〘完結〛婚約破棄されて私が幸せの悪役令嬢でごめんなさい

35

王都の喧騒から隔絶された、裏路地の安宿。
その一室で、アリウスは息を潜めていた。
彼は、盗んだ金で、最低限の食料と、一振りの錆びついた短剣を手に入れていた。
昼間は、死んだように眠り、夜になると、亡霊のように街を徘徊する。
彼の足は、自然と、リンユウとカイルが暮らす、エルミロード大公邸の周辺へと向かった。

高い塀の向こう側からは、時折、楽しそうな笑い声や、華やかな音楽が漏れ聞こえてくる。
それは、アリウスが失った、光の世界の音だった。
その音を聞くたびに、彼の心は、嫉妬と憎悪で黒く塗りつぶされていく。

（俺のリンユウが、あの中に……。あの男と、笑い合っているのか……）

アリウスは、何日もかけて、大公邸の警備体制を調べ上げた。
正面は、王家の騎士たちによって固められており、侵入は不可能だ。
しかし、彼は見つけてしまった。
屋敷の裏手、庭園に面した塀の一部が、古い木の根に押されて、少しだけ低くなっている場所を。
夜陰に紛れれば、そこからなら、庭園に侵入できるかもしれない。

彼の目的は、もはやリンユウを取り戻すことではなかった。
彼の歪んだ心の中では、一つの狂気じみた計画が、形を成していた。

（結婚式の前日……。警備が、最も手薄になる瞬間だ）
（皆が、明日の本番に気を取られている。その隙を突く）
（庭園に忍び込み、リンユウを……。俺だけのものにする）

彼が思い描く「自分だけのものにする」という言葉の意味は、もはや、愛ではなかった。
それは、破壊衝動そのものだった。
自分以外の男のものになるくらいなら、いっそ、この手で……。
その先を、彼は考えようとしなかった。
ただ、その瞬間の、究極の独占欲を満たすことだけが、彼の全てとなっていた。

アリウスの存在に、最初に気づいたのは、カイルだった。
彼は、生まれながらの統治者としての、鋭い直感を持っていた。
ここ数日、誰かに、見られているような、不穏な視線を感じることがあったのだ。
それは、ただの気のせいだと、最初は思っていた。
しかし、その視線に、明確な悪意と、狂気が含まれていることに、彼は気づき始めていた。

「どうしたのですか、カイル様？難しいお顔をされて」

リンユウに問われ、カイルは、彼女を不安にさせまいと、穏やかに微笑んだ。

「いや、何でもない。少し、考え事をしていただけだ」

しかし、その内心では、警鐘が鳴り響いていた。
カイルは、すぐに腹心の騎士団長を、密かに呼び寄せた。

「ここ数日、屋敷の周辺に、不審な気配を感じる。おそらく、我々を、あるいはリンユウを狙う者がいる」

「まさか！そのような……」

「油断はするな。相手は、ただの刺客ではないかもしれん。もっと、執念深く、予測不能な相手だ」

カイルの脳裏に、あの夜、屋敷の前で崩れ落ちた、アリウス・ブライアンの虚ろな目が浮かんでいた。
公式には、彼は死んだことになっている。
だが、カイルは、あの男が、そう簡単に死ぬとは思えなかった。
あの執着心は、常軌を逸している。

「屋敷の警備を、今一度、徹底的に見直せ。特に、裏手の庭園に面した塀は、死角になりやすい。警備の数を倍にし、決して、蟻一匹、侵入させるな」

「はっ！承知いたしました！」

騎士団長は、主君のただならぬ気配を察し、すぐさま行動を開始した。
カイルの命令により、大公邸の警備は、水面下で、鉄壁の体制へと強化されていった。

リンユウの知らないところで、彼女を守るための、静かな戦いが始まっていた。
カイルは、愛する女性を、どんな狂気の影からも守り抜くことを、改めて心に誓う。
忍び寄る狂気と、それを迎え撃つ守護者。
運命の夜は、刻一刻と、近づいていた。