9 / 11
第八章~龍馬を斬る~
しおりを挟む
一
翌朝、報せを聞いた街の役人が、六左衛門の死体検分の為に宿を訪れて、形通りの務めを果たすと、すぐに引き上げて行った。
すると、それと前後する形で、龍馬と伍代が顔を見せたのだった。龍馬はその場にしゃがみこむと、冷たく横たわる六左衛門の身体の傷を指でなぞりながら、何度も確かめていた。
その動作を見ているだけで、背後に立つ将策は、自分の血の気が引く音を聞いた気がしていた。
「侍が本懐を遂げられぬ時は、死ぬしかないき。惜しい知己を亡くしたもんぜよ」
捨て台詞を吐くように呟くと、そのまま将策らには一瞥もせず、その場を後にする。将策はその態度に堪えきれず、刀の柄に手を回した。
「おい、坂本龍馬!貴様が元々三万両でしかない船を法外な値段で売り付けた事は、とっくに分かっておるわ」
すぐにでも斬りかかろうとしそうな将策を抱きかかえるように、嘉一郎は耐えていた。昨晩、船へ報せに来た将策から事情を聞いて、宿に駆けつけていたのだった。
「さらに、貴様は長州藩が赤間関にて、関税を掛ける事、知っていて教えなかったな」
いろは丸購入のこの時期を同じくして、薩摩藩と長州藩との間で、協定が結ばれていた。
すなわち、瀬戸内海を航海する船へ、関税を掛ける裁量についてである。これにて、他藩の船だろうが、外国船でも商船でも、自由に航行出来なくなってしまった。
これは、いろは丸を購入した大洲藩にとっては、痛手でしかない。通行するだけで、両藩へ通行料を支払う事になってしまう。その辺りを龍馬は知っていて黙っていたのだろう。
「貴様が余計な口を利かねば、国嶋様は、お命を縮める事はなかった…」
将策の言葉に、止める側の嘉一郎の頬にも涙が流れる。事実として、六左衛門は、これら、いろは丸購入からの続く不首尾を随分と藩内の反対派より攻撃されていた。
このままそれを捨てておけば、御家騒動にまで発展しかねない様相を呈し始めていた。六左衛門は、自分が何も言わずに死ぬ事で、それらの動きを制止しようとしたに違いなかった。
「わしら、亀山社中は商売じゃきに。物を仕入れて高く売るのが仕事じゃき。貴藩が購入した船の代金が違うのは、そりゃ紹介料っちゅうもんぜよ」
龍馬は、将策に背を向けずに用心して、後ろ向きのまま一歩ずつ後ずさっていく。
この時代の武士で、このような龍馬の考え方を理解出来る者は、余りいないだろう。
大洲藩を代表する六左衛門としては、隣藩の出身で、知己でもある、長崎で顔の広い坂本龍馬を信じて、購入に踏み切った訳だし、また薩摩藩の重臣である伍代友厚を信じたのだ。武士が武士を信じたら、後は身を委ねるしかないではないか。
六左衛門は、両者を同じ侍として遇したが、この両名は、六左衛門並びに、大洲藩をただの客としか思っていなかったのだろう。
現代のビジネスの世界では、購入した六左衛門に責任の重きがあるが、当時、侍が商売をして、他藩の者を騙すように船を売る事など、誰も考えられる事ではなかったのである。
「おい、坂本龍馬!俺は決して貴様を許さぬぞ。必ず成敗してやる。必ずだ!」
刀を抜く手と、将策の身体全体を押しこめるように、嘉一郎は泣きながら、ずっと押さえ続けていた。
「駄目です。井上さん、もし斬ったら…」
もし将策が龍馬を白昼堂々と斬ったならば、大洲藩と土佐藩に、薩摩藩を交えての争いに発展しかねず、そうなれば、将策の命一つでは済まない大問題であった。
それが頭では分かっているからこそ、嘉一郎を無理に払い除けてでも、斬りかかれないもどかしさで、将策の心は、今にも打ち砕かれそうであった。
そんな将策の様を嘲け笑うかのように、龍馬は伍代と供に、長崎の街へ、悠々と歩いて消えて行くのだった。
「こなくそが!」
二人が消えた後、地面にたまたま置いてあった桶を一刀両断して、憂さを少しでも晴らす将策と、その場に座り込んで、恨めしそうに、龍馬の背中を見る嘉一郎の姿があるだけであった。
国嶋六左衛門の死骸は、彼が購入したいろは丸にて、慶応三年一月二日、秘密裡に大洲藩の自邸へ運びこまれた。
彼が死の際で用意した衣と、敷物と一緒に布団で包めて、石灰と一緒に木箱に入れて、箱の上には、国嶋六左衛門小銃入と書き封印を施していた。
まさか、その箱に名前を書かれた本人が眠っているとは、誰も考えない事だろう。この事を知っているのは、将策と嘉一郎を含めた僅かに数名だけであった。
「御父上様…」
国嶋邸に着くと、すでに家人が門前に立っていた。この門を潜る時に、いつも笑顔で出迎えてくれていた国嶋家の長女が、今日は目を伏せて、一行を迎える。
将策はその姿を直視する事が出来ず、箱を屋敷内に運び込むと、そこで変わり果てた姿の六左衛門を数名で出してやった。六左衛門の奥方は気丈な人で、声を上げる事もなく、女中らと供に、夫の身体を拭ってやり、死に装束に着替えさせた。
その際に、身体に付いた傷を一つ一つ愛おしそうに、丁寧に拭いてやるのだ。そして、致命傷となった胸の傷を見つけて、将策に振り返る。
「介錯が間に合わず、私が止めを…」
それのみ言うのがやっとの将策の意図を理解し、奥方は一つ大きく頷いた。
「それを聞いて安心致しました。お前たちも良く見ておきなさい」
国嶋家の四人の子供たちは、父親の身体の傷に驚いた様子であったが、あらかじめ諭されていた様子で、誰一人涙を流さず、じっと父親の安らかな顔を眺めていたのだった。
「ぐ…くっ…」
子供たちの様子を後ろから見ていた嘉一郎は、堪らず嗚咽を漏らしてしまう。慌てて右手で口を塞ぐが、漏れ聞こえる音が合図となり、一室はすすり泣く声があちこちで聞こえてくるのだった。
国嶋六左衛門紹徳は、享年三十六歳の若さであった。大洲藩を代表する知識人であり、奉行としての才覚に恵まれた、惜しむべき人物であった。
六左衛門の死は、暫く藩内でも秘密とされていたが、寿永寺に埋葬され、彼の死を偲ぶ将策ら有志によって、墓前に石灯籠が建てられている。
二
失意の将策らを余所に、その頃の坂本龍馬は、多忙を極めていた。運命の年である慶応三年を迎えた一月十三日に、長崎にて、土佐藩参政の後藤象二郎と会談し、上士、下士の垣根を超えて、協力体勢を取る事で一致する。
土佐藩が龍馬らの後ろ盾となり、龍馬を始め、土佐藩を脱藩していた者達の罪は赦された。
「海援隊!」
この日本の幕末史に、燦然と輝く名が登場するのは、この時からである。そして、海援隊となってからの最初の彼らの航海には、あのいろは丸が使われる事となる。
これには、土佐藩参政の後藤象二郎が、大きく関わってくる。当時、土佐藩では、長崎から大坂へ、武器、弾薬を運ぶ必要があった。もちろん倒幕の準備の為である。
この前年に結ばれた薩長同盟により、時勢は公武合体よりも、倒幕へと傾いていた。薩長同盟の仲介人と言われる龍馬が、土佐藩と結びついた背景には、藩もろとも倒幕の一翼を担わせる狙いがあった。
そして、その思惑に、若い参政である後藤は飛び付いたのだ。この後藤象二郎という人物は、その性格豪放闊達にして、豪傑というに相応しい人物だったという。
上士の生まれであったが、両親を幼い頃に亡くし、叔父であった土佐藩参政の吉田東洋の下で育つ。しかし、その東洋が土佐勤皇党の武市瑞山らによって暗殺されると、政敵によって官職を解かれる。
しかし、土佐藩前藩主の山内容堂が実権を取り戻すと、復帰し大監察の要職に付き、政敵で叔父の仇でもあった武市らを処刑し、実権を手にすると、参政に抜擢されたのである。
つまりは、龍馬と象二郎とは、互いに仇であり、憎み合う上士と下士の親玉同士が手を組んだ事になる。
お互い探りあい、利用し合う関係から始まった二人だが、互いの豪快で細かいことを気にしない、奇策を好み、周りを気にしない性格など、共通項が多かったからか、最初から馬が合ったようであった。
「後藤は真に同志じゃきに」
当初、海援隊内部で、特に同じ下士仲間からの反発が強かったが、龍馬は、後藤を立て続けた。
後藤が龍馬を援けて、土佐藩が海援隊を設立し、龍馬がその隊長になった事は、土佐藩内でも随分と議論の的になった様子で、龍馬も家族から、批判の手紙を受け取ったらしく、その返信として、私一人で五百人、七百人を引き連れて、天下国家に尽くすよりも、土佐藩二十四万石を率いる方が日本の為である。という旨の手紙を認めている。
龍馬は海援隊に船が無い事を後藤に相談していた。そして、こう囁いていた。
「長崎にいろは丸がある。あれを使えるように、頼んでくれんかのう」
話しを聞いた後藤は、早速大洲藩へ交渉を持ちかける。一航海で五百両を支払い、事故等で破損、損壊、沈没の際は、すべて土佐藩で責任を取るという破格の条件であった。
この土佐藩からの申し入れに対し、六左衛門亡き後、その運用を正直持て余していた大洲藩は、渡りに船とばかりに、いろは丸貸出しを決定したのだった。
「何とも口惜しい…」
上役からのお達しを聞いた将策と嘉一郎は、無念の臍を噛んでいた。しかし、同時にこれを絶好の機会だと考えてもいた。
(一介の剣士として、果し合いをする)
それであれば、土佐藩の龍馬を大洲藩の将策が斬ったとしても、藩同士の争いまでにはならないだろう。
「自分一人が腹を斬ればよい」
将策はそう言って、嘉一郎の肩を叩く。
「斬るのは、私かもしれませんよ」
嘉一郎はそう言って、船の出航準備に取りかかる。死を覚悟して事にあたる。そうすれば、例え死んだとしても、思いを誰かが繋いでくれる。
死んだ六左衛門も、きっと同じ気持ちだったに違いないと、出航前の波風を浴びながら、そんな事を考えていた。
三
再び長崎へ向かう為に、いろは丸が長浜湾を出航したのは、年が明けた慶応三年(1867)一月二十日の事であった。
長崎に着くと、早速、海援隊屯所へ赴くも、そこに龍馬の姿は無い。
「坂本さんなら、オランダ商館へ行っちょるぜよ」
その情報を得て、商館へ向かうも龍馬は来てないという。仕方なく、その夜に行われる歓迎の宴まで待つ事とした。
「中座した隙を狙え。但し、正々堂々と、果し合いじゃ」
将策と嘉一郎は、何度も場を想定して、作戦を練っていた。ところがである。宴が始まっても、肝心の龍馬の姿はどこにも無かった。
「あの船は、大洲ではゲド丸と呼ばれて、扱いに困っていた所、正直助かり申す」
