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1巻
1-3
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「顔、赤いですね。やっぱり酔ってる?」
お願いだから、そんなに優しい笑顔を向けるのはやめてほしい。
あなたに会えて嬉しくて見惚れていました、とは言えず、お酒をほとんど口にしていないのに陽菜は「はい」と頷く。
「……っと、名前も名乗ってなかったですね」
彼は改めて陽菜と向かい合うと、にっこり笑った。
「本郷といいます」
「本郷、さん……?」
はい、と頷く姿は、やはりどことなく可愛らしい。
ずっと気になっていた男性の名前を知ることができて心踊らせていた陽菜は、「良かったら、あなたのお名前をお聞きしても?」と言われてはっとした。
「あっ――」
「『あ?』」
慌てて答えようとするものの、舌を噛んでしまう。
(ああもう、最悪だわ)
こんな姿、会社の人が見たら驚くに違いない。しかし今の陽菜はキャリアウーマンでも、女王様でもなかった。憧れの人を前にして慌てる、恋愛初心者だ。
「……朝来陽菜です」
恥ずかしさを覚えながら名乗ると、本郷はぱちぱちと目を瞬かせた。
「陽菜さん。素敵な名前ですね」
そう、とろけるように微笑む。
「良かったら、抜け出しませんか?」
「え……?」
「スタッフには俺から話してきます。……実は無理に誘われて参加したんですが、乗り気じゃなかった上に遅刻してしまって、今更入りづらいんです。それに、勘違いなら申し訳ありませんが、あなたもあまり楽しそうに見えなかったから」
これは、夢だろうか。
「このホテルの上にバーがあるんです。そこで飲みなおしませんか」
それならどうか、覚めないでほしい。
「――俺とあなたの、二人で」
陽菜は夢見心地なまま、その誘いに乗った。
◇
国内の外資系ホテルの中でも最高級ランクに位置するホテルの三十五階。このフロアは、政財界や芸能界といった各界のセレブ御用達だと聞いたことがあった。
一介のOLである陽菜がここのバーに来るのはこれが初めてだ。
「ここです。この店の酒はどれも美味しくておすすめなんです。気に入ってくれたら嬉しいな」
本郷が案内したそこは、おしゃれなバーラウンジだった。
エレベーターを降りた瞬間から、陽菜は目の前の光景に圧倒されている。
視界一面が夜景の海だ。
さすがは世界的に展開している超高級ホテルのバー、照明やBGMに至るまでとても洗練されている。中央にはグランドピアノが置かれ、シャンパンゴールドのドレスを纏った女性が軽やかなタッチでジャズを奏でていた。
本郷はさっとカウンター席に向かう。
「さあ、どうぞ」
顔見知りらしいバーテンダーと軽く挨拶を交わし、さりげなく陽菜に椅子を引いた。
陽菜がとまどっていると、彼は二、三度目を瞬かせ、「ソファ席のほうが良かった?」と小首を傾げる。
「いえ、ありがとうございます」
陽菜はどきどきしながら、腰を下ろした。
「どういたしまして」
陽菜に続いて隣に座ると、本郷は「良かった」と小さく言う。
「ソファ席もいいけど、ここのほうがあなたとゆっくり話せると思うんだ」
さり気ない気遣いに加えてこのセリフ、陽菜は本気で眩暈がしそうになる。
「……私も、あなたとゆっくりお話ししたいです」
バスで見かけた時は、気配りができる柔らかい雰囲気の人だと思っていたが、今の彼はどんな異性よりも「男」を感じさせた。
「陽菜さんみたいな素敵な女性にそう言ってもらえると、俺も嬉しい」
ずっと憧れていた彼が自分の名前を呼んで、褒めてくれている。夢みたいな現実を、陽菜は噛みしめた。
「お上手ですね」
上ずらないように声を抑え陽菜が言うと、本郷は「本心ですよ」とさらりと返す。
彼とこんなふうに並んで、軽口を叩き合うなんて、胡桃や小宮にはっぱをかけられていたことを思うと、驚くほどの飛躍ぶりだ。
「お酒はお好きですか?」
「はい。こんなお洒落なバーに来ることはないので、詳しくはありませんが……」
「大丈夫。ここのマスターが出すお酒はどれも美味しいから」
「お任せしても?」
「喜んで」
本郷が注文したのは、陽菜が初めて耳にするカクテルだった。
カウンター越しにマスターがシェイカーを振る様子を、陽菜はそっと眺める。少しの沈黙。その時間が不思議と心地良い。
BGMは気付けばクラシックへ変わっていた。とても綺麗な音色だ。
ふと、視線を感じて隣を向くと、じっと陽菜を見つめる本郷と目が合う。
「私の顔に何かついていますか?」
「いいえ? ただ見惚れていただけです」
「みとっ……!」
言葉を失う陽菜を本郷が柔らかな眼差しで見つめる。
もしもこれが彼でなければ、陽菜は「ありがとう」とにこりと微笑み、スマートに返すことができただろう。でも本郷の前ではどんな態度を取ればいいのか、分からない。
「……そんなに褒めても、何も出ませんよ?」
驚きと、照れ。
陽菜は一瞬固まったものの、どうにか微笑み返す。すると本郷は「お気になさらず」と悪戯っぽく頬を緩めた。
出されたカクテルのおかげか、陽菜の肩から少し力が抜ける。もっとも、肩が触れ合うほどの距離に本郷がいるせいでやはりドキドキするし、お酒を口にしているにもかかわらず喉の奥は緊張で渇いている。
このまま彼に会えた喜びに浸りたいものの、それだけではろくに話せずに終わってしまう。
(そんなの、もったいないわ)
せっかくの機会を無駄にしたくない。
陽菜は、すうっと深呼吸をする。背筋を伸ばし、落ち着くのよ、と自分に言い聞かせた。
「――陽菜さんは、どんな仕事を?」
不意に本郷に話しかけられる。
「ジュエリーの販売会社でアクセサリーの企画と販売データの収集をしています」
そう答えると、素敵ですね、と彼が微笑む。
「でも、指輪をしていないんですね。アクセサリーを扱うお仕事の方は、皆さんつけているイメージがあったのですが。今は恋人の有無にかかわらず、左手の薬指に指輪をする女性がいるって聞いたこともありますし」
「それは、その……ピンキーリングなら、時々します。でも、初めて薬指につける指輪は、恋人からのプレゼントと決めているんです」
消え入りそうな声で陽菜は告げた。
「……いい年をして、恥ずかしいことを言っていると思われるかもしれませんが」
「そんなことない。素敵だと思いますよ」
本郷は柔らかな眼差しで陽菜を見つめている。
「……本郷さんはどんなお仕事を?」
ごまかすような陽菜の問いに、本郷は「しがないサラリーマンです」と悪戯っぽく微笑んだ。
その後二杯目のカクテルを飲み終えた陽菜は、やっと気になっていたことを口にする。
「さっき、どうして私を誘ってくれたんですか?」
もしかして陽菜が本郷を知っていたのと同様、彼もまた陽菜に見覚えがあるから誘ってくれたのではないか――そんな淡い期待があったのだ。
「困っている女性を助けたら、その人がとても綺麗だった。今を逃したら駄目だと直感的に思ったから。……こんな軽い理由だと、引きますか?」
残念ながら本郷は、陽菜とバスが一緒であることに気付いてないようだ。それを少し切なく感じながらも、陽菜は表情に出ないよう抑える。代わりに「ちょっとだけ」とわざとらしく答えてみせた。
「困ったな、嫌いになりました?」
本郷が眉を下げる。
嫌いになんてなるわけない。本音はむしろ、正反対だ。
陽菜は、ただの「憧れの人」としてだけではなく、「本郷」という一人の男性にどんどん惹かれていく自分に気付いていた。
彼はグラスが空になるより少し前に、さり気なく陽菜のお酒の好みを聞いてくれる。肌寒さを感じていると、椅子にかけていたショールをそっと肩にかけてくれる。何気ない会話の中で時折見せる、はにかんだ笑顔。グラスに触れる長い指先。
その一つ一つから目が離せない。
それに本郷は陽菜をしきりに「綺麗だ」と褒めてくれる。
憧れの人から発せられた言葉は、陽菜にとってこの上ない賛辞に思えた。
(もしも、この人と恋愛できたら)
そんな期待を、してしまう。
「それにしても、陽菜さんはどうしてあのパーティーに参加していたんですか? わざわざ婚活なんてしなくても、あなたには男のほうから寄ってくると思うけど」
俺みたいに、と本郷は肩をすくめる。
「そう言っていただけるのは嬉しいけれど、私はそんなにモテません。……モテるのはせいぜい、個性的な人たちにばかりだわ」
「個性的って?」
言った直後に後悔した。気付かないうちに酔いが回っているのだろうか。
前半はともかく後半は、あえて口にしなくてもいいことなのに。
案の定、本郷に突っ込まれる。
「それは、その……」
「その?」
どうやら答えない、という選択肢はないらしい。
陽菜はお酒を一口含んだ後、明後日の方向を向いて小さく答えた。
「調教されたい系男子、とか……?」
調教されたい系男子――改めて口にすると、中々、強烈な言葉だ。
一瞬、二人の間に奇妙な沈黙が落ちる。
どんな反応が返ってくるのか気になった陽菜は、ちらりと本郷へ視線を戻した。すると本郷は、じいっと陽菜を見つめた後、ぶはっと噴き出す。
「な、何、それ? ……初めて聞いた、そんなの」
本郷は片手で腹を押さえて笑っている。声こそ大きくはないものの、敬語が崩れているのに気付かないほど、ツボに入ったらしい。
「草食系とか肉食系とかは聞いたことがあるけど、ちょ、調教されたい系って……どんな男だよ。……もしかして陽菜さん、女王様になる趣味とかあったりする?」
「なっ!」
女王様。それは陽菜にとって、禁句である。
「私は至ってノーマルです。SMの趣味なんてありません!」
叫んだ直後に、はっとした。
(私、なんてことを……!?)
超高級ホテルの、雰囲気のいいバー。BGMはグランドピアノが奏でるクラシック、それを彩る眩いばかりの夜景。そんなところで、大声でSMとは――
さっと視線を周囲に向けると案の定、いくつもの視線と目が合う。
「もう、やだ……」
恥ずかしい。穴があったら今すぐ入りたいくらいだ。
陽菜はとてもではないが本郷の顔を見ることができなかった。そんな陽菜の肩にそっと彼の手のひらが触れる。
「ごめん、陽菜さん。からかいすぎました」
謝りながらも、彼の声は微かに震えていた。
「……知りません、もう」
「もう言わないから、顔を見せて?」
陽菜さん、と名前を呼ぶ声はとても優しい。いっそう、陽菜は彼を見られなくなる。
すると本郷が焦れたような声を出した。
「――見せてくれないと、キスするけど」
「なっ……!?」
さすがに陽菜は顔を上げる。すると本郷は、「やっと顔を見せてくれた」と優しく微笑んだ。
(ずるいわ)
そんな顔をされたら、何も言えなくなってしまう。
「……あまり、年上をからかわないで下さい」
せめてもと一言を返すと、本郷は笑いを噛み殺しながら「すみません」と謝ってくる。
その反応を見るに、やはり彼は年下のようだ。それなのにこんなふうにからかわれるなんて、これではどちらが年長者か分からない。
「――どんな男なら、あなたの恋人になれるのかな」
不意に本郷が囁いた。
「陽菜さんの好きなタイプを教えてくれませんか? 調教されたい系男子が好みじゃないなら、どんな男が好き?」
今、目の前にいるあなたがタイプです、とは言えなかった。「自分を女王様扱いしない人」とも。
陽菜は代わりの言葉を口に出す。
「……しいて言うなら、『優しい人』かしら」
――あなたみたいに。
最後の部分は心の中だけにしまう。
いつもなら、この手の質問に対する陽菜の答えは「男らしい人」と決まっていた。
それだけを切り取れば、本郷は陽菜のタイプと真逆と言っていい。
端整な容貌は世間一般の「男らしい」イメージではなく、綺麗と言ったほうがしっくりくる。
しかし、本郷からは不思議と男を感じた。「陽菜に叱ってほしい」だなんて願望は微塵も感じない。
(不思議な人)
こうして一緒に時間を過ごしたことで、彼の一面が見えてきたような気がする。
初めは見た目に惹かれ、さりげない優しさが素敵だと思っただけだった。けれど、このパーティーで会い、何気ない会話を重ねた今は、更に好きになっている。
本郷の醸し出す穏やかな雰囲気はとても居心地が良く、まるで真綿にふわふわと包まれている気持ちだ。
(……酔っちゃったのかしら)
今日、陽菜が飲んだのはカクテルを三杯。どれもとても美味しくて綺麗だったけれど、酔うほどではないはずだ。それなのに、体が火照っている。
「顔、赤いですね」
「ごめんなさい。……酔ってしまったのかも」
この空気と雰囲気に――本郷という男性に、酔ってしまったのだ。
陽菜は、じっと本郷を見つめた。
彼の大きなアーモンド色の目は澄んでいて、近くで見ると吸い込まれそうになる。
鼻筋はすっと通り、薄い唇も形が良い。
(本当に、綺麗な顔)
顔だけではない。その唇から発せられる声が低くて心地いいことを、陽菜は知った。
手のひらは思っていたよりも大きくて、スーツに隠れている体はほどよく引き締まっている。高めのヒールを履いている陽菜より視線が高かったところを見ると、身長は百八十センチ以上あるのだろう。
もしも、この胸に抱きしめられたら、一体、どんな気持ちになるのか。
「……陽菜さん?」
不意の呼びかけに陽菜ははっとする。同時にカラン、とグラスの氷が溶ける音がして我に返った。
ずっと本郷の唇と胸元を見ていた。
これでは欲求不満なようではないか。物欲しげな顔をしていたらどうしよう、と陽菜は慌てた。
(……はしたない)
「ごめんなさい、少し化粧室へ……」
そう言って陽菜が立ち上がった時だった。
「あっ……」
急に動いた反動で一瞬、視界がゆがみ、ぐらりと足から力が抜けた。
「――っと」
それを逞しい胸板が抱きとめる。
「大丈夫ですか?」
本郷が陽菜の顔を覗き込んでくる。
年下だろうにこうして触れると、本郷が大人の男なのだと分かった。
「は、はい」
陽菜は急いで体を起こす。しかし今度は、陽菜の腰に添えられた本郷の手が離れることはなかった。
「見た目と違って、そそっかしいところがあるんですね」
意外だな、と耳元で囁かれて、陽菜の背筋がぞくりと震える。
「……ごめんなさい」
よりいっそうの羞恥で、顔が上げられない。それなのに離してほしくない、このまま抱きしめてほしいと思っている自分がいる。
「――陽菜さん」
陽菜の気持ちを読んだかのような低くて心地よい声が、耳朶を震わせた。
「俺今日、ここに泊まっているんです。部屋に行きませんか」
ああ。私、この人が好きだわ。
自然とそう感じる。
「……あなたのことを、もっと知りたい」
その熱のこもった声に、陽菜は静かに頷いた。
◇
『会ったその日に、なんて私にはハードルが高すぎる』
そんなふうに胡桃に言い返したのは、つい先日だ。
けれど陽菜は今、本郷の部屋に向かっていた。
今だけでいい。一夜限りでいいから、触れあいたい。
そんな、理性をかなぐり捨てても一緒にいたい人が、確かに存在したのだ。
――恋に落ちる。
酔いの回る頭に、陽菜はその言葉を何度も思い浮かべる。
陽菜はまさに転がり落ちるように本郷に惹かれていった。
本郷が取っているという部屋に行くまでの間、二人は終始無言なものの、手のひらをしっかり重ねたままでいる。
(胸が痛い)
陽菜は心臓が飛び出しそうなほど緊張していた。
この先に進むのは怖い。けれどそれ以上に、離れたくない。
もっとこの人を知りたいというのが一番の感情だ。
そんな陽菜と本郷を乗せて、エレベーターは上昇する。到着したのは最上階だ。
陽菜の手を本郷が優しく引く。彼が案内した部屋は、二十八年間の陽菜の人生で一度も目にしたことのない豪華な部屋だった。
(ここってもしかして……スイートルーム!?)
驚いた陽菜は本郷を振り返る。するとそっと触れるだけのキスが彼女を迎えた。
ほんの一瞬。瞬きをする間もなく終わってしまったキスに、陽菜はただ本郷を見つめる。
「陽菜さんの嫌がることはしたくない」
「本郷、さん……?」
「あなたに触れたい。――いい?」
本郷は陽菜の頬に右の手のひらをそっと添えると、親指で唇をつうっ、となぞった。
まるで愛撫のようなその感触に、思わず吐息が漏れる。
ただ触れられただけ。それなのに陽菜の体の奥がじんと熱くなった。
彼の左手が陽菜の腰をすくい上げる。唇を確かめていた指先が、額にかかった陽菜の前髪をさらりと後ろに流す。その仕草はとても官能的だ。
まるで、彼もまた、一緒にいたいと望んでくれているようで、陽菜は小さく、頷いた。その直後、薄くて形の良い唇が重なる。
「んっ……」
初めは優しいキスだった。
本郷は食むように陽菜の唇をなぞる。
ちゅ、ちゅと漏れる甘いリップ音がなんだか恥ずかしくて、陽菜は緊張しながらも吐息交じりの笑みを零した。
「陽菜さん?」
「なんだか……くすぐったくて」
怪訝な顔をした本郷が、今度は大きく陽菜の唇を食む。最初はゆっくりと、次第に激しく変化していく。
「っ……ぁ、まっ」
陽菜は反射的に制止しかけた。けれど本郷は、それを封じるように、僅かな隙間から舌先を押し込んでくる。
「あっ……ん……ほんごう、さ……」
本郷の舌先が奥に引っ込もうとした陽菜の舌を搦めとる。彼はそのまま感触を楽しむみたいに、舌先で陽菜の口内を愛撫した。
陽菜の反応を確かめているのか、次々と降るキス。
ぴくり、と体が震えると大丈夫とでも言いたそうに頭をそっと撫でられる。
吐息交じりに名前を呼ぶと、とろけるような甘い視線で応えてくれた。
強引さは微塵も感じられない、どこまでも陽菜の気持ちに沿った紳士的なキス。
それなのに――否、だからこそ、もどかしいほどの優しい愛撫に、陽菜の体の奥が熱を帯び始める。
とろけそうな感覚に息苦しさを覚えた陽菜は、目の前の胸を押した。
すると本郷がその手を優しく包み込む。
「……怖い?」
耳元でそっと囁かれ、大げさなくらい陽菜の体が反応した。ぴくん、と肩が震えてしまい、急いでふるふると首を横に振る。
怖い、なんて。
むしろ優しくて――優しすぎて、どう反応したらいいのか、分からない。
「陽菜さん、可愛い。……可愛すぎて、困る」
『可愛い』
それは、陽菜が憧れ続けた言葉だ。綺麗と言われたことはあるけれど、そう言ってくれた男性は、今までいなかった。
嬉しさと、口づけの甘さでとろけそうになりながら、陽菜はそっと本郷の背中に両手を回す。するとそれに呼応するように、いっそう、口づけが深くなった。
それは、初めての本格的なキスだ。
キスも、その先も、一応経験はある。しかしそれらは本当にただの「経験」だ。
最初で最後の彼氏との「行為」は、ただ彼の欲望を満たすだけのもので、陽菜にはなんの感動も快楽も与えなかった。
でも、このキスは違う。
(こんなの知らないっ……)
陽菜はキスが気持ちいいだなんて知らなかった。
少女漫画のキス描写にときめく一方で、「そんなにいいものじゃないのに」とずっと思っていたのだ。しかし今なら漫画が正しかったのだと分かる。
(……気持ち、いい)
頭がとろけそうになる。
しかし恋愛偏差値の低い陽菜はこの先どうすればいいのか、見当もつかなかった。できるのはただ、本郷から与えられるキスを必死に受け止めるだけだ。
「んっ……ぁ」
息苦しさを覚えて口を開いた陽菜の耳元に「鼻で息をしてごらん」と声が降る。言われたとおりにすると、「そう、上手」と甘やかに褒めてくれる。
唇で、舌で、声で。陽菜は、五感全てで本郷を感じていた。
冷えかけていた肌がじんわりと熱を持って、どんどん体内で激しさを増す。
「あっ……」
深まるキスにじんと体の芯が疼いて、思わず足から力が抜けた。そんな陽菜の体を本郷が片手で受けとめ、不意に抱き上げる。
お願いだから、そんなに優しい笑顔を向けるのはやめてほしい。
あなたに会えて嬉しくて見惚れていました、とは言えず、お酒をほとんど口にしていないのに陽菜は「はい」と頷く。
「……っと、名前も名乗ってなかったですね」
彼は改めて陽菜と向かい合うと、にっこり笑った。
「本郷といいます」
「本郷、さん……?」
はい、と頷く姿は、やはりどことなく可愛らしい。
ずっと気になっていた男性の名前を知ることができて心踊らせていた陽菜は、「良かったら、あなたのお名前をお聞きしても?」と言われてはっとした。
「あっ――」
「『あ?』」
慌てて答えようとするものの、舌を噛んでしまう。
(ああもう、最悪だわ)
こんな姿、会社の人が見たら驚くに違いない。しかし今の陽菜はキャリアウーマンでも、女王様でもなかった。憧れの人を前にして慌てる、恋愛初心者だ。
「……朝来陽菜です」
恥ずかしさを覚えながら名乗ると、本郷はぱちぱちと目を瞬かせた。
「陽菜さん。素敵な名前ですね」
そう、とろけるように微笑む。
「良かったら、抜け出しませんか?」
「え……?」
「スタッフには俺から話してきます。……実は無理に誘われて参加したんですが、乗り気じゃなかった上に遅刻してしまって、今更入りづらいんです。それに、勘違いなら申し訳ありませんが、あなたもあまり楽しそうに見えなかったから」
これは、夢だろうか。
「このホテルの上にバーがあるんです。そこで飲みなおしませんか」
それならどうか、覚めないでほしい。
「――俺とあなたの、二人で」
陽菜は夢見心地なまま、その誘いに乗った。
◇
国内の外資系ホテルの中でも最高級ランクに位置するホテルの三十五階。このフロアは、政財界や芸能界といった各界のセレブ御用達だと聞いたことがあった。
一介のOLである陽菜がここのバーに来るのはこれが初めてだ。
「ここです。この店の酒はどれも美味しくておすすめなんです。気に入ってくれたら嬉しいな」
本郷が案内したそこは、おしゃれなバーラウンジだった。
エレベーターを降りた瞬間から、陽菜は目の前の光景に圧倒されている。
視界一面が夜景の海だ。
さすがは世界的に展開している超高級ホテルのバー、照明やBGMに至るまでとても洗練されている。中央にはグランドピアノが置かれ、シャンパンゴールドのドレスを纏った女性が軽やかなタッチでジャズを奏でていた。
本郷はさっとカウンター席に向かう。
「さあ、どうぞ」
顔見知りらしいバーテンダーと軽く挨拶を交わし、さりげなく陽菜に椅子を引いた。
陽菜がとまどっていると、彼は二、三度目を瞬かせ、「ソファ席のほうが良かった?」と小首を傾げる。
「いえ、ありがとうございます」
陽菜はどきどきしながら、腰を下ろした。
「どういたしまして」
陽菜に続いて隣に座ると、本郷は「良かった」と小さく言う。
「ソファ席もいいけど、ここのほうがあなたとゆっくり話せると思うんだ」
さり気ない気遣いに加えてこのセリフ、陽菜は本気で眩暈がしそうになる。
「……私も、あなたとゆっくりお話ししたいです」
バスで見かけた時は、気配りができる柔らかい雰囲気の人だと思っていたが、今の彼はどんな異性よりも「男」を感じさせた。
「陽菜さんみたいな素敵な女性にそう言ってもらえると、俺も嬉しい」
ずっと憧れていた彼が自分の名前を呼んで、褒めてくれている。夢みたいな現実を、陽菜は噛みしめた。
「お上手ですね」
上ずらないように声を抑え陽菜が言うと、本郷は「本心ですよ」とさらりと返す。
彼とこんなふうに並んで、軽口を叩き合うなんて、胡桃や小宮にはっぱをかけられていたことを思うと、驚くほどの飛躍ぶりだ。
「お酒はお好きですか?」
「はい。こんなお洒落なバーに来ることはないので、詳しくはありませんが……」
「大丈夫。ここのマスターが出すお酒はどれも美味しいから」
「お任せしても?」
「喜んで」
本郷が注文したのは、陽菜が初めて耳にするカクテルだった。
カウンター越しにマスターがシェイカーを振る様子を、陽菜はそっと眺める。少しの沈黙。その時間が不思議と心地良い。
BGMは気付けばクラシックへ変わっていた。とても綺麗な音色だ。
ふと、視線を感じて隣を向くと、じっと陽菜を見つめる本郷と目が合う。
「私の顔に何かついていますか?」
「いいえ? ただ見惚れていただけです」
「みとっ……!」
言葉を失う陽菜を本郷が柔らかな眼差しで見つめる。
もしもこれが彼でなければ、陽菜は「ありがとう」とにこりと微笑み、スマートに返すことができただろう。でも本郷の前ではどんな態度を取ればいいのか、分からない。
「……そんなに褒めても、何も出ませんよ?」
驚きと、照れ。
陽菜は一瞬固まったものの、どうにか微笑み返す。すると本郷は「お気になさらず」と悪戯っぽく頬を緩めた。
出されたカクテルのおかげか、陽菜の肩から少し力が抜ける。もっとも、肩が触れ合うほどの距離に本郷がいるせいでやはりドキドキするし、お酒を口にしているにもかかわらず喉の奥は緊張で渇いている。
このまま彼に会えた喜びに浸りたいものの、それだけではろくに話せずに終わってしまう。
(そんなの、もったいないわ)
せっかくの機会を無駄にしたくない。
陽菜は、すうっと深呼吸をする。背筋を伸ばし、落ち着くのよ、と自分に言い聞かせた。
「――陽菜さんは、どんな仕事を?」
不意に本郷に話しかけられる。
「ジュエリーの販売会社でアクセサリーの企画と販売データの収集をしています」
そう答えると、素敵ですね、と彼が微笑む。
「でも、指輪をしていないんですね。アクセサリーを扱うお仕事の方は、皆さんつけているイメージがあったのですが。今は恋人の有無にかかわらず、左手の薬指に指輪をする女性がいるって聞いたこともありますし」
「それは、その……ピンキーリングなら、時々します。でも、初めて薬指につける指輪は、恋人からのプレゼントと決めているんです」
消え入りそうな声で陽菜は告げた。
「……いい年をして、恥ずかしいことを言っていると思われるかもしれませんが」
「そんなことない。素敵だと思いますよ」
本郷は柔らかな眼差しで陽菜を見つめている。
「……本郷さんはどんなお仕事を?」
ごまかすような陽菜の問いに、本郷は「しがないサラリーマンです」と悪戯っぽく微笑んだ。
その後二杯目のカクテルを飲み終えた陽菜は、やっと気になっていたことを口にする。
「さっき、どうして私を誘ってくれたんですか?」
もしかして陽菜が本郷を知っていたのと同様、彼もまた陽菜に見覚えがあるから誘ってくれたのではないか――そんな淡い期待があったのだ。
「困っている女性を助けたら、その人がとても綺麗だった。今を逃したら駄目だと直感的に思ったから。……こんな軽い理由だと、引きますか?」
残念ながら本郷は、陽菜とバスが一緒であることに気付いてないようだ。それを少し切なく感じながらも、陽菜は表情に出ないよう抑える。代わりに「ちょっとだけ」とわざとらしく答えてみせた。
「困ったな、嫌いになりました?」
本郷が眉を下げる。
嫌いになんてなるわけない。本音はむしろ、正反対だ。
陽菜は、ただの「憧れの人」としてだけではなく、「本郷」という一人の男性にどんどん惹かれていく自分に気付いていた。
彼はグラスが空になるより少し前に、さり気なく陽菜のお酒の好みを聞いてくれる。肌寒さを感じていると、椅子にかけていたショールをそっと肩にかけてくれる。何気ない会話の中で時折見せる、はにかんだ笑顔。グラスに触れる長い指先。
その一つ一つから目が離せない。
それに本郷は陽菜をしきりに「綺麗だ」と褒めてくれる。
憧れの人から発せられた言葉は、陽菜にとってこの上ない賛辞に思えた。
(もしも、この人と恋愛できたら)
そんな期待を、してしまう。
「それにしても、陽菜さんはどうしてあのパーティーに参加していたんですか? わざわざ婚活なんてしなくても、あなたには男のほうから寄ってくると思うけど」
俺みたいに、と本郷は肩をすくめる。
「そう言っていただけるのは嬉しいけれど、私はそんなにモテません。……モテるのはせいぜい、個性的な人たちにばかりだわ」
「個性的って?」
言った直後に後悔した。気付かないうちに酔いが回っているのだろうか。
前半はともかく後半は、あえて口にしなくてもいいことなのに。
案の定、本郷に突っ込まれる。
「それは、その……」
「その?」
どうやら答えない、という選択肢はないらしい。
陽菜はお酒を一口含んだ後、明後日の方向を向いて小さく答えた。
「調教されたい系男子、とか……?」
調教されたい系男子――改めて口にすると、中々、強烈な言葉だ。
一瞬、二人の間に奇妙な沈黙が落ちる。
どんな反応が返ってくるのか気になった陽菜は、ちらりと本郷へ視線を戻した。すると本郷は、じいっと陽菜を見つめた後、ぶはっと噴き出す。
「な、何、それ? ……初めて聞いた、そんなの」
本郷は片手で腹を押さえて笑っている。声こそ大きくはないものの、敬語が崩れているのに気付かないほど、ツボに入ったらしい。
「草食系とか肉食系とかは聞いたことがあるけど、ちょ、調教されたい系って……どんな男だよ。……もしかして陽菜さん、女王様になる趣味とかあったりする?」
「なっ!」
女王様。それは陽菜にとって、禁句である。
「私は至ってノーマルです。SMの趣味なんてありません!」
叫んだ直後に、はっとした。
(私、なんてことを……!?)
超高級ホテルの、雰囲気のいいバー。BGMはグランドピアノが奏でるクラシック、それを彩る眩いばかりの夜景。そんなところで、大声でSMとは――
さっと視線を周囲に向けると案の定、いくつもの視線と目が合う。
「もう、やだ……」
恥ずかしい。穴があったら今すぐ入りたいくらいだ。
陽菜はとてもではないが本郷の顔を見ることができなかった。そんな陽菜の肩にそっと彼の手のひらが触れる。
「ごめん、陽菜さん。からかいすぎました」
謝りながらも、彼の声は微かに震えていた。
「……知りません、もう」
「もう言わないから、顔を見せて?」
陽菜さん、と名前を呼ぶ声はとても優しい。いっそう、陽菜は彼を見られなくなる。
すると本郷が焦れたような声を出した。
「――見せてくれないと、キスするけど」
「なっ……!?」
さすがに陽菜は顔を上げる。すると本郷は、「やっと顔を見せてくれた」と優しく微笑んだ。
(ずるいわ)
そんな顔をされたら、何も言えなくなってしまう。
「……あまり、年上をからかわないで下さい」
せめてもと一言を返すと、本郷は笑いを噛み殺しながら「すみません」と謝ってくる。
その反応を見るに、やはり彼は年下のようだ。それなのにこんなふうにからかわれるなんて、これではどちらが年長者か分からない。
「――どんな男なら、あなたの恋人になれるのかな」
不意に本郷が囁いた。
「陽菜さんの好きなタイプを教えてくれませんか? 調教されたい系男子が好みじゃないなら、どんな男が好き?」
今、目の前にいるあなたがタイプです、とは言えなかった。「自分を女王様扱いしない人」とも。
陽菜は代わりの言葉を口に出す。
「……しいて言うなら、『優しい人』かしら」
――あなたみたいに。
最後の部分は心の中だけにしまう。
いつもなら、この手の質問に対する陽菜の答えは「男らしい人」と決まっていた。
それだけを切り取れば、本郷は陽菜のタイプと真逆と言っていい。
端整な容貌は世間一般の「男らしい」イメージではなく、綺麗と言ったほうがしっくりくる。
しかし、本郷からは不思議と男を感じた。「陽菜に叱ってほしい」だなんて願望は微塵も感じない。
(不思議な人)
こうして一緒に時間を過ごしたことで、彼の一面が見えてきたような気がする。
初めは見た目に惹かれ、さりげない優しさが素敵だと思っただけだった。けれど、このパーティーで会い、何気ない会話を重ねた今は、更に好きになっている。
本郷の醸し出す穏やかな雰囲気はとても居心地が良く、まるで真綿にふわふわと包まれている気持ちだ。
(……酔っちゃったのかしら)
今日、陽菜が飲んだのはカクテルを三杯。どれもとても美味しくて綺麗だったけれど、酔うほどではないはずだ。それなのに、体が火照っている。
「顔、赤いですね」
「ごめんなさい。……酔ってしまったのかも」
この空気と雰囲気に――本郷という男性に、酔ってしまったのだ。
陽菜は、じっと本郷を見つめた。
彼の大きなアーモンド色の目は澄んでいて、近くで見ると吸い込まれそうになる。
鼻筋はすっと通り、薄い唇も形が良い。
(本当に、綺麗な顔)
顔だけではない。その唇から発せられる声が低くて心地いいことを、陽菜は知った。
手のひらは思っていたよりも大きくて、スーツに隠れている体はほどよく引き締まっている。高めのヒールを履いている陽菜より視線が高かったところを見ると、身長は百八十センチ以上あるのだろう。
もしも、この胸に抱きしめられたら、一体、どんな気持ちになるのか。
「……陽菜さん?」
不意の呼びかけに陽菜ははっとする。同時にカラン、とグラスの氷が溶ける音がして我に返った。
ずっと本郷の唇と胸元を見ていた。
これでは欲求不満なようではないか。物欲しげな顔をしていