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夜の闇に、アリウス・ブライアンの絶望的な嗚咽が溶けていく。
リンユウとカイルは、その場に崩れ落ちた男に一瞥もくれることなく、プルメリア子爵邸の重厚な扉の向こうへと消えた。
扉が閉まる無慈悲な音が、アリウスの心臓に最後の杭を打ち込んだかのようだった。
屋敷の中に入ると、外の喧騒が嘘のように、温かく穏やかな空気が二人を迎えた。
騒ぎを聞きつけて、リンユウの両親であるアラン子爵とイザベラ夫人が、心配そうな顔でホールに駆けつけていた。
「リンユウ!大丈夫だったのか!?外で、アリウス殿の叫び声が聞こえたようだが……」
父の言葉に、リンユウは穏やかに微笑んでみせた。その左手には、カイルから贈られたばかりの婚約指輪が、誇らしげに輝いている。
「ええ、お父様。もう、大丈夫ですわ。全て、終わりましたの」
その晴れやかな表情と、指輪の意味を悟り、子爵夫妻は目を見開いた。
二人の視線は、リンユウの隣で、優しく彼女を見守るカイルへと注がれる。
カイルは、子爵夫妻の前に進み出ると、深々と、そして丁寧に頭を下げた。エルミロード大公家の嫡男が、子爵という格下の貴族に対して見せるには、あまりにも丁重な礼だった。
「プルメリア子爵、並びに奥方様。夜分にこのような形で押しかけ、大変申し訳ありません。ですが、一刻も早く、お二方にお伝えしたいことがあり、参上いたしました」
その真摯な態度に、アラン子爵はゴクリと喉を鳴らした。
「わたくし、カイル・フォン・エルミロードは、あなたの御令嬢、リンユウ様を、生涯をかけて愛し、お守りすることをお誓いいたします。どうか、リンユウ様とわたくしの結婚を、お許しいただけないでしょうか」
それは、あまりにも真摯で、心のこもった申し出だった。
イザベラ夫人の目からは、はらりはらりと涙がこぼれ落ちた。彼女は、口元を手で覆い、娘の幸せを噛みしめている。
アラン子爵は、腕を組み、厳しい顔でカイルをじっと見つめていたが、やがて、その口元がふっと緩んだ。
「……大公殿下。顔を上げてください」
アランは、カイルの肩に手を置いた。
「娘は、一度、心に深い傷を負いました。正直に申し上げて、わしは、あのような思いを二度と娘にさせたくない。相手が、いかに高貴な方であろうとも」
その言葉には、娘を愛する父としての、切実な思いが込められていた。
「重々、承知しております。ですが、だからこそ、私に、リンユウ様を幸せにする機会をいただきたいのです。私が、彼女の盾となり、剣となり、彼女が心から笑って暮らせる世界を作ります。この命に代えても」
カイルの瞳には、一片の曇りもなかった。
その覚悟を受け取り、アランは大きく、そして力強く頷いた。
「……分かった。信じましょう、大公殿下のその言葉を。いや、未来の我が息子殿の言葉を。娘を、どうか、よろしくお願いいたします」
「お父様……!」
「お受けいただき、心より感謝いたします。お義父様」
固い握手が交わされる。
それは、家と家が結びつく瞬間であり、リンユウの新しい人生が、盤石の祝福のもとに始まった瞬間でもあった。
リンユウは、涙ぐむ母と、力強く頷く父、そして、愛おしそうに自分を見つめるカイルの姿を、胸がいっぱいになりながら見つめていた。
先ほどまでの、アリウスとの忌まわしい邂逅が、まるで遠い昔の出来事のように感じられる。
あの愚かな男は、わたくしから愛を奪ったのではなく、わたくしを本当の愛へと導いてくれた、ただの踏み石に過ぎなかったのだ。
そう思うと、彼への憐れみさえ、どうでもよくなっていった。
一方、プルメリア邸の冷たい石畳の上では、アリウスがまだうずくまっていた。
夜警の兵士に不審者として声をかけられ、ようやく我に返る。
ふらふらと、覚束ない足取りで自邸への道を歩きながら、彼の頭の中では、過去の光景が繰り返し再生されていた。
卒業パーティーで、意気揚々とリンユウに婚約破棄を突きつけた自分。
エラの嘘の涙を信じ込み、リンユウを悪役だと決めつけた自分。
彼女の成功に嫉妬し、卑劣な妨害を黙認した自分。
そして、ついさっき、みっともなく復縁を迫った自分。
一つ一つの記憶が、鋭い刃となってアリウスの心を切り刻む。
「あ……ああ……」
声にならないうめき声が漏れる。
なぜ、気づかなかったのか。
なぜ、失ってから、その価値を思い知るのか。
彼は、世界で一番価値のある宝物を、自らゴミ箱に投げ捨ててしまったのだ。
そして、その宝物は、もはや自分よりも遥かに優れた男の手に渡り、二度と戻ることはない。
アリウス・ブライアンという男の魂は、その夜、完全に死んだ。
