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領地改革が少しずつ軌道に乗り始め、民の顔にもかすかな活気が戻りつつあった、ある日の午後。
一台の立派な馬車が、アールクヴィスト領主の館の前に到着した。
王都での諸事を終えた、母、アールクヴィスト辺境伯夫人が、領地へ帰還したのだ。
私とエンティは、館の玄関で母を出迎えた。
「お帰りなさいませ、母上」
「ええ、ただいま戻りました、エデン」
母は長旅の疲れも見せず、辺境伯夫人としての威厳に満ちた笑みを浮かべて馬車から降り立った。
しかし、私の隣に立つエンティの姿を認めると、その完璧な笑みが、ほんの一瞬だけ、微かに曇ったのを私は見逃さなかった。
エンティは、極度の緊張に体をこわばらせながらも、精一杯の勇気を振り絞って、深々と淑女の礼をした。
「は、はじめまして、奥様。私、エンティ・ベルと申します。この度は……」
「ええ、エデンから話は聞いていますわ」
母は、エンティの言葉を遮るように、穏やかな、しかしどこか壁を感じさせる声で言った。
「ようこそ、アールクヴィストへ。長旅、ご苦労だったでしょう」
その声も、その眼差しも、決して冷たいわけではない。
だが、そこにはエンティという一人の女性に対する温かさではなく、息子の婚約者、それも準男爵家の令嬢を値踏みするような、貴族特有の怜悧な光が宿っていた。
その日の夜、母の帰還を祝う晩餐の席で、私の懸念は、現実のものとなった。
「ベル準男爵家は、確か、王都の歴史編纂を代々担っておられる家系でしたわね。素晴らしいお仕事ですこと」
母は、にこやかにそう言いながら、エンティに尋ねた。
「では、エンティ様は、昨今の王家の系譜についても、さぞお詳しいのでしょうね?」
「え、あ……そ、それは……」
エンティは、突然の問いに、しどろもどろになるばかりだった。
彼女の興味は、貴族の系譜ではなく、常に、目の前で苦しむ人々の上にしかないのだから。
母は、悪気はないのだろう。
だが、彼女の振るう「貴族の常識」という名の剣は、エンティの心を容赦なく傷つけていた。
晩餐の後、私は母の私室を訪ねた。
「母上。エンティを試すようなことは、おやめいただきたい」
私がそう切り出すと、母は心外だ、というように目を見開いた。
「試すだなんて、とんでもない。私はただ、辺境伯家に嫁ぐ者として、当然の嗜みについて、少しお話を伺っただけですわ」
「エンティに必要なのは、古い系譜の知識ではありません。民の心に寄り添う、温かい心です」
「それは、分かっています!」
母の声が、少しだけ強くなる。
「あの方が、心根の優しい、素晴らしい女性であることは、疑っておりません。ですが、エデン!辺境伯夫人の務めとは、民に施しを与えることだけではないのです!」
母は、私の前に立ち、真剣な眼差しで訴えかけた。
「他の貴族との社交、時には腹を探り合うような政治的な駆け引き、そして何より、アールクヴィスト家としての“格”を保つこと……。それら全てが、この領地を、ひいては民を守るためには、必要不可欠なことなのですよ。準男爵家ご出身のあの方に、その大役が、本当にお出来になるのか……私は、母親として、この領地の女主人として、心配でならないのです」
それは、旧来の貴族社会に生きてきた母としての、偽らざる本心なのだろう。
彼女の言い分にも、一理あった。
だが、私は、もうその古い価値観に縛られるつもりはなかった。
「母上のおっしゃることも、理解できます。ですが、今のこのアールクヴィストに必要なのは、見栄や体裁のための社交ではありません。領民一人ひとりの顔が見えるような、温かい繋がりです。エンティには、それを作り出す力がある」
私は、母の肩に手を置いた。
「そして、何より……クーシー嬢が私たちに何を残してくれたか、お忘れですか、母上?」
クーシーの名を出すと、母ははっと息を呑んだ。
「彼女は、家柄や見栄などよりも、もっと大切なものがあることを、その身を以て、私たちに示してくれたはずです。私たちは、彼女の覚悟に、応えなければならない」
母は、反論の言葉を失い、その場に静かに俯いた。
長年、その身に染み付いた貴族としての価値観と、息子の新しい考え方との間で、彼女の心が激しく揺れ動いているのが分かった。
「……少し、考えさせて、くださいな」
絞り出すような母の言葉に、私は静かに頷いた。
その夜、私はエンティと共に、月明かりの下で、少しずつ形になり始めた救護院の基礎を眺めていた。
「奥様は……私のことが、お嫌いなのでしょうか……」
不安そうに呟くエンティを、私は優しく抱きしめる。
「大丈夫。母上も、本当は分かっているんだ。君という人間の、本当の価値を」
そう言いながらも、私の心には、一抹の不安が影を落としていた。
領地改革における、最初の、そして最も身近な壁。
母の心を溶かすには、まだ、時間が必要なのかもしれない。
エンティの優しさが、その温かさが、いつか母の凝り固まった心にも届くことを、私はただ、信じるしかなかった。
一台の立派な馬車が、アールクヴィスト領主の館の前に到着した。
王都での諸事を終えた、母、アールクヴィスト辺境伯夫人が、領地へ帰還したのだ。
私とエンティは、館の玄関で母を出迎えた。
「お帰りなさいませ、母上」
「ええ、ただいま戻りました、エデン」
母は長旅の疲れも見せず、辺境伯夫人としての威厳に満ちた笑みを浮かべて馬車から降り立った。
しかし、私の隣に立つエンティの姿を認めると、その完璧な笑みが、ほんの一瞬だけ、微かに曇ったのを私は見逃さなかった。
エンティは、極度の緊張に体をこわばらせながらも、精一杯の勇気を振り絞って、深々と淑女の礼をした。
「は、はじめまして、奥様。私、エンティ・ベルと申します。この度は……」
「ええ、エデンから話は聞いていますわ」
母は、エンティの言葉を遮るように、穏やかな、しかしどこか壁を感じさせる声で言った。
「ようこそ、アールクヴィストへ。長旅、ご苦労だったでしょう」
その声も、その眼差しも、決して冷たいわけではない。
だが、そこにはエンティという一人の女性に対する温かさではなく、息子の婚約者、それも準男爵家の令嬢を値踏みするような、貴族特有の怜悧な光が宿っていた。
その日の夜、母の帰還を祝う晩餐の席で、私の懸念は、現実のものとなった。
「ベル準男爵家は、確か、王都の歴史編纂を代々担っておられる家系でしたわね。素晴らしいお仕事ですこと」
母は、にこやかにそう言いながら、エンティに尋ねた。
「では、エンティ様は、昨今の王家の系譜についても、さぞお詳しいのでしょうね?」
「え、あ……そ、それは……」
エンティは、突然の問いに、しどろもどろになるばかりだった。
彼女の興味は、貴族の系譜ではなく、常に、目の前で苦しむ人々の上にしかないのだから。
母は、悪気はないのだろう。
だが、彼女の振るう「貴族の常識」という名の剣は、エンティの心を容赦なく傷つけていた。
晩餐の後、私は母の私室を訪ねた。
「母上。エンティを試すようなことは、おやめいただきたい」
私がそう切り出すと、母は心外だ、というように目を見開いた。
「試すだなんて、とんでもない。私はただ、辺境伯家に嫁ぐ者として、当然の嗜みについて、少しお話を伺っただけですわ」
「エンティに必要なのは、古い系譜の知識ではありません。民の心に寄り添う、温かい心です」
「それは、分かっています!」
母の声が、少しだけ強くなる。
「あの方が、心根の優しい、素晴らしい女性であることは、疑っておりません。ですが、エデン!辺境伯夫人の務めとは、民に施しを与えることだけではないのです!」
母は、私の前に立ち、真剣な眼差しで訴えかけた。
「他の貴族との社交、時には腹を探り合うような政治的な駆け引き、そして何より、アールクヴィスト家としての“格”を保つこと……。それら全てが、この領地を、ひいては民を守るためには、必要不可欠なことなのですよ。準男爵家ご出身のあの方に、その大役が、本当にお出来になるのか……私は、母親として、この領地の女主人として、心配でならないのです」
それは、旧来の貴族社会に生きてきた母としての、偽らざる本心なのだろう。
彼女の言い分にも、一理あった。
だが、私は、もうその古い価値観に縛られるつもりはなかった。
「母上のおっしゃることも、理解できます。ですが、今のこのアールクヴィストに必要なのは、見栄や体裁のための社交ではありません。領民一人ひとりの顔が見えるような、温かい繋がりです。エンティには、それを作り出す力がある」
私は、母の肩に手を置いた。
「そして、何より……クーシー嬢が私たちに何を残してくれたか、お忘れですか、母上?」
クーシーの名を出すと、母ははっと息を呑んだ。
「彼女は、家柄や見栄などよりも、もっと大切なものがあることを、その身を以て、私たちに示してくれたはずです。私たちは、彼女の覚悟に、応えなければならない」
母は、反論の言葉を失い、その場に静かに俯いた。
長年、その身に染み付いた貴族としての価値観と、息子の新しい考え方との間で、彼女の心が激しく揺れ動いているのが分かった。
「……少し、考えさせて、くださいな」
絞り出すような母の言葉に、私は静かに頷いた。
その夜、私はエンティと共に、月明かりの下で、少しずつ形になり始めた救護院の基礎を眺めていた。
「奥様は……私のことが、お嫌いなのでしょうか……」
不安そうに呟くエンティを、私は優しく抱きしめる。
「大丈夫。母上も、本当は分かっているんだ。君という人間の、本当の価値を」
そう言いながらも、私の心には、一抹の不安が影を落としていた。
領地改革における、最初の、そして最も身近な壁。
母の心を溶かすには、まだ、時間が必要なのかもしれない。
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