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第七章~いろは丸~
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一
将策と権右衛門とが予見した通り、権右衛門を支援していたと思われる主だった佐幕派の重臣は一掃された。
これにて、大洲藩の内部で起った暗闘は決着し、これよりは、新藩主泰秋を中心とした、尊皇藩の一藩として、活動していける事となったのである。
「これで少しは浮かばれてくれるか?」
将策は亡き友に、墓前で問いかける。そして後日、徳太郎とおまさと供に、駒吉の冥福を祈り、この一件で亡くなってしまった人達の分も生きると、心に誓うのであった。
それぞれの日常が戻ってきた頃、新選隊を結成した将策は、その隊長として、忙しい日々を送っていた。隊の人数は、藩内の村々を周って、若者を募った。
新選隊は、将策が江戸にて学んだ西洋式軍事演習を実施し、組織として形を成し始めていた。しかし、始まったばかりの西洋式軍隊であるが故、重大な問題が残されていた。
「隊長殿、銃が足りませんよ」
副隊長を務める嘉一郎が言う通り、隊員に比べて、肝心の武器が足りないのだ。将策は、何度も藩に補充を願い出てはいるのだが、これ以上、民衆に重税を強いて、また一揆が起れば元も子もない。
かと言って、小藩である加藤家に、近代の西洋銃を数多く揃えられるゆとりなどはない。そんな時に、国嶋六左衛門より、火急の報せがあり、将策は赴く事になったのだった。久方ぶりの国嶋邸を訪れると、以前と同じように、長女が応対してくれて、屋敷の中へ通してくれた。
「一緒に長崎へ行って貰いたい」
挨拶もそこそこに、再会した六左衛門は、急にそう切り出し始めた。
「長崎?出島ですか?」
「そうじゃ、銃を仕入れに行く。殿の裁可を頂いた。わしとお主で行く」
六左衛門は、藩の財政が厳しい状況で、将策からの申請が下りぬ事に苛立ち、藩にとって重要な事であるとして、直々に殿様へ掛け合ってくれたのだった。
「私などが行って宜しいのですか?」
「新選隊の隊長が行かずしてどうするか?早速、出発の手筈を整えよとの仰せだ」
思いがけず大役を賜り、恐縮しながら屋敷を出る。居残りをさせられる嘉一郎が拗ねるだろうと思いながら、逸る気持ちを抑えきれずに、将策はいつの間にか、奔り始めていた。
将策らが長崎に求める物は、ミニエー銃と呼ばれる、弾を先込するライフル銃の事である。
この時、主流だったゲーベル銃は、新選隊でも、また日本全国でも普及していたが、開発が1670年代であり、主にオランダ国が用いていた武器で、大量生産向きだが、火縄銃に比べると、雨天でも使えて、装填時間も短いが命中率が低いという難点があった。
対するミニエー銃は、1849年にフランスで開発された物で、専用の弾を使う為に、大量生産向けではない物のとても命中率に優れていて、殺傷力が高かった。100m先より撃っても、命中率が90%を超えると言われている。
この時代では、最新式の武器であった。そのミニエー銃を藩命にて、数百丁買い求めると、将策が後年記した手記にある。
長崎に着くと、早速出島へ赴いた。そして、この約四千坪の人工島の凄さを目のあたりにして、度胆を抜かれる思いをしていた。
(何という街だ!)
実際に見るのと、聞くのでは大違いだと思った。将策も江戸に遊学中、開港した横浜に行った事があり、外国人や商館等、珍しい物を見ていたので、云わば免疫が多少はあると自負していた。
しかし、この長崎という街は、外国人が当たり前にいる街なのだ。
溶け込んでいるというか、一体化していて、存在する事が当たり前で、街も横浜のように漁村に無理やり、外国人向けの洋館を建てるというのとは違い、区画整理が行われ、建物一つが整然と建てられている印象だ。
そして、何よりも街自体が清潔なのだ。
「驚いたか?わしは、以前に用向きで、一度訪れておるからな」
六左衛門が、悪戯っぽい笑みを将策に向ける。
「これから人に会う。付いてきてくれ」
六左衛門の後ろを行きながら、どうしても、目は周囲の左右上下を行き来してしまいながら、遅れがちではあるが、何とか六左衛門を見失わずに目的地についた。
(亀山社中)
その屋敷の入口には、そう書かれた看板が掲げてあった。
「大洲藩の国嶋六左衛門と申す。才谷殿にお会いしたい」
六左衛門は、門のすぐ内側に立っていた男に話しかける。
「隊長は、留守ぜよ」
「どこに行かれたのか?帰りは遅くなられるのか?」
(才谷?誰じゃ?)
将策が疑問に思っていると、中より一人の男が現れて、六左衛門と話し始めた。
その男は、少し小柄で、着物なのに、黒色のブーツを履いていた。将策は、この男の顔に見覚えがあった。
「沢村さんじゃないか?俺じゃ!一緒に凧を飛ばした井上将策じゃ」
「おおっ井上さんか?懐かしい。おんしも、坂本さんに会いに来たがか?」
二人は肩を叩き合って、再会を喜んだ。途端に話しが進み始める。
「国嶋先生、これなるは、土佐藩の沢村惣之丞殿です。沢村さん、坂本とはあの龍さんの事か?」
「そうじゃ、坂本さんは、わしらのカンパニーの隊長じゃき。才谷さんは、坂本さんの事じゃ。今、薩摩の御仁に会いに行っちょる。ネゴシエーションぜよ」
「カンパ?…ネゴ?ネゴシ??」
惣之丞が発する英語に将策は戸惑いながら、龍馬の居る場所へ案内を頼み、すぐに向かう事にした。
その道中で、坂の多い長崎の街を海の潮風を感じながら歩いて行く。六左衛門が惣之丞の履くブーツに興味を示すと、
「こっちの方が草履より歩きやすいし、恰好良いきに」
そう言って胸を張って歩いて行く。しかし、その恰好が、龍馬の真似である事を知っている将策には、可笑しく感じていた。
亀山社中のある屋敷より、暫く坂道を下って行くと、海が見えてくる。湾岸に停まる帆船や漁船、黒船が何隻も見える。それらの黒船達が、水面に反射する太陽の光の中で輝いて見えていた。
「あの内の一隻でもいい。我が藩の物になればのう…」
六左衛門が嘆息するように呟くのを将策は黙って聞いていた。その呟きが、悲劇の始まりになるという事をまだ知らないでいたからだった。
二
暫く進むと、西浜町にある薩摩藩邸に着いた。江戸時代に、長崎には諸藩が多く屋敷を構えていたが、そのほとんどが、蔵屋敷程度の大きさで、ほとんどの藩が、身分の低い者達を数名置く程度であったが、薩摩藩は、この長崎を江戸と大坂に並ぶ重要な拠点と考えていた。
その役職を長崎聞役と言い、琉球を手中に治めて、諸外国と密貿易を行い、富を増やしてきた薩摩藩が、貿易や商取引を重要と考えたのは、必然であった筈である。
「よう井上君じゃないがか?よう来たのう。こっちは薩摩の伍代才助君じゃ」
屋敷内に通されると、龍馬は、一人の男と話し込んでいた。
(井上君?…)
「長州ではな、同志を君と呼ぶのが流行っちゅう。じゃから、お主も井上君じゃき」
龍馬は、そう言うと、立ち上がり将策に近づき、戸惑うのを余所に、シェイクハンドを交わすのだった。
「大洲藩の国嶋六左衛門です。早速ですが、前もって書状にてお伝えしている通り、外国商人に、武器購入の斡旋をお願いしたい」
六左衛門が挨拶もそこそこに、早速本題へと切り出すのだった。
「わしよりも、この伍代君の方が詳しいぜよ。のう伍代君」
そう言うと、龍馬は伍代に目線を送る。二人は目で何かの合図を送り合っているように見えて、将策はそこに少し、違和感を覚えていた。
「伍代君はな、欧州へ留学経験があり、英語が堪能じゃき。それにこの若さで、薩摩藩の取引を任されちゅう男じゃ」
伍代才助は、この時三十歳。水夫に化けて、上海へと密航し、そこでアヘンに毒され、欧米の食い物にされる清国を間近に見たことが、その後の彼の運命を大きく変えたと言われている。
伍代は、言葉だけの攘夷では、諸外国へ太刀打ち出来ない事を、身をもって知っている日本の武士では数少ない男だった。
その辺りが、同年齢の龍馬と気が合った理由なのか、長崎にて知り合うと、この頃では、四六時中一緒に居る間柄となっていたのだった。
「国嶋さん、船じゃ。黒船を買うたりや」
そう切り出したのは、龍馬だったのか、それとも伍代だったのか。その驚くべき提案を六左衛門も最初は一笑に伏していた。
小藩である大洲藩が、黒船を買うなど夢物語だ。そんな金などどこにあろうか。
「長崎には、銃を買いに来たんだ。勘違いせんでくれ」
「銃を買ったら一回で終いじゃ。それよりも、高くても黒船を買えば、そこから貿易をして、こじゃんと儲かるぜよ。それで払えばええ」
「実際に黒船を扱う商人を知っちょりもす。一度見てたもんそ」
龍馬の夢物語と、伍代の理に適った話しぶりに、最初渋っていた六左衛門も、時間を経て、とうとうその気になり始めていた。会談はその後、花街へと続き、それは酒が入ってからも尚続いていたのだった。
「船はええ。黒船はええがじゃ」
この龍馬の土佐弁と、伍代の薩摩弁との共演で、交互にそう急き立てられると、大抵の人は根をすぐにあげてしまうものだろう。
「龍さん、大洲藩には金がない。これ以上の年貢増は、また一揆が起るけん」
堪らず将策が歯止めをかける。
「井上君、黒船は何度かに渡って、払って行けるように交渉するきに。最初に銃を買うつもりじゃった金を手付に払ったらええがじゃ」
そう言うと、龍馬は懐から一つの絵図を取り出して見せた。そこには、船の絵が描かれていて、蘭国アビソ号と書かれていた。
「ポルトガル人のロウレイロちゅう商人が居っての、それが持っとる船がこれじゃ。実は亀山社中で買う予定で、話しを進めちょるんじゃが、大洲藩が買うなら譲ろう思うちょる。今なら格安ぜよ」
その龍馬の言葉に、製図を見る六左衛門の心は、支配されようとしていた。六左衛門は元々、優れた砲術の師であるし、こと諸外国の知識も大洲藩内ではずば抜けている。
しかし、所詮は井の中の蛙なのだ。元々、興味や憧れがある物が、上手く行けば、手に入るかもしれないと耳元で囁かれたら、どれだけの人が、それに抗う事が出来るだろうか。
「分かった。明日、見に行く。折衝をお願い申す」
「よし分かったぜよ。それなら今夜は前祝いじゃ。呑もうぞ」
六左衛門は、すっかり黒船の虜になってしまっていた。将策の忠言にも耳を貸さず、酒を呑んでは、龍馬と伍代の話しに、しきりに頷いていたのだった。
「な~に、船の操縦は、わが亀山社中に任せちょけ。それに、わしのユニオン号にも乗せちゃるがぜよ」
この時、実を言えば、亀山社中は、自社の黒船を持ってはいない。現在運航しているユニオン号は、長州藩からの貸し出しであったし、それも返却の期日が迫っているものだった。
この時、龍馬は内心焦っていた事だろう。海運業を営む亀山社中に、船が無くなるのである。
それは、会社の死活問題であった。それを阻止する為には、大洲藩の船購入が無くてはならない切り札だったのだ。
「しかし、先に殿のお許しを得なければ」
「そんな事をしていたら、お許しを待つ間に、船が売れてしまうぜよ。それより、殿様の帰国に蒸気船で出迎えたら、たまげるぜよ。これが殿様の黒船ですっちゅうての」
龍馬は酒を注ぎながら、尚も畳み掛けるように、六左衛門に吹き込み続けた。そして、酒宴が終わりを迎える明け方前には、すっかり六左衛門の気持ちは、固まってしまっていたのだった。
翌日、早速ロウレイロの居るポルトガル商館へと向かうと、もうすでに龍馬と才助が来ていた。
「国嶋様、くれぐれもご無理致しませんよう」
「将策、大丈夫じゃ。隣国土佐藩と、雄藩の薩摩の者が仲介してくれれば、無下にはされまい」
将策の不安を余所に、六左衛門は意気盛んに室内へと入っていく。国嶋六左衛門という有能であるが、人の良い田舎武士の悲劇が、もう始まっていたのだった。
「こんにちは国嶋さん、歓迎致します」
立派な洋風の建物と、その室内には、調度品と洋風のテーブルと椅子が置いてあり、その中央の椅子に座る流暢な日本語の挨拶をして、六左衛門と将策を迎えたのが、ジョゼ・ダ・シルヴァ・ロウレイロという、駐日ポルトガル副領事官を務める男であった。
そのような身元のしっかりとした人物に、薩摩藩の商いを預かる伍代才助が左側に座し、右側に土佐藩を脱藩したとは言え、日本で最初の株式会社を創立して、志士の間では、最近評判の坂本龍馬が居れば、六左衛門がその気になってしまうのも無理からぬ事であっただろう。
「それでは、早速、私の船をご覧頂きましょう」
挨拶もそこそこに、四人は港へと赴き、例の船を見に行く。港が近づくと、黒く大きな煙が立ちあがっているのが目に入ってくる。将策はそれを認めると、無意識にその黒い柱に向かって歩を進めていく。
「何と読むんじゃろう?」
それは、船首に掲げられた船のプレートであった。アビゾ号と書いてある。遅れて六左衛門らが到着すると、龍馬が右手を挙げて、船内に合図を送る。すると、船より何やら楽しげな音楽が聞こえて来るのだった。
「これは、歓迎の式ぜよ」
すかさず横から、龍馬が耳打ちする。四人は船上の人となり、長崎の海を眺める。今日は海が凪いでいる。海風が心地良い絶好の良い日であった。
「キャプテン、準備はええがじゃ?」
またも勝手な龍馬の合図と共に、アビゾ号は奔り始めた。それだけで六左衛門と将策は、初めての蒸気船による思いがけぬ航海に、度胆を抜かれているのだった。
「この船は、まだ建造されて間もない最新艦でごわす」
航海中に才助が詳しく説明してくれる。このアビゾ号は、イギリスにて製造された最新汽船で、長さ54メートル、幅5、4メートル、深さ3、6メートルであり、45馬力から68馬力とあり、積載量160トン。積高350トン、一日に使用する石炭10トン。
三本のマストを備えて、石炭を動力としながら、帆船にも当時で優れた機能を有していた。
「この大海原を見ていると、それだけで海を制した気になります」
「確かにのう」
将策が思いがけずに発した言葉を聞いて、六左衛門は、その気持ちと一緒になっている自分に気づく。そして同時に、この船を他に渡してはならないと、決意を固めたのだった。
結局、この船を六左衛門は、藩主の許しを事前に得ずに、メキシコドルにて45,000ドルを五回払いにて支払う契約書を交わすのであった。両に直すと、三万五千六百三十両と言う大金で、これは、現在の円で言うと、約8億3千万円の価値となる計算であった。
「これで、我が藩も大藩の仲間入りが出来る。殿様もこの船を見ればきっと、お喜び頂くに違いない」
甲板で子供のようにはしゃぐ六左衛門を見ながら、将策はそんな気にはなれないでいた。
(話しが上手すぎるのではないか?…)
その将策の懸念は、理によってではなかったかもしれない。死線を切り抜けてきた侍だけが持ち得る嗅覚のような物であっただろう。
そして、その懸念は、後日、現実となって、将策らの前に立ち塞がる事になるのである。
三
その年の九月に入ってからの事である。この頃の将策らは、長崎沖にて、航海訓練を続けていた。前月に、藩主泰秋が九月に帰藩する旨の報せが届き、訓練にも自然と熱を帯びていた。
六左衛門が、藩主の帰国に合わせて、この船をお披露目しようと考えていたからだった。
「伊予灘に比べると、この辺りの海は、いつも荒れていますね」
本人はようやくと言うだろうが、乗組員に抜擢された嘉一郎は、他の者たちと、一緒に長崎へ来ていた。
(いろは丸)
購入した船は、六左衛門がそう名付けた。六左衛門は、まるで、自分が一城の主になったかのような心地で、自分が船長として舵を取る訳でもないのに、毎日船に乗って来ては、訓練の様子を見学していたのだった。
「しかし、本当に大丈夫でしょうか?」
嘉一郎の懸念を横で聞いている将策は終始無言であった。嘉一郎が言っているのは、未だに船購入を藩主の耳に入れていない事であった。
もちろん六左衛門の上司に当る家老や、その他の重臣たちと、協議の上での購入ではあったが、不安や懸念の種が、尽きる事はないように将策には思えてならなかった。
時期は、九月六日の早朝まで進む。その前日より、すでに出航していたいろは丸は、藩主一行が乗船する駒手丸を出迎えるべく、長浜湾へ、その姿を現していた。
陽の昇る前に、青島で待機していたので、近海の漁師たちは、黒船がまた来たのではと色めきだっていた。その漁船に大洲藩の船じゃ安心せい!と大声を掛けるが、果たして聞こえていたかどうか。
「首尾は上々なるぞ」
そのあっけに取られた漁師たちの顔を満足な表情で、六左衛門は眺めていた。そうこうしている内に陽が完全に昇り、いろは丸の姿が、遠影からでも良く見えるようになった時刻である。藩主泰秋を乗せたお召船である駒手丸を捉えていた。
六左衛門は、すぐ指示を出すと、いろは丸を駒手丸の前方へと、わざと進み出たのだった。これには、駒手丸に乗船した者達がぶつかると思い、蜂の巣を突いたかのような騒ぎとなった。
「おーい、おーい」
甲板より、将策や嘉一郎が声を掛けるが、相手側より返事がすぐに返って来ない。無理もない。
いろは丸は、仮ではあるが、出航する時の規則として、そのマストに、薩摩藩の丸に十字の旗を掲げていたからだった。駒手丸側は、いろは丸の操縦を薩摩藩からの挑発ではと受け取ったのだ。
「私にございます。奉行の国嶋六左衛門にございまする。火急にて、船上より失礼仕りまする。何卒御藩主様へ、御取次ぎの程を願い奉りまする」
船を横に付けて、何度か甲板より大声で言上を続けると、駒手丸側でもやっと状況を理解し、六左衛門をお召船内へと招き入れたのだった。
「これなるは、我が藩が購入した、いろは丸にございまする。これよりは、この蒸気船を使った通商を持って、我が藩へ貢献致したく、願い奉りまする」
甲板の上にて、六左衛門の後ろに、将策と嘉一郎だけが控えていた。
「伏して、我が君に、いろは丸への御乗船をお願い仕り候」
泰秋は、まだ甲板に姿を現していない。六左衛門らを迎えたのは、側近の数名であった。
「国嶋、何を勝手な事を。貴様、長崎で何をしておったか!」
将策が懸念した通りの展開となってしまっていた。案の定、ここは、六左衛門を弾劾する場へと姿を変えていたのだった。
「いや、それは、しかし、これからの世には蒸気船が…」
六左衛門は集中攻撃を浴びていた。将策は下吏であって、この場で、口を挟める身分ではない自分に苛立つしかなかった。
「我が藩の黒船とな。私は乗ってみたいが」
気づけば、いつの間にか、将策の横に、藩主泰秋が一人で立っていた。
「殿、このような場所へ来られなくとも」
「奥の部屋に一人居っても退屈じゃ。それに、お主らがそう捲し立てては、六左衛門が何も申せぬであろう?」
側近の言葉を遮るように、しかし、柔らかい言葉を泰秋は発する。それだけで、その場の空気が、良い方に変化するのを感じさせる。
「皆で話しを聞こうではないか?」
泰秋はそう言うと、将策を一見した。目を伏せるのを忘れて、思わず殿様と目が合った将策は、慌てて目を逸らしたが、そんな将策を泰秋は微笑で許すのだった。
「井上、私をその船へ案内致せ」
「ははっ」
将策は、その場に傅いて、主の言葉に従うのだった。
藩主泰秋の御言葉で、窮地を脱した六左衛門であったが、殿様をいろは丸へ乗船する事は叶わなかった。理由は前例が無い為だ。
馬鹿な話しではあるが、いろは丸の性能が明白でない点、蒸気船に殿様が乗ってしまったら、駒手丸の乗組員たちが、職を失ってしまうなどが、側近より理由として挙げられた。
これには、泰秋も大層立腹の様子だったと、後に六左衛門から将策らへ教えてもらったが、如何な藩主といえど、予定に無い事を勝手気ままには出来ない。
これが大洲藩の現実なのだという事を思い知らされた出来事だった。
(未だ、勤皇派と佐幕派での主導権争いが、その火種が燻っているという事なのか…)
将策は落胆する思いだったが、いろは丸は、長浜港までの護衛と随行を許された。
この航海で駒手丸の正面へ近づけたかと思うと、後退した後に、もう一度全速力で駒手丸を抜き去り、遥かに早く、長浜港へ到着する事で、その性能を見せつける事に成功した。
これにより、いろは丸を大洲藩の蒸気船にするよう、藩主泰秋直々の御声掛かりがあり、正式に大洲藩の所有とするべく、十二月に幕府へ届け出をし、許可されている。
表向きは、大洲城下の商人、対馬屋定兵衛が、交易の為に購入した蒸気船という事にされた。
将策らが再び、瀬戸内海をいろは丸で航海し、長崎へ戻ったのは、十一月二十二日の午前であった。
今度は、その頭上に、加藤家の家紋である蛇目紋が入った赤と白の旗が掲げられている。将策は誇らしげな気持ちになりながら、この航海を心から楽しんでいた。
しかし、大洲藩には、未だ解決していない問題があった。いろは丸の購入代金の支払い日が近づいていたのである。
元々、銃器購入の為に集めた資金を頭金とし、五回払いで、三万五千六百三十両を支払う約束であったが、その一回目の支払日の期限が迫っていたのだ。
しかし、その支払う金は六左衛門の元へ、まだ届いてはいなかった。
正式採用されたと言っても、まだ藩内で、蒸気船購入に否定的な者が多数おり、折角勤皇藩として纏まりかけていた矢先に、下手をすれば、このいろは丸購入をきっかけに、再び藩内で、勤皇と佐幕に分かれた派閥争いが表面化する危険を孕んでいたのだった。
(わしの読みが甘かったのか…)
この頃の六左衛門は、長崎宿の二階にて、金子の工面に追われる毎日を過ごしている。何十通にも及ぶ書状を、大洲藩内のあらゆる主だった人物へ送り、理解を求めている。
そして、出かけたかと思えば、長崎の商人を渡り歩き、いろは丸を使用した大洲藩の交易事業への出資を呼びかける為、文字通り東奔西走していたのだった。
そんな六左衛門の元へ、藩内より数通の書状が届き、金策の不調と、かねてよりの同志である児玉外記と吉田新兵衛に対して、斬奸状なる物が送りつけられてきた事が綴ってあった。
国嶋殿にも十分身体へ留意されよとの結び言葉を読んで、六左衛門の心は、ある一つの方向へと動き出していたのだった。
「国嶋先生、酒席のお時間です」
二階に居る六左衛門を嘉一郎が呼びに来ていた。薩摩藩の伍代友厚や、長崎商人たちと酒を呑む約束をしていたのだ。何かしらの金策へ繋がる話しが聞けるかと思っての一心である。
「伍代殿、薩摩藩には、変わった切腹法があるとか?」
宴もたけなわとなった頃、横に座る伍代に、六左衛門はこう切り出し始めた。
「我が薩摩では、切腹の際、介錯人が居らん場合に、独自のやり方が有り申す…」
六左衛門は、伍代の言う事を熱心に暫く聞いているのだった。
四
師走も押し迫った十二月二十五日に、いろは丸の再出港日が決まった。将策らは、船に積荷の準備をし、出港日が来るのを待った。
前日の夜、いろは丸の船上に、六左衛門が酒を持って現れ、嘉一郎らを含めて、小宴を催す事とした。六左衛門は、そこでも普段と変わらぬ様子で、ほどほどに酒を嗜むと、宿へと引き上げた。将策もそれに随行して帰る事にした。
宿では、二階の六左衛門の自室にて、将策と二人でもう暫く飲みたいと言うので、付き合う事にしたのだ。
「将策よ、これからも藩を挙げて、殿様を支え、諸外国に負けない国にしようではないか」
六左衛門は、この時も普段と変わらずに、その丸々とした福顔に、笑みを浮かべていた。
「これからは、藩と藩という垣根を飛び越えてでも、力を尽くさねばならぬと思います」
時折、若者らしい熱を帯びた雄弁を、六左衛門は、だまって聞いてくれる。その夜は、二人で色々と語り合った。これからの藩や、この先の未来についてである。
だから、将策は全く気付かず、夢にも思わなかったのだ。未来を語る人間が、そのような事を考えているなどとは。
すっかりと夜が更けた頃、将策は眠気に勝てず、断って部屋を後にした。すぐ隣室で休むように、すでに布団が用意されていたので、そのまま滑るように布団に入ると、すぐに寝入ってしまったのだった。
「将策、将策…」
数刻した後に、不意に自分の名を呼ばれた気がして、将策は眼を開けた。
一瞬、暗闇にぼんやりと浮かんで見える部屋の間取りで、自室でない事を悟るも、ここがどこか瞬時には思い出せない。
また微睡の中で、目を閉じ、再び睡魔に蹂躙される事を受け入れた刹那、
「将…策…」
再び自分を呼ぶ声が聞こえて、将策は覚醒したのだった。すぐに布団より飛び起きると、部屋の襖に手を掛けた。
「お奉行様、お呼びですか?」
隣室の主の言葉を待ったが、返事は無い。変事を悟った将策は、致し方なく、襖を勢いよく開けた。
「御免!」
将策の目線の先には、暗闇に蠢くものがあった。
「お奉行?…」
しかし、やはり返事は返って来ない。代わりに、唸るような、苦しむようなうめき声がする。将策は立つと、素早く室内へと入り、歩を進めて、蠢くものの方へと向かう。
(何だこれはっ?)
二歩進んだだけで、足に生暖かい違和感があり、そこで歩を止める。しかも、鼻に突くこの鉄のような匂い。
「お奉行!」
将策は、確信に近い衝動に駆られながら大声を発していた。そして、部屋の隅にあった油に火を灯すと、それを部屋の真ん中へと向けた。
すると、そこには、腹を真一文字に掻っ捌いて、己の血の海の中で、蠢く六左衛門の姿があった。
「お奉行!お奉行!」
将策はすぐに、横倒れになっている六左衛門の身体を支えて起すと、彼の身体の具合を確かめた。
自ら身体を貫いた刃は、六左衛門の腹を全く開いてしまっており、それが十分に、致命傷である事を物語っていた。
「将…策よ…介錯…」
息も絶え絶えに、哀願に等しい六左衛門の言葉に将策は決意する。しかし、首を刎ねるにも、すでに六左衛門には、自身の体勢を整えるだけの体力は、残されてはいなかった。
処置に困った将策を察してか、目配せで、自身が握る短刀を知らせる。
将策は一つ頷くと、六左衛門が、まだ両手で握る短刀を持つべく、その手を引き離そうとするのだが、これがなかなか凄い力で握られており、容易には離せそうにない。
引き離す事を諦めた将策は、六左衛門を自らの胸に抱きかかえると、六左衛門の両手事、短刀を右手で制し、大きく振りかざした。
「ええい、行きますぞ!」
その声と共に、振りかざした短刀を躊躇なく、六左衛門の左胸目掛けて、突き下ろした。瞬間、六左衛門は一息嘆息し、その身体は、自由となるのだった。
しばし、呆然とした将策は、数秒の内に我に返り、その部屋の惨劇に目をやる。部屋の畳は、将策が踏んでしまった血で少し汚れていたが、六左衛門の周りには、敷物や衣が多数敷かれており、汚れずにすんでいたのだった。
畳を汚さぬようにとの配慮が見てとれる。死者の性格が現れていた。六左衛門の身体を寝かせ、両手を組ませると、その手をグッと力を込めて、握ってやる。
それが、割腹せざるをえなかった上司への今してやれる、せめてもの労いであったからだ。
(どうしてこんな事になったのか?…)
六左衛門の死に顔を眺めながら、そんな思いが溢れて来る。六左衛門は、将策に何も知らせる事無く、果てる道を選んだ。それが、将策を巻き込まない唯一の方法であったからだろうと、そうぼんやり考えていた。
しかし、このまま六左衛門の死を受け入れる事は、一個の武士として、耐えがたい苦痛であった。そして、暫く考え込んだ後に、ある一人の男の顔が浮かんできた。
「土佐の坂本龍馬…」
その男の名を口にする。このような事態になったのは、元々があの男が原因に違いない。
(蒸気船など、あの男が勧めねば、お奉行は死なずに済んだのだ!)