「いやいや、我らこそ、船が無くては、仕事になり申さぬ」
宴では、呑気に大洲藩と土佐藩との代表が盃を交わし合っていた。二人は、苦虫を噛む思いで、手酌を繰り返すしかなかった。
そして、宴も終盤に差し掛かった頃であった。
「坂本の居場所が分かりました」
小用で中座した嘉一郎が、偶然聞いたのだった。
「そうか、奴は今、いろは丸に一人でいるのか」
宴の酒を持ってきてくれと、店の者に頼んでいたらしい。恐らく、一人で悦に浸りながら、船で祝杯を挙げるつもりなのだ。
「そうはさせぬぞ!」
二人は示し合わすと、宴席を抜け出し、いろは丸へ駆け出すのだった。
(せめてもの情けだ。船上で、最後を迎えさせてやる)
物騒な事を考えながら、夜道の長崎を掛ける。二人はほどよく酔っていたが、長崎の急な下り坂も、問題なく駆け下りて行く。
六左衛門の死以来、どんなに酒を呑んでも、気持ちだけは冷めていて、頭が酔う事はなかった。その苦い日々も、今夜終える事が出来る。二人は歩を速めた。
港へ着くと、気づかれぬように、灯りを消す。
「井上さん、後ろに」
夜目が利く、嘉一郎の後ろを探るように、少しずつ歩を進める。
「あった!」
暗闇でも、その船が、いろは丸な事はすぐに分かった。甲板に上がると同時に、月明りが船を照らし始める。
「交代じゃ。早く行かんと、宴は終わってしまうけん」
船の見張りの二人に笑顔で声を掛けると、二人は疑う様子もなく、礼を言って去って行った。去って行く前に、龍馬が乗船している事を確認するのも忘れていなかった。
そして、龍馬が居る筈の船長室の扉のノブに手を掛けると、将策は鯉口を切った。そして、後ろを振り返り、嘉一郎に一つ頷く。嘉一郎も、目でそれに応える。
勢いよく戸を開けると、室内に躍り出る。そして、いつでも抜刀出来るように、半身に構えた。
「な、な、なんじゃーっ」
しかし、その声の主は龍馬ではなく、沢村惣之丞であった。
(居ない、気付かれたか?)
「坂本さんはどこだ?」
務めて、穏やかな表情で、将策は声を出した。
「お主らか、驚くぜよ。坂本さんなら、甲板じゃ。友と呑んでくる言うてな」
その言葉を最期まで聞くか、どうかで、二人はその部屋を後にしていた。背後で沢村が何かまだしゃべっていたが、その言葉に耳を貸すゆとりはすでに無かった。二人は甲板に駆けつけると、龍馬の姿を探す。
すると、龍馬の姿はすぐに見つかった。マストの下の操陀場のすぐ近く、船から一番月が拝める所で、一人座って佇んでいた。
その姿を認めると、少しずつ、摺り足で近づいて行く。少しずつ、少しずつ、悟られぬように、慎重にだ。
「これでも呑んで下され。今一度、酒を酌み交わしたかったが、死んでしもうては、それも叶わんぜよ。国嶋殿、貴殿が遺したこの船で、わしがこの国を変えちゃるぜよ。見ちょって下され。頼むきに、見ちょって下され」
龍馬はそう言うと、二つ盃を取り出し、その二つ共に、並々と酒を注ぐ。そして、月に向かって盃を傾けると、一気に中身を飲み干すのだった。
その様子を将策は黙って見ていた。正しくは見惚れていたのだった。そして、そのまま動けないでいた。
「何じゃおんしらは?居るんなら、声掛けんかい」
暗がりで、動けずに立っている二人を見つけた龍馬から、先に声を掛けてきた。
「わしは、目が利かんきに、言うてくれなわからんぜよ。一緒にどうぜ?」
盃を差出しながら、変わらぬ声で、笑顔を見せる龍馬の姿があった。しかし、二人はその声には、すぐに反応出来ずに、その場を動けないでいた。
「やっぱり、わしゃ斬られるがか?痛いんは御免ぜよ」
差し出した盃が、受け取られないのが分かると、龍馬はそのまま自分で、それを一気に空にする。
「北辰一刀流の達人と、勝負を所望する」
振り絞るように、将策はそれを声に出した。そんな将策の目を龍馬はただじっと見つめている。
「わしゃ剣はもうやっちょらんきに、今さら将さんには勝てん」
そう言うと、龍馬は懐に右手を差し込み、何かを取り出す動作をする。将策と嘉一郎は、その動きに警戒する。しかし、次にゴトリという鈍い音と共に、龍馬が床に置いたピストルを見て、二人の緊張は少し緩和される。
「わしは敵ばかりじゃきに、後藤を斬るは容易い。下士たちの溜飲は下がるが、しかしじゃ、土佐藩は内紛じゃきに。そうなればどうなるがぜよ?今、薩摩と長州が幕府を攻めれば、それも国の内紛じゃきに、喜ぶは誰じゃ?外国じゃろが?わしら日本人じゃ!」
龍馬はそう言うと、六左衛門の為に注いだであろう酒の入った盃に手を出し、それも一気に飲み干すのだった。
「土佐藩から、我が藩へ支払われる五百両は、やはりそういう事じゃったか?」
龍馬の言葉を聞いて、将策は刀を持つ左手を放す。
「気づいちょったがか?」
「ああ」
短く答えた将策の後ろで、事態を飲み込めぬ嘉一郎だけが、納得がいかない表情を浮かべていた。
「五百両は、国嶋様が、工面出来んかった代金じゃけん」
その将策の言葉に、嘉一郎はハッとした。五百両という金額は、いろは丸を購入した際に、支払期限を過ぎると、加算される利子の金額と、同額であったからだ。
