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1巻
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Ⅱ
三ヵ月後の六月初旬。
「みこと先生、次はこれ読んで!」
小さな体で絵本を大切そうに持ってきた子供に、エプロン姿の美琴は「はいはい」と笑顔で答える。
「宗太君はこの絵本が本当に好きだねえ。でももうお昼寝の時間だよ?」
これを読んだら眠ろうね、と促すと、宗太は「うん」と元気いっぱいにうなずいた。
子供の無邪気な笑顔を見ていると、美琴の方も自然と表情が柔らかくなる。
(この様子だと、まだまだ眠りそうにないなあ)
内心苦笑しながらも、美琴は膝の上に宗太を乗せて、ゆっくりと絵本を読み始めたのだった。
ここは、涼風学園。
柊グループ傘下の財団法人が運営している、民間の児童養護施設だ。
この四月から、美琴は週に三日ほど契約職員としてここで働いている。
勤務時間は、午前九時から午後三時までの六時間。主な担当は、宗太たちのいる三歳児だ。
本当は正職員としてフルタイムで働きたいのだけれど、とある事情でそれはできなかった。
(……やっと寝た)
結局、宗太は絵本を五冊読んだところで寝落ちした。
眠る宗太を起こさないように横抱きにすると、そっとお昼寝布団へと横たえる。
(可愛いなあ)
絵本を読んでいる途中、眠さを必死に堪えて目を擦る姿を思い出すと、つい笑みがこぼれる。
まだまだ幼さの残る寝顔が何とも愛らしい。起きている時はあまりの元気さに疲れてしまうこともしばしばだが、それはそれでまた違った可愛さがある。
涼風学園に入所しているのは、何らかの事情により親と一緒に暮らすことができない子供たちだ。
一方、職員である大人たちの人数はどうしても限られる。全員を我が子のように目を配るのは難しい。それでもできる限り子供たち一人一人に寄り添うように、というのがここで働く上で必要なことだった。美琴にそれを教えてくれたのは、ここの園長である山城百合子だ。
六十代半ばの彼女を子供たちは皆、実の祖母のように慕っていた。
「美琴さん」
子供たちの様子を見つつ散らばっていた玩具を片付けていた時だった。部屋の扉が少しだけ開いて、百合子が顔を覗かせた。
「ちょっと来てくれるかしら」
「はい」
ちらりと時計を見るとまだ午後二時。退勤するにはまだ早い。美琴は不思議に思いながらも同僚の職員にそっと声掛けをして、廊下へと出る。
「突然ごめんなさいね。さっき、あなたのご実家から連絡があったの。今から迎えを寄こすから帰る準備をしておくようにって」
急な話に美琴は目を丸くする。しかし今は仕事中。自分だけの都合で帰るわけにはいかない。
「まだ退勤時間まで一時間ありますし、三時に来るように連絡してみますね」
しかし百合子は困惑した表情で首を横に振る。
「残りの時間は代わりの先生にお願いしたから大丈夫よ。今日のところは帰った方がいいわ。その……電話してきたのは、あなたのお祖父様の秘書の方なの。だから……ね?」
含みを持たせた言い方に美琴はハッとする。美琴の祖父、すなわち柊重蔵は涼風学園の経営母体のトップだ。
百合子は園長として、そんな人物の意向を無視するわけにはいかないのだろう。直接涼風学園の運営に携わっていないとはいえ、重蔵なら傘下の施設の一つや二つどうにでもできるのだから。
そして重蔵に逆らえないのは、美琴も一緒だった。
「……ご迷惑をおかけしてすみません」
謝罪すると、百合子は「いいのよ」と笑顔で首を振る。
「本音を言えばフルタイムで働いてほしいところだけれど……こればかりは、あなたの立場を考えれば仕方ないものね。美琴さん、あまり気に病まないでね。子供たちはあなたの笑顔が好きなんだから。もちろん、私もね」
百合子は慰めるように美琴の肩をぽん、と叩く。それに美琴はもう一度頭を下げたのだった。
「……急に迎えに来るなんて、何かあったのかな」
職員用のロッカーで着替えながらも、美琴の胸はざわめいていた。
涼風学園で働き始めてまだ三ヵ月だけれど、こんなことは初めてだ。
ここで美琴が柊家の令嬢であることを知るのは、ごく一部の人間だけ。プライベートはともかく、通勤はもっぱら電車とバスを利用しているから、迎えが来たことなんて一度もない。
柊重蔵の孫であること。
それが、美琴がフルタイムで働けない理由だ。
重蔵は美琴が外で働くことを快く思っていない。
美琴はこの春大学を卒業したばかり。予定では美琴の卒業と同時に貴文が柊に婿入りし、美琴は家庭に入って柊商事の新社長となった貴文を支えることになっていた。
重蔵の計画通りに進んでいれば、六月の今頃は新婚旅行の真っ最中だっただろう。
しかし、それは全て露と消えた。
貴文が駆け落ちしたからだ。
この出来事に重蔵は烈火の如く怒り狂った。
自らの面子を潰された怒り。目をかけていた者に裏切られた屈辱。重蔵の命を受けた柊の人間が血眼になって貴文を捜したけれど、彼の行方は三ヵ月経った今も分からない。
美琴はそのことに安堵する一方、恐ろしくもあった。もしも、美琴が駆け落ちの共犯者だと重蔵に知られたら……その時のことを想像すると、芯から凍えるような気分になる。
ともあれ、結果として美琴の婚約は破談となった。
重蔵は、美琴が直接経営に携わることを望んでいない。しかしいくら柊商事の令嬢とはいえ、二十三歳で無職なのはどうしても嫌だった。
そこで美琴は、大学で幼児教育学を学んでいた時に得た保育士の資格を活かして働きたいと思ったのだ。
もともと子供好きではあったし、涼風学園は大学時代にボランティアで通っていた場所でもある。
この時の経験を通じて、美琴は様々な事情で親といられない子供たちがいることを知った。
自分にも何かできることはないだろうか。
そう考えた結果が、寄付だった。
これは百合子しか知らないことだが、実は美琴は涼風学園の母体である財団の役員に名を連ねている。役員と言っても名ばかりで、運営は有能な人間が行っているのだが、柊グループの株を多数所有している美琴は、配当金の大半を寄付に回していた。
なんの取り柄もない自分にできるせめてものことが、それだったのだ。
その繋がりもあり、百合子は美琴がここで働くことを快く受け入れてくれた。唯一難色を示したのが重蔵だったが、交渉の結果、週に三日働く契約職員になることを認めたのだ。
ここで働いている時は、美琴は素でいられる。
子供たちと向き合っている時だけは、柊グループの令嬢ではなく、ただの美琴でいられるのだ。
「柊さん!」
帰り支度を整えた美琴が駐車場に着いた時だった。一台の軽自動車から男性が降りてくる。
「山本先生、お疲れ様です」
「お疲れ様です。早退するって園長から聞きました。体調、崩しちゃいました?」
「いいえ、家の事情で早退することになって……もしかして代わりの先生って……」
僕ですよ、と山本はあっさりと答える。美琴は「すみません」とすぐに頭を下げた。
「突然でご迷惑をおかけしましたよね」
「お気になさらず。柊さんのお役に立てるなら、これくらいなんてことないです」
意味深な言葉に、美琴は首を傾げる。すると山本は、「しまった」と言わんばかりの表情をした。
「えっと、今のは……なんでもないです、忘れてください」
どこか慌てた様子の山本に、美琴は内心気になりつつも「分かりました」と素直に答える。
「じゃあ、私はこれで。今日は本当にごめんなさい。後で何か埋め合わせをさせてくださいね」
失礼します、と軽く一礼して背を向けようとした時だった。
「あのっ! ……それじゃあ今度、二人で食事でも行きませんか?」
驚いて振り返ると、なぜか顔を赤くする山本と目が合った。
「えっと、その、埋め合わせを――」
「ああ、そういうことでしたら」
喜んで、と答えようとした時だった。黒塗りの高級車が駐車場に入ってきたのを見て、美琴は固まる。
「うわ……高そうな車」
隣の山本が驚いた声を出す。そんな二人の前で、車の窓がゆっくりと下がった。
「――美琴」
中から顔を出したのは柊重蔵。美琴の祖父である。重蔵は山本に一切目をやることなく孫を鋭く睨む。
「何をしている、早く乗れ」
「……はい」
返事をした美琴は、目を丸くする山本にもう一度礼を言うと、車に乗り込んだのだった。
「誰だ、あれは」
車が発進した直後、重蔵は短く問う。美琴は俯いたまま小さな声で答えた。
「職場の先輩です」
「随分、親しそうに見えたが?」
祖父が何を言いたいのか分からず、美琴はちらりと視線を上げる。しかし、隣に座る人物と目が合った瞬間、鋭い眼光に圧倒されて息を呑んだ。
七十五歳という高齢にもかかわらず、祖父の背中はしゃんと伸びている。座っているだけで息が詰まりそうなほどの存在感を放つ彼こそ、世界に名の知れた柊グループの頂点に立つ男である。
「二人きりでいったい何を話していた?」
「……いえ、大したことではありません」
美琴はごまかした。
食事に誘われたことは何となく言えなかった。すると祖父は不快そうに眉を寄せる。
「契約職員ならばと大目に見たが、やはり外で働くのは考え物だな。どうせ色目を使うのなら、あんな男ではなく貴文に使えば良かったものを」
「色目なんてっ……!」
使ってない。第一そんな言い方は山本にも失礼だ。そう言いかけたが、重蔵の鋭い一瞥で言葉を呑み込んでしまう。
「それくらいしてでも、貴文を繋ぎ止めておく必要があったと言っている。お前がもっとしっかりしていれば、秘書なんぞと逃げられることはなかったんだぞ。お前が不甲斐ないから今の状況になったと、本当に理解しているのか?」
心底呆れたような声が車内に響いた。
駆け落ちから三ヵ月経ってもなお、重蔵の怒りは解けていない。
裏を返せばそれは、貴文たちが見つかっていないということ。それ自体は嬉しいし、彼らへの協力を後悔したことはない。それでも、こうも何度も責められると心が折れそうになる。
こんな時、美琴が言える言葉は一つだけだ。
「……申し訳ありません」
謝罪すると少しは溜飲が下がったのか、重蔵は「ふん」と鼻を鳴らす。
「次は、失敗してくれるなよ」
「次……?」
「今日の見合い相手のことだ」
「待ってください! お見合いって……そんな話、聞いてません」
「今、言った。何か問題があるのか?」
突然すぎて言葉も出ない。呆然とする美琴を重蔵は冷ややかに見つめた。
「まさか、貴文以外とは結婚する気がないとは言わないだろうな。お前の婿が私の後を継ぐのは昔から決まっていたことだ。貴文がダメなら他の人間を用意するまでだ」
祖父が自分を道具としか見ていないことは、分かっていた。
貴文と婚約破棄した以上、いずれは誰かと結婚する必要があることも理解していた。
それでもこれは、あまりに急すぎる。
重蔵の口ぶりからすると、これは決定事項に近い。きっと形ばかりのお見合いで、既に婚約は成立しているも同然だろう。十三歳の時、貴文との婚約が決まった時と同じ。今の美琴にできるのは、黙って祖父の言葉に従うことだけ。拒否権は、初めから存在しない。
「……お相手は、どんな方ですか」
ならばせめて、事前に人となりくらいは把握しておきたい。
しかし勇気を振り絞ったこの問いにも、重蔵は「会えば分かる」と素っ気なく返しただけだった。
「貴文には劣るだろうが、今後の柊を任せる能力はある。どちらにしても、お前には過ぎた男だ」
これには、流石に心が折れた。
美琴にとっては、今後の人生を左右する出来事なのに。
重蔵にとっては、会社のための一出来事でしかないのか。
(……嫌だ)
怖い、と本能的に思った。幼馴染であり、婚約者として十年近くを過ごした貴文とは違う。
これから初めて顔を合わせる人間と結婚するなんて……そんなの、怖くないはずがない。
そしてそれ以上に、こんなにも不安で怖くて仕方ないのに、祖父に何一つ言い返せない自分が情けなくて、腹立たしい。
「もうすぐ店につく。今のうちに作り笑顔の練習でもしておけ。お前は顔しか取り柄がないんだ。せいぜい有効活用して少しでも気に入られるように努めろ。また逃げられないようにな。分かったなら、その暗い顔をなんとかしろ。――本当に、情けない」
ため息は、時に厳しい叱責よりも美琴の心を深く抉る。
情けない。
みっともない。
……いったい何度、この言葉を聞いただろう。
幼い頃から言われ続ければ、自分がいかに凡庸な存在なのかを嫌でも自覚させられる。
臆病で、引っ込み思案。取り柄と言えば少し見た目がいいだけ。
日本人形のように真っ黒な髪は、重蔵が女の短髪を嫌うため幼い頃から背中まで伸ばしている。
扇形の眉毛に縁どられた大きな瞳。すっと通った鼻筋に桃色の唇。生まれつき肌があまり強くないせいで、美琴は子供の頃から色白だった。確かに街を歩けば声をかけられることがしょっちゅうある。
(でも、それだけ)
知らない人が声をかけてくれるのは、見た目がマシだから。
世間的にはハイクラスの男性が妙に優しくしてくるのは、柊家の娘だから。
美琴自身は、見た目以外にはなんの取り柄もない、つまらない女なのだから。
それからほどなくして、二人を乗せた車はある料亭に到着した。既にお見合い相手は到着しているという。部屋へと続く長廊下を女将に案内されている最中、重蔵は言った。
「お前は黙って私の隣に座っていればいい。余計なことは何も言わず愛想を振りまいておけ」
「……承知しました」
振り返りもしない祖父の背中を前に、美琴は思う。
目に見えない鎖で繋がれているようだ。
己の意思も持たずに黙って祖父に付き従う自分は、さながら犬のようだと美琴は自嘲する。
否、飼い犬のコーギーはしばしば「お前は頭がいいな」と祖父に褒められる。
一方の美琴は、生まれてこの方一度だって褒められたことがない。
もしかしたら祖父にとっての美琴は、飼い犬以下の存在なのかもしれなかった。
柊家の娘として生まれてから今まで、命じられれば返事は「はい」の一択以外ありえなかった。
逆らったのは、貴文の駆け落ちに協力した一度だけ。少しでも迷う素振りを見せれば即座に厳しく叱責される。歯向かえば最後、身一つで家から追い出される。
たとえそれが、つい昨日まで家族として一つ屋根の下で暮らしていた者であったとしても、祖父は自分の意に沿わない者は容赦なく切り捨てるのだ。
……まるで、塵のように。
実際、美琴の母親がそうだった。
現在、柊家本家の屋敷に住んでいるのは、重蔵と美琴の二人だけだ。
父親は美琴が子供の頃、外に愛人を作ったことが原因で重蔵に勘当された。
母親は、美琴が十歳の時に重蔵によって柊家を追い出された。
美琴が生まれる前、母親はホステスをしていた。そこへ客として訪れた父親と恋に落ち、美琴を身ごもり結婚したのだ。しかし重蔵は、母親を最後まで柊家の人間とは認めなかった。
折り合いの悪い祖父と母親。
父親はそんな二人を初めは取り持っていたけれど、最後は疲れて外に女を作った。父親が帰らないようになると、重蔵の母親へのあたりはますます強くなって……ついに母は屋敷を出て行った。
その日は、激しい雷雨だった。
土砂降りの雨の中、鉄の門扉に追いすがって娘の名前を呼び続ける母の姿を、美琴は今でもはっきりと覚えている。美しかった母がボロ雑巾のような姿で泥水に膝をつき、やがて力なく去っていくのを、美琴は暖かな部屋の中で嗚咽を殺しながら見ていることしかできなかった。
そんな美琴の横で、祖父は『去り際まで醜い女だ』と吐き捨てるように言ったのだ。
『美琴。お前だけはああはなってくれるなよ。お前は、柊家を継ぐことだけを考えていろ。この家はいずれお前の夫となる男に任せる。それまで、お前は黙って私の言うことに従っていればいい』
重蔵が美琴に望んだのは、柊の人間であることだけ。
跡継ぎの能力は初めからないと割り切り、優秀な人材と結婚させることだけを目的としたのだ。
「こちらでございます」
案内されたのは、離れの一室だった。
この向こう側に新しい婚約者がいる。こんな時も頭に浮かんだのは、やはり一人の男だった。
(拓海)
今こそ、あなたに会いたい。
どんな言葉でもいい。あなたの声が聞きたくて、たまらない。
そして、襖が開いた。堂々とした足取りで入室する重蔵の後ろを、俯いた美琴は幽鬼のように続く。すると、下座に座っていた男――この人がお見合い相手だろう――がゆっくりと立ち上がった。
「ご無沙汰しております、重蔵様」
その声に美琴は弾かれたように顔を上げた。
思考が止まる。一瞬にして凍り付いた美琴に気づかず、重蔵は小さく頷いた。
「久しいな」
次いで重蔵が呼んだ、その名前。
「拓海」
ずっと会いたいと思っていた、けれどもう二度と会うことはないだろうと思っていた人。
(うそ)
九条拓海が、そこにいた。
初めは、拓海に対する強い想いが見せた幻かと思った。
だって、ここに拓海がいるなんてありえない。しかし美琴の目の前にいるのは間違いなく本人だ。
最後に別れた時より随分と大人びているけれど、彼を見間違うはずがない。
離れの和室に三人。重蔵が上座に腰を下ろすと、美琴は混乱したままその隣に正座する。一方拓海は、美琴に視線を向けることなく重蔵を真っ直ぐ見据えた。
「こうして会うのは四年ぶりか。息災にしていたか」
「おかげさまで。重蔵様もお元気そうで安心いたしました」
「何が元気なものか。お前の兄のせいで心が休まらない毎日を過ごしているというのに」
「それは……」
「ふん、まあいい」
美琴の知る限り、二人はこんな風に会話をするような仲ではなかった。
重蔵は拓海を忌み嫌っていた。時に塵のように見下し、時に空気のように見ないふりをした。
拓海もまた、そんな重蔵を快くは思っていなかったはずだ。
「あちらで起業したと聞いたぞ。業績もなかなかのものだったようだが……それが、なんだ? 会社を辞めて写真家などとつまらん仕事をしていたそうだが、経営の勘は鈍っていないだろうな?」
「そのつもりです。重蔵様も、だからこそ私を呼び戻したものと思っていましたが」
「……言うようになりおって」
ここに来てようやく重蔵は美琴を見た。
「何をしている。お前も拓海に会うのは久しぶりだろう。挨拶くらいしないか」
そう言われてもすぐには言葉が出ない。その時、再会して初めて拓海が美琴を見る。
懐かしいその瞳にとくん、と胸が疼いた。
「美琴」
美琴の耳は一瞬にして拓海に集中した。
艶のある低く掠れた声。その形のよい唇が名前を呼ぶたびに心臓がきゅっとなった。
口数の少ない彼から話しかけてくることは滅多になくて、だからこそそんな彼に呼ばれると、ありきたりな自分の名前が特別なものに感じられた。
(名前を呼ばれた、だけなのに)
それだけで、美琴の胸は震える。
嬉しい。本物だ。本物の拓海が、ここにいる。
ずっとこの声が聞きたかった。二度と会えないと思っていたからか、最後に名前を呼ばれた四年前の別れの日を何度も夢に見た。
会いたい。声が聞きたい……その願いが叶ったのに、美琴は返事すらまともにできない。
固まる美琴を現実に引き戻したのは、祖父の冷ややかな声だった。
「お前は挨拶もまともにできないのか」
祖父の機嫌を損ねるのは怖い。しかし驚きと戸惑いで声が出ない。
申し訳ありません――そう、体に染みついた言葉をなんとか発しようとした時、助け舟を出してくれたのは、意外にも拓海だった。
「重蔵様、私も美琴もこうして会うのは四年ぶりです。こういった形で再会するとは互いに予想外でしたし、つもる話もあります。よろしければ、二人だけで話す時間をいただけませんか?」
その申し出に重蔵は僅かに眉を寄せると、拓海を鋭く見た。
「一応、確認しておこう。このまま話を進めても構わないな?」
「もちろんです」
「ならいい。気のすむまで話すといい。今日の席は形だけのものだ。これ以上私がここにいる必要もないからな。私は先に失礼するとしよう」
「ありがとうございます。美琴は私の車で送ります」
重蔵は興味を失ったように立ち上がる。まさか、本当にこのまま二人きりにするつもりなのか。
状況が把握できていない今、それは困る。美琴が重蔵を咄嗟に呼び止めようとしたその時だった。
「……分かっているな」
重蔵は美琴の耳元で囁いた。
「失敗は、許さん」
今一度念を押して、重蔵は出て行った。
失敗。それはつまり、婚約者の機嫌を損ねるなということだ。そして今ここにいるのは、美琴と拓海の二人きり。必然的に美琴の新しい婚約者は拓海ということになる。
(そんなはず、ない)
新しい婚約者は美琴には過ぎた男だと重蔵は言った。確かに拓海は、その容姿も頭の良さも全てが美琴にはもったいなさすぎる男だろう。でもこんなことはありえない。だって拓海は写真家として成功を収めているのだ。なのに、なぜここに――?
「……久しぶりだな、美琴」
俯いて頭を抱えそうになったその時、低く掠れた声に呼ばれる。はっと顔を上げると、拓海と目が合った。重蔵に対する時とは打って変わって、拓海の表情に笑顔はない。
「四年ぶりか。元気にしてたか?」
「……うん。拓海は?」
「見ての通り変わりないよ」
久しぶりの会話は、それだった。
二人は漆塗りの座卓を挟んで向かい合わせに座り直す。しかし、対面したのはいいものの、拓海は何を言うでもなくじっと美琴を見つめるばかり。互いを探るような雰囲気に美琴は戸惑った。
自分に向けられた拓海の視線が熱い。でも美琴が顔を背けることはなかった。
美琴もまた、拓海から目を離すことができなかったのだ。
拓海は自身を「変わらない」と言ったけれど、そんなことはない。
(……拓海、ますます格好良くなった)
初めて出会ったのは十年前。美琴が十三歳、拓海が十七歳の時だった。
柔らかな雰囲気を持つ貴文とは正反対の、まるで抜身の剣のような鋭さと冷たさを持った青年。
そんな彼に、美琴は一目で魅入られた。
あの頃の四歳差は大きい。当時の美琴は中学に入学したばかりで、まだまだ制服に着られているような子供だった。でも拓海は違った。高校二年生の彼はその時からずば抜けて格好良くて、大人びていた。それでも四年前はまだ学生らしさが残っていたが、今目の前にいる拓海は違う。
色気を纏った彼は、大人の男だ。
互いが切り出すきっかけを探るかのように見つめ合ったまま、沈黙が満ちる。
しかしそれは決して嫌なものではなく、どこか懐かしい。
昔から拓海は多弁な方ではなかった。彼が腹を抱えて笑うところを美琴は見たことがない。
かといって特別寡黙なわけでもなく、楽しければ笑うし面白くないことがあれば不機嫌になったりもした。けれどどんな時も拓海は落ち着いていた。
耳に柔らかくなじむ声のトーンは、祖父とも貴文とも違う。
美琴は、彼の周りに流れる落ち着いた空気が好きだった。
「拓海」
沈黙を破ったのは、美琴だった。本当は、話したいことも聞きたいこともたくさんある。
三ヵ月後の六月初旬。
「みこと先生、次はこれ読んで!」
小さな体で絵本を大切そうに持ってきた子供に、エプロン姿の美琴は「はいはい」と笑顔で答える。
「宗太君はこの絵本が本当に好きだねえ。でももうお昼寝の時間だよ?」
これを読んだら眠ろうね、と促すと、宗太は「うん」と元気いっぱいにうなずいた。
子供の無邪気な笑顔を見ていると、美琴の方も自然と表情が柔らかくなる。
(この様子だと、まだまだ眠りそうにないなあ)
内心苦笑しながらも、美琴は膝の上に宗太を乗せて、ゆっくりと絵本を読み始めたのだった。
ここは、涼風学園。
柊グループ傘下の財団法人が運営している、民間の児童養護施設だ。
この四月から、美琴は週に三日ほど契約職員としてここで働いている。
勤務時間は、午前九時から午後三時までの六時間。主な担当は、宗太たちのいる三歳児だ。
本当は正職員としてフルタイムで働きたいのだけれど、とある事情でそれはできなかった。
(……やっと寝た)
結局、宗太は絵本を五冊読んだところで寝落ちした。
眠る宗太を起こさないように横抱きにすると、そっとお昼寝布団へと横たえる。
(可愛いなあ)
絵本を読んでいる途中、眠さを必死に堪えて目を擦る姿を思い出すと、つい笑みがこぼれる。
まだまだ幼さの残る寝顔が何とも愛らしい。起きている時はあまりの元気さに疲れてしまうこともしばしばだが、それはそれでまた違った可愛さがある。
涼風学園に入所しているのは、何らかの事情により親と一緒に暮らすことができない子供たちだ。
一方、職員である大人たちの人数はどうしても限られる。全員を我が子のように目を配るのは難しい。それでもできる限り子供たち一人一人に寄り添うように、というのがここで働く上で必要なことだった。美琴にそれを教えてくれたのは、ここの園長である山城百合子だ。
六十代半ばの彼女を子供たちは皆、実の祖母のように慕っていた。
「美琴さん」
子供たちの様子を見つつ散らばっていた玩具を片付けていた時だった。部屋の扉が少しだけ開いて、百合子が顔を覗かせた。
「ちょっと来てくれるかしら」
「はい」
ちらりと時計を見るとまだ午後二時。退勤するにはまだ早い。美琴は不思議に思いながらも同僚の職員にそっと声掛けをして、廊下へと出る。
「突然ごめんなさいね。さっき、あなたのご実家から連絡があったの。今から迎えを寄こすから帰る準備をしておくようにって」
急な話に美琴は目を丸くする。しかし今は仕事中。自分だけの都合で帰るわけにはいかない。
「まだ退勤時間まで一時間ありますし、三時に来るように連絡してみますね」
しかし百合子は困惑した表情で首を横に振る。
「残りの時間は代わりの先生にお願いしたから大丈夫よ。今日のところは帰った方がいいわ。その……電話してきたのは、あなたのお祖父様の秘書の方なの。だから……ね?」
含みを持たせた言い方に美琴はハッとする。美琴の祖父、すなわち柊重蔵は涼風学園の経営母体のトップだ。
百合子は園長として、そんな人物の意向を無視するわけにはいかないのだろう。直接涼風学園の運営に携わっていないとはいえ、重蔵なら傘下の施設の一つや二つどうにでもできるのだから。
そして重蔵に逆らえないのは、美琴も一緒だった。
「……ご迷惑をおかけしてすみません」
謝罪すると、百合子は「いいのよ」と笑顔で首を振る。
「本音を言えばフルタイムで働いてほしいところだけれど……こればかりは、あなたの立場を考えれば仕方ないものね。美琴さん、あまり気に病まないでね。子供たちはあなたの笑顔が好きなんだから。もちろん、私もね」
百合子は慰めるように美琴の肩をぽん、と叩く。それに美琴はもう一度頭を下げたのだった。
「……急に迎えに来るなんて、何かあったのかな」
職員用のロッカーで着替えながらも、美琴の胸はざわめいていた。
涼風学園で働き始めてまだ三ヵ月だけれど、こんなことは初めてだ。
ここで美琴が柊家の令嬢であることを知るのは、ごく一部の人間だけ。プライベートはともかく、通勤はもっぱら電車とバスを利用しているから、迎えが来たことなんて一度もない。
柊重蔵の孫であること。
それが、美琴がフルタイムで働けない理由だ。
重蔵は美琴が外で働くことを快く思っていない。
美琴はこの春大学を卒業したばかり。予定では美琴の卒業と同時に貴文が柊に婿入りし、美琴は家庭に入って柊商事の新社長となった貴文を支えることになっていた。
重蔵の計画通りに進んでいれば、六月の今頃は新婚旅行の真っ最中だっただろう。
しかし、それは全て露と消えた。
貴文が駆け落ちしたからだ。
この出来事に重蔵は烈火の如く怒り狂った。
自らの面子を潰された怒り。目をかけていた者に裏切られた屈辱。重蔵の命を受けた柊の人間が血眼になって貴文を捜したけれど、彼の行方は三ヵ月経った今も分からない。
美琴はそのことに安堵する一方、恐ろしくもあった。もしも、美琴が駆け落ちの共犯者だと重蔵に知られたら……その時のことを想像すると、芯から凍えるような気分になる。
ともあれ、結果として美琴の婚約は破談となった。
重蔵は、美琴が直接経営に携わることを望んでいない。しかしいくら柊商事の令嬢とはいえ、二十三歳で無職なのはどうしても嫌だった。
そこで美琴は、大学で幼児教育学を学んでいた時に得た保育士の資格を活かして働きたいと思ったのだ。
もともと子供好きではあったし、涼風学園は大学時代にボランティアで通っていた場所でもある。
この時の経験を通じて、美琴は様々な事情で親といられない子供たちがいることを知った。
自分にも何かできることはないだろうか。
そう考えた結果が、寄付だった。
これは百合子しか知らないことだが、実は美琴は涼風学園の母体である財団の役員に名を連ねている。役員と言っても名ばかりで、運営は有能な人間が行っているのだが、柊グループの株を多数所有している美琴は、配当金の大半を寄付に回していた。
なんの取り柄もない自分にできるせめてものことが、それだったのだ。
その繋がりもあり、百合子は美琴がここで働くことを快く受け入れてくれた。唯一難色を示したのが重蔵だったが、交渉の結果、週に三日働く契約職員になることを認めたのだ。
ここで働いている時は、美琴は素でいられる。
子供たちと向き合っている時だけは、柊グループの令嬢ではなく、ただの美琴でいられるのだ。
「柊さん!」
帰り支度を整えた美琴が駐車場に着いた時だった。一台の軽自動車から男性が降りてくる。
「山本先生、お疲れ様です」
「お疲れ様です。早退するって園長から聞きました。体調、崩しちゃいました?」
「いいえ、家の事情で早退することになって……もしかして代わりの先生って……」
僕ですよ、と山本はあっさりと答える。美琴は「すみません」とすぐに頭を下げた。
「突然でご迷惑をおかけしましたよね」
「お気になさらず。柊さんのお役に立てるなら、これくらいなんてことないです」
意味深な言葉に、美琴は首を傾げる。すると山本は、「しまった」と言わんばかりの表情をした。
「えっと、今のは……なんでもないです、忘れてください」
どこか慌てた様子の山本に、美琴は内心気になりつつも「分かりました」と素直に答える。
「じゃあ、私はこれで。今日は本当にごめんなさい。後で何か埋め合わせをさせてくださいね」
失礼します、と軽く一礼して背を向けようとした時だった。
「あのっ! ……それじゃあ今度、二人で食事でも行きませんか?」
驚いて振り返ると、なぜか顔を赤くする山本と目が合った。
「えっと、その、埋め合わせを――」
「ああ、そういうことでしたら」
喜んで、と答えようとした時だった。黒塗りの高級車が駐車場に入ってきたのを見て、美琴は固まる。
「うわ……高そうな車」
隣の山本が驚いた声を出す。そんな二人の前で、車の窓がゆっくりと下がった。
「――美琴」
中から顔を出したのは柊重蔵。美琴の祖父である。重蔵は山本に一切目をやることなく孫を鋭く睨む。
「何をしている、早く乗れ」
「……はい」
返事をした美琴は、目を丸くする山本にもう一度礼を言うと、車に乗り込んだのだった。
「誰だ、あれは」
車が発進した直後、重蔵は短く問う。美琴は俯いたまま小さな声で答えた。
「職場の先輩です」
「随分、親しそうに見えたが?」
祖父が何を言いたいのか分からず、美琴はちらりと視線を上げる。しかし、隣に座る人物と目が合った瞬間、鋭い眼光に圧倒されて息を呑んだ。
七十五歳という高齢にもかかわらず、祖父の背中はしゃんと伸びている。座っているだけで息が詰まりそうなほどの存在感を放つ彼こそ、世界に名の知れた柊グループの頂点に立つ男である。
「二人きりでいったい何を話していた?」
「……いえ、大したことではありません」
美琴はごまかした。
食事に誘われたことは何となく言えなかった。すると祖父は不快そうに眉を寄せる。
「契約職員ならばと大目に見たが、やはり外で働くのは考え物だな。どうせ色目を使うのなら、あんな男ではなく貴文に使えば良かったものを」
「色目なんてっ……!」
使ってない。第一そんな言い方は山本にも失礼だ。そう言いかけたが、重蔵の鋭い一瞥で言葉を呑み込んでしまう。
「それくらいしてでも、貴文を繋ぎ止めておく必要があったと言っている。お前がもっとしっかりしていれば、秘書なんぞと逃げられることはなかったんだぞ。お前が不甲斐ないから今の状況になったと、本当に理解しているのか?」
心底呆れたような声が車内に響いた。
駆け落ちから三ヵ月経ってもなお、重蔵の怒りは解けていない。
裏を返せばそれは、貴文たちが見つかっていないということ。それ自体は嬉しいし、彼らへの協力を後悔したことはない。それでも、こうも何度も責められると心が折れそうになる。
こんな時、美琴が言える言葉は一つだけだ。
「……申し訳ありません」
謝罪すると少しは溜飲が下がったのか、重蔵は「ふん」と鼻を鳴らす。
「次は、失敗してくれるなよ」
「次……?」
「今日の見合い相手のことだ」
「待ってください! お見合いって……そんな話、聞いてません」
「今、言った。何か問題があるのか?」
突然すぎて言葉も出ない。呆然とする美琴を重蔵は冷ややかに見つめた。
「まさか、貴文以外とは結婚する気がないとは言わないだろうな。お前の婿が私の後を継ぐのは昔から決まっていたことだ。貴文がダメなら他の人間を用意するまでだ」
祖父が自分を道具としか見ていないことは、分かっていた。
貴文と婚約破棄した以上、いずれは誰かと結婚する必要があることも理解していた。
それでもこれは、あまりに急すぎる。
重蔵の口ぶりからすると、これは決定事項に近い。きっと形ばかりのお見合いで、既に婚約は成立しているも同然だろう。十三歳の時、貴文との婚約が決まった時と同じ。今の美琴にできるのは、黙って祖父の言葉に従うことだけ。拒否権は、初めから存在しない。
「……お相手は、どんな方ですか」
ならばせめて、事前に人となりくらいは把握しておきたい。
しかし勇気を振り絞ったこの問いにも、重蔵は「会えば分かる」と素っ気なく返しただけだった。
「貴文には劣るだろうが、今後の柊を任せる能力はある。どちらにしても、お前には過ぎた男だ」
これには、流石に心が折れた。
美琴にとっては、今後の人生を左右する出来事なのに。
重蔵にとっては、会社のための一出来事でしかないのか。
(……嫌だ)
怖い、と本能的に思った。幼馴染であり、婚約者として十年近くを過ごした貴文とは違う。
これから初めて顔を合わせる人間と結婚するなんて……そんなの、怖くないはずがない。
そしてそれ以上に、こんなにも不安で怖くて仕方ないのに、祖父に何一つ言い返せない自分が情けなくて、腹立たしい。
「もうすぐ店につく。今のうちに作り笑顔の練習でもしておけ。お前は顔しか取り柄がないんだ。せいぜい有効活用して少しでも気に入られるように努めろ。また逃げられないようにな。分かったなら、その暗い顔をなんとかしろ。――本当に、情けない」
ため息は、時に厳しい叱責よりも美琴の心を深く抉る。
情けない。
みっともない。
……いったい何度、この言葉を聞いただろう。
幼い頃から言われ続ければ、自分がいかに凡庸な存在なのかを嫌でも自覚させられる。
臆病で、引っ込み思案。取り柄と言えば少し見た目がいいだけ。
日本人形のように真っ黒な髪は、重蔵が女の短髪を嫌うため幼い頃から背中まで伸ばしている。
扇形の眉毛に縁どられた大きな瞳。すっと通った鼻筋に桃色の唇。生まれつき肌があまり強くないせいで、美琴は子供の頃から色白だった。確かに街を歩けば声をかけられることがしょっちゅうある。
(でも、それだけ)
知らない人が声をかけてくれるのは、見た目がマシだから。
世間的にはハイクラスの男性が妙に優しくしてくるのは、柊家の娘だから。
美琴自身は、見た目以外にはなんの取り柄もない、つまらない女なのだから。
それからほどなくして、二人を乗せた車はある料亭に到着した。既にお見合い相手は到着しているという。部屋へと続く長廊下を女将に案内されている最中、重蔵は言った。
「お前は黙って私の隣に座っていればいい。余計なことは何も言わず愛想を振りまいておけ」
「……承知しました」
振り返りもしない祖父の背中を前に、美琴は思う。
目に見えない鎖で繋がれているようだ。
己の意思も持たずに黙って祖父に付き従う自分は、さながら犬のようだと美琴は自嘲する。
否、飼い犬のコーギーはしばしば「お前は頭がいいな」と祖父に褒められる。
一方の美琴は、生まれてこの方一度だって褒められたことがない。
もしかしたら祖父にとっての美琴は、飼い犬以下の存在なのかもしれなかった。
柊家の娘として生まれてから今まで、命じられれば返事は「はい」の一択以外ありえなかった。
逆らったのは、貴文の駆け落ちに協力した一度だけ。少しでも迷う素振りを見せれば即座に厳しく叱責される。歯向かえば最後、身一つで家から追い出される。
たとえそれが、つい昨日まで家族として一つ屋根の下で暮らしていた者であったとしても、祖父は自分の意に沿わない者は容赦なく切り捨てるのだ。
……まるで、塵のように。
実際、美琴の母親がそうだった。
現在、柊家本家の屋敷に住んでいるのは、重蔵と美琴の二人だけだ。
父親は美琴が子供の頃、外に愛人を作ったことが原因で重蔵に勘当された。
母親は、美琴が十歳の時に重蔵によって柊家を追い出された。
美琴が生まれる前、母親はホステスをしていた。そこへ客として訪れた父親と恋に落ち、美琴を身ごもり結婚したのだ。しかし重蔵は、母親を最後まで柊家の人間とは認めなかった。
折り合いの悪い祖父と母親。
父親はそんな二人を初めは取り持っていたけれど、最後は疲れて外に女を作った。父親が帰らないようになると、重蔵の母親へのあたりはますます強くなって……ついに母は屋敷を出て行った。
その日は、激しい雷雨だった。
土砂降りの雨の中、鉄の門扉に追いすがって娘の名前を呼び続ける母の姿を、美琴は今でもはっきりと覚えている。美しかった母がボロ雑巾のような姿で泥水に膝をつき、やがて力なく去っていくのを、美琴は暖かな部屋の中で嗚咽を殺しながら見ていることしかできなかった。
そんな美琴の横で、祖父は『去り際まで醜い女だ』と吐き捨てるように言ったのだ。
『美琴。お前だけはああはなってくれるなよ。お前は、柊家を継ぐことだけを考えていろ。この家はいずれお前の夫となる男に任せる。それまで、お前は黙って私の言うことに従っていればいい』
重蔵が美琴に望んだのは、柊の人間であることだけ。
跡継ぎの能力は初めからないと割り切り、優秀な人材と結婚させることだけを目的としたのだ。
「こちらでございます」
案内されたのは、離れの一室だった。
この向こう側に新しい婚約者がいる。こんな時も頭に浮かんだのは、やはり一人の男だった。
(拓海)
今こそ、あなたに会いたい。
どんな言葉でもいい。あなたの声が聞きたくて、たまらない。
そして、襖が開いた。堂々とした足取りで入室する重蔵の後ろを、俯いた美琴は幽鬼のように続く。すると、下座に座っていた男――この人がお見合い相手だろう――がゆっくりと立ち上がった。
「ご無沙汰しております、重蔵様」
その声に美琴は弾かれたように顔を上げた。
思考が止まる。一瞬にして凍り付いた美琴に気づかず、重蔵は小さく頷いた。
「久しいな」
次いで重蔵が呼んだ、その名前。
「拓海」
ずっと会いたいと思っていた、けれどもう二度と会うことはないだろうと思っていた人。
(うそ)
九条拓海が、そこにいた。
初めは、拓海に対する強い想いが見せた幻かと思った。
だって、ここに拓海がいるなんてありえない。しかし美琴の目の前にいるのは間違いなく本人だ。
最後に別れた時より随分と大人びているけれど、彼を見間違うはずがない。
離れの和室に三人。重蔵が上座に腰を下ろすと、美琴は混乱したままその隣に正座する。一方拓海は、美琴に視線を向けることなく重蔵を真っ直ぐ見据えた。
「こうして会うのは四年ぶりか。息災にしていたか」
「おかげさまで。重蔵様もお元気そうで安心いたしました」
「何が元気なものか。お前の兄のせいで心が休まらない毎日を過ごしているというのに」
「それは……」
「ふん、まあいい」
美琴の知る限り、二人はこんな風に会話をするような仲ではなかった。
重蔵は拓海を忌み嫌っていた。時に塵のように見下し、時に空気のように見ないふりをした。
拓海もまた、そんな重蔵を快くは思っていなかったはずだ。
「あちらで起業したと聞いたぞ。業績もなかなかのものだったようだが……それが、なんだ? 会社を辞めて写真家などとつまらん仕事をしていたそうだが、経営の勘は鈍っていないだろうな?」
「そのつもりです。重蔵様も、だからこそ私を呼び戻したものと思っていましたが」
「……言うようになりおって」
ここに来てようやく重蔵は美琴を見た。
「何をしている。お前も拓海に会うのは久しぶりだろう。挨拶くらいしないか」
そう言われてもすぐには言葉が出ない。その時、再会して初めて拓海が美琴を見る。
懐かしいその瞳にとくん、と胸が疼いた。
「美琴」
美琴の耳は一瞬にして拓海に集中した。
艶のある低く掠れた声。その形のよい唇が名前を呼ぶたびに心臓がきゅっとなった。
口数の少ない彼から話しかけてくることは滅多になくて、だからこそそんな彼に呼ばれると、ありきたりな自分の名前が特別なものに感じられた。
(名前を呼ばれた、だけなのに)
それだけで、美琴の胸は震える。
嬉しい。本物だ。本物の拓海が、ここにいる。
ずっとこの声が聞きたかった。二度と会えないと思っていたからか、最後に名前を呼ばれた四年前の別れの日を何度も夢に見た。
会いたい。声が聞きたい……その願いが叶ったのに、美琴は返事すらまともにできない。
固まる美琴を現実に引き戻したのは、祖父の冷ややかな声だった。
「お前は挨拶もまともにできないのか」
祖父の機嫌を損ねるのは怖い。しかし驚きと戸惑いで声が出ない。
申し訳ありません――そう、体に染みついた言葉をなんとか発しようとした時、助け舟を出してくれたのは、意外にも拓海だった。
「重蔵様、私も美琴もこうして会うのは四年ぶりです。こういった形で再会するとは互いに予想外でしたし、つもる話もあります。よろしければ、二人だけで話す時間をいただけませんか?」
その申し出に重蔵は僅かに眉を寄せると、拓海を鋭く見た。
「一応、確認しておこう。このまま話を進めても構わないな?」
「もちろんです」
「ならいい。気のすむまで話すといい。今日の席は形だけのものだ。これ以上私がここにいる必要もないからな。私は先に失礼するとしよう」
「ありがとうございます。美琴は私の車で送ります」
重蔵は興味を失ったように立ち上がる。まさか、本当にこのまま二人きりにするつもりなのか。
状況が把握できていない今、それは困る。美琴が重蔵を咄嗟に呼び止めようとしたその時だった。
「……分かっているな」
重蔵は美琴の耳元で囁いた。
「失敗は、許さん」
今一度念を押して、重蔵は出て行った。
失敗。それはつまり、婚約者の機嫌を損ねるなということだ。そして今ここにいるのは、美琴と拓海の二人きり。必然的に美琴の新しい婚約者は拓海ということになる。
(そんなはず、ない)
新しい婚約者は美琴には過ぎた男だと重蔵は言った。確かに拓海は、その容姿も頭の良さも全てが美琴にはもったいなさすぎる男だろう。でもこんなことはありえない。だって拓海は写真家として成功を収めているのだ。なのに、なぜここに――?
「……久しぶりだな、美琴」
俯いて頭を抱えそうになったその時、低く掠れた声に呼ばれる。はっと顔を上げると、拓海と目が合った。重蔵に対する時とは打って変わって、拓海の表情に笑顔はない。
「四年ぶりか。元気にしてたか?」
「……うん。拓海は?」
「見ての通り変わりないよ」
久しぶりの会話は、それだった。
二人は漆塗りの座卓を挟んで向かい合わせに座り直す。しかし、対面したのはいいものの、拓海は何を言うでもなくじっと美琴を見つめるばかり。互いを探るような雰囲気に美琴は戸惑った。
自分に向けられた拓海の視線が熱い。でも美琴が顔を背けることはなかった。
美琴もまた、拓海から目を離すことができなかったのだ。
拓海は自身を「変わらない」と言ったけれど、そんなことはない。
(……拓海、ますます格好良くなった)
初めて出会ったのは十年前。美琴が十三歳、拓海が十七歳の時だった。
柔らかな雰囲気を持つ貴文とは正反対の、まるで抜身の剣のような鋭さと冷たさを持った青年。
そんな彼に、美琴は一目で魅入られた。
あの頃の四歳差は大きい。当時の美琴は中学に入学したばかりで、まだまだ制服に着られているような子供だった。でも拓海は違った。高校二年生の彼はその時からずば抜けて格好良くて、大人びていた。それでも四年前はまだ学生らしさが残っていたが、今目の前にいる拓海は違う。
色気を纏った彼は、大人の男だ。
互いが切り出すきっかけを探るかのように見つめ合ったまま、沈黙が満ちる。
しかしそれは決して嫌なものではなく、どこか懐かしい。
昔から拓海は多弁な方ではなかった。彼が腹を抱えて笑うところを美琴は見たことがない。
かといって特別寡黙なわけでもなく、楽しければ笑うし面白くないことがあれば不機嫌になったりもした。けれどどんな時も拓海は落ち着いていた。
耳に柔らかくなじむ声のトーンは、祖父とも貴文とも違う。
美琴は、彼の周りに流れる落ち着いた空気が好きだった。
「拓海」
沈黙を破ったのは、美琴だった。本当は、話したいことも聞きたいこともたくさんある。
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