあたる。義輝と御台所とは、血縁の上でも従兄妹同士となるのである。その御台所を三好長逸は、引き取りたいと申し出たのだ。

 これは、将軍を誅殺する覚悟を決めたということであった。そして、将軍殺害後に、実家である近衛家との仲をこじらせない為の言わば、政治的配慮であった。この申し出を義輝は受けた。しかし、当の本人である御台所は、最初拒否した。

「例え、生まれは違えど、一度、武人の妻となりましたなら、夫と共に死ぬるが定めにござりましょう」

 義輝が話しをすると御台所は、やんわりとした口調だが、はっきりと拒絶の意志を示した。結局の所、御台所が折れて、御所を退去するのに同意したのは、義輝の側室であった小侍従を伴うためであった。

 小侍従が義輝の子を懐妊しているのは、すでに述べたが、義輝の源氏嫡流の血統を絶やさぬためであったのだ。

 しかし、断固として拒否し、動かぬ人もあった。義輝の母、慶寿院である。彼女も近衛家の姫であった事もすでに述べた通りであったが、慶寿院は義輝と共にあることを選び、どう説得しても無駄であった。
「私までもがおめおめと出て行けば、目立ち過ぎましょう」

 そうなれば、小侍従とそのお腹の子が危険にさらされる。そう慶寿院は主張して動こうとはしなかったのであった。そして、藤孝である。藤孝は、義輝と相談して、この御台所の御所退去に随員の者として、行くこととなった。後ろ髪が引かれる思いであったが、もうそんな事を言っている暇はなかった。

 すべては、時間が迫っていたのだ。敵がすぐに押し寄せて来る。そうすれば、すべてが無に帰するのだ。小侍従は、御台所の腰元の恰好をして、藤孝は、御台所のお供の者として御所から無事離れた。

 そして、御台所一向が御所を離れるのが確認されると、すぐに松永隊による総突撃が開始された。

「ウオオオーーーーーッ かかれーーーっ」
 藤孝たちは、自分たちが来た方角から、聞こえる鬨の声を背に受けながら、行先を急いでいた。そして、何度も何度も御所の方を振り返っては、言葉にならない声を心の中で発していた。それは、悲痛な叫びであった。

 戦闘は、すでに始まっていた。義輝を中心とする御所の防衛部隊は、一色秋成、上野輝清、高師宣、彦部晴直、細川隆是、武田信景、菅原晴盛、治部藤通と弟の治部福阿弥などの主な家臣を含めて、わずか三十余名にすぎなかった。

 対する三好・松永隊は、合計一万余の大軍であった。義輝は、鎧を身にまとい、重藤の弓を手に持ち、最前線で戦い、敵をその矢で射抜いた。義輝が敵を射抜く度に、味方は奮い立って良く戦った。そして、義輝は、矢を放つ事、百発を超え、その一度も狙いを外す事はなかったという。

 一色秋成や治部藤通と、福阿弥などの剛の者らが、一斉に敵に突進し、敵を蹴散らし、義輝ら弓隊がそれらを援護する見事なコンビネーションで、敵の突撃を何度も跳ね除け、気づけば、討つ取った敵の数は、二百名を超えていた。

 その時、使い過ぎにより、義輝の持つ重藤の弓の弦が切れた。そして、改めて義輝が周りを見渡すと、自分以外に生き残っている味方は、細川隆是と摂津糸千代丸の二名のみであった。

「お前たちだけか?」
「上様、残念ながら、我ら二人だけでございまする」
「そうか…」

 義輝は、それだけを言うと、眼を閉じて「フーッ」と大きく息を吐いた。
「隆是、糸千代丸よ。長い間の奉公、大儀であった。もうよいぞ」

「上様、もったいないお言葉、隆是、一生の誉れでございますぞ」
 摂津糸千代丸は、ワーッと泣き出した。糸千代丸は、この時わずか十三歳であった。

 義輝は、自らの腰に帯びていた愛刀の童子切安綱の鯉口を切った。白刃の刃がキラリと光り、不気味な美しさを漂わせていた。童子切安綱とは、天下五剣の一つに数えられた名刀であり、その昔、源頼光が酒呑童子を斬った時に使ったのが、この刀だとする伝説の宝刀であった。

 代々、源氏の棟梁が持つとされ、義輝が常備、その腰に帯びていた刀であった。隆是は、義輝が刀を抜いた事ですべてを察知した。

「うれしゅうございまする」
 隆是と糸千代丸は、脇差を抜くと、もろ肌を脱いで、上半身を露出した。そして、

「エイッ」
 と軽く叫ぶと、まず、隆是が自らの腹に刀を突きたてた。それを上段に構えて、隆是の背後で待っていた義輝が、間髪を入れずに童子切安綱を隆是の首に思い切り振り下ろした。

 それを見ていた糸千代丸は、遅れてはならじと、自らの腹に突きたてる。そして、隆是の遺体の傍に立っている義輝に目で合図を送った。義輝は、その眼を見てすぐに頷き、糸千代丸の首を刎ねてやった。

 義輝は、二人の血が付いた刀を拭っていた。義輝は、とうとう一人となってしまった。

「ヒューンッ ヒューンッ」
 御所の外から敵が矢を射かけてくる音が聞こえていた。矢には火が付けられており、それが何十個も飛んできて、建物に火をつけた。御所に火がついた事が合図となり、一時撤退していた敵が、猛烈に再突入してくるのが見えた。

 義輝は、御所内に入るべく、その場を後にした。義輝が屋敷内に入ると、そこには、自害した近習や女たちの亡骸が横たわっていた。

「母上…」
 そこには、義輝の母たる慶寿院の亡骸もあった。義輝は母に一礼し、黙祷を捧げると、その部屋をすぐに出て、さらに奥の部屋へと入って行くのであった。そして、その向かう背のすぐ側まで、敵の足音が近づいてきつつあった。

 一方、御所を無事に脱出していた藤孝たち御台所一行であったが、不意に小侍従とその付き人たちと逸れてしまっていた。小侍従は、輿に乗る御台所のすぐ側を歩く腰元たちに交じって歩いていた。そして、小侍従が御所の方を振り返ると、燃え盛る炎が見えた。すぐに御所が燃えているのだと悟った。

「上様…」
 小侍従は、居ても立ってもおられなくなり、小走りに、御所の方角へと駆け出してしまっていた。
「御台様、小侍従様が…」
 他の腰元の一人が気づいて、すぐに数人の付き人を迎えに出したが、そのままはぐれてしまったのだ。

 しかし、ここで全員が引き返して、小侍従を探す余裕などはなかった。
「すぐに追いつきましょう」
 藤孝は、御台所にそう言うのが精いっぱいであった。

 さて、その後の小侍従であるが、御所近くまで戻りながらも、正体が敵方にばれてしまった。そして、付き人数名と近江の賀茂川まで逃げるのだが、そこで待ち構えていた松永隊の者たちに捕まってしまったのだ。

 そして、京の都の知恩院に一時、送られた後に打ち首となった。その処刑の際に彼女は、一つも取り乱す所がなかったばかりか、自分の首が刎ねやすいように、右手でその長くて美しい黒髪をまるで、これから髪結いをして、着飾るが如くな手つきで括り上げた。そして、スーッと首を前に差し出した。その姿は美しく、気品に溢れていた。

 介錯人を務めた男は、その姿に気負されたのか、一刀を振り下ろすも小侍従の首ではなく、その美しい顔の左頬を切ってしまった。小侍従の左頬が鮮血で染まり、その血が一筋の涙のように地面へ零れ落ちた。

「貴方様も介錯人に選ばれたのならば、腕に覚えがありましょうものを、無様です」
 小侍従は、そう言って介錯人を嘲笑して見せた。介錯人の男は、この言葉にカッとなり、再び刀を構えると、何も言わずにいきなり、その大刀を彼女の首めがけておもいきり振り下ろした。そして、今度こそ、あわれな小侍従の首と胴は二つに分かれた。

 小侍従の首が転がり、横向きに介錯人の男の方を見ていた。その顔は、地面を転がったにも関わらず、不思議とどこも汚れが無く、彼女の美しさをより一層際立たせる皮肉さを見せた。介錯人の男は、その彼女の姿に心の底から身震いし、その後もこの時の情景を悪夢として悩まされる事となった。

