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母が領地に戻ってからというもの、館の中にはどこか張り詰めた空気が流れていた。
エンティは気丈にも、母からの無言の圧力に耐えながら、日々、救護院の設立準備や、貧しい村への訪問に精力的に動き回っていた。
その健気な姿が、私には痛々しくも、そして誇らしくもあった。
そんなある日、一つの急報が領主の館に舞い込んできた。
領地の北端にある村で、子供たちの間に、高熱を伴う流行り病が発生したというのだ。
薬師もいないその村は、パニック状態に陥っているらしかった。
その知らせを聞くや否や、エンティは弾かれたように立ち上がった。
「薬草と、清潔な布、それから滋養のある食料を!すぐに村へ届けなければ!」
彼女は侍女たちにテキパキと指示を出し、自らも荷造りを始めた。
その瞳には、恐怖よりも、救うべき命への強い使命感が宿っていた。
「私も行こう」
私がそう言うと、エンティは、初めて私に、はっきりと反対の意を示した。
「いえ、エデン様。あなたは領主です。万が一のことがあってはなりません。それに、病が他の地区へ広がらぬよう、ここで陣頭指揮を執っていただきたいのです。……村は、どうか、私にお任せください」
その真っ直ぐな瞳に、私は反論の言葉を失った。
この一連のやり取りを、母は、部屋の入口から静かに見ていた。
「……なんて無謀なことを」
母は、小さくそう呟き、眉をひそめた。
だが、その表情には、ただの非難ではない、何か別の感情が混じっているように見えた。
エンティは、数人の供だけを連れて、その日のうちに村へと出発した。
それから数日、エンティは村に泊まり込み、不眠不休で子供たちの看病を続けた。
自ら薬草を煎じ、汗を拭き、そして、不安に泣き叫ぶ子供たちを、夜通し抱きしめて子守唄を歌い続けたという。
その噂が、館にいる私の耳にも届いた頃だった。
母が、誰にも告げず、たった一台の馬車でその村へ向かった。
心配になった私が後を追うと、母は、村の入り口にある大きな木の陰から、中の様子をじっと窺っていた。
その視線の先には、エンティがいた。
彼女は、泥だらけのワンピースのも構わず、地面に膝をつき、熱にうなされる子供の手を優しく握っていた。
その顔は疲れ切っていたが、その微笑みは、まるで聖母のように、穏やかで、慈愛に満ちていた。
そこにあるのは、準男爵家の令嬢でも、未来の辺境伯夫人でもない。
ただ一人の人間としての、深く、そして無償の愛だった。
私が「母上」と声をかけると、母は、ゆっくりとこちらを振り返った。
その瞳は、潤んでいた。
「……エデン。私は、間違っていたのかもしれませんわね」
母は、絞り出すように言った。
「私がこだわっていた、家柄や、作法など……あの子の持つ、あの温かい光の前では、なんと些細で、無価値なことだったのでしょう」
エデンが言っていた、「民の心に寄り添う温かさ」という言葉の意味を、母は、この光景を目の当たりにして、ようやく本当の意味で理解したのだった。
病が落ち着き、エンティがやつれた姿で館に戻ってきたのは、それから三日後のことだった。
玄関で待ち構えていた母は、エンティの前に静かに進み出ると、辺境伯夫人としてのプライドも何もかも捨てて、その前で深々と頭を下げた。
「……ありがとう、エンティさん。貴方のおかげで、村の子供たちは救われました。本当に、ありがとう」
「お、奥様……!おやめください!」
驚くエンティの手を、母は優しく、しかし力強く握った。
「いいえ。礼を言うのは、私の方です。貴方という、このアールクヴィストの、本当の宝に、私は気づくのが遅すぎました。どうか、許しておくれ」
その瞬間、二人の間にあった冷たい氷は、春の陽光に照らされたかのように、跡形もなく溶けていった。
エンティは気丈にも、母からの無言の圧力に耐えながら、日々、救護院の設立準備や、貧しい村への訪問に精力的に動き回っていた。
その健気な姿が、私には痛々しくも、そして誇らしくもあった。
そんなある日、一つの急報が領主の館に舞い込んできた。
領地の北端にある村で、子供たちの間に、高熱を伴う流行り病が発生したというのだ。
薬師もいないその村は、パニック状態に陥っているらしかった。
その知らせを聞くや否や、エンティは弾かれたように立ち上がった。
「薬草と、清潔な布、それから滋養のある食料を!すぐに村へ届けなければ!」
彼女は侍女たちにテキパキと指示を出し、自らも荷造りを始めた。
その瞳には、恐怖よりも、救うべき命への強い使命感が宿っていた。
「私も行こう」
私がそう言うと、エンティは、初めて私に、はっきりと反対の意を示した。
「いえ、エデン様。あなたは領主です。万が一のことがあってはなりません。それに、病が他の地区へ広がらぬよう、ここで陣頭指揮を執っていただきたいのです。……村は、どうか、私にお任せください」
その真っ直ぐな瞳に、私は反論の言葉を失った。
この一連のやり取りを、母は、部屋の入口から静かに見ていた。
「……なんて無謀なことを」
母は、小さくそう呟き、眉をひそめた。
だが、その表情には、ただの非難ではない、何か別の感情が混じっているように見えた。
エンティは、数人の供だけを連れて、その日のうちに村へと出発した。
それから数日、エンティは村に泊まり込み、不眠不休で子供たちの看病を続けた。
自ら薬草を煎じ、汗を拭き、そして、不安に泣き叫ぶ子供たちを、夜通し抱きしめて子守唄を歌い続けたという。
その噂が、館にいる私の耳にも届いた頃だった。
母が、誰にも告げず、たった一台の馬車でその村へ向かった。
心配になった私が後を追うと、母は、村の入り口にある大きな木の陰から、中の様子をじっと窺っていた。
その視線の先には、エンティがいた。
彼女は、泥だらけのワンピースのも構わず、地面に膝をつき、熱にうなされる子供の手を優しく握っていた。
その顔は疲れ切っていたが、その微笑みは、まるで聖母のように、穏やかで、慈愛に満ちていた。
そこにあるのは、準男爵家の令嬢でも、未来の辺境伯夫人でもない。
ただ一人の人間としての、深く、そして無償の愛だった。
私が「母上」と声をかけると、母は、ゆっくりとこちらを振り返った。
その瞳は、潤んでいた。
「……エデン。私は、間違っていたのかもしれませんわね」
母は、絞り出すように言った。
「私がこだわっていた、家柄や、作法など……あの子の持つ、あの温かい光の前では、なんと些細で、無価値なことだったのでしょう」
エデンが言っていた、「民の心に寄り添う温かさ」という言葉の意味を、母は、この光景を目の当たりにして、ようやく本当の意味で理解したのだった。
病が落ち着き、エンティがやつれた姿で館に戻ってきたのは、それから三日後のことだった。
玄関で待ち構えていた母は、エンティの前に静かに進み出ると、辺境伯夫人としてのプライドも何もかも捨てて、その前で深々と頭を下げた。
「……ありがとう、エンティさん。貴方のおかげで、村の子供たちは救われました。本当に、ありがとう」
「お、奥様……!おやめください!」
驚くエンティの手を、母は優しく、しかし力強く握った。
「いいえ。礼を言うのは、私の方です。貴方という、このアールクヴィストの、本当の宝に、私は気づくのが遅すぎました。どうか、許しておくれ」
その瞬間、二人の間にあった冷たい氷は、春の陽光に照らされたかのように、跡形もなく溶けていった。
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