将策は立ちあがると、血で汚れた姿のままで、部屋を飛び出していく。将策は、闇夜を駆けていた。
「坂本龍馬、坂本龍馬!」
駆けながら、その名を連呼する。
「許さん!この俺が斬ってくれる」
激しい怒りと共に、将策は闇夜の中へと消えて行くのだった。
将策と権右衛門とが予見した通り、権右衛門を支援していたと思われる主だった佐幕派の重臣は一掃された。
これにて、大洲藩の内部で起った暗闘は決着し、これよりは、新藩主泰秋を中心とした、尊皇藩の一藩として、活動していける事となったのである。
「これで少しは浮かばれてくれるか?」
将策は亡き友に、墓前で問いかける。そして後日、徳太郎とおまさと供に、駒吉の冥福を祈り、この一件で亡くなってしまった人達の分も生きると、心に誓うのであった。
それぞれの日常が戻ってきた頃、新選隊を結成した将策は、その隊長として、忙しい日々を送っていた。隊の人数は、藩内の村々を周って、若者を募った。
新選隊は、将策が江戸にて学んだ西洋式軍事演習を実施し、組織として形を成し始めていた。しかし、始まったばかりの西洋式軍隊であるが故、重大な問題が残されていた。
「隊長殿、銃が足りませんよ」
副隊長を務める嘉一郎が言う通り、隊員に比べて、肝心の武器が足りないのだ。将策は、何度も藩に補充を願い出てはいるのだが、これ以上、民衆に重税を強いて、また一揆が起れば元も子もない。
かと言って、小藩である加藤家に、近代の西洋銃を数多く揃えられるゆとりなどはない。そんな時に、国嶋六左衛門より、火急の報せがあり、将策は赴く事になったのだった。久方ぶりの国嶋邸を訪れると、以前と同じように、長女が応対してくれて、屋敷の中へ通してくれた。
「一緒に長崎へ行って貰いたい」
挨拶もそこそこに、再会した六左衛門は、急にそう切り出し始めた。
「長崎?出島ですか?」
「そうじゃ、銃を仕入れに行く。殿の裁可を頂いた。わしとお主で行く」
六左衛門は、藩の財政が厳しい状況で、将策からの申請が下りぬ事に苛立ち、藩にとって重要な事であるとして、直々に殿様へ掛け合ってくれたのだった。
「私などが行って宜しいのですか?」
「新選隊の隊長が行かずしてどうするか?早速、出発の手筈を整えよとの仰せだ」
思いがけず大役を賜り、恐縮しながら屋敷を出る。居残りをさせられる嘉一郎が拗ねるだろうと思いながら、逸る気持ちを抑えきれずに、将策はいつの間にか、奔り始めていた。
将策らが長崎に求める物は、ミニエー銃と呼ばれる、弾を先込するライフル銃の事である。
この時、主流だったゲーベル銃は、新選隊でも、また日本全国でも普及していたが、開発が1670年代であり、主にオランダ国が用いていた武器で、大量生産向きだが、火縄銃に比べると、雨天でも使えて、装填時間も短いが命中率が低いという難点があった。
対するミニエー銃は、1849年にフランスで開発された物で、専用の弾を使う為に、大量生産向けではない物のとても命中率に優れていて、殺傷力が高かった。100m先より撃っても、命中率が90%を超えると言われている。
この時代では、最新式の武器であった。そのミニエー銃を藩命にて、数百丁買い求めると、将策が後年記した手記にある。
長崎に着くと、早速出島へ赴いた。そして、この約四千坪の人工島の凄さを目のあたりにして、度胆を抜かれる思いをしていた。
(何という街だ!)
実際に見るのと、聞くのでは大違いだと思った。将策も江戸に遊学中、開港した横浜に行った事があり、外国人や商館等、珍しい物を見ていたので、云わば免疫が多少はあると自負していた。
しかし、この長崎という街は、外国人が当たり前にいる街なのだ。
溶け込んでいるというか、一体化していて、存在する事が当たり前で、街も横浜のように漁村に無理やり、外国人向けの洋館を建てるというのとは違い、区画整理が行われ、建物一つが整然と建てられている印象だ。
そして、何よりも街自体が清潔なのだ。
「驚いたか?わしは、以前に用向きで、一度訪れておるからな」
六左衛門が、悪戯っぽい笑みを将策に向ける。
「これから人に会う。付いてきてくれ」
六左衛門の後ろを行きながら、どうしても、目は周囲の左右上下を行き来してしまいながら、遅れがちではあるが、何とか六左衛門を見失わずに目的地についた。
(亀山社中)
その屋敷の入口には、そう書かれた看板が掲げてあった。
「大洲藩の国嶋六左衛門と申す。才谷殿にお会いしたい」
六左衛門は、門のすぐ内側に立っていた男に話しかける。
「隊長は、留守ぜよ」
「どこに行かれたのか?帰りは遅くなられるのか?」
(才谷?誰じゃ?)
将策が疑問に思っていると、中より一人の男が現れて、六左衛門と話し始めた。
その男は、少し小柄で、着物なのに、黒色のブーツを履いていた。将策は、この男の顔に見覚えがあった。
「沢村さんじゃないか?俺じゃ!一緒に凧を飛ばした井上将策じゃ」
「おおっ井上さんか?懐かしい。おんしも、坂本さんに会いに来たがか?」
二人は肩を叩き合って、再会を喜んだ。途端に話しが進み始める。
「国嶋先生、これなるは、土佐藩の沢村惣之丞殿です。沢村さん、坂本とはあの龍さんの事か?」
「そうじゃ、坂本さんは、わしらのカンパニーの隊長じゃき。才谷さんは、坂本さんの事じゃ。今、薩摩の御仁に会いに行っちょる。ネゴシエーションぜよ」
「カンパ?…ネゴ?ネゴシ??」
惣之丞が発する英語に将策は戸惑いながら、龍馬の居る場所へ案内を頼み、すぐに向かう事にした。
その道中で、坂の多い長崎の街を海の潮風を感じながら歩いて行く。六左衛門が惣之丞の履くブーツに興味を示すと、
「こっちの方が草履より歩きやすいし、恰好良いきに」
そう言って胸を張って歩いて行く。しかし、その恰好が、龍馬の真似である事を知っている将策には、可笑しく感じていた。
亀山社中のある屋敷より、暫く坂道を下って行くと、海が見えてくる。湾岸に停まる帆船や漁船、黒船が何隻も見える。それらの黒船達が、水面に反射する太陽の光の中で輝いて見えていた。
「あの内の一隻でもいい。我が藩の物になればのう…」
六左衛門が嘆息するように呟くのを将策は黙って聞いていた。その呟きが、悲劇の始まりになるという事をまだ知らないでいたからだった。
二
暫く進むと、西浜町にある薩摩藩邸に着いた。江戸時代に、長崎には諸藩が多く屋敷を構えていたが、そのほとんどが、蔵屋敷程度の大きさで、ほとんどの藩が、身分の低い者達を数名置く程度であったが、薩摩藩は、この長崎を江戸と大坂に並ぶ重要な拠点と考えていた。
その役職を長崎聞役と言い、琉球を手中に治めて、諸外国と密貿易を行い、富を増やしてきた薩摩藩が、貿易や商取引を重要と考えたのは、必然であった筈である。
「よう井上君じゃないがか?よう来たのう。こっちは薩摩の伍代才助君じゃ」
屋敷内に通されると、龍馬は、一人の男と話し込んでいた。
(井上君?…)
「長州ではな、同志を君と呼ぶのが流行っちゅう。じゃから、お主も井上君じゃき」
龍馬は、そう言うと、立ち上がり将策に近づき、戸惑うのを余所に、シェイクハンドを交わすのだった。