 小侍従は、死の間際に、誇りある態度を取る事で、足利将軍家の意地と、矜持とを世に示したかったのかもしれない。

「一体、中はどうなっておるのか!」
 久秀の怒号が陣中に鳴り響いていた。目の前の御所には、すでに自軍が放った矢から付いた火が燃え移っており、最早、建物全体に炎が燃え広がって行くのが見えた。

 松永隊の第一陣である二百名近くが、すでに御所内に侵入を果たして、半刻以上が過ぎていた。使番の報告によれば、敵は義輝一人となっているはずであった。しかし、その肝心の一人を討ち取ったとも、自害したとも、何の報告も久秀の元には届いていなかった。

「たった一人だけに、何を手こずっておるのか!」
 久秀は、自分が座っていた床几を蹴とばした。

 それを小姓の一人がササッと走りよって、床几を元に直した。久秀は、所在無く、陣中をウロウロと歩き周り、もう一度、床几に座り直したが、もう一度立ち上がり、その床几をまた蹴とばしていた。その様子を小姓はじっと顔色を変えずに見ていたが、心の中で溜息を付きながら、また倒れた床几を直そうと立ち上がるのだった。

 二条御所は、炎に包まれていた。歴史を振り返ってみれば、二条城、二条御所と言われた建物は、いくつか存在する。古くは、花の御所と云われた、室町幕府の将軍が暮らした城であり、これは、応仁の乱の際に廃墟となってしまっている。

 後に、信長が立てた新二条御所、秀吉が建てた二条第、そして、現存するのは徳川家康が建てた二条城である。

 この時、義輝が居たとされる二条御所は、現在の京都にある平成女学院の敷地にあったとされており、その石碑が現在でもひっそりと敷地内に立っている。

 義輝の二条御所は、元を室町幕府の管領であった斯波義将の邸宅であった武衛陣と呼ばれる建物を居城として、堀を高くし、塗り固めて改築した物であった。

 応仁の乱で失われた室町殿は、将軍が施政をするための館としての性格が強い物で、城というよりも正しく館であった。しかし、この元武衛陣は、武門の名門たる斯波氏の邸宅として存在しただけあって、石垣が積み上げられ、その景観は館と言うよりも、城に近いそれであった。その武衛陣を二条御所として使用したのは、やはり武人としての義輝の性格が色濃く現れたせいだと言えるだろう。

 義輝は、一人床几に座しており、腕を組んで目を瞑っている。周りの建物には火が広がっており、キナ臭く木が燃える臭いが、そこら中に立ち込めているのだが、義輝が意に介した様子は見受けられなかった。

 義輝の周りには、刀が何本か畳に突き立てられており、その刀達の真刃が時折、不気味な光を放って見えた。その刺さっている刀一つ一つを見てみると、鬼丸國綱、大包平、九条兼定、朝嵐勝光、綾小路定利、大典太光世、三日月宗近、数珠丸恒次、大般若長光、童子切安綱と合計で十振りの、どれも天下に名が轟く名刀たちであった。

 その異様な光景に、三好・松永隊の第一陣の先鋒たちは、たじろぎ、手をこまねいて、遠巻きから義輝を見ているだけとなっていたのだ。

 何せその鋭すぎる剣気が、その部屋中に立ち籠めており、敵の兵の一人が一歩、いや半歩前に近づけば、たちまち殺気をもったその眼をカッと見開いて威圧し、容易に義輝の近くまで踏み込める様子を見せなかった。

 そして、いくら二百人の部隊であっても、一つの部屋に同時に入る事は出来ず、せいぜい入れて二十数名といった所であったが、その部屋の中で、これから始まるであろう、大立ち回りを考えると、一度に入れるのは五、六人が限度という物であった。

(迂闊に飛び込めば斬られる)
 その部屋の入口にいる最初のその五、六名の武者たちは、義輝を一目見て、一瞬にしてその剣の格の違いに気づいていた。

 そこはやはり、長年三好勢の先鋒を務めていた、松永隊の精鋭部隊の強者たちであり、剣豪将軍の実力が、名ばかりのものではない事を悟るには、剣を交えずとも十分であったのだ。

 しかし、彼らもただ手をこまねいて見ているだけではない。そこはやはり歴戦の猛者らしく、

(いくら剣豪将軍でも一斉にかかれば、一たまりもなかろう)
 との冷静な判断で、一歩、あるいは半歩ずつと、一人、また一人とゆっくりと義輝の様子を覗いながら、着実に間合いを詰めていった。

 これは戦なのであり、後世の剣術使いたちによる、果し合いの勝負とは違うのである。たった一人に対して、大勢で掛かるのを卑怯と感じる心より、与えられた任務を着実に果たすことの方が、この戦国の世に生きる武士たちの、言わば当たり前であった。

 そして、最初の一人と義輝との間合いが、部屋の半ばまで差し掛かった時であった。義輝は、スクッと立ち上がると、突き刺さっていた刀の内、一番自分に近かった刀を走りながら手にした。

 そして、一番近くに寄っていた武者に向って駆けだした。そして、武者との間合いが、お互いの刀が届くか届かないかの距離まで詰めると、少し屈むような態勢をとった。その武者は、すぐに反撃の態勢をとり、近づく義輝の頭めがけて、一刀を浴びせるべく、大刀を振り下ろしたが、すでにそこには、義輝の姿はなく、義輝は、その武者の首めがけて、真一文字に剣を放った。

 その男は、義輝の方に態勢を向き直し、尚も攻撃に出ようとしたが、首に違和感を生じて、刀を持っているのと反対の手で首を触ると、そこに生暖かいものを感じた。その手を広げて見ると、そこには、自分の血と思える大量の血だまりが、手の平からポタッポタッと畳に零れ落ちていた。

 その武者の男は、自分で気づいていなかったが、すでに首の頸動脈を寸断されており、大量の血液が辺り一面に飛び散っていた。それでも武者の男は、刀を振り上げて、義輝に一刀を見舞おうとしたが、そこで力尽きて崩れ落ちるように倒れた。

「余が征夷大将軍、源朝臣足利義輝である。次に死にたい者から前に出よ!」
 最初の武者の男が倒れると同時に義輝は、残りの者たちに向って大喝した。その場にいた者たちは、皆その威厳に圧されて動けないでいた。

「ハァーッハァーッ」
 部屋中に、男たちの荒々しい息遣いが木魂していた。二条御所を包む炎は、義輝らが争う奥の大広間のすぐ側まで広がっていた。その部屋を見ると、義輝によって斬られたのであろう、武者たちの死体が無造作に横たわっていた。その数は、すでに十人を超えている。

 もうすぐしたら、その部屋の足の踏み場も無くなってしまう程である。戦闘の最中、仲間たちの、あるいは、義輝にとっては敵の死体を足蹴にして、戦闘の邪魔にならないように部屋の隅に転がした。あるいは、武者が義輝に立ち向かい、武者が斬られる。その斬られた仲間を後ろにいる者たちが運び出して、部屋内を整理すると言う、冷静に記してしまえば、ある種、滑稽な様子が繰り広げられていた。

 この間、三好・松永の手の者たちは、あるいは傷つき、あるいは、体力を奪われて息を切らしているのだが、当の義輝は、傷一つついていないどころか、息も切らしていなかった。

 その戦闘は、悪鬼羅刹もしくは、修羅のそれと言って差し支えない物であり、敵中に斬り込んで、一瞬のうちに敵を二、三人切り倒しては、また元の位置に下がり、また切り込むといった動作を繰り返していた。元の位置に戻るのは、敵を切り過ぎて、刃こぼれした刀を取り換えるためであった。

 そして、そうやって刀を一振り一振り、切れ味を試す如く使用し続けて、早や五振り目の刀となっていた。

 最初、この場にいた武者たちの誰もが、この対峙する恐るべき男は、自らの死出の道連れに、自分たちと戦おうとしているのだと解釈していた。しかし、戦闘が進むに連れて、

(この公方は、人に非ず!)
 という荒唐無稽な思いを抱くようになっていた。

 このような思いを、歴戦の猛者たちに抱かせた義輝の剣の腕は、凄まじいの一言であったろう。あるいは、一対一の勝負においてのみ言えば、この時、義輝が日本一であったのかもしれない。