「罪滅ぼしなどとは思っちょらんき。わしゃ商売をしただけじゃき。食わしていかないかん隊員が居るき」
龍馬はそう言うと、頭を掻き出した。それはまるで、照れ隠しのようであった。将策は、龍馬の前にゆっくりと腰を降ろすと、置いてあった盃を手にし、それを差し出す。それに何も言わず、龍馬は酒を並々と注ぐ。
「赤間関の件は、長州から、貴藩へ伝える手筈じゃったきに」
それは事実であった。元々、長州藩と大洲藩は、親交が深く、赤間関封鎖も友藩には、実施されない事が確認されていた。
「最初から、騙すつもりだったのか?」
将策は、刀の柄に手を掛けたままで、核心を突いた。応え次第では、即座に斬るつもりなのは、明白であった。その場に、再び緊張が走り始めていた。
「ああ、そうじゃ!」
龍馬は、真っ直ぐに将策の目を見据えながら、短く、だが力強い声で答えた。すると、その言葉に反応するように、将策は、腰より白刃を抜くと、龍馬の首にピタリと当てる。
「あの時、この船を買って貰わねば、亀山社中は無くなっておった。後悔はしちょらん。大洲藩にとって、大金な事は分かっちょった。じゃが、この船はええ船ぜよ。この船があれば、絶対に儲ける。じゃから、無理を通した」
龍馬の首に当る白刃より、少しずつ、血が滴り始めていた。しかし、二人はそれを意に介する事もなかった。
「のう、死んだらいかんぜよ。金は儲ければ、返す事が出来る。じゃが、命は一つぜよ。わしゃ、それが悔しい。国嶋殿が死んだ事が、まっこと悔しい」
龍馬はそう言うと、この騒がしい男には似合わないが、静かに涙を流した。そして、それを着物の袖で拭いながら、もう一度、杯を一気に空けるのだった。
将策は、そんな龍馬の様子をじっと見ていた。そして、龍馬が杯を置くと、その首に突き付けた刀を鞘に収めるのだった。
「大事に扱え。それと、君付けは止め。気色の悪い」
将策はそう言うと、注がれたままになっていた杯を手に持ち、一気にそれを飲み干した。そして、空になった盃を憮然とした表情で立ったままの嘉一郎に渡す。しかし、嘉一郎は、その杯を受け取ろうとはしないのだった。
「実はここだけの話しぜよ。わしも君と付けるは、むずがゆいぜよ」
そう言うと、龍馬は身体を掻く仕草をする。それを見た将策に笑みが零れる。
「井上さんが斬らないならば、私が斬ります」
二人の様子に痺れを切らした嘉一郎が、龍馬に斬りかかろうとする。しかし、将策はそれを右手で制したのだった。
「お奉行様がこの男を許せぬのならば、斬ってから自害なされただろう。しかし、それをしなかったのは、恨んでは居られぬからだ。そういう素晴らしい方だった。我らの師は…」
将策はずっと考え続けていたのだ。六左衛門の死に様は、悲劇でありながらも、他者を貶める事や、恨み言一つ残さない見事なものだった。
本当は、この龍馬や、伍代や、藩の分からず屋の重臣共に、言いたい事が山ほどあった筈なのにだ。
しかし、一つの愚痴をこぼす事もなく、全てを自分一人だけの責任とする事で、他の誰も傷つかないようにする為に、腹を切ったのだろう。
だとすれば、自分がもし龍馬を斬ってしまえば、その武士としての誇りある死に、傷をつける事になりはしないだろうかと。
「嘉一郎、口惜しいのは分かる。だが、この男が、この国に必要だと国嶋様は思われたのだ。きっと。じゃけん、わしは斬らん。今はな。しかし、もしも国嶋様のお命を汚すような事をするならば、その時は、お主が止めようと、わしが斬るけん」
将策は、そう言うと、空のまま受け取られない杯を無理やり嘉一郎の手に握らせる。
「私も許した訳ではない」
注がれた酒を飲み干すと、嘉一郎はそれだけを言った。これには龍馬も、苦笑するしかなかった。
「わかっちゅう。皆、わかっちゅうきに」
龍馬は、命を救われたと感じていた。今夜、自分は一度死んだのかもしれないとも。
その無くなった命に、もう一度、命を吹き込むように、龍馬の杯に将策が酒を注ぐ。そして、それを当たり前のように、龍馬は一気に飲み干すのだった。
「なんじゃ?皆で呑んどるがぜ?わしゃ呼ばれちょらんぜよ」
三人の緊迫した様子に、全く気付かない惣之丞が、奥の部屋よりやって来た。それを合図に三人は笑った。
何故か腹の底から笑えた。そして、幾日ぶりかの、本当に酔える酒を堪能するのだった。
「わしゃ蝦夷に新しい国を拓くきに、将さんもいつか、一緒に行こうぜよ」
「ああ、まずは国中を変えねばならんな。その為にもな」
この夜は、様々な事を語り合った。その大半は、若者が描く与太話であったかもしれない。しかし、皆その眼は輝いていた。
それから三ヶ月後の慶応三年四月十九日の早朝、龍馬率いる海援隊が操舵する、最初の航海を迎えようとしていた。長崎より出航し、目指すは大坂である。
「達者での」
「そっちものう」
龍馬と将策は固い握手を交わした。これからの両藩の前途を祝っての船出である。
「さあ出航ぜよ!」
意気揚々と出航する海援隊の面々と、それを見送る将策ら、大洲藩の者達。そのすべての者達が、これより起こる悲劇を、知る由は無かったのであった。
翌朝、報せを聞いた街の役人が、六左衛門の死体検分の為に宿を訪れて、形通りの務めを果たすと、すぐに引き上げて行った。
すると、それと前後する形で、龍馬と伍代が顔を見せたのだった。龍馬はその場にしゃがみこむと、冷たく横たわる六左衛門の身体の傷を指でなぞりながら、何度も確かめていた。
その動作を見ているだけで、背後に立つ将策は、自分の血の気が引く音を聞いた気がしていた。
「侍が本懐を遂げられぬ時は、死ぬしかないき。惜しい知己を亡くしたもんぜよ」
捨て台詞を吐くように呟くと、そのまま将策らには一瞥もせず、その場を後にする。将策はその態度に堪えきれず、刀の柄に手を回した。
「おい、坂本龍馬!貴様が元々三万両でしかない船を法外な値段で売り付けた事は、とっくに分かっておるわ」
すぐにでも斬りかかろうとしそうな将策を抱きかかえるように、嘉一郎は耐えていた。昨晩、船へ報せに来た将策から事情を聞いて、宿に駆けつけていたのだった。
「さらに、貴様は長州藩が赤間関にて、関税を掛ける事、知っていて教えなかったな」
いろは丸購入のこの時期を同じくして、薩摩藩と長州藩との間で、協定が結ばれていた。
すなわち、瀬戸内海を航海する船へ、関税を掛ける裁量についてである。これにて、他藩の船だろうが、外国船でも商船でも、自由に航行出来なくなってしまった。
これは、いろは丸を購入した大洲藩にとっては、痛手でしかない。通行するだけで、両藩へ通行料を支払う事になってしまう。その辺りを龍馬は知っていて黙っていたのだろう。
「貴様が余計な口を利かねば、国嶋様は、お命を縮める事はなかった…」
将策の言葉に、止める側の嘉一郎の頬にも涙が流れる。事実として、六左衛門は、これら、いろは丸購入からの続く不首尾を随分と藩内の反対派より攻撃されていた。
このままそれを捨てておけば、御家騒動にまで発展しかねない様相を呈し始めていた。六左衛門は、自分が何も言わずに死ぬ事で、それらの動きを制止しようとしたに違いなかった。
「わしら、亀山社中は商売じゃきに。物を仕入れて高く売るのが仕事じゃき。貴藩が購入した船の代金が違うのは、そりゃ紹介料っちゅうもんぜよ」
龍馬は、将策に背を向けずに用心して、後ろ向きのまま一歩ずつ後ずさっていく。
この時代の武士で、このような龍馬の考え方を理解出来る者は、余りいないだろう。
大洲藩を代表する六左衛門としては、隣藩の出身で、知己でもある、長崎で顔の広い坂本龍馬を信じて、購入に踏み切った訳だし、また薩摩藩の重臣である伍代友厚を信じたのだ。武士が武士を信じたら、後は身を委ねるしかないではないか。
六左衛門は、両者を同じ侍として遇したが、この両名は、六左衛門並びに、大洲藩をただの客としか思っていなかったのだろう。
現代のビジネスの世界では、購入した六左衛門に責任の重きがあるが、当時、侍が商売をして、他藩の者を騙すように船を売る事など、誰も考えられる事ではなかったのである。
「おい、坂本龍馬!俺は決して貴様を許さぬぞ。必ず成敗してやる。必ずだ!」
刀を抜く手と、将策の身体全体を押しこめるように、嘉一郎は泣きながら、ずっと押さえ続けていた。
「駄目です。井上さん、もし斬ったら…」
もし将策が龍馬を白昼堂々と斬ったならば、大洲藩と土佐藩に、薩摩藩を交えての争いに発展しかねず、そうなれば、将策の命一つでは済まない大問題であった。
それが頭では分かっているからこそ、嘉一郎を無理に払い除けてでも、斬りかかれないもどかしさで、将策の心は、今にも打ち砕かれそうであった。
そんな将策の様を嘲け笑うかのように、龍馬は伍代と供に、長崎の街へ、悠々と歩いて消えて行くのだった。
「こなくそが!」
二人が消えた後、地面にたまたま置いてあった桶を一刀両断して、憂さを少しでも晴らす将策と、その場に座り込んで、恨めしそうに、龍馬の背中を見る嘉一郎の姿があるだけであった。
国嶋六左衛門の死骸は、彼が購入したいろは丸にて、慶応三年一月二日、秘密裡に大洲藩の自邸へ運びこまれた。
彼が死の際で用意した衣と、敷物と一緒に布団で包めて、石灰と一緒に木箱に入れて、箱の上には、国嶋六左衛門小銃入と書き封印を施していた。
まさか、その箱に名前を書かれた本人が眠っているとは、誰も考えない事だろう。この事を知っているのは、将策と嘉一郎を含めた僅かに数名だけであった。
「御父上様…」
国嶋邸に着くと、すでに家人が門前に立っていた。この門を潜る時に、いつも笑顔で出迎えてくれていた国嶋家の長女が、今日は目を伏せて、一行を迎える。
将策はその姿を直視する事が出来ず、箱を屋敷内に運び込むと、そこで変わり果てた姿の六左衛門を数名で出してやった。六左衛門の奥方は気丈な人で、声を上げる事もなく、女中らと供に、夫の身体を拭ってやり、死に装束に着替えさせた。
その際に、身体に付いた傷を一つ一つ愛おしそうに、丁寧に拭いてやるのだ。そして、致命傷となった胸の傷を見つけて、将策に振り返る。
「介錯が間に合わず、私が止めを…」
それのみ言うのがやっとの将策の意図を理解し、奥方は一つ大きく頷いた。
「それを聞いて安心致しました。お前たちも良く見ておきなさい」
国嶋家の四人の子供たちは、父親の身体の傷に驚いた様子であったが、あらかじめ諭されていた様子で、誰一人涙を流さず、じっと父親の安らかな顔を眺めていたのだった。
「ぐ…くっ…」
子供たちの様子を後ろから見ていた嘉一郎は、堪らず嗚咽を漏らしてしまう。慌てて右手で口を塞ぐが、漏れ聞こえる音が合図となり、一室はすすり泣く声があちこちで聞こえてくるのだった。
国嶋六左衛門紹徳は、享年三十六歳の若さであった。大洲藩を代表する知識人であり、奉行としての才覚に恵まれた、惜しむべき人物であった。
六左衛門の死は、暫く藩内でも秘密とされていたが、寿永寺に埋葬され、彼の死を偲ぶ将策ら有志によって、墓前に石灯籠が建てられている。
二
失意の将策らを余所に、その頃の坂本龍馬は、多忙を極めていた。運命の年である慶応三年を迎えた一月十三日に、長崎にて、土佐藩参政の後藤象二郎と会談し、上士、下士の垣根を超えて、協力体勢を取る事で一致する。
土佐藩が龍馬らの後ろ盾となり、龍馬を始め、土佐藩を脱藩していた者達の罪は赦された。
「海援隊!」
この日本の幕末史に、燦然と輝く名が登場するのは、この時からである。そして、海援隊となってからの最初の彼らの航海には、あのいろは丸が使われる事となる。
これには、土佐藩参政の後藤象二郎が、大きく関わってくる。当時、土佐藩では、長崎から大坂へ、武器、弾薬を運ぶ必要があった。もちろん倒幕の準備の為である。
この前年に結ばれた薩長同盟により、時勢は公武合体よりも、倒幕へと傾いていた。薩長同盟の仲介人と言われる龍馬が、土佐藩と結びついた背景には、藩もろとも倒幕の一翼を担わせる狙いがあった。
そして、その思惑に、若い参政である後藤は飛び付いたのだ。この後藤象二郎という人物は、その性格豪放闊達にして、豪傑というに相応しい人物だったという。
上士の生まれであったが、両親を幼い頃に亡くし、叔父であった土佐藩参政の吉田東洋の下で育つ。しかし、その東洋が土佐勤皇党の武市瑞山らによって暗殺されると、政敵によって官職を解かれる。
しかし、土佐藩前藩主の山内容堂が実権を取り戻すと、復帰し大監察の要職に付き、政敵で叔父の仇でもあった武市らを処刑し、実権を手にすると、参政に抜擢されたのである。
つまりは、龍馬と象二郎とは、互いに仇であり、憎み合う上士と下士の親玉同士が手を組んだ事になる。
お互い探りあい、利用し合う関係から始まった二人だが、互いの豪快で細かいことを気にしない、奇策を好み、周りを気にしない性格など、共通項が多かったからか、最初から馬が合ったようであった。
「後藤は真に同志じゃきに」
当初、海援隊内部で、特に同じ下士仲間からの反発が強かったが、龍馬は、後藤を立て続けた。
後藤が龍馬を援けて、土佐藩が海援隊を設立し、龍馬がその隊長になった事は、土佐藩内でも随分と議論の的になった様子で、龍馬も家族から、批判の手紙を受け取ったらしく、その返信として、私一人で五百人、七百人を引き連れて、天下国家に尽くすよりも、土佐藩二十四万石を率いる方が日本の為である。という旨の手紙を認めている。
龍馬は海援隊に船が無い事を後藤に相談していた。そして、こう囁いていた。
「長崎にいろは丸がある。あれを使えるように、頼んでくれんかのう」
話しを聞いた後藤は、早速大洲藩へ交渉を持ちかける。一航海で五百両を支払い、事故等で破損、損壊、沈没の際は、すべて土佐藩で責任を取るという破格の条件であった。
この土佐藩からの申し入れに対し、六左衛門亡き後、その運用を正直持て余していた大洲藩は、渡りに船とばかりに、いろは丸貸出しを決定したのだった。
「何とも口惜しい…」
上役からのお達しを聞いた将策と嘉一郎は、無念の臍を噛んでいた。しかし、同時にこれを絶好の機会だと考えてもいた。
(一介の剣士として、果し合いをする)
それであれば、土佐藩の龍馬を大洲藩の将策が斬ったとしても、藩同士の争いまでにはならないだろう。
「自分一人が腹を斬ればよい」
将策はそう言って、嘉一郎の肩を叩く。
「斬るのは、私かもしれませんよ」
嘉一郎はそう言って、船の出航準備に取りかかる。死を覚悟して事にあたる。そうすれば、例え死んだとしても、思いを誰かが繋いでくれる。
死んだ六左衛門も、きっと同じ気持ちだったに違いないと、出航前の波風を浴びながら、そんな事を考えていた。
三
再び長崎へ向かう為に、いろは丸が長浜湾を出航したのは、年が明けた慶応三年(1867)一月二十日の事であった。
長崎に着くと、早速、海援隊屯所へ赴くも、そこに龍馬の姿は無い。
「坂本さんなら、オランダ商館へ行っちょるぜよ」
その情報を得て、商館へ向かうも龍馬は来てないという。仕方なく、その夜に行われる歓迎の宴まで待つ事とした。
「中座した隙を狙え。但し、正々堂々と、果し合いじゃ」
将策と嘉一郎は、何度も場を想定して、作戦を練っていた。ところがである。宴が始まっても、肝心の龍馬の姿はどこにも無かった。
「あの船は、大洲ではゲド丸と呼ばれて、扱いに困っていた所、正直助かり申す」
「いやいや、我らこそ、船が無くては、仕事になり申さぬ」
宴では、呑気に大洲藩と土佐藩との代表が盃を交わし合っていた。二人は、苦虫を噛む思いで、手酌を繰り返すしかなかった。
そして、宴も終盤に差し掛かった頃であった。
「坂本の居場所が分かりました」
小用で中座した嘉一郎が、偶然聞いたのだった。
「そうか、奴は今、いろは丸に一人でいるのか」
宴の酒を持ってきてくれと、店の者に頼んでいたらしい。恐らく、一人で悦に浸りながら、船で祝杯を挙げるつもりなのだ。
「そうはさせぬぞ!」
二人は示し合わすと、宴席を抜け出し、いろは丸へ駆け出すのだった。
(せめてもの情けだ。船上で、最後を迎えさせてやる)
物騒な事を考えながら、夜道の長崎を掛ける。二人はほどよく酔っていたが、長崎の急な下り坂も、問題なく駆け下りて行く。
六左衛門の死以来、どんなに酒を呑んでも、気持ちだけは冷めていて、頭が酔う事はなかった。その苦い日々も、今夜終える事が出来る。二人は歩を速めた。
港へ着くと、気づかれぬように、灯りを消す。
「井上さん、後ろに」
夜目が利く、嘉一郎の後ろを探るように、少しずつ歩を進める。
「あった!」
暗闇でも、その船が、いろは丸な事はすぐに分かった。甲板に上がると同時に、月明りが船を照らし始める。
「交代じゃ。早く行かんと、宴は終わってしまうけん」
船の見張りの二人に笑顔で声を掛けると、二人は疑う様子もなく、礼を言って去って行った。去って行く前に、龍馬が乗船している事を確認するのも忘れていなかった。
そして、龍馬が居る筈の船長室の扉のノブに手を掛けると、将策は鯉口を切った。そして、後ろを振り返り、嘉一郎に一つ頷く。嘉一郎も、目でそれに応える。
勢いよく戸を開けると、室内に躍り出る。そして、いつでも抜刀出来るように、半身に構えた。
「な、な、なんじゃーっ」
しかし、その声の主は龍馬ではなく、沢村惣之丞であった。
(居ない、気付かれたか?)
「坂本さんはどこだ?」
務めて、穏やかな表情で、将策は声を出した。
「お主らか、驚くぜよ。坂本さんなら、甲板じゃ。友と呑んでくる言うてな」
その言葉を最期まで聞くか、どうかで、二人はその部屋を後にしていた。背後で沢村が何かまだしゃべっていたが、その言葉に耳を貸すゆとりはすでに無かった。二人は甲板に駆けつけると、龍馬の姿を探す。
すると、龍馬の姿はすぐに見つかった。マストの下の操陀場のすぐ近く、船から一番月が拝める所で、一人座って佇んでいた。
その姿を認めると、少しずつ、摺り足で近づいて行く。少しずつ、少しずつ、悟られぬように、慎重にだ。
「これでも呑んで下され。今一度、酒を酌み交わしたかったが、死んでしもうては、それも叶わんぜよ。国嶋殿、貴殿が遺したこの船で、わしがこの国を変えちゃるぜよ。見ちょって下され。頼むきに、見ちょって下され」
龍馬はそう言うと、二つ盃を取り出し、その二つ共に、並々と酒を注ぐ。そして、月に向かって盃を傾けると、一気に中身を飲み干すのだった。
その様子を将策は黙って見ていた。正しくは見惚れていたのだった。そして、そのまま動けないでいた。
「何じゃおんしらは?居るんなら、声掛けんかい」
暗がりで、動けずに立っている二人を見つけた龍馬から、先に声を掛けてきた。
「わしは、目が利かんきに、言うてくれなわからんぜよ。一緒にどうぜ?」
盃を差出しながら、変わらぬ声で、笑顔を見せる龍馬の姿があった。しかし、二人はその声には、すぐに反応出来ずに、その場を動けないでいた。
「やっぱり、わしゃ斬られるがか?痛いんは御免ぜよ」
差し出した盃が、受け取られないのが分かると、龍馬はそのまま自分で、それを一気に空にする。
「北辰一刀流の達人と、勝負を所望する」
振り絞るように、将策はそれを声に出した。そんな将策の目を龍馬はただじっと見つめている。
「わしゃ剣はもうやっちょらんきに、今さら将さんには勝てん」
そう言うと、龍馬は懐に右手を差し込み、何かを取り出す動作をする。将策と嘉一郎は、その動きに警戒する。しかし、次にゴトリという鈍い音と共に、龍馬が床に置いたピストルを見て、二人の緊張は少し緩和される。
「わしは敵ばかりじゃきに、後藤を斬るは容易い。下士たちの溜飲は下がるが、しかしじゃ、土佐藩は内紛じゃきに。そうなればどうなるがぜよ?今、薩摩と長州が幕府を攻めれば、それも国の内紛じゃきに、喜ぶは誰じゃ?外国じゃろが?わしら日本人じゃ!」
龍馬はそう言うと、六左衛門の為に注いだであろう酒の入った盃に手を出し、それも一気に飲み干すのだった。
「土佐藩から、我が藩へ支払われる五百両は、やはりそういう事じゃったか?」
龍馬の言葉を聞いて、将策は刀を持つ左手を放す。
「気づいちょったがか?」
「ああ」
短く答えた将策の後ろで、事態を飲み込めぬ嘉一郎だけが、納得がいかない表情を浮かべていた。
「五百両は、国嶋様が、工面出来んかった代金じゃけん」
その将策の言葉に、嘉一郎はハッとした。五百両という金額は、いろは丸を購入した際に、支払期限を過ぎると、加算される利子の金額と、同額であったからだ。
「罪滅ぼしなどとは思っちょらんき。わしゃ商売をしただけじゃき。食わしていかないかん隊員が居るき」
龍馬はそう言うと、頭を掻き出した。それはまるで、照れ隠しのようであった。将策は、龍馬の前にゆっくりと腰を降ろすと、置いてあった盃を手にし、それを差し出す。それに何も言わず、龍馬は酒を並々と注ぐ。
「赤間関の件は、長州から、貴藩へ伝える手筈じゃったきに」
それは事実であった。元々、長州藩と大洲藩は、親交が深く、赤間関封鎖も友藩には、実施されない事が確認されていた。
「最初から、騙すつもりだったのか?」
将策は、刀の柄に手を掛けたままで、核心を突いた。応え次第では、即座に斬るつもりなのは、明白であった。その場に、再び緊張が走り始めていた。
「ああ、そうじゃ!」
龍馬は、真っ直ぐに将策の目を見据えながら、短く、だが力強い声で答えた。すると、その言葉に反応するように、将策は、腰より白刃を抜くと、龍馬の首にピタリと当てる。
「あの時、この船を買って貰わねば、亀山社中は無くなっておった。後悔はしちょらん。大洲藩にとって、大金な事は分かっちょった。じゃが、この船はええ船ぜよ。この船があれば、絶対に儲ける。じゃから、無理を通した」
龍馬の首に当る白刃より、少しずつ、血が滴り始めていた。しかし、二人はそれを意に介する事もなかった。
「のう、死んだらいかんぜよ。金は儲ければ、返す事が出来る。じゃが、命は一つぜよ。わしゃ、それが悔しい。国嶋殿が死んだ事が、まっこと悔しい」
龍馬はそう言うと、この騒がしい男には似合わないが、静かに涙を流した。そして、それを着物の袖で拭いながら、もう一度、杯を一気に空けるのだった。
将策は、そんな龍馬の様子をじっと見ていた。そして、龍馬が杯を置くと、その首に突き付けた刀を鞘に収めるのだった。
「大事に扱え。それと、君付けは止め。気色の悪い」
将策はそう言うと、注がれたままになっていた杯を手に持ち、一気にそれを飲み干した。そして、空になった盃を憮然とした表情で立ったままの嘉一郎に渡す。しかし、嘉一郎は、その杯を受け取ろうとはしないのだった。
「実はここだけの話しぜよ。わしも君と付けるは、むずがゆいぜよ」
そう言うと、龍馬は身体を掻く仕草をする。それを見た将策に笑みが零れる。
「井上さんが斬らないならば、私が斬ります」
二人の様子に痺れを切らした嘉一郎が、龍馬に斬りかかろうとする。しかし、将策はそれを右手で制したのだった。
「お奉行様がこの男を許せぬのならば、斬ってから自害なされただろう。しかし、それをしなかったのは、恨んでは居られぬからだ。そういう素晴らしい方だった。我らの師は…」
将策はずっと考え続けていたのだ。六左衛門の死に様は、悲劇でありながらも、他者を貶める事や、恨み言一つ残さない見事なものだった。
本当は、この龍馬や、伍代や、藩の分からず屋の重臣共に、言いたい事が山ほどあった筈なのにだ。
しかし、一つの愚痴をこぼす事もなく、全てを自分一人だけの責任とする事で、他の誰も傷つかないようにする為に、腹を切ったのだろう。
だとすれば、自分がもし龍馬を斬ってしまえば、その武士としての誇りある死に、傷をつける事になりはしないだろうかと。
「嘉一郎、口惜しいのは分かる。だが、この男が、この国に必要だと国嶋様は思われたのだ。きっと。じゃけん、わしは斬らん。今はな。しかし、もしも国嶋様のお命を汚すような事をするならば、その時は、お主が止めようと、わしが斬るけん」
将策は、そう言うと、空のまま受け取られない杯を無理やり嘉一郎の手に握らせる。
「私も許した訳ではない」
注がれた酒を飲み干すと、嘉一郎はそれだけを言った。これには龍馬も、苦笑するしかなかった。
「わかっちゅう。皆、わかっちゅうきに」
龍馬は、命を救われたと感じていた。今夜、自分は一度死んだのかもしれないとも。
その無くなった命に、もう一度、命を吹き込むように、龍馬の杯に将策が酒を注ぐ。そして、それを当たり前のように、龍馬は一気に飲み干すのだった。
「なんじゃ?皆で呑んどるがぜ?わしゃ呼ばれちょらんぜよ」
三人の緊迫した様子に、全く気付かない惣之丞が、奥の部屋よりやって来た。それを合図に三人は笑った。
何故か腹の底から笑えた。そして、幾日ぶりかの、本当に酔える酒を堪能するのだった。
「わしゃ蝦夷に新しい国を拓くきに、将さんもいつか、一緒に行こうぜよ」
「ああ、まずは国中を変えねばならんな。その為にもな」
この夜は、様々な事を語り合った。その大半は、若者が描く与太話であったかもしれない。しかし、皆その眼は輝いていた。
それから三ヶ月後の慶応三年四月十九日の早朝、龍馬率いる海援隊が操舵する、最初の航海を迎えようとしていた。長崎より出航し、目指すは大坂である。
「達者での」
「そっちものう」
龍馬と将策は固い握手を交わした。これからの両藩の前途を祝っての船出である。
「さあ出航ぜよ!」
意気揚々と出航する海援隊の面々と、それを見送る将策ら、大洲藩の者達。そのすべての者達が、これより起こる悲劇を、知る由は無かったのであった。
0
あなたにおすすめの小説
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる