その辺にある悪意

江波広樹

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2009年 パート3

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 朝になると倉庫に敦と呼ばれる男が来た。男には表情というものが欠けていたが、しかしどこか有能そうな雰囲気を出していた。宮野と同じくらいの歳だろうと隆は思った。左手の薬指には指輪がはめられている。結婚しているのかもしれない。見た目からすると、専業主婦の妻とふたりの子どもがいそうだった。宮野にも子どもはいそうだったが、彼の見た目から何かを判断するということは無意味に思えた。

「夕方までには連れてくるつもりだ」

 宮野は一睡もしていないとは思えないほどしっかりとした声で言った。彼は朝までずっとレイモンド・チャンドラーを読んでいたのだ。隆もほとんど眠ることはできなかったが、何度か意識がなくなった。一度だけトイレに行きたいと宮野に頼み、彼は無言で許可した。 「ひとりで大丈夫だろうな?」

 敦はとくに心配そうな顔はしていなかった。ただ、こういう場面ではこういった発言が正しいから仕方なく言っているといった感じだ。

「問題ない」

 宮野がいなくなると敦は椅子に座り、ゆっくりと天井を見上げた。天井には何本かの蛍光灯がむき出しにぶら下がっている。夜には虫がたかっていたが、いまは一匹も見当たらない。すでに気温は下がり、隆は寒さに耐えるように体を縮めていたが、敦はずいぶんと薄着だった。厚手の服を着たことがないのかもしれない。薄着が妙にしっくりきている。

 敦はそれから考えるような表情をした。実際に考えているのかどうかはわからないが、そんな表情をした。彼の顔から表情が読み取れるのは初めてのことだ。彼はバッグの中から綿棒をとりだし、右耳だけを掃除した。ラジオを取りだし、近くの棚に置き、その横に手のひらサイズのイルカのぬいぐるみを置いた。

「やっぱりこれがないと落ち着かないな」

 彼はそう言いながらイルカを何度かなでた。ラジオは置いてあるだけで、電源は入れなかった。きっと置物の感覚なのだろう。それから忘れていたようにカバンからパンを取りだした。

「お腹空いてるだろう? 死ぬ前の食事にしては貧相だが、まあ、仕方がない。この世界には飢えて死ぬ子どももいるんだから、贅沢は言えない」

 彼はそういうとパンを袋からだし、袋の上にパンを置いた。

「犬みたく食べてくれ。縄をほどくのは面倒だからな」

 隆は置かれたパンを犬みたく食べた。そうやって食べていると、本当に自分が犬になったように感じた。もしかしたら自分は犬なのかもしれない。だからかってに誘拐され、殺処分されるのだ。自分のことを人間と思い込んでいる犬なのだ。

 昼になるまで敦はとくに何もしなかった。たまにウォークマンで音楽を聞いたが、すぐにつまらなそうにやめた。きっと退屈な曲しか入っていないのだろう。座るのに疲れると倉庫の中を歩きまわり、たまに棚の上に置いたイルカをなでた。彼はまったく口を開かなかったが、昼飯のカップラーメンを作るために電気ポットに水を入れているとき、数時間ぶりに言葉を発した。

「君はゲームをするかい?」

 彼は隆の方を振り向かずにいった。黙々とペットボトルの水をポットに入れている。

「しない。子どもの頃はしたけど」

 隆は壁にもたれかかっていた。すでにかなりの体力を消耗していたが、まだ二日は持ちそうだった。人間は無駄に丈夫だった。

「どんなゲーム?」

「ポケモンとかマリオとか」

 隆は子どもの頃を思い出していった。たしかあのときはゲームボーイでみんなポケモンをやっていた。

「人を殺すゲームは?」

「人を殺すゲーム?」

「そうだよ、人を殺すゲーム。たとえば戦争のゲームとかさ。銃で人を殺しまくるゲーム。ちょっと前にCODっていうゲームが流行ったんだけどさ。あれがすごい面白いんだよね。今でもたまにやるよ」

 敦は電気ポットのスイッチを押すと、また椅子に座った。

「PS3は買った方がいいよ。最近のゲームはすごいからね。オンラインで対戦するのが常識の時代だよ。オンラインで殺し合うんだ。たまに海外の人と殺し合うこともあるけど、海外のサーバーは回線が悪いからできるだけやりたくないんだ。まあ、君はここで殺されちゃうから勧めてもしょうがないけどね」

 彼は腕時計で時間を確認した。まだ3分は経っていない。

「オンラインで対戦するゲームだからさ、飽きがこないんだよ。スポーツと同じさ。終わりのあるゲームと違って無限に楽しめる。もう一つの人生だよ。僕はMP5っていう銃が好きなんだよね。たぶんMP5で数千人は殺したよ。どこの国の誰が作ったのかは知らないけど、いい銃だ。まあ、ゲームの中の話だけどね」

 少しのあいだ沈黙があった。彼は喋りたいだけであり、決して人の話を聞きたいわけではないのだ。そもそも隆にはどう返していいかわからなかった。自分もやってみたいなー、と返しても仕方ないだろう。

 倉庫がやけに暗いせいか、ひどく沈黙が長く感じた。窓からは光りがほとんど入っていない。どうやら空は曇っているらしい。きっと自分はもう外に出ることがないのだろう、と隆は思った。自分は死ぬのだ、この冷たくて虫すらも寄りつかない、人間が命を落とすにはあまりにも雑なところで。あるいは自分は虫以下の存在なのかもしれない。

 隆は視界のなかに黒い霧のようなものが写ったのに気がついた。それは一瞬だったし、もともと暗い空間だったから、それはただの錯覚のように感じた。しかし、確かにそれは写ったのだ。まるであの世に来るのを待っているように。あるいはあの世に連れて行こうとしているように。霧は人の形にも見えたし、なにか抽象的な絵画のようにも見えた。空間に滲みでた黒いシミ。あの世から漏れてしまった黒。

 敦はゆっくりと腕時計を見た。まだ三分は経っていなかった。どうしてこんなに自分が待たされるのかと不思議そうに首を傾げ、カップラーメンをちらっと見てから大きく伸びをした。それから今まで呼吸をすることを忘れていたことに気がついたかのように一度大きく口を開けた。周辺の空気を一気に吸い込み、時間をかけて息を吐いた。

「映画は見る?」

 敦はカップラーメンが出来上がるまでとにかく時間を潰したかった。話の内容はなんでもよかった。ただ何もしない時間をずるずる引き延ばすのが嫌なだけだ。

「少しだけなら」

「人を殺す映画は?」

「人を殺す映画?」

「そうだよ、人を殺す映画。いろいろあるでしょ? 人を殺す映画。むしろいまどき人が殺されない映画の方が珍しいんじゃないかな。たとえばプライベート・ライアンとかさ。ノルマンディー上陸作戦を描いた作品だよ。冒頭からすごい数の人が死ぬ。昔の映画にしてはずいぶん迫力があるんだよね。あの死体とか血の海とかってどうやって撮るんだろうね。本当の死体は使えないだろうし」

 彼は本当にどうやって撮っているのか不思議だ、という表情をした。どうやら自分の好きな話をしている時だけ表情が生まれるタイプの人間らしかった。

「そういった映画は見たことないね。戦争とか知らないし」

「俺だって知らない。ただ娯楽として楽しんでいるだけだよ。人を殺すのを見るのも、人が殺されるのを見るのも、人を殺すのも、人に殺されるのも、ただの娯楽さ。この世には善と悪が常に平等の割合で混在している。そうは思わないかい? 戦争が起きれば、どこかで不幸が起きれば、どこかの人間が幸せになる。世界はつながっているからね。要するに、誰かを苦しめるということは、誰かを楽にさせるということでもある。生け贄っていうものは必要なのさ」

 自分は誰かを楽にさせるための生け贄なのだろうか、と隆は思った。

「ヒートっていう映画は見たことあるかな? アル・パチーノとロバート・デニーロが出てる作品だよ」

 どうやらまだ三分は経ってないらしい。

「小さい頃に見たと思う。内容は覚えていないけど」

「あの映画もたくさんの死人がでる素晴らしい作品だよ。優秀な善人と気が合うのは、凡人の善人ではなく、優秀な悪人だということを分からしてくれる。うん、思い出してたらまた見たくなった。この仕事を終えたらまた見よう」

 彼は腕時計を見てからカップラーメンを手に取った。

「君の昼飯はないよ。そんなに贅沢をするものじゃない」
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