「ギャァーーッ」
 また一人の武者が悲鳴と共に義輝によって斬られた。その数は、もはや三十人と下らなくなっていた。

 そう、ついには、義輝は、一人で三十人以上の敵を斬っていたのだ。歴史上において、日本のみならず、世界中を見渡しても、一軍の総大将が自ら、一回の戦闘において、これだけの人数を斬った例は他にはないのではないか。その場にいる誰もがゾッとして、その場に立ち尽くしていた。そして、ある事に気づいたのである。

(この男は、最初から死ぬつもりで戦っているのではない。我らに、我ら全員を斬るつもりで戦っているのだ)

 その事に気づいた時、武者たちに動揺と恐怖の輪が広がっていった。義輝は、刀を振るって敵を斬るという、血なまぐさい事を繰り返しながらも、確かに充実感の中にいる自分に気づいていた。そこには、仲間を殺された復讐の念も消え、母を自害に追い込ませた敵に対する憎悪も、不思議と感じなくなっていた。

 ただ、あるのは、どう斬るのか、どう殺るのか、それだけであった。今度はもっと早く、もっと強く斬りたい。いや、斬れるのだ。自分はもっと強い存在になれる。その思いが義輝を駆り立てていた。

 そして、こうも思うのだ。自分は、この瞬間にこそ、生きるべくして、生まれたのではなかったのかと。そして、しばらくすると、その想いも消え失せ、何も考えられない程に、敵を斬るという作業に没頭している自分自身が、そこに在るだけとなった。そして、義輝は、再び元の位置に戻り、刃こぼれがする持っていた刀を投げ捨て、刺さっていた刀を抜いた。

「これが、最後の一振りか…」
 義輝は、そう呟きながら、その白刃に映る自分の顔を見た。その最後の一振りは、義輝が常時、愛用としていた童子切安綱であった。

「最後がお前とは、上出来だ!」
 義輝は、相棒に語りかけるのだった。

「何をしている。敵は、一人だぞ!さっさと討ち取らぬか」
 義輝が闘っている大広間の次の間で、罵声が聞こえる。義輝には、その声の主が誰か姿を見ずともすぐに理解した。

「弾正小弼か!苦しゅうない。こちらにこよ」
 義輝は、まるで今が戦時ではなく、平時の朝議のような穏やかな口調で、しかし、よく周りに響く声で呼ばわった。すると、暫くしてから、そこにいる兵たちの一番後ろから、恐る恐る顔を覗かせる久秀が現れた。

「久秀よ、そこへ直るがよい。今ならば、一思いにその首を刎ねてくれようぞ」
「上様、その儀はご遠慮願います。なぜならば、貴方様は、ここで死ぬのですから」

 久秀は、ことさらにニヤついた表情を隠し、平常心を装おうとしたが、どうやら失敗に終わったようであった。久秀がその右手を高らかに垂直に上げると、次の間で待機していた兵たちが群がり出てきた。その手には、鉄砲が抱えられていた。

「上様、残念ながらこれでオサラバでございますぞ」
 久秀がその上にピンッと伸びた右手を前に振り下ろすと、鉄砲を構えた兵たちは、一斉に義輝に向って発砲した。

「ドンドドドドーッ」
 銃声が鳴り響いた。室内で発砲した為と、元からの火災で、部屋中に煙が立ち込めた。しばらく、煙が部屋中に充満し、状況を確認するまでに少しの時を要した。そして、その煙が晴れて来ると、銃で撃たれたはずの義輝がなんと無傷で立っていたのだ。

「バカなっ!」
 久秀は驚愕した。無理もない。普通なら外すことなどない至近距離からの発砲で、しかも発砲した数は、十発以上に上るのだ。通常では考えられない事であった。

「もうよい!」
 義輝は、刀を右肩に乗せながら、少し呆れたように言い放った。事実、義輝は心中で興ざめしていたのである。そして、敵が怯んでいる隙に大広間から廊下に出て、さらに奥の部屋へ、移動しようと動いた。

「光秀よ。余は、やはり鉄砲は好きにはなれぬわ」
 義輝は、そう言って笑いながら廊下を進んでいた。そして、その時であった。廊下に潜んでいた武者が、襖ごと義輝に襲い掛かってきたのだ。そして、襖が義輝に覆いかぶさるような恰好となり、義輝は、バランスを崩して、転倒した。そこに偶然なのか、その武者が持っていた刀の先が丁度、義輝の左脹脛を捕らえたのだ。

 義輝は、その倒れたままの態勢で、横一閃すると、襲い掛かってきた武者の首を刎ねた。そして、左足に突き刺さった刀を引き抜くと、何事もなかったかのように、その場に立ち上がった。

「いまぞ、いまぞ」
 その状況を見ていた久秀は、まるで発狂したかのように取り乱しながら、兵たちの袖を掴み、一人、また一人とけしかけ続けた。その久秀の言葉を合図として、兵たちは、一人が襖を、一人が畳を持ち上げて、義輝に向って突進してきた。足を負傷した義輝は、さすがにこれを避ける事が出来ず、再びその場に転倒した。

 そして、背後に控えていた五、六人が刀を構えて突進し、その襖や畳ごと義輝を四方から何度も何度も串刺しにした。

 そして、義輝の抵抗が止むと、兵たちは、一人また一人と覆いかぶさっていた義輝から離れて行った。
「よし、死んだか、死んだのか?」

 その部屋にいる者のうち、一人、久秀だけがせわしく動き周っていた。誰もがこれで終わったと思っていたその時であった。襖と畳の山の下敷きとなっていた義輝の体が、ゆっくりと起き上がり、襖と畳の山より這いずって出てきたのである。

「バカな、不死身か…」
 久秀は、恐怖でその場に震えあがってしまった。いや、その部屋にいた誰しもが、そのありえない事実に驚愕し、動くことを忘れてしまっていた。

「フウーッ」
 驚異的な力で再び立ち上がった義輝は、一つ大きく息を吐くと、持っていた童子切安綱を右手で思いきり投げつけた。義輝の手から解き放たれた童子切安綱は、久秀の左頬をかすめて、久秀の背後にあった木の柱に深々と突き刺さった。

「ヒイーーーッ」
 木の柱に突き刺さる刀と、自分の頬を伝わる鮮血と、その傷の痛みを認識した久秀は、再び恐怖に脅えた。本当に生きた心地がしなかった。もう何もかも放り出して、その場所から逃げる事しか頭になかった。

 しかし、最後の力を振り絞り、刀を放った事で、義輝の無尽蔵とも思えた体力に終焉が訪れていた。義輝は、刀を放った右手を伸ばした態勢のまま、ゆっくりと前のめりに倒れこんだ。

 それが、室町幕府第十三代征夷大将軍足利義輝の最期の動作であった。享年三十歳と伝わる。義輝の亡骸は、紅蓮の炎に包まれる二条御所と共に灰と化した。その首が獲られて、晒される事がなかったのが、せめてもの救いであっただろうか。

「このような傷だらけの首を獲れば、我らが大勢で討ち取った事が知れて、国中の物笑いのなるわ」

 首の事を配下の者に聞かれた久秀は、苦々しくそう言い放つと、さっさと御所からの撤退を決めた。こうして、永禄の変と言われる戦闘は、とにかくも終結を迎えたのであった。

 室町幕府を支えた将軍足利義輝と、三好長慶の二人は死んだ。この両雄の実力を考えた時に、協力しさえすれば、理想的な政治が行われていたかもしれない。武の義輝に智の長慶、または、権威の義輝に実力の長慶。しかし、この両者が本当の意味で、手を携えて施政にあたる事は、ついに実現せぬまま、二人の死によって、その機会を永久に奪われてしまった。

 足利義輝は、
「天下を治めるべき器用なり」
 と評されるだけの英傑であり、将軍として、この先を期待された人物であった。彼の若さを考えた時に、その後に、どれだけの可能性があったのかを思えば、ここでその命が絶える事は、大きな損失であっただろう。

 一つ言える事は、この両雄の死によって、戦国期のこの国の騒乱は、収束に向かうどころか、加速度を上げて、時代を濁流の渦に巻き込んで行くのである。
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