「大洲藩の国嶋六左衛門です。早速ですが、前もって書状にてお伝えしている通り、外国商人に、武器購入の斡旋をお願いしたい」
六左衛門が挨拶もそこそこに、早速本題へと切り出すのだった。
「わしよりも、この伍代君の方が詳しいぜよ。のう伍代君」
そう言うと、龍馬は伍代に目線を送る。二人は目で何かの合図を送り合っているように見えて、将策はそこに少し、違和感を覚えていた。
「伍代君はな、欧州へ留学経験があり、英語が堪能じゃき。それにこの若さで、薩摩藩の取引を任されちゅう男じゃ」
伍代才助は、この時三十歳。水夫に化けて、上海へと密航し、そこでアヘンに毒され、欧米の食い物にされる清国を間近に見たことが、その後の彼の運命を大きく変えたと言われている。
伍代は、言葉だけの攘夷では、諸外国へ太刀打ち出来ない事を、身をもって知っている日本の武士では数少ない男だった。
その辺りが、同年齢の龍馬と気が合った理由なのか、長崎にて知り合うと、この頃では、四六時中一緒に居る間柄となっていたのだった。
「国嶋さん、船じゃ。黒船を買うたりや」
そう切り出したのは、龍馬だったのか、それとも伍代だったのか。その驚くべき提案を六左衛門も最初は一笑に伏していた。
小藩である大洲藩が、黒船を買うなど夢物語だ。そんな金などどこにあろうか。
「長崎には、銃を買いに来たんだ。勘違いせんでくれ」
「銃を買ったら一回で終いじゃ。それよりも、高くても黒船を買えば、そこから貿易をして、こじゃんと儲かるぜよ。それで払えばええ」
「実際に黒船を扱う商人を知っちょりもす。一度見てたもんそ」
龍馬の夢物語と、伍代の理に適った話しぶりに、最初渋っていた六左衛門も、時間を経て、とうとうその気になり始めていた。会談はその後、花街へと続き、それは酒が入ってからも尚続いていたのだった。
「船はええ。黒船はええがじゃ」
この龍馬の土佐弁と、伍代の薩摩弁との共演で、交互にそう急き立てられると、大抵の人は根をすぐにあげてしまうものだろう。
「龍さん、大洲藩には金がない。これ以上の年貢増は、また一揆が起るけん」
堪らず将策が歯止めをかける。
「井上君、黒船は何度かに渡って、払って行けるように交渉するきに。最初に銃を買うつもりじゃった金を手付に払ったらええがじゃ」
そう言うと、龍馬は懐から一つの絵図を取り出して見せた。そこには、船の絵が描かれていて、蘭国アビソ号と書かれていた。
「ポルトガル人のロウレイロちゅう商人が居っての、それが持っとる船がこれじゃ。実は亀山社中で買う予定で、話しを進めちょるんじゃが、大洲藩が買うなら譲ろう思うちょる。今なら格安ぜよ」
その龍馬の言葉に、製図を見る六左衛門の心は、支配されようとしていた。六左衛門は元々、優れた砲術の師であるし、こと諸外国の知識も大洲藩内ではずば抜けている。
しかし、所詮は井の中の蛙なのだ。元々、興味や憧れがある物が、上手く行けば、手に入るかもしれないと耳元で囁かれたら、どれだけの人が、それに抗う事が出来るだろうか。
「分かった。明日、見に行く。折衝をお願い申す」
「よし分かったぜよ。それなら今夜は前祝いじゃ。呑もうぞ」
六左衛門は、すっかり黒船の虜になってしまっていた。将策の忠言にも耳を貸さず、酒を呑んでは、龍馬と伍代の話しに、しきりに頷いていたのだった。
「な~に、船の操縦は、わが亀山社中に任せちょけ。それに、わしのユニオン号にも乗せちゃるがぜよ」
この時、実を言えば、亀山社中は、自社の黒船を持ってはいない。現在運航しているユニオン号は、長州藩からの貸し出しであったし、それも返却の期日が迫っているものだった。
この時、龍馬は内心焦っていた事だろう。海運業を営む亀山社中に、船が無くなるのである。
それは、会社の死活問題であった。それを阻止する為には、大洲藩の船購入が無くてはならない切り札だったのだ。
「しかし、先に殿のお許しを得なければ」
「そんな事をしていたら、お許しを待つ間に、船が売れてしまうぜよ。それより、殿様の帰国に蒸気船で出迎えたら、たまげるぜよ。これが殿様の黒船ですっちゅうての」
龍馬は酒を注ぎながら、尚も畳み掛けるように、六左衛門に吹き込み続けた。そして、酒宴が終わりを迎える明け方前には、すっかり六左衛門の気持ちは、固まってしまっていたのだった。
翌日、早速ロウレイロの居るポルトガル商館へと向かうと、もうすでに龍馬と才助が来ていた。
「国嶋様、くれぐれもご無理致しませんよう」
「将策、大丈夫じゃ。隣国土佐藩と、雄藩の薩摩の者が仲介してくれれば、無下にはされまい」
将策の不安を余所に、六左衛門は意気盛んに室内へと入っていく。国嶋六左衛門という有能であるが、人の良い田舎武士の悲劇が、もう始まっていたのだった。
「こんにちは国嶋さん、歓迎致します」
立派な洋風の建物と、その室内には、調度品と洋風のテーブルと椅子が置いてあり、その中央の椅子に座る流暢な日本語の挨拶をして、六左衛門と将策を迎えたのが、ジョゼ・ダ・シルヴァ・ロウレイロという、駐日ポルトガル副領事官を務める男であった。
そのような身元のしっかりとした人物に、薩摩藩の商いを預かる伍代才助が左側に座し、右側に土佐藩を脱藩したとは言え、日本で最初の株式会社を創立して、志士の間では、最近評判の坂本龍馬が居れば、六左衛門がその気になってしまうのも無理からぬ事であっただろう。
「それでは、早速、私の船をご覧頂きましょう」
挨拶もそこそこに、四人は港へと赴き、例の船を見に行く。港が近づくと、黒く大きな煙が立ちあがっているのが目に入ってくる。将策はそれを認めると、無意識にその黒い柱に向かって歩を進めていく。
「何と読むんじゃろう?」
それは、船首に掲げられた船のプレートであった。アビゾ号と書いてある。遅れて六左衛門らが到着すると、龍馬が右手を挙げて、船内に合図を送る。すると、船より何やら楽しげな音楽が聞こえて来るのだった。
「これは、歓迎の式ぜよ」
すかさず横から、龍馬が耳打ちする。四人は船上の人となり、長崎の海を眺める。今日は海が凪いでいる。海風が心地良い絶好の良い日であった。
「キャプテン、準備はええがじゃ?」
またも勝手な龍馬の合図と共に、アビゾ号は奔り始めた。それだけで六左衛門と将策は、初めての蒸気船による思いがけぬ航海に、度胆を抜かれているのだった。
「この船は、まだ建造されて間もない最新艦でごわす」
航海中に才助が詳しく説明してくれる。このアビゾ号は、イギリスにて製造された最新汽船で、長さ54メートル、幅5、4メートル、深さ3、6メートルであり、45馬力から68馬力とあり、積載量160トン。積高350トン、一日に使用する石炭10トン。
三本のマストを備えて、石炭を動力としながら、帆船にも当時で優れた機能を有していた。
「この大海原を見ていると、それだけで海を制した気になります」
「確かにのう」
将策が思いがけずに発した言葉を聞いて、六左衛門は、その気持ちと一緒になっている自分に気づく。そして同時に、この船を他に渡してはならないと、決意を固めたのだった。
結局、この船を六左衛門は、藩主の許しを事前に得ずに、メキシコドルにて45,000ドルを五回払いにて支払う契約書を交わすのであった。両に直すと、三万五千六百三十両と言う大金で、これは、現在の円で言うと、約8億3千万円の価値となる計算であった。
「これで、我が藩も大藩の仲間入りが出来る。殿様もこの船を見ればきっと、お喜び頂くに違いない」
甲板で子供のようにはしゃぐ六左衛門を見ながら、将策はそんな気にはなれないでいた。
(話しが上手すぎるのではないか?…)
その将策の懸念は、理によってではなかったかもしれない。死線を切り抜けてきた侍だけが持ち得る嗅覚のような物であっただろう。
そして、その懸念は、後日、現実となって、将策らの前に立ち塞がる事になるのである。
三
その年の九月に入ってからの事である。この頃の将策らは、長崎沖にて、航海訓練を続けていた。前月に、藩主泰秋が九月に帰藩する旨の報せが届き、訓練にも自然と熱を帯びていた。
六左衛門が、藩主の帰国に合わせて、この船をお披露目しようと考えていたからだった。
「伊予灘に比べると、この辺りの海は、いつも荒れていますね」
本人はようやくと言うだろうが、乗組員に抜擢された嘉一郎は、他の者たちと、一緒に長崎へ来ていた。
(いろは丸)
購入した船は、六左衛門がそう名付けた。六左衛門は、まるで、自分が一城の主になったかのような心地で、自分が船長として舵を取る訳でもないのに、毎日船に乗って来ては、訓練の様子を見学していたのだった。
「しかし、本当に大丈夫でしょうか?」
嘉一郎の懸念を横で聞いている将策は終始無言であった。嘉一郎が言っているのは、未だに船購入を藩主の耳に入れていない事であった。
もちろん六左衛門の上司に当る家老や、その他の重臣たちと、協議の上での購入ではあったが、不安や懸念の種が、尽きる事はないように将策には思えてならなかった。
時期は、九月六日の早朝まで進む。その前日より、すでに出航していたいろは丸は、藩主一行が乗船する駒手丸を出迎えるべく、長浜湾へ、その姿を現していた。
陽の昇る前に、青島で待機していたので、近海の漁師たちは、黒船がまた来たのではと色めきだっていた。その漁船に大洲藩の船じゃ安心せい!と大声を掛けるが、果たして聞こえていたかどうか。
「首尾は上々なるぞ」
そのあっけに取られた漁師たちの顔を満足な表情で、六左衛門は眺めていた。そうこうしている内に陽が完全に昇り、いろは丸の姿が、遠影からでも良く見えるようになった時刻である。藩主泰秋を乗せたお召船である駒手丸を捉えていた。
六左衛門は、すぐ指示を出すと、いろは丸を駒手丸の前方へと、わざと進み出たのだった。これには、駒手丸に乗船した者達がぶつかると思い、蜂の巣を突いたかのような騒ぎとなった。
「おーい、おーい」
甲板より、将策や嘉一郎が声を掛けるが、相手側より返事がすぐに返って来ない。無理もない。
いろは丸は、仮ではあるが、出航する時の規則として、そのマストに、薩摩藩の丸に十字の旗を掲げていたからだった。駒手丸側は、いろは丸の操縦を薩摩藩からの挑発ではと受け取ったのだ。
「私にございます。奉行の国嶋六左衛門にございまする。火急にて、船上より失礼仕りまする。何卒御藩主様へ、御取次ぎの程を願い奉りまする」
船を横に付けて、何度か甲板より大声で言上を続けると、駒手丸側でもやっと状況を理解し、六左衛門をお召船内へと招き入れたのだった。
「これなるは、我が藩が購入した、いろは丸にございまする。これよりは、この蒸気船を使った通商を持って、我が藩へ貢献致したく、願い奉りまする」
甲板の上にて、六左衛門の後ろに、将策と嘉一郎だけが控えていた。
「伏して、我が君に、いろは丸への御乗船をお願い仕り候」
泰秋は、まだ甲板に姿を現していない。六左衛門らを迎えたのは、側近の数名であった。
「国嶋、何を勝手な事を。貴様、長崎で何をしておったか!」
将策が懸念した通りの展開となってしまっていた。案の定、ここは、六左衛門を弾劾する場へと姿を変えていたのだった。
「いや、それは、しかし、これからの世には蒸気船が…」
六左衛門は集中攻撃を浴びていた。将策は下吏であって、この場で、口を挟める身分ではない自分に苛立つしかなかった。
「我が藩の黒船とな。私は乗ってみたいが」
気づけば、いつの間にか、将策の横に、藩主泰秋が一人で立っていた。
「殿、このような場所へ来られなくとも」
「奥の部屋に一人居っても退屈じゃ。それに、お主らがそう捲し立てては、六左衛門が何も申せぬであろう?」
側近の言葉を遮るように、しかし、柔らかい言葉を泰秋は発する。それだけで、その場の空気が、良い方に変化するのを感じさせる。
「皆で話しを聞こうではないか?」
泰秋はそう言うと、将策を一見した。目を伏せるのを忘れて、思わず殿様と目が合った将策は、慌てて目を逸らしたが、そんな将策を泰秋は微笑で許すのだった。
「井上、私をその船へ案内致せ」
「ははっ」
将策は、その場に傅いて、主の言葉に従うのだった。
藩主泰秋の御言葉で、窮地を脱した六左衛門であったが、殿様をいろは丸へ乗船する事は叶わなかった。理由は前例が無い為だ。
馬鹿な話しではあるが、いろは丸の性能が明白でない点、蒸気船に殿様が乗ってしまったら、駒手丸の乗組員たちが、職を失ってしまうなどが、側近より理由として挙げられた。
これには、泰秋も大層立腹の様子だったと、後に六左衛門から将策らへ教えてもらったが、如何な藩主といえど、予定に無い事を勝手気ままには出来ない。
これが大洲藩の現実なのだという事を思い知らされた出来事だった。
(未だ、勤皇派と佐幕派での主導権争いが、その火種が燻っているという事なのか…)
将策は落胆する思いだったが、いろは丸は、長浜港までの護衛と随行を許された。
この航海で駒手丸の正面へ近づけたかと思うと、後退した後に、もう一度全速力で駒手丸を抜き去り、遥かに早く、長浜港へ到着する事で、その性能を見せつける事に成功した。
これにより、いろは丸を大洲藩の蒸気船にするよう、藩主泰秋直々の御声掛かりがあり、正式に大洲藩の所有とするべく、十二月に幕府へ届け出をし、許可されている。
表向きは、大洲城下の商人、対馬屋定兵衛が、交易の為に購入した蒸気船という事にされた。
将策らが再び、瀬戸内海をいろは丸で航海し、長崎へ戻ったのは、十一月二十二日の午前であった。
今度は、その頭上に、加藤家の家紋である蛇目紋が入った赤と白の旗が掲げられている。将策は誇らしげな気持ちになりながら、この航海を心から楽しんでいた。
しかし、大洲藩には、未だ解決していない問題があった。いろは丸の購入代金の支払い日が近づいていたのである。
元々、銃器購入の為に集めた資金を頭金とし、五回払いで、三万五千六百三十両を支払う約束であったが、その一回目の支払日の期限が迫っていたのだ。
しかし、その支払う金は六左衛門の元へ、まだ届いてはいなかった。
正式採用されたと言っても、まだ藩内で、蒸気船購入に否定的な者が多数おり、折角勤皇藩として纏まりかけていた矢先に、下手をすれば、このいろは丸購入をきっかけに、再び藩内で、勤皇と佐幕に分かれた派閥争いが表面化する危険を孕んでいたのだった。
(わしの読みが甘かったのか…)
この頃の六左衛門は、長崎宿の二階にて、金子の工面に追われる毎日を過ごしている。何十通にも及ぶ書状を、大洲藩内のあらゆる主だった人物へ送り、理解を求めている。
そして、出かけたかと思えば、長崎の商人を渡り歩き、いろは丸を使用した大洲藩の交易事業への出資を呼びかける為、文字通り東奔西走していたのだった。
そんな六左衛門の元へ、藩内より数通の書状が届き、金策の不調と、かねてよりの同志である児玉外記と吉田新兵衛に対して、斬奸状なる物が送りつけられてきた事が綴ってあった。
国嶋殿にも十分身体へ留意されよとの結び言葉を読んで、六左衛門の心は、ある一つの方向へと動き出していたのだった。
「国嶋先生、酒席のお時間です」
二階に居る六左衛門を嘉一郎が呼びに来ていた。薩摩藩の伍代友厚や、長崎商人たちと酒を呑む約束をしていたのだ。何かしらの金策へ繋がる話しが聞けるかと思っての一心である。
「伍代殿、薩摩藩には、変わった切腹法があるとか?」
宴もたけなわとなった頃、横に座る伍代に、六左衛門はこう切り出し始めた。
「我が薩摩では、切腹の際、介錯人が居らん場合に、独自のやり方が有り申す…」
六左衛門は、伍代の言う事を熱心に暫く聞いているのだった。
四
師走も押し迫った十二月二十五日に、いろは丸の再出港日が決まった。将策らは、船に積荷の準備をし、出港日が来るのを待った。
前日の夜、いろは丸の船上に、六左衛門が酒を持って現れ、嘉一郎らを含めて、小宴を催す事とした。六左衛門は、そこでも普段と変わらぬ様子で、ほどほどに酒を嗜むと、宿へと引き上げた。将策もそれに随行して帰る事にした。
宿では、二階の六左衛門の自室にて、将策と二人でもう暫く飲みたいと言うので、付き合う事にしたのだ。
「将策よ、これからも藩を挙げて、殿様を支え、諸外国に負けない国にしようではないか」
六左衛門は、この時も普段と変わらずに、その丸々とした福顔に、笑みを浮かべていた。
「これからは、藩と藩という垣根を飛び越えてでも、力を尽くさねばならぬと思います」
時折、若者らしい熱を帯びた雄弁を、六左衛門は、だまって聞いてくれる。その夜は、二人で色々と語り合った。これからの藩や、この先の未来についてである。
だから、将策は全く気付かず、夢にも思わなかったのだ。未来を語る人間が、そのような事を考えているなどとは。
すっかりと夜が更けた頃、将策は眠気に勝てず、断って部屋を後にした。すぐ隣室で休むように、すでに布団が用意されていたので、そのまま滑るように布団に入ると、すぐに寝入ってしまったのだった。
「将策、将策…」
数刻した後に、不意に自分の名を呼ばれた気がして、将策は眼を開けた。
一瞬、暗闇にぼんやりと浮かんで見える部屋の間取りで、自室でない事を悟るも、ここがどこか瞬時には思い出せない。
また微睡の中で、目を閉じ、再び睡魔に蹂躙される事を受け入れた刹那、
「将…策…」
再び自分を呼ぶ声が聞こえて、将策は覚醒したのだった。すぐに布団より飛び起きると、部屋の襖に手を掛けた。
「お奉行様、お呼びですか?」
隣室の主の言葉を待ったが、返事は無い。変事を悟った将策は、致し方なく、襖を勢いよく開けた。
「御免!」
将策の目線の先には、暗闇に蠢くものがあった。
「お奉行?…」
しかし、やはり返事は返って来ない。代わりに、唸るような、苦しむようなうめき声がする。将策は立つと、素早く室内へと入り、歩を進めて、蠢くものの方へと向かう。
(何だこれはっ?)
二歩進んだだけで、足に生暖かい違和感があり、そこで歩を止める。しかも、鼻に突くこの鉄のような匂い。
「お奉行!」
将策は、確信に近い衝動に駆られながら大声を発していた。そして、部屋の隅にあった油に火を灯すと、それを部屋の真ん中へと向けた。
すると、そこには、腹を真一文字に掻っ捌いて、己の血の海の中で、蠢く六左衛門の姿があった。
「お奉行!お奉行!」
将策はすぐに、横倒れになっている六左衛門の身体を支えて起すと、彼の身体の具合を確かめた。
自ら身体を貫いた刃は、六左衛門の腹を全く開いてしまっており、それが十分に、致命傷である事を物語っていた。
「将…策よ…介錯…」
息も絶え絶えに、哀願に等しい六左衛門の言葉に将策は決意する。しかし、首を刎ねるにも、すでに六左衛門には、自身の体勢を整えるだけの体力は、残されてはいなかった。
処置に困った将策を察してか、目配せで、自身が握る短刀を知らせる。
将策は一つ頷くと、六左衛門が、まだ両手で握る短刀を持つべく、その手を引き離そうとするのだが、これがなかなか凄い力で握られており、容易には離せそうにない。
引き離す事を諦めた将策は、六左衛門を自らの胸に抱きかかえると、六左衛門の両手事、短刀を右手で制し、大きく振りかざした。
「ええい、行きますぞ!」
その声と共に、振りかざした短刀を躊躇なく、六左衛門の左胸目掛けて、突き下ろした。瞬間、六左衛門は一息嘆息し、その身体は、自由となるのだった。
しばし、呆然とした将策は、数秒の内に我に返り、その部屋の惨劇に目をやる。部屋の畳は、将策が踏んでしまった血で少し汚れていたが、六左衛門の周りには、敷物や衣が多数敷かれており、汚れずにすんでいたのだった。
畳を汚さぬようにとの配慮が見てとれる。死者の性格が現れていた。六左衛門の身体を寝かせ、両手を組ませると、その手をグッと力を込めて、握ってやる。
それが、割腹せざるをえなかった上司への今してやれる、せめてもの労いであったからだ。
(どうしてこんな事になったのか?…)
六左衛門の死に顔を眺めながら、そんな思いが溢れて来る。六左衛門は、将策に何も知らせる事無く、果てる道を選んだ。それが、将策を巻き込まない唯一の方法であったからだろうと、そうぼんやり考えていた。
しかし、このまま六左衛門の死を受け入れる事は、一個の武士として、耐えがたい苦痛であった。そして、暫く考え込んだ後に、ある一人の男の顔が浮かんできた。
「土佐の坂本龍馬…」
その男の名を口にする。このような事態になったのは、元々があの男が原因に違いない。
(蒸気船など、あの男が勧めねば、お奉行は死なずに済んだのだ!)
将策は立ちあがると、血で汚れた姿のままで、部屋を飛び出していく。将策は、闇夜を駆けていた。
「坂本龍馬、坂本龍馬!」
駆けながら、その名を連呼する。
「許さん!この俺が斬ってくれる」
激しい怒りと共に、将策は闇夜の中へと消えて行くのだった。
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表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
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MayonakaTsuki
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