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第九章~革命~
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一
将策の下へ、その驚くべき報が届いたのは、四月三十日になってからであった。
いろは丸は、四月二十三日の夜半に、瀬戸内海の鞆(とも)沖(おき)にて、紀州藩所属の明光丸と衝突し、大破沈没してしまったのである。
衝突の原因は、夜に発生した濃霧にあった。紀州藩の明光丸は、いろは丸の約五倍以上も大きな巨大蒸気船であった。
その船が、濃霧で視界が利かない状態だったとはいえ、明光丸の船首部分が、いろは丸の右舷目掛けて、激突したのである。
しかも、明光丸は、激突後に一旦後退した後に、操舵を謝り、もう一度、いろは丸に向かって前進してしまい、二度衝突してしまったのだ。この二度目の衝突が、いろは丸が、大破沈没する直接の原因になった事は、間違いない事実だっただろう。
いろは丸は、大破したが、明光丸は、微傷で済んだ。いろは丸に乗っていた龍馬以下、海援隊の三十四名は、明光丸に移り、一人の死者も出なかった事だけが幸いであった。
そして、沈みゆくいろは丸の最後を見届けた一行が、備後鞆港へ入港したのは、明けて午前八時頃だったという。
「わしらは、積荷を全て失い申した。二度も衝突されて、あれが無けりゃ、沈んじょらん」
明光丸艦長の高柳楠之助と、坂本龍馬との談判は、その日の午後より行われた。龍馬は、船と積み荷の賠償を全て補填して貰いたいと申し出て、衝突の原因全てが、相手側にあると主張したのだ。
「冗談ではない」
紀州藩の高柳楠之助は、不快感を露わにしていた。楠之助は、紀州藩の家老職にある安藤家に連なる者で、伊東玄朴に蘭学を学び、函館で英語と航海術を修めた秀才であった人物だ。
長らく、万国公法を龍馬が持ち出し、世界の事情に疎かった紀州藩が悪者とされてきたが、最初に万国公法を持ち出したのは、楠之助の方だったという説もある。
龍馬に対する楠之助の持論は明快であった。衝突時にいろは丸は、舷灯を付けていなかった。
そして、明光丸が最初にいろは丸を視認した時に、右舷回頭にて衝突を避けようとしたが、対するいろは丸側が左舷した為に、いろは丸の右舷へ突っ込む形となったのであった。
国際法上で言えば、灯りを付ける事と、衝突回避行動は、右舷する事は、常識であったから、楠之助は、双方五分五分であると主張したのだった。
そして、この談判は三日間続いたが、両者の言い分が平行線を辿り、紀州藩側が、龍馬らを置き去りにする形で、長崎に出航してしまったので、一時中断してしまう。だが、この紀州藩側の行動が、その後の両者を決定づける事になる。
諦めきれない海援隊側が、明光丸側を追いかける形で、長崎に帰着したのは、五月十三日になってからであった。
船と共に沈んでしまった積荷を調べ、また海援隊の事務長とも言うべき、長岡謙吉を談判の時に同伴させて、内容を記録し、その旨を紀州藩側にも確認を逐一取るなど余念がなかった。
龍馬は、長府藩の三吉慎蔵に、自分にもしもの事があれば、妻のおりょうを土佐の実家へ送り届けてくれるように、手紙を遺している。
三吉慎蔵とは、長州藩から龍馬の護衛役として付けられた槍術の達人で、寺田屋にて龍馬が幕吏に襲われた際も、命懸けで龍馬を助けた人物である。
龍馬は、この手紙に形見分けのつもりだったのか、当時としては珍しい、望遠鏡と時計を添えて渡している。龍馬は、死を覚悟していたのだろう。
海援隊は、紀州藩との談判を一つの合戦と捉えていたようであったが、弱体化し始めているとはいえ、紀州藩は、徳川御三家の一つで、五十五万国の大大名の家柄である。
土佐藩の後ろ盾があるとはいえ、普通ならば、浪人集団の隊長に過ぎない坂本龍馬が、相手を出来る筈ではなかっただろう。
長崎に戻った龍馬は、まず土佐藩の参政である後藤象二郎へ事の次第を報告し、対応を協議している。
後藤は、自分の秘書官で藩の勘定方を任せている岩崎弥太郎をすでに長崎に呼び寄せていた。龍馬と対面した弥太郎は、そこで、驚くべき提案をした。
「積荷を水増しすればいいがじゃ」
つまりは、紀州藩相手に、賠償額を吹っかけろというのだ。そこで龍馬は、土佐藩公の命により、銃器と金塊を運んでいたと主張したのだ。
後年の沈没船の調査で、龍馬の主張した積荷の痕跡が見つからなかった事が、近年明らかとなっている。
そして、いろは丸の持ち主である大洲藩にも、連絡しないといけなかった。大洲藩のいろは丸船長は、玉井俊次郎という人物であったが、この男は名ばかりの船長でしかなかった。報せを聞いた玉井は、
「困った事となった」
と繰り返すばかりで埒が明かない。しかし、もしもの時は土佐藩より、修理か代船か、補填される約束であるから、ゲド丸をいっそ、帆前船にでもして、返してくれた方がいいなどと言う始末であった。
「冗談じゃないけん。あの船は、国嶋様が命懸けで守った船ぞ」
玉井の呑気な対応に、将策が激怒して、詰め寄るのを慌てて、嘉一郎に制止される始末であった。
「まっことすまんきに。必ず仇は取っちゃるきにのう」
再会した龍馬は、しきりにそう言ってくる。そして、大洲藩に迷惑を掛けた事を気にして、オランダ商館より帆船を斡旋し、大洲藩に渡している。大洲藩では、これを洪福丸と名付けて、交易船としたのだった。
長崎でも談判は何度も行われたが、埒は明かなかった。そこで、土佐藩では、参政の後藤象二郎が代表となり、紀州藩でも勘定奉行の茂田一次郎を据えて、再交渉に臨んだのだが、日本で初めての蒸気船同士の衝突事故であったから、前例がなく、交渉は難を極めた。
紀州藩は、御三家の威光を持って、長崎奉行所へ働きかけ、何とか自藩が有利になるよう裏工作を始めた。それを知った龍馬ら海援隊は、
「船を沈めた償いに、金を取らずに国を盗る」
という謡を作って、長崎の街中で歌い続けたのだ。これで長崎の民衆を味方につけ、自分達が被害者である事を印象づける世論操作をしてみせたのだ。
そして、船を沈められたいろは丸の乗組員を置き去りにして、長崎に来た事も、世論を味方に付ける結果となっていた。
これが功を奏し、世論を敵に回してしまった紀州藩側は、態度を急に軟化させ始めると、薩摩藩の伍代友厚に、解決の斡旋を依頼したのだった。そこで伍代が提案した事は、この長崎にある各国の商館代表者に意見を聞いて、裁定するというのだ。
しかし、これはすでに、龍馬が伍代や、旧知のイギリス商人トーマス・グラバーらを介して仕掛けた罠であった。
グラバーより紹介された英国海軍提督などが味方についた各国の裁定は、土佐藩有利に働き、事故の原因は、紀州藩にあると決定した。
賠償金は紀州藩より、土佐藩へ七万両という大金が支払われる事で決着したのだった。いろは丸沈没から、約一ヶ月後の事である。
「これで、国嶋殿も浮かばれるきのう」
龍馬はそう言って将策に語りかけた。将策も本当にそうだと思った。
しかし、この七万両という人を狂わすに相応しい大金が、龍馬の人生を決定づけた。その事を知る者は、まだ誰も居なかったのであった。
二
いろは丸を失った大洲藩では、急速に海運事業を縮小する動きとなっており、その影響で、将策と嘉一郎らも帰藩を命じられ、一度大洲へ帰る事となっていた。
大洲へ着いて、すぐ元の新撰隊を再び率いる事を命じられて、将策は、すぐに隊士四十名を招集した。その目的は、京都警護である。
上京するための準備に奔走する忙しい日々であったが、その束の間の刻に、ある慶び事を祝う為、五十崎村を訪れる事となった。
「徳さん、おまささん、この度は、おめでとう御座いまする」
「よせよ、将さん改まって」
「あら、改まった席ですよ」
「おまささん、その通りじゃけん」
徳太郎とおまさの顔を見て、自然と笑みが零れる。二人の婚儀は慎ましいが、温かみのある良い式だと、将策は思っていた。
「わしだけ幸せになって、死んだ者達は、どう思うかのう…」
将策だけに本心を語る徳太郎の気持ちを将策は理解していた。しかし、同時に幼馴染の許嫁を亡くしたおまさを放っておけない徳太郎の性分も分かっていたのだ。
「ところでの、将さんの耳に入れときたい事がある」
徳太郎はそう言うと、宴会が始まり、唄い呑む人々を背に、縁側に二人腰を掛ける。
「何?それは本当か?」
徳太郎の発した言葉に、将策は色を失った。徳太郎は言ったのだ。永田権右衛門は生きていると。
「五十崎村を通り、どうやら土佐藩へ向かう所を遠目じゃが、直に見たけん」
確かにあの時、将策が斬った後、階段から転げ落ちた権右衛門の姿は、消えたままであった。
大洲藩による探索が行われたが、ついに発見はされなかったのだ。将策は、あの時、権右衛門が最後の力を振り絞り、川へ落ちて流されたのを仲間の佐幕派の者たちが回収し、密かに葬ったと考えていたのだ。
しかし、その権右衛門が生きているという。
「見間違いではないのか?」
「しっかりと眉に傷があって、あの鋭い眼光じゃ。見間違える筈はないけん。それに…」
後で近隣の者に聞いたところによると、その男に求められて、飲み水をあげた際に、手ぬぐいで身体を拭き初め、胸に大きな刀傷があるのを見ていたのだった。
(間違いない!権右衛門は生きていた。深手を負わせたので、今までどこかで匿われて、傷の養生をしていたのを戻ってきたに違いない!)
将策は、権右衛門が今どこに居て、何をしようとしているかを考え始めた。しかし、それには情報が少なすぎる。答えはすぐに出そうにはなかった
「おい、入舩じゃ、入舩が来たぞ!」
将策の思考は、外からの大声に掻き消された。入舩とは、この地域特有の風習で、婚儀の際に、川より船を一艘、陸に上げて、その下に、車輪や丸太を敷いて、婚儀のある家まで、牽いていくのである。
時には、道の狭い山間の家などには、男達が船を担いで、その家に行くのである。村の男達が総出でその船を引きながら、村中を練り歩き、入舩じゃ!入舩じゃ!と呼ばわるのである。
そうすると、それを見た村の人々が、そこに婚儀の為の祝いの品を入れていくのだ。そして、船が婚儀の家に着く頃には、船にはいっぱいの祝いの品で溢れる事となったのである。
この風習は、或いは、七福神宝の入舩を模した物だったかもしれない。徳太郎の母の生家は、この入舩という風習の村元締であったようである。
「今回はえらい集まったな!」
「皆様、本日は数々の祝いの品々をありがとうございまする。これにて、皆様と村々の御多幸をお祈り申し上げる」
入舩には、その者の仁徳が現れるという。どれだけ祝いの品が集まるのかで、婚儀の家や、新郎新婦がどういった人なのか分かるという事だろう。
新郎か、その家の当主が締めの挨拶をして、式は終わりを告げる。将策は、友の為に集まった溢れるばかりの祝いの品を見て、誇らしい気持ちになるのだった。
婚礼の数日後、将策は新選隊を率いて、再び船上に居た。この日は濃い霧が辺りを包み、船の出発を遅らせていたのだ。この長浜湾より、目指すは京の都である。その傍らには、当たり前のように嘉一郎の姿もあった。
「隊長、見て下さい」
隊士の一人が指す方向には、この時期に見える肱川あらしが発生していた。その幻想的な霧の海を渡って、海原に出る夢想をついしたくなる。そんな肱川あらしであった。
「何度も見ていますが、今回は格別ですね」
横で嘉一郎が感嘆の声をあげる。将策も同じ気持ちであった。これより、戦場へ向かうのだ。まだ戦になると決まった訳ではないが、その決意が、侍には必要な非常の刻であるのは確かな事であった。
(次に見られるのは、いつになるのだろう…)
そう思いながら、将策は船が出発出来る時を最後になるかもしれない、肱川あらしの流れる霧を眺めて考えているのだった。
三
慶応三年六月九日、いろは丸沈没事件が落着した龍馬は、後藤象二郎らと供に、土佐藩の汽船夕顔丸に乗船すると長崎を起った。京に向かうためである。
その船上で、兵庫に至る辺りで、今後の新国家体制の綱領を記した船中八策を起草している。上洛していた前土佐藩主の山内容堂に、大政奉還を進言する為でもあった。
最初、土佐藩では、薩摩藩と同盟を結んで、この大政奉還を成功させようと動いていた。
しかし、倒幕を主論とする薩摩藩では、この大政奉還を幕府側が拒否した際の餌としようとしていた節があり、あくまで戦を避けて、幕府と諸大名とが朝廷と一体となって、合議制で政を進める事を目指す土佐藩とでは、思惑に差が出来てしまった。
そして、土佐藩兵を上洛させる事を山内容堂が拒否した為、薩土同盟は、すぐに解消されてしまった。これにより、土佐藩は一藩の藩論として、大政奉還案を将軍慶喜に建白する事としたのだった。
そして、この頃の龍馬だが、大政奉還実現に向けて、忙しい日々を正に奔走し続けている。
龍馬が短い生涯の内に移動した距離は、およそ地球一周分と言われており、慶応三年だけに限定しても、長崎‐下関-長崎‐備前沖‐下関‐長崎‐下関‐大坂‐京都‐兵庫‐土佐須崎‐下関‐長崎‐下関‐高知‐大坂‐京都‐福井‐京都となっており、彼の人生の最後五年間だけで四万キロを超える。
幕末の志士の活動家でも、ここまで活発的に行動している人物は、余りいないだろう。龍と馬の名に恥じず、正に東奔西走、南船北馬であった。
この時期、朝廷守護の為に上洛していた将策は、京都に来ていた龍馬を訪ねた。
「将さん、久しぶりじゃ、こっちに居るは、土佐の中岡慎太郎じゃ」
中岡慎太郎は、井上将策の一つ年上で、慶応三年六月に発足した陸援隊隊長を務める人物である。
「大洲藩の御仁か、宜しくお願い致す」
慎太郎は、その清廉実直な性格を現したかのような挨拶をしてくれた。
「我が大洲藩も貴藩と同じく、勤皇倒幕の為、尽力する所存です」
将策の挨拶に、慎太郎は龍馬と顔を見合わせて、苦笑いを浮かべる。それを見て、将策の横に居た嘉一郎は、怪訝な顔をするも龍馬と目を合わせて、慌てて逸らす。
「嘉一郎さんは、まだ怒っちょるがか?そんな顔しとらんと、一緒に呑もうぞ」
その言葉に場が忽ち笑いに溢れる。龍馬の場を和ませ、一瞬にして変えてしまう力を将策は感じるのだった。
「土佐の殿様は、まだはっきりせんのかい?」
幾分か酔いが廻った頃に、将策が切り出した言葉に、坂本龍馬と中岡慎太郎という土佐を代表する豪傑二人が言葉を失ってしまう。
そうであった。藩の実権を握る前藩主の山内容堂は、酔えば勤皇、醒めれば佐幕と揶揄された人物で、この時代の大名の中では、抜きん出た聡明さを持っていたが、その生涯は、徳川と朝廷を思想的に行ったり来たりに終始する人生だったと言える。
山内家は元々、掛川の小大名に過ぎなかったのを関ヶ原合戦において、居並ぶ諸大名の中で、初代一豊が、家康に最初に忠誠を誓った功で、土佐一国の大大名に出世した経緯があった。
これを以って、山内家では、代々を徳川家に変わらぬ恩顧を持って、報いるべしとしており、言わば家訓であった。
そうである大名であるから、時勢として、天皇中心の世の中に代えて、幕府を廃止する事を容堂も頭では分かっていた筈であった。
しかし、気持ちとして、幕府が可哀想だろうという考えが拭えないのである。薩摩、長州のように、幕府を武力で潰す倒幕ではなく、平和裏に幕府廃止を進め、朝廷を中心とした合議制に移行したいとは、容堂の場合は、政治的な方法論と言うよりも、人情の部分が大きかったように思うのだ。
そこに、後藤象二郎が大政奉還案を伝えた時、飛びつくようにそれに乗り、土佐藩の藩論として、幕府に提出したのである。後藤象二郎は、大政奉還案が郷士である坂本龍馬の案であるという事を口外しなかった。
「そうじゃ、井上さん。おんしゃからも言うてくれ。このままじゃ、薩長に見捨てられるぞ。どちらにせよ、幕府は武力で叩いとかないかんがじゃ」
慎太郎は、そう言うと、注いである酒を一気に飲み干した。
「わかっちょるぜよ。ただな、外国にこれ以上突け入る口実を与えたらいかんぜよ。そん為には、戦は起こしても、小さく終わらせんといかんがじゃ」
一時、倒幕の為に結ばれた薩土同盟も、両藩の考え方の違いから、解消されていた。先に薩長同盟を結ばせ、次に薩土盟約を実現させた両雄にとって、これは誤算であった。
「こっちから攻めたらいかんき」
龍馬は言わば、公議政体と言われる、帝の元、幕府と藩に変わる有志による議会制度を確立し、多数の合意によって、政治を進める現在の政治体制の基礎となる事を考えていた。
しかし、盟友の慎太郎は、そんな龍馬の考えを夢想だと思い、現実的に倒幕後、功績の有った有志を集めて、朝廷中心の議会制を考えていたのだった。
「大政奉還なんぞ、幕府が飲むはずないが」
「分からぬぞ。慶喜は飲むかもしれんきに」
そう言うと、両者同時に杯を空にする。土佐では、注がれた酒は一気に飲み干すのが当たり前であった。将策も酒を嗜む方であったが、土佐出身者には敵わなかった。
「龍さんは、世の中が変わったら何をするんぜ?」
心地良く酔いが廻った将策が龍馬に問う。この決して、型に嵌らない武士としては、変わり者過ぎる男の本心を一度聞いて起きたかったからだ。
「わしゃ、世界を見て周りたい。良い物を仕入れて、必要とする者に売る。世界相手に商いをするがじゃ。将さんはどうぜ?」
将策は不意に言葉を失った。聞く事に集中して、自分が問いかけられる事を想定してなかったからであった。
「分からん。分からんが世が平になったなら、その時に何もしたい事が無かったなら、蝦夷に渡って、牛を育てるけん」
「そりゃええぞ、将さん。それはいい」
何も深く考えた言葉では無かったが、それがかえって、龍馬の心に刺さったようであった。
「その時は、私もお供しますから」
「嘉一郎には、まず牛の乳の絞り方を教えるけん」
からかうように将策が言うと、嘉一郎が露骨に嫌な顔をする。その顔を見て、他の三人は大いに笑うのだった。
「そう言えば、この間、幕府の永井尚志殿にお会いした時、大洲藩出身の男が側に居ってな。護衛役を兼ねて、目の鋭い、片眉に大傷のある男じゃった。知っちょるか?えらい睨むきに、気になってな」
慎太郎が話した言葉に将策も嘉一郎も色を失った。権右衛門の可能性を考えたからであった。
慎太郎の話しによれば、幕府直臣の子弟で構成された京都見廻り組は、この時期になると人手不足から、佐幕の志がある身元が確かな浪士を雇う事があったらしい。
徳太郎の話し通りに、永田権右衛門が生きていれば、京に居てもおかしくは無かった。
「奴だとしたら、何をしに京へ?」
この嘉一郎の問いは、いささか的が外れていたかもしれない。志士もただの浪士も京を目指すというのは、この時代の武士の共通認識のような物であったからだ。
若者が都会に憧れるように、或いは、何の思想や哲学も無いが、ただ腕を試したい者もいれば、会った事もない帝の為に、本気で命を捨てて、惜しまない者まで様々であったが、脱藩した者を探すには、まずは京を調べるべきであった。
「龍さん、あんた命を狙われとるかもしれんけん」
「そうじゃ、貴様は今や、薩長からも幕府からも狙われとるぜよ」
将策は、笑う龍馬と慎太郎の気持ちにはなれなかった。大洲で権右衛門が駒吉との連絡に使っていた(龍)の字は、もしや、この坂本龍馬を指していたのではなかっただろうかと。
「いずれによせ、命は惜しめよ龍さん」
「将さんもな」
四人は酒宴の最期に、一気に杯を飲み干した。美味い酒であった。そして、これが、将策と龍馬が、酒を酌み交わした最期の夜になるのである。
慶応三年十月十三日、征夷大将軍徳川慶喜は、二条城において、土佐藩より建白された大政奉還の是非を問う為、各雄藩の代表者に諮問を行った。
そして、土佐藩の代表としては、参政の後藤象二郎が登城している。元々、大政奉還とは、朝廷より幕府が政権を委任されているという考えより起こった考えであった。
龍馬は、登城する後藤に対して、もしも不首尾であったならば、後藤先生は腹を斬る筈であるから、その場合は、海援隊で、将軍を襲うつもりである。地下で会おう。
という決死の覚悟を書状に記して、発奮を促している。各諸藩の諮問の後、薩摩、芸州、備前、宇和島、土佐の五藩代表者と、将軍慶喜は、その場に残って膝詰めの談判に及んでいる。
その場で、後藤象二郎は緊張の余りに、成程、額に首筋の流汗、甚だしいかぎりと記録される大汗をかきながら熱弁を奮った。
無理もない。徳川家が将軍となってから、将軍が陪臣と、わずか三尺の距離で、公式に話す機会など初めての事で、そして最期の時であった。
そして、翌十月十四日に、将軍慶喜が大政奉還を朝廷に奏請し、翌十五日に明治帝より、勅許の詔が発せられ、正式に大政奉還が成ったのであった。
これにより、神君家康以来より数えて、二百六十五年の徳川幕府は、その歴史に終止符を打ったのであった。
将策の下へ、その驚くべき報が届いたのは、四月三十日になってからであった。
いろは丸は、四月二十三日の夜半に、瀬戸内海の鞆(とも)沖(おき)にて、紀州藩所属の明光丸と衝突し、大破沈没してしまったのである。
衝突の原因は、夜に発生した濃霧にあった。紀州藩の明光丸は、いろは丸の約五倍以上も大きな巨大蒸気船であった。
その船が、濃霧で視界が利かない状態だったとはいえ、明光丸の船首部分が、いろは丸の右舷目掛けて、激突したのである。
しかも、明光丸は、激突後に一旦後退した後に、操舵を謝り、もう一度、いろは丸に向かって前進してしまい、二度衝突してしまったのだ。この二度目の衝突が、いろは丸が、大破沈没する直接の原因になった事は、間違いない事実だっただろう。
いろは丸は、大破したが、明光丸は、微傷で済んだ。いろは丸に乗っていた龍馬以下、海援隊の三十四名は、明光丸に移り、一人の死者も出なかった事だけが幸いであった。
そして、沈みゆくいろは丸の最後を見届けた一行が、備後鞆港へ入港したのは、明けて午前八時頃だったという。
「わしらは、積荷を全て失い申した。二度も衝突されて、あれが無けりゃ、沈んじょらん」
明光丸艦長の高柳楠之助と、坂本龍馬との談判は、その日の午後より行われた。龍馬は、船と積み荷の賠償を全て補填して貰いたいと申し出て、衝突の原因全てが、相手側にあると主張したのだ。
「冗談ではない」
紀州藩の高柳楠之助は、不快感を露わにしていた。楠之助は、紀州藩の家老職にある安藤家に連なる者で、伊東玄朴に蘭学を学び、函館で英語と航海術を修めた秀才であった人物だ。
長らく、万国公法を龍馬が持ち出し、世界の事情に疎かった紀州藩が悪者とされてきたが、最初に万国公法を持ち出したのは、楠之助の方だったという説もある。
龍馬に対する楠之助の持論は明快であった。衝突時にいろは丸は、舷灯を付けていなかった。
そして、明光丸が最初にいろは丸を視認した時に、右舷回頭にて衝突を避けようとしたが、対するいろは丸側が左舷した為に、いろは丸の右舷へ突っ込む形となったのであった。
国際法上で言えば、灯りを付ける事と、衝突回避行動は、右舷する事は、常識であったから、楠之助は、双方五分五分であると主張したのだった。
そして、この談判は三日間続いたが、両者の言い分が平行線を辿り、紀州藩側が、龍馬らを置き去りにする形で、長崎に出航してしまったので、一時中断してしまう。だが、この紀州藩側の行動が、その後の両者を決定づける事になる。
諦めきれない海援隊側が、明光丸側を追いかける形で、長崎に帰着したのは、五月十三日になってからであった。
船と共に沈んでしまった積荷を調べ、また海援隊の事務長とも言うべき、長岡謙吉を談判の時に同伴させて、内容を記録し、その旨を紀州藩側にも確認を逐一取るなど余念がなかった。
龍馬は、長府藩の三吉慎蔵に、自分にもしもの事があれば、妻のおりょうを土佐の実家へ送り届けてくれるように、手紙を遺している。
三吉慎蔵とは、長州藩から龍馬の護衛役として付けられた槍術の達人で、寺田屋にて龍馬が幕吏に襲われた際も、命懸けで龍馬を助けた人物である。
龍馬は、この手紙に形見分けのつもりだったのか、当時としては珍しい、望遠鏡と時計を添えて渡している。龍馬は、死を覚悟していたのだろう。
海援隊は、紀州藩との談判を一つの合戦と捉えていたようであったが、弱体化し始めているとはいえ、紀州藩は、徳川御三家の一つで、五十五万国の大大名の家柄である。
土佐藩の後ろ盾があるとはいえ、普通ならば、浪人集団の隊長に過ぎない坂本龍馬が、相手を出来る筈ではなかっただろう。
長崎に戻った龍馬は、まず土佐藩の参政である後藤象二郎へ事の次第を報告し、対応を協議している。
後藤は、自分の秘書官で藩の勘定方を任せている岩崎弥太郎をすでに長崎に呼び寄せていた。龍馬と対面した弥太郎は、そこで、驚くべき提案をした。
「積荷を水増しすればいいがじゃ」
つまりは、紀州藩相手に、賠償額を吹っかけろというのだ。そこで龍馬は、土佐藩公の命により、銃器と金塊を運んでいたと主張したのだ。
後年の沈没船の調査で、龍馬の主張した積荷の痕跡が見つからなかった事が、近年明らかとなっている。
そして、いろは丸の持ち主である大洲藩にも、連絡しないといけなかった。大洲藩のいろは丸船長は、玉井俊次郎という人物であったが、この男は名ばかりの船長でしかなかった。報せを聞いた玉井は、
「困った事となった」
と繰り返すばかりで埒が明かない。しかし、もしもの時は土佐藩より、修理か代船か、補填される約束であるから、ゲド丸をいっそ、帆前船にでもして、返してくれた方がいいなどと言う始末であった。
「冗談じゃないけん。あの船は、国嶋様が命懸けで守った船ぞ」
玉井の呑気な対応に、将策が激怒して、詰め寄るのを慌てて、嘉一郎に制止される始末であった。
「まっことすまんきに。必ず仇は取っちゃるきにのう」
再会した龍馬は、しきりにそう言ってくる。そして、大洲藩に迷惑を掛けた事を気にして、オランダ商館より帆船を斡旋し、大洲藩に渡している。大洲藩では、これを洪福丸と名付けて、交易船としたのだった。
長崎でも談判は何度も行われたが、埒は明かなかった。そこで、土佐藩では、参政の後藤象二郎が代表となり、紀州藩でも勘定奉行の茂田一次郎を据えて、再交渉に臨んだのだが、日本で初めての蒸気船同士の衝突事故であったから、前例がなく、交渉は難を極めた。
紀州藩は、御三家の威光を持って、長崎奉行所へ働きかけ、何とか自藩が有利になるよう裏工作を始めた。それを知った龍馬ら海援隊は、
「船を沈めた償いに、金を取らずに国を盗る」
という謡を作って、長崎の街中で歌い続けたのだ。これで長崎の民衆を味方につけ、自分達が被害者である事を印象づける世論操作をしてみせたのだ。
そして、船を沈められたいろは丸の乗組員を置き去りにして、長崎に来た事も、世論を味方に付ける結果となっていた。
これが功を奏し、世論を敵に回してしまった紀州藩側は、態度を急に軟化させ始めると、薩摩藩の伍代友厚に、解決の斡旋を依頼したのだった。そこで伍代が提案した事は、この長崎にある各国の商館代表者に意見を聞いて、裁定するというのだ。
しかし、これはすでに、龍馬が伍代や、旧知のイギリス商人トーマス・グラバーらを介して仕掛けた罠であった。
グラバーより紹介された英国海軍提督などが味方についた各国の裁定は、土佐藩有利に働き、事故の原因は、紀州藩にあると決定した。
賠償金は紀州藩より、土佐藩へ七万両という大金が支払われる事で決着したのだった。いろは丸沈没から、約一ヶ月後の事である。
「これで、国嶋殿も浮かばれるきのう」
龍馬はそう言って将策に語りかけた。将策も本当にそうだと思った。
しかし、この七万両という人を狂わすに相応しい大金が、龍馬の人生を決定づけた。その事を知る者は、まだ誰も居なかったのであった。
二
いろは丸を失った大洲藩では、急速に海運事業を縮小する動きとなっており、その影響で、将策と嘉一郎らも帰藩を命じられ、一度大洲へ帰る事となっていた。
大洲へ着いて、すぐ元の新撰隊を再び率いる事を命じられて、将策は、すぐに隊士四十名を招集した。その目的は、京都警護である。
上京するための準備に奔走する忙しい日々であったが、その束の間の刻に、ある慶び事を祝う為、五十崎村を訪れる事となった。
「徳さん、おまささん、この度は、おめでとう御座いまする」
「よせよ、将さん改まって」
「あら、改まった席ですよ」
「おまささん、その通りじゃけん」
徳太郎とおまさの顔を見て、自然と笑みが零れる。二人の婚儀は慎ましいが、温かみのある良い式だと、将策は思っていた。
「わしだけ幸せになって、死んだ者達は、どう思うかのう…」
将策だけに本心を語る徳太郎の気持ちを将策は理解していた。しかし、同時に幼馴染の許嫁を亡くしたおまさを放っておけない徳太郎の性分も分かっていたのだ。
「ところでの、将さんの耳に入れときたい事がある」
徳太郎はそう言うと、宴会が始まり、唄い呑む人々を背に、縁側に二人腰を掛ける。
「何?それは本当か?」
徳太郎の発した言葉に、将策は色を失った。徳太郎は言ったのだ。永田権右衛門は生きていると。
「五十崎村を通り、どうやら土佐藩へ向かう所を遠目じゃが、直に見たけん」
確かにあの時、将策が斬った後、階段から転げ落ちた権右衛門の姿は、消えたままであった。
大洲藩による探索が行われたが、ついに発見はされなかったのだ。将策は、あの時、権右衛門が最後の力を振り絞り、川へ落ちて流されたのを仲間の佐幕派の者たちが回収し、密かに葬ったと考えていたのだ。
しかし、その権右衛門が生きているという。
「見間違いではないのか?」
「しっかりと眉に傷があって、あの鋭い眼光じゃ。見間違える筈はないけん。それに…」
後で近隣の者に聞いたところによると、その男に求められて、飲み水をあげた際に、手ぬぐいで身体を拭き初め、胸に大きな刀傷があるのを見ていたのだった。
(間違いない!権右衛門は生きていた。深手を負わせたので、今までどこかで匿われて、傷の養生をしていたのを戻ってきたに違いない!)
将策は、権右衛門が今どこに居て、何をしようとしているかを考え始めた。しかし、それには情報が少なすぎる。答えはすぐに出そうにはなかった
「おい、入舩じゃ、入舩が来たぞ!」
将策の思考は、外からの大声に掻き消された。入舩とは、この地域特有の風習で、婚儀の際に、川より船を一艘、陸に上げて、その下に、車輪や丸太を敷いて、婚儀のある家まで、牽いていくのである。
時には、道の狭い山間の家などには、男達が船を担いで、その家に行くのである。村の男達が総出でその船を引きながら、村中を練り歩き、入舩じゃ!入舩じゃ!と呼ばわるのである。
そうすると、それを見た村の人々が、そこに婚儀の為の祝いの品を入れていくのだ。そして、船が婚儀の家に着く頃には、船にはいっぱいの祝いの品で溢れる事となったのである。
この風習は、或いは、七福神宝の入舩を模した物だったかもしれない。徳太郎の母の生家は、この入舩という風習の村元締であったようである。
「今回はえらい集まったな!」
「皆様、本日は数々の祝いの品々をありがとうございまする。これにて、皆様と村々の御多幸をお祈り申し上げる」
入舩には、その者の仁徳が現れるという。どれだけ祝いの品が集まるのかで、婚儀の家や、新郎新婦がどういった人なのか分かるという事だろう。
新郎か、その家の当主が締めの挨拶をして、式は終わりを告げる。将策は、友の為に集まった溢れるばかりの祝いの品を見て、誇らしい気持ちになるのだった。
婚礼の数日後、将策は新選隊を率いて、再び船上に居た。この日は濃い霧が辺りを包み、船の出発を遅らせていたのだ。この長浜湾より、目指すは京の都である。その傍らには、当たり前のように嘉一郎の姿もあった。
「隊長、見て下さい」
隊士の一人が指す方向には、この時期に見える肱川あらしが発生していた。その幻想的な霧の海を渡って、海原に出る夢想をついしたくなる。そんな肱川あらしであった。
「何度も見ていますが、今回は格別ですね」
横で嘉一郎が感嘆の声をあげる。将策も同じ気持ちであった。これより、戦場へ向かうのだ。まだ戦になると決まった訳ではないが、その決意が、侍には必要な非常の刻であるのは確かな事であった。
(次に見られるのは、いつになるのだろう…)
そう思いながら、将策は船が出発出来る時を最後になるかもしれない、肱川あらしの流れる霧を眺めて考えているのだった。
三
慶応三年六月九日、いろは丸沈没事件が落着した龍馬は、後藤象二郎らと供に、土佐藩の汽船夕顔丸に乗船すると長崎を起った。京に向かうためである。
その船上で、兵庫に至る辺りで、今後の新国家体制の綱領を記した船中八策を起草している。上洛していた前土佐藩主の山内容堂に、大政奉還を進言する為でもあった。
最初、土佐藩では、薩摩藩と同盟を結んで、この大政奉還を成功させようと動いていた。
しかし、倒幕を主論とする薩摩藩では、この大政奉還を幕府側が拒否した際の餌としようとしていた節があり、あくまで戦を避けて、幕府と諸大名とが朝廷と一体となって、合議制で政を進める事を目指す土佐藩とでは、思惑に差が出来てしまった。
そして、土佐藩兵を上洛させる事を山内容堂が拒否した為、薩土同盟は、すぐに解消されてしまった。これにより、土佐藩は一藩の藩論として、大政奉還案を将軍慶喜に建白する事としたのだった。
そして、この頃の龍馬だが、大政奉還実現に向けて、忙しい日々を正に奔走し続けている。
龍馬が短い生涯の内に移動した距離は、およそ地球一周分と言われており、慶応三年だけに限定しても、長崎‐下関-長崎‐備前沖‐下関‐長崎‐下関‐大坂‐京都‐兵庫‐土佐須崎‐下関‐長崎‐下関‐高知‐大坂‐京都‐福井‐京都となっており、彼の人生の最後五年間だけで四万キロを超える。
幕末の志士の活動家でも、ここまで活発的に行動している人物は、余りいないだろう。龍と馬の名に恥じず、正に東奔西走、南船北馬であった。
この時期、朝廷守護の為に上洛していた将策は、京都に来ていた龍馬を訪ねた。
「将さん、久しぶりじゃ、こっちに居るは、土佐の中岡慎太郎じゃ」
中岡慎太郎は、井上将策の一つ年上で、慶応三年六月に発足した陸援隊隊長を務める人物である。
「大洲藩の御仁か、宜しくお願い致す」
慎太郎は、その清廉実直な性格を現したかのような挨拶をしてくれた。
「我が大洲藩も貴藩と同じく、勤皇倒幕の為、尽力する所存です」
将策の挨拶に、慎太郎は龍馬と顔を見合わせて、苦笑いを浮かべる。それを見て、将策の横に居た嘉一郎は、怪訝な顔をするも龍馬と目を合わせて、慌てて逸らす。
「嘉一郎さんは、まだ怒っちょるがか?そんな顔しとらんと、一緒に呑もうぞ」
その言葉に場が忽ち笑いに溢れる。龍馬の場を和ませ、一瞬にして変えてしまう力を将策は感じるのだった。
「土佐の殿様は、まだはっきりせんのかい?」
幾分か酔いが廻った頃に、将策が切り出した言葉に、坂本龍馬と中岡慎太郎という土佐を代表する豪傑二人が言葉を失ってしまう。
そうであった。藩の実権を握る前藩主の山内容堂は、酔えば勤皇、醒めれば佐幕と揶揄された人物で、この時代の大名の中では、抜きん出た聡明さを持っていたが、その生涯は、徳川と朝廷を思想的に行ったり来たりに終始する人生だったと言える。
山内家は元々、掛川の小大名に過ぎなかったのを関ヶ原合戦において、居並ぶ諸大名の中で、初代一豊が、家康に最初に忠誠を誓った功で、土佐一国の大大名に出世した経緯があった。
これを以って、山内家では、代々を徳川家に変わらぬ恩顧を持って、報いるべしとしており、言わば家訓であった。
そうである大名であるから、時勢として、天皇中心の世の中に代えて、幕府を廃止する事を容堂も頭では分かっていた筈であった。
しかし、気持ちとして、幕府が可哀想だろうという考えが拭えないのである。薩摩、長州のように、幕府を武力で潰す倒幕ではなく、平和裏に幕府廃止を進め、朝廷を中心とした合議制に移行したいとは、容堂の場合は、政治的な方法論と言うよりも、人情の部分が大きかったように思うのだ。
そこに、後藤象二郎が大政奉還案を伝えた時、飛びつくようにそれに乗り、土佐藩の藩論として、幕府に提出したのである。後藤象二郎は、大政奉還案が郷士である坂本龍馬の案であるという事を口外しなかった。
「そうじゃ、井上さん。おんしゃからも言うてくれ。このままじゃ、薩長に見捨てられるぞ。どちらにせよ、幕府は武力で叩いとかないかんがじゃ」
慎太郎は、そう言うと、注いである酒を一気に飲み干した。
「わかっちょるぜよ。ただな、外国にこれ以上突け入る口実を与えたらいかんぜよ。そん為には、戦は起こしても、小さく終わらせんといかんがじゃ」
一時、倒幕の為に結ばれた薩土同盟も、両藩の考え方の違いから、解消されていた。先に薩長同盟を結ばせ、次に薩土盟約を実現させた両雄にとって、これは誤算であった。
「こっちから攻めたらいかんき」
龍馬は言わば、公議政体と言われる、帝の元、幕府と藩に変わる有志による議会制度を確立し、多数の合意によって、政治を進める現在の政治体制の基礎となる事を考えていた。
しかし、盟友の慎太郎は、そんな龍馬の考えを夢想だと思い、現実的に倒幕後、功績の有った有志を集めて、朝廷中心の議会制を考えていたのだった。
「大政奉還なんぞ、幕府が飲むはずないが」
「分からぬぞ。慶喜は飲むかもしれんきに」
そう言うと、両者同時に杯を空にする。土佐では、注がれた酒は一気に飲み干すのが当たり前であった。将策も酒を嗜む方であったが、土佐出身者には敵わなかった。
「龍さんは、世の中が変わったら何をするんぜ?」
心地良く酔いが廻った将策が龍馬に問う。この決して、型に嵌らない武士としては、変わり者過ぎる男の本心を一度聞いて起きたかったからだ。
「わしゃ、世界を見て周りたい。良い物を仕入れて、必要とする者に売る。世界相手に商いをするがじゃ。将さんはどうぜ?」
将策は不意に言葉を失った。聞く事に集中して、自分が問いかけられる事を想定してなかったからであった。
「分からん。分からんが世が平になったなら、その時に何もしたい事が無かったなら、蝦夷に渡って、牛を育てるけん」
「そりゃええぞ、将さん。それはいい」
何も深く考えた言葉では無かったが、それがかえって、龍馬の心に刺さったようであった。
「その時は、私もお供しますから」
「嘉一郎には、まず牛の乳の絞り方を教えるけん」
からかうように将策が言うと、嘉一郎が露骨に嫌な顔をする。その顔を見て、他の三人は大いに笑うのだった。
「そう言えば、この間、幕府の永井尚志殿にお会いした時、大洲藩出身の男が側に居ってな。護衛役を兼ねて、目の鋭い、片眉に大傷のある男じゃった。知っちょるか?えらい睨むきに、気になってな」
慎太郎が話した言葉に将策も嘉一郎も色を失った。権右衛門の可能性を考えたからであった。
慎太郎の話しによれば、幕府直臣の子弟で構成された京都見廻り組は、この時期になると人手不足から、佐幕の志がある身元が確かな浪士を雇う事があったらしい。
徳太郎の話し通りに、永田権右衛門が生きていれば、京に居てもおかしくは無かった。
「奴だとしたら、何をしに京へ?」
この嘉一郎の問いは、いささか的が外れていたかもしれない。志士もただの浪士も京を目指すというのは、この時代の武士の共通認識のような物であったからだ。
若者が都会に憧れるように、或いは、何の思想や哲学も無いが、ただ腕を試したい者もいれば、会った事もない帝の為に、本気で命を捨てて、惜しまない者まで様々であったが、脱藩した者を探すには、まずは京を調べるべきであった。
「龍さん、あんた命を狙われとるかもしれんけん」
「そうじゃ、貴様は今や、薩長からも幕府からも狙われとるぜよ」
将策は、笑う龍馬と慎太郎の気持ちにはなれなかった。大洲で権右衛門が駒吉との連絡に使っていた(龍)の字は、もしや、この坂本龍馬を指していたのではなかっただろうかと。
「いずれによせ、命は惜しめよ龍さん」
「将さんもな」
四人は酒宴の最期に、一気に杯を飲み干した。美味い酒であった。そして、これが、将策と龍馬が、酒を酌み交わした最期の夜になるのである。
慶応三年十月十三日、征夷大将軍徳川慶喜は、二条城において、土佐藩より建白された大政奉還の是非を問う為、各雄藩の代表者に諮問を行った。
そして、土佐藩の代表としては、参政の後藤象二郎が登城している。元々、大政奉還とは、朝廷より幕府が政権を委任されているという考えより起こった考えであった。
龍馬は、登城する後藤に対して、もしも不首尾であったならば、後藤先生は腹を斬る筈であるから、その場合は、海援隊で、将軍を襲うつもりである。地下で会おう。
という決死の覚悟を書状に記して、発奮を促している。各諸藩の諮問の後、薩摩、芸州、備前、宇和島、土佐の五藩代表者と、将軍慶喜は、その場に残って膝詰めの談判に及んでいる。
その場で、後藤象二郎は緊張の余りに、成程、額に首筋の流汗、甚だしいかぎりと記録される大汗をかきながら熱弁を奮った。
無理もない。徳川家が将軍となってから、将軍が陪臣と、わずか三尺の距離で、公式に話す機会など初めての事で、そして最期の時であった。
そして、翌十月十四日に、将軍慶喜が大政奉還を朝廷に奏請し、翌十五日に明治帝より、勅許の詔が発せられ、正式に大政奉還が成ったのであった。
これにより、神君家康以来より数えて、二百六十五年の徳川幕府は、その歴史に終止符を打ったのであった。
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