残されたのは、後悔という名の、生き地獄を永遠にさまよう抜け殻だけだった。
リンユウとカイルは、その場に崩れ落ちた男に一瞥もくれることなく、プルメリア子爵邸の重厚な扉の向こうへと消えた。
扉が閉まる無慈悲な音が、アリウスの心臓に最後の杭を打ち込んだかのようだった。
屋敷の中に入ると、外の喧騒が嘘のように、温かく穏やかな空気が二人を迎えた。
騒ぎを聞きつけて、リンユウの両親であるアラン子爵とイザベラ夫人が、心配そうな顔でホールに駆けつけていた。
「リンユウ!大丈夫だったのか!?外で、アリウス殿の叫び声が聞こえたようだが……」
父の言葉に、リンユウは穏やかに微笑んでみせた。その左手には、カイルから贈られたばかりの婚約指輪が、誇らしげに輝いている。
「ええ、お父様。もう、大丈夫ですわ。全て、終わりましたの」
その晴れやかな表情と、指輪の意味を悟り、子爵夫妻は目を見開いた。
二人の視線は、リンユウの隣で、優しく彼女を見守るカイルへと注がれる。
カイルは、子爵夫妻の前に進み出ると、深々と、そして丁寧に頭を下げた。エルミロード大公家の嫡男が、子爵という格下の貴族に対して見せるには、あまりにも丁重な礼だった。
「プルメリア子爵、並びに奥方様。夜分にこのような形で押しかけ、大変申し訳ありません。ですが、一刻も早く、お二方にお伝えしたいことがあり、参上いたしました」
その真摯な態度に、アラン子爵はゴクリと喉を鳴らした。
「わたくし、カイル・フォン・エルミロードは、あなたの御令嬢、リンユウ様を、生涯をかけて愛し、お守りすることをお誓いいたします。どうか、リンユウ様とわたくしの結婚を、お許しいただけないでしょうか」
それは、あまりにも真摯で、心のこもった申し出だった。
イザベラ夫人の目からは、はらりはらりと涙がこぼれ落ちた。彼女は、口元を手で覆い、娘の幸せを噛みしめている。
アラン子爵は、腕を組み、厳しい顔でカイルをじっと見つめていたが、やがて、その口元がふっと緩んだ。
「……大公殿下。顔を上げてください」
アランは、カイルの肩に手を置いた。
「娘は、一度、心に深い傷を負いました。正直に申し上げて、わしは、あのような思いを二度と娘にさせたくない。相手が、いかに高貴な方であろうとも」
その言葉には、娘を愛する父としての、切実な思いが込められていた。
「重々、承知しております。ですが、だからこそ、私に、リンユウ様を幸せにする機会をいただきたいのです。私が、彼女の盾となり、剣となり、彼女が心から笑って暮らせる世界を作ります。この命に代えても」
カイルの瞳には、一片の曇りもなかった。
その覚悟を受け取り、アランは大きく、そして力強く頷いた。
「……分かった。信じましょう、大公殿下のその言葉を。いや、未来の我が息子殿の言葉を。娘を、どうか、よろしくお願いいたします」
「お父様……!」
「お受けいただき、心より感謝いたします。お義父様」
固い握手が交わされる。
それは、家と家が結びつく瞬間であり、リンユウの新しい人生が、盤石の祝福のもとに始まった瞬間でもあった。
リンユウは、涙ぐむ母と、力強く頷く父、そして、愛おしそうに自分を見つめるカイルの姿を、胸がいっぱいになりながら見つめていた。
先ほどまでの、アリウスとの忌まわしい邂逅が、まるで遠い昔の出来事のように感じられる。
あの愚かな男は、わたくしから愛を奪ったのではなく、わたくしを本当の愛へと導いてくれた、ただの踏み石に過ぎなかったのだ。
そう思うと、彼への憐れみさえ、どうでもよくなっていった。
一方、プルメリア邸の冷たい石畳の上では、アリウスがまだうずくまっていた。
夜警の兵士に不審者として声をかけられ、ようやく我に返る。
ふらふらと、覚束ない足取りで自邸への道を歩きながら、彼の頭の中では、過去の光景が繰り返し再生されていた。
卒業パーティーで、意気揚々とリンユウに婚約破棄を突きつけた自分。
エラの嘘の涙を信じ込み、リンユウを悪役だと決めつけた自分。
彼女の成功に嫉妬し、卑劣な妨害を黙認した自分。
そして、ついさっき、みっともなく復縁を迫った自分。
一つ一つの記憶が、鋭い刃となってアリウスの心を切り刻む。
「あ……ああ……」
声にならないうめき声が漏れる。
なぜ、気づかなかったのか。
なぜ、失ってから、その価値を思い知るのか。
彼は、世界で一番価値のある宝物を、自らゴミ箱に投げ捨ててしまったのだ。
そして、その宝物は、もはや自分よりも遥かに優れた男の手に渡り、二度と戻ることはない。
アリウス・ブライアンという男の魂は、その夜、完全に死んだ。
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