これが最後の恋だから

結祈みのり

文字の大きさ
表紙へ
3 / 17
1巻

1-3

しおりを挟む
(……何を、今更)

 身勝手な言い分に、こぶしに力が入る。怒鳴ってやりたい、今すぐ帰れと追い出したい。我慢するのがやっとなほどの凶暴な感情を恵里菜は必死に抑え込んだ。
 仕事上で理不尽な思いは数えきれないほど経験した。
 働くとは自分を殺すこと。恵里菜は就職してそれを痛感した。もちろん一般的な考えではないだろうし、「自分」を活かして働いている人もたくさんいる。しかし恵里菜にとっては我慢の連続だった。
 髪を染めて、濃い化粧をして、身のたけに合わない車に乗って。
 外見ばかり変えても中身が変わらなければ何の意味もないことは分かっている。それでも恵里菜にとっての化粧は武器で、よろいだ。地味で、根暗で、ずぼらな昔の「恵里菜」ではない。
 時に生意気だ、冷たそうと陰口を叩かれながらも仕事はきっちりと終わらせ、冷静さを心がける。もちろん、女性としての身だしなみも忘れない。それがこの八年間で恵里菜が身につけた「武器」だ。
 ――でも、晃にだけはそれが通用しない。
 晃の一言に、心が荒れる。

「この八年間ずっと、エリに会いたかった。でも俺にそんなこと言う資格はないから、会いには行かなかった。……でもこの記事を見たら、いてもたってもいられなくなって、佐保だけじゃなく宮野にも連絡を取った。結局教えてもらうことはできなくて、おばさんに頼み込んだんだけど」

 晃は一枚のクリアファイルを背広の内ポケットから出してテーブルに置く。中には小さな紙切れが挟まっていた。

「これ、なんで……」

 うながされるままそれを手に取った恵里菜は言葉を失った。

『地域に根づいた営業を!』

 切り抜かれた記事の中には、笑顔で接客する恵里菜がいた。
 一ヶ月ほど前だろうか。地元の新聞社から「働く女性」をテーマに特集を組むので取材させてほしいとの依頼があった。それを受けた支店長は恵里菜を選んだ。地方紙とはいえ自分の顔が新聞に載ることにあまり気は進まなかったけれど、小さなスペースだというので、しぶしぶ了承したのだ。
 この業界を選んだ理由、仕事のやりがい、プライベートの過ごし方。銀行OLの日常などに誰も興味なんて持たないだろうと思いながらも、恵里菜は当たりさわりのない受け答えをした。その後すぐに仕事が立て込み始めたから、今の今まで取材のことなどすっかり忘れていたのだけれど。

(どうして晃がこれを持ってるの?)

 こちらで働いているならば、見る機会があってもおかしくはない。しかし汚さないためか、まるで大切な物のようにファイルに入れてあるのは、なぜ? 

「驚いたよ。昔のエリとは全然違うけど……名前を見なくてもすぐにお前だって分かった」

 綺麗に切り取られた記事。形のいい指がゆっくりと、写真の恵里菜に触れる。

「八年前、俺はエリを傷つけた。それについて言いわけはしない、本当に悪かったと思う。……でも、頼むから話を聞いてほしい。……あの時知らなかったことを今の俺は知っているから」
「……なに、それ。それを聞いたら何かが変わるの? あの時、晃が言ったことがなかったことになるの? ――違うでしょう!?」

 冷静にならなければと思った。でも、これ以上はだめだ。冷静になんてなれない。
 八年前、自分をひどく裏切った男と、小さな地方新聞の一記事を大切に持つ男。
 ――ぶれる。恵里菜の中の晃が崩れる。

「……帰って」
「エリ、俺は――」
「お願い、晃。私の前から消えて」

 晃は何も言わない。ただ黙って恵里菜を見つめる。晃はいつもそうだった。二人共、そう口数が多い方ではなかったけれど、恵里菜が話す時晃は恵里菜を穏やかに見つめ、時折ちゃちゃを入れてきた。そういう時の彼はとても優しい表情をしていて――恵里菜はそんな晃が大好きだった。
 見つめ合う二人。ここが高校の教室であるかのように錯覚してしまう。

「あんなことして、いきなり押しかけて、最低なことをしているのは分かってる。悪いとも思う。でも今を逃したらエリは二度と俺に会ってくれないだろ?」
「――そうしたのは、晃じゃない!」

 気持ちが、あふれる。

「今更話ってなんなの、どうしたいの!? 私は二度と晃に会うつもりはなかった、これからだってそう! 会いたくないの、顔も見たくないの、お願いだから帰ってよ! 嫌なんだよ、晃が目の前にいるだけで痛いの、辛いんだよ!」
「エリ」
「呼ばないで」
「……エリ」
「呼ばないでって言ってるでしょ!」

 恵里菜はたまらずクリアファイルを投げつけた。これ以上は顔を見ているのも辛くて部屋に逃げ込もうとしたけれど、後ろに強く引き寄せられる。
 広くたくましい胸からは、恵里菜と同じくらいに激しく鼓動する心臓の音が聞こえた。背後から抱きしめられているのだと分かった瞬間、恵里菜の頬に一筋の涙が流れる。
 懐かしいこの体温。忘れたくても忘れられなかったぬくもりに、恵里菜の中で何かが崩れた。
 ――本当はずっと、こうしてほしかった。
 背中を向ける恵里菜を引き留めて、抱きしめてほしかった。でもそれは、「今」ではない。
 八年前。こうして、「嘘だ」と、本当に好きなのは恵里菜だとそう言ってほしかった。
 でも晃はそれをしなかった。欲しかった言葉を、ぬくもりを与えてはくれなかったのだ。

「エリ」

 耳元に声が降ってくる。大好きだった声、大好きだったその呼び方。

「ごめん、エリ」

 両手を恵里菜の腰に回してぎゅっと抱きしめながら、まるで許しを請うように晃はささやく。その瞬間、恵里菜の全身から力が抜けた。咄嗟とっさに座り込みそうになる体が支えられる。けれど、晃に背中を向けた恵里菜はふるふると首を振って力なくそれを拒絶した。

「……帰って」

 懇願こんがんにも似た弱々しい声に、晃の体が一瞬震える。

「お願いだから、一人にして」

 涙を流しながらそうささやく恵里菜に、晃はゆっくりと体を放す。彼は床に座り込む恵里菜を切なげに見つめた後、小さく「悪かった」と言い離れていった。そしてテーブルのすみに置いてあるメモ帳に何かを書いて、恵里菜の前にそっと置く。

「二人で会うのが嫌なら、おばさんが一緒でも、電話でもいい。……一度だけでいい、落ち着いて話がしたい」

 恵里菜は答えない。ただうつむき、涙をこらえる。

「ずっと、待ってるから」

 最後にそう言って晃は帰っていった。静かに閉じられた扉、訪れる静寂。

「っ……晃の、ばか……」

 恵里菜のすすり泣く声だけがその場に虚しく溶けて消えた。


 ――あだ名は「二号」だった。
 もちろん一号ことオリジナルは、ご近所のアイドルにして双子の姉でもある佐保だ。
 雰囲気が違う、仕草が違う、少しオカルト風に表すならばオーラが違う。親戚をはじめとするあらゆる人に、今まで何度言われたか分からない、「違う」という言葉。
 唯一の救いは、両親だけはそう言わなかったことだろうか。それでも、恵里菜は常に他人に比較されて育った。事実、双子の姉と並んだ時、確かに自分は「違う」のだと、恵里菜は嫌でも自覚した。
 一卵性いちらんせいの双子である姉妹の見分けがつかない写真は赤ん坊の頃だけだ。
 少女漫画の主人公を地で行く双子の姉と、人の目を見て話すこともできないえない妹。
 幼稚園。同じクラスの人気者だった佐保をいつも遠くから見ていた。
 小学校。低学年の頃は外で元気に遊び回る佐保を図書館の窓から眺めていた。
 さすがに高学年になると校庭を走り回る佐保を見ることはなくなったけれど、佐保のクラスを通りかかると、教室の輪の中には必ずと言っていいほど姉がいた。
 恵里菜とて好きで影でいたわけではない。運動会も合唱コンクールも苦手な自覚があった恵里菜は、隠れて必死に努力をしたけれど、結局姉以上の結果を残すことはできなかった。
 そのたびに「大丈夫だよ、エリちゃん」と佐保になぐさめられるのが本当に嫌で。
 どんな時も笑顔で自分にできないことを軽々とやってしまう佐保がうらやましくて、ねたましくて。
 ――「アイドル」の姉と、「地味子」の妹。
 そんな双子は学校ではある意味有名人だった。
 中学生に入ったあたりから、佐保は目に見えて可愛くなっていった。
 女子ソフトテニス部に入学した佐保の噂は、あっという間に学校中に広がった。
 今年の新入生にものすごく可愛い子がいるらしい――噂は噂を呼び、放課後のテニスコートにはたくさんの男子生徒が佐保見たさに集まったほどだ。そして彼らは双子の妹の存在を知るなり、期待を抱いて恵里菜のクラスに押しかけてきた。

『え、あれが妹? 顔は似てるけど……なんか、全然違うな』
『ダサい? っつーか……すっげえ地味』

 そうして恵里菜についたあだ名が「二号」。
 当時、本の読み過ぎで視力の落ちた恵里菜は、黒縁メガネが欠かせなかった。佐保より唯一勝っている点といえば、読書量と成績くらい。おしゃれとは程遠い生活を送っているから化粧のやり方も分からないし、髪の毛だってカラスのように真っ黒な髪を、後ろでひっつめているだけだった。
 ――双子で生まれていいことなんて、何もなかった。
 血のつながらない赤の他人なら良かった。同級生として佐保と知り合っていたら、きっと恵里菜は佐保のことを好きになれた。佐保は誰にでも優しく、悪いことを極端に嫌う。
 いじめなんてもっての他、クラスで一人ぼっちの子がいたら、絶対に話しかけるし友達になる。そんな佐保を中心にして、一人ぼっちの子もいつの間にかクラスの中に溶け込んでいるのだ。
 誰もが恵里菜を佐保の影として扱った。
 しかし一人だけ、家族以外で恵里菜をただの「新名恵里菜」として見てくれる人がいた。
 ――藤原ふじわら晃。
 彼と出会ったのは、小学四年生の頃である。


 藤原一家が引っ越しの挨拶あいさつにやってきた時、晃は母親であるサヤの隣で不機嫌そうに立っていた。
 恵里菜は初めて晃を見た時、こんなに綺麗な男の子がいるのかと驚いたものだ。
 彼の少しだけ色素の薄い茶色の猫っ毛や瞳はどこか洋風で、まさに美少年といった言葉がぴったりな子供だった。藤原家が隣に引っ越してきて、恵里菜たちの生活は少しずつ変わっていく。
 双子の母親はこの街に慣れないサヤを気遣い、色々と付き合いをしていた。やがてそれは家族ぐるみのものとなり、年に数回、二家族で食事会を行うようになった。
 晃が生まれて間もなく、高校教師をしていた彼の父親は病気で亡くなったという。
 女手一つで子供を育てることは容易ではない。スナックのホステスとして働くサヤと、近所に住む同級生の母親たちはどこか距離を置いていたけれど、恵里菜の母親は「サヤちゃん」と昔からの友人のように交流していた。
 春はお花見、夏はバーベキュー。運動音痴な恵里菜は祖父母の家で留守番をしていたが、スキー旅行に行った年もあったと思う。いずれもそれらの中心は佐保だったけれど、年頃の男の子にしては珍しく、晃はどの行事にもきちんと参加していた。
 さすがに中学二年を過ぎると家族会の回数も減り、高校入学を控えた頃には親たちだけの付き合いとなっていたが、佐保と晃がたまに会っているのは知っていた。
 佐保が日に日に可愛くなり、恵里菜は変わらず地味子であり続ける中、一番変わったのは晃だろう。
 中学に入学してから成長期が来て背はぐんぐんと伸びた。そしてどこで道をそれたのか、授業はさぼるわ喧嘩はするわで、ある意味佐保以上の有名人になった。ところが、他校に名前が知られるほどの不良少年になっても、佐保の中で「あっくん」は「あっくん」のままだったらしい。
 見かければ笑顔で近寄るし、授業をサボった晃の腕を引っ張って教室に連れ帰ってきたこともある。
 恵里菜はそんな二人をいつも遠くから見ているだけ。
 当時の恵里菜にとって、晃はただの幼馴染おさななじみだった。
 それが変わったのは、中学を卒業する頃だ。高校受験も終えた春休みのその日、恵里菜はベッドにごろんと横たわり、お気に入りの少女小説を読もうとしていた。

「佐保! お前、この間貸したCDいい加減返せよ――って……エリ?」
「……あっくん?」

 突然部屋のドアを開けられた恵里菜は、驚いて跳ね起きるなり、その人物を見て固まった。
 生まれつき少しだけ色素の薄い髪に細い眉毛。両耳にはいかついピアスが開いている。白い長袖のTシャツにジーンズというラフな出で立ちだが、恵里菜を見下ろす両目には青のカラーコンタクトレンズが入っていて、どこからどう見てもガラの悪い――しかし無駄に顔のいい不良少年だ。
 同じ高校に進学することは姉経由で聞いていたけれど、こうして二人きりになるなんて、おそらくその時が初めてだった。
 佐保は、と聞かれて友達と遊びに行っていることを告げる。すると晃はため息を吐いた後、じっと恵里菜を見つめた。美少年兼不良に見られて固まっている恵里菜に、「なあ」と低い声が届く。

「お前とこんな風に話すの、いつぶりだっけ?」
「……覚えてないよ、小学生の時以来じゃないの?」
「ふうん。なあ、お前『二号』って呼ばれてるってホント? 学校の奴らが言ってた」

 二号。その響きに一瞬頭が真っ白になった。
 数年ぶりにまともに会話した相手に、なぜそんなことを言われなくてはならない。
 結局は晃も他の人たちと一緒なのか。佐保との違いを陰で笑うのか。
 この時、恵里菜は自身の奥底に「晃は他とは違うかもしれない」という期待があったこと、そしてそれがはかなく砕けたことを知った。

「だったら、何?」

 この綺麗で残酷な幼馴染おさななじみは、次はどんな言葉で自分を傷つけるのだろう。低い声で問う恵里菜にしかし、晃は「別に」と興味なさそうにあっさりと言った。

「ガキだなあと思っただけ」
「……ガキって、誰が?」
「学校の奴ら。双子のくせに顔以外全然似てないって騒いでたけど、似てなくて当たり前じゃん。双子っつってもお前たち全然違うのに。二号とか、意味分かんねえ」
「……あっくんから見た私と佐保って、そんなに違う?」

 声が震えたのは多分、気のせいではなかっただろう。

「違うだろ。顔は確かに似てるけど、お前、佐保みたいにうるさくないし、あいつと違って本も読む。てか、双子って言ってもコピーじゃねえんだから、そんなの当たり前だろ」

 今まで何度も言われてきた「違う」という言葉。それは全て佐保を基準に置き、彼女と比較してあまりにみすぼらしい恵里菜を批判する鋭い響きだった。
 しかし今の晃の言葉に込められたものはそうではなかった。自然に言われたからこそ余計にそれが分かる。「違う」ことに対して何も恥じることはない。そう恵里菜には聞こえた。
 それが恵里菜にとってどんなに嬉しいことなのか――きっと、晃には分からない。

「なあ、それより、あっくんって呼ぶのやめろよ。いい加減恥ずかしい……ってお前、泣いてんの?」
「……ううん、なんでもない。じゃあなんて呼べばいいの?」

 目元に込み上げる涙を急いで指で拭うと、「晃でいい」とどこか気まずそうに目をそらされた。
 恵里菜を泣かせたと思ったのか、どこかぎこちないその仕草は一瞬、出会った頃の可愛らしい姿とかぶる。何よりも晃の言葉一つ一つが嬉しくて、「分かった」と自然と笑みがこぼれた。

「――なんだ、笑えるんじゃん」
「え……?」
「基本的にお前、ずーっと気難しい顔してるから。怒ってないのは分かるけど、そういうの色々と誤解されるぞ。それって、もったいなくねえか?」

 あっけらかんと言われた言葉に、恵里菜は込み上げる熱いものをぐっと抑えて「そうだね」と返すのが精いっぱいだった。
 この日、遠いと思っていた幼馴染おさななじみは、案外近いところにいたのだと恵里菜は知った。
 ――おそらくこの時初めて、恵里菜は晃を意識した。
 それは恋だと気付くにはあまりに淡い気持ちだったけれど、恵里菜の中で、晃が「ただの幼馴染おさななじみ」から「特別な幼馴染おさななじみ」へと変化した瞬間だった。


   3

「エリー、おはよう。……って、どうした、その顔」

 週明けの月曜日、朝八時。駐車場で佐々原と鉢合わせした恵里菜は、「おはようございます」と軽く会釈えしゃくをする。足早に目の前を通り過ぎようとしたけれど、どうやら間に合わなかったようだ。

「……やっぱり、目立ちます?」

 真っ赤に充血した目にれぼったいまぶた。いつもより三十分も早く起きてファンデーションとコンシーラーのダブル攻撃をしたにもかかわらず、結果は佐々原の反応通りだ。

「目立つ。エリーのことだからなおのこと」
「どういう意味ですか」
「鬼の目にも……嘘、ごめん冗談だって」

 真っ赤な目でじろりとにらむと、佐々原はわざとらしく両手を合わせて謝った。

(ほんとにもう、この人は)

 佐々原と話していると、あれこれ考えていたことが無駄だと感じてしまうから不思議だ。現に今だって、呆れて思わず苦笑がれた。

「嫌な夢を見たんです。新人時代に佐々原さんに怒られた時の夢」
「はあ? ちょっと聞き捨てならないよそれ、俺はエリーのためを思って――」
「冗談ですよ。夢を見たのは本当ですけど。じゃあ、着替えるので失礼しますね」

 不満気な佐々原に背を向け、恵里菜は足早に店舗へと入っていった。


 ひどい夢を見た。初めて晃を意識した日と、別れを告げた日のことが交互に映像化されるそれに、恵里菜は何度も飛び起きて涙を流した。そんな自分がみっともなくて、忘れるようにまた眠って。
 結局この土日は最低の週末になってしまった。
 喉がかすれるほど泣き続けた結果、やがて涙を流す気力すら失い、代わりにどっと疲れが押し寄せた。
 何もしたくなかった。ただひたすらに惰眠をむさぼって、見たくもないテレビをつけっぱなしにして、寝間着のままだらだらと時間を過ごす。
 眠りにつけばあの忘れたい場面が何度も夢に出てきた。かと思えば、姉の代わりとも知らずに過ごした幸せな日々が繰り返される。
 夢と現実の境目が曖昧あいまいになって、涙を拭いても次に起きた時はまた頬が濡れている。
 それを何度も繰り返して、気付けば月曜の朝が来ていた。普段なら週末明けの月曜日なんて一番気分の上がらない日なのに、この時ばかりは仕事があるのがありがたかった。

(忘れなきゃ)

 この週末は嫌というほど泣いて、眠った。しかしいつまでも泣いてばかりいられない。
 昔の男の思い出に引きずられて、今の自分を忘れてはいけない。恵里菜には晃と別れてからの八年間がある。見せかけだけのものでも構わない。地味子の自分を捨て去るように、がむしゃらに過ごしたこの時間があったからこそ、「派手で仕事ができる」恵里菜に生まれ変われたのだ。

(大丈夫)

 いつも通り働いて、お酒を飲んでぐっすり眠って。そうすれば「派手なエリー」に戻れる。
 そう、思っていたのに。
 土日の影響が仕事にまで及んでいたことに恵里菜は気付かなかった。週末を明日に控えた金曜日。あと数時間でこの辛い一週間の勤務が終わるというその時、それは起きた。


「新名。何考えてんの、お前」
「……申し訳ありません」
「謝るくらいならどうしてやっておかないんだよ!」

 デスクを叩いた衝撃で、書類が数枚床に落ちる。視界の端で三好が肩をびくりと震わせた。

「保証会社の承認も下りたってお前言ったよな。それがまだファックスも送ってなければ承認も下りてないってどういうこと? 別のお客様と勘違いしていましたって、何それ」

 渉外係の菅野すがのはどちらかと言うと気むずかしいタイプで、恵里菜はあまり得意ではなかった。だからこそ、菅野の案件にたずさわる時は人一倍注意していたというのに。

「俺たち渉外係にとって案件一つ取ってくるのがどれだけ大変か、考えたことあるのか?」
「……はい」
「分かってるならありえないだろ、こんなミス」

 冷たく吐き捨てる菅野に、恵里菜はただ頭を下げることしかできない。
 渉外係は法人、個人の顧客に投資信託や保険商品の勧誘をしたり、融資ゆうし案件を獲得するのが主な仕事だ。融資ゆうし係の恵里菜は渉外の取ってきた案件を形にし、稟議書りんぎしょを作成して実行するまでを行う。
 菅野は自分の担当する企業の社長が家の建て直しを検討していると知り、懸命な勧誘を行って契約をもぎ取った。
 住宅ローンを一件契約すれば数千万の融資ゆうしが見込める。
 その後の内部事務は恵里菜の仕事だ。
 菅野は保証会社に送る書類一式を恵里菜に渡していた。恵里菜はその中身を確認し、不備がなければ保証会社に郵送して承認の可否を得る必要があった。
 承認が得られなければこの仕事は先に進められないし、特に今回の案件は早ければ早いほどいいと言われていた。
 ――それなのに、郵送どころか内容を確認することさえ忘れていた。
 今回、恵里菜は菅野の案件と平行して佐々原の住宅ローン案件も進めていた。
 だからといって、こんな初歩的なミスをするのは初めてだった。それぞれの進捗しんちょく状況は把握していたはずだし、そもそも顧客の名前も、担当者も違うのだ。普通ならば取り違えるはずがない。
 晃のことが原因で無意識にミスをした。そんな個人的な事情、なんの言い訳にもならない。

「菅野、社長はなんて?」

 張り詰めていた空気をやわらげるように、佐々原は冷静に問う。

「電話口で怒鳴られてそれっきりです。会社に電話しても取り次いでもらえません。せっかく佐々原さんから引き継いだ大口先なのに本当にすみません。今日に限って支店長も次長も出張だし……」
「とにかくお詫びに行こう。俺も一緒に行くよ。――新名さん」
「はい」

 怒られるのだろう、と緊張しながら佐々原を見る。しかし彼はミスについては何一つ触れることなく、「田村たむら代理が帰ってきたらすぐにこのことを報告するように」と端的な指示を与えた。

「本当なら田村代理が一緒に行くべきなんだろうけど、今はとにかく早く行かないと」

 支店長と次長がいない今、支店長代理である田村がこの場においての責任者だ。しかし恵里菜直属の上司である田村は現在別の顧客の下におもむいている。本来なら田村の帰りを待つべきなのだろうが、今はとにかく急いで謝罪に向かうことを佐々原は優先させた。

「じゃあ菅野、行くか」
「すみません、佐々原さん。よろしくお願いします」
「あの、わたしも一緒にっ……」
「必要ない」

 はっきり言ったのは菅野ではなく佐々原だった。いつもと変わらない落ち着きで言いきったその一言は、菅野の怒鳴り声以上にこたえた。佐々原が「必要ない」といったら本当に必要ないのだ。
 終業時刻が過ぎて次々と人が帰っていく中、恵里菜はただ待ち続けることしかできなかった。


「新名、最近どうした」
「いえ……本当に、この度は申し訳ありません」
「そう暗い顔をするな。今回のことは任せきりにしていた俺も悪いよ。本当ならこまめに確認するべきなのに、普段の新名があまりにもしっかりしているから、つい頼りすぎてしまった」

 田村はパソコンから顔を上げ、沈んだ表情の恵里菜に「悪かったな」と苦笑した。
 戻った彼は恵里菜から報告を受けると、すぐに佐々原へ連絡して状況を確認した。本来ならば役席である彼が菅野と同行するべきだったが、何人も謝罪に行っては逆に迷惑となってしまう。田村は「何かあればすぐに連絡するように」と伝えて現在も待機していた。

「ああ、そうだ」

 唐突に沈黙が破られ、恵里菜は反射的に表情を強張らせた。
 また何か不備があったのだろうかと不安がつのる。今日のミスですっかり萎縮いしゅくしてしまったらしい。

「新名に特別講師の依頼が来ていたんだ。どうやらこの記事を見たらしくてな」

 田村はデスクの引き出しから何かの紙を取り出した。途端に今度は違った意味で顔が強張る。彼が机に広げたそれは、あのインタビュー記事が載った新聞だったのだ。

「これ、覚えてるか?」
「――はい、もちろん」

 今となっては引き受けなければ良かったと思う程度には、軽いトラウマになっている。なにせ、あれが原因でとんでもないものが釣れてしまったのだから。
 だがそんなことなど知らない田村は、内心悪態をつく恵里菜に淡々と話を続ける。

「あれを見た高校の先生から『ぜひうちの生徒たちにも職業体験の話をしてほしい』と依頼があったんだ。対象は高校一年生。時間は一コマ四十五分だそうだ」
「私が高校生相手に授業をするということですか?」
「簡単に言えばそうだな。相手方の先生いわく、『授業と固く考えずに気楽にやっていただいて構わない』とおっしゃっていた。頼まれてくれるか?」

 突然そう言われてもすぐにうなずくことはできなくて、恵里菜は戸惑いがちに尋ねた。

「……私、塾講師のアルバイトさえしたことありませんよ?」
「先方が新名を指名しているんだし、そこは問題ないだろう」
「ちなみに、どこの高校ですか?」
里宮さとみや高校だ。確か、新名の出身校だよな?」

 ごく自然な田村の問いかけに、恵里菜は「はい」とか細く答えるのが精いっぱいだった。

(里宮高……?)

 ひんやりとした何かが体の内側を走り抜ける。寒気にも似たそれに、恵里菜はぐっとこぶしを握った。
 ――かつて、そこには恵里菜の全てがあった。
 夢も、恋も、青春も。たくさんの思い出が詰まった大切な場所。
 その一方で全てを消し去りたいと強く思うほどにまわしい場所でもある。
 そこに、大人になった自分が行く。かつての恵里菜と同じ制服を着た学生たちと向かい合う。
 正直に言えば冗談ではない。しかしよくよく話を聞けば、すでに上の許可も取っているという。ならば断れるはずもなく、恵里菜は拒否したい気持ちをなんとかこらえながら「承知しました」と答えた。

「詳しいことは佐々原に話してあるから、帰ってきたら聞くといい。日程は佐々原と相手側とで詰めることになっている。新名は話す内容を考えておけば大丈夫だよ」
「佐々原さんも呼ばれているんですか?」
「ああ。可能であれば男性と女性両方の視点から話をしてほしいと言われてな。さすがに決算月に二人も派遣するのは無理だが、十月以降なら構わないだろうということで了解した」
(……佐々原さんも一緒、か)

 今まさに自分のフォローに奔走している先輩を頭に描いたその時、電話が鳴った。
 社長と話がついたのだろうか。恵里菜は素早く受話器を取る。

「お電話ありがとうございま――」
『エリー?』

 新名ではなくエリーと呼んだその声は、やはり穏やかで。

『謝罪を受け入れて頂けたよ。このまま話を進めていいと言って下さったから、大丈夫だ。今事務所で、社長と菅野が話を進めてる』

 生意気にも「名前で呼ばないで」と言ったくせに、佐々原の声を聞いて安心する自分がいた。同時に平静をよそおっていても、自分がどれほど動揺していたのか、この瞬間痛感した。
 たまらず熱くなった目元に力を入れると、受話器を握る手にも力がこもった。

『田村代理に代わってくれる?』
「はい。――田村代理、佐々原さんからお電話です」

 それから二、三言話して田村は電話を切った。

「予定通りうちでローンを組んでくれるそうだ。二人はまだしばらく事務所にいるそうだから、新名、もう帰って大丈夫だ」

 でも、と言いかけた言葉をぐっと呑み込む。自分が原因で先輩たちが頭を下げに行ったのに、先に帰れるわけがない。しかしこのまま恵里菜がここにいてもできることがないのもまた事実。
 恵里菜は再度深々と頭を下げると、営業室を後にした。


しおりを挟む
表紙へ
感想 0

あなたにおすすめの小説

ヤンデレにデレてみた

果桃しろくろ
恋愛
母が、ヤンデレな義父と再婚した。 もれなく、ヤンデレな義弟がついてきた。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

肉食御曹司の独占愛で極甘懐妊しそうです

沖田弥子
恋愛
過去のトラウマから恋愛と結婚を避けて生きている、二十六歳のさやか。そんなある日、飲み会の帰り際、イケメン上司で会社の御曹司でもある久我凌河に二人きりの二次会に誘われる。ホテルの最上階にある豪華なバーで呑むことになったさやか。お酒の勢いもあって、さやかが強く抱いている『とある願望』を彼に話したところ、なんと彼と一夜を過ごすことになり、しかも恋人になってしまった!? 彼は自分を女除けとして使っているだけだ、と考えるさやかだったが、少しずつ彼に恋心を覚えるようになっていき……。肉食でイケメンな彼にとろとろに蕩かされる、極甘濃密ラブ・ロマンス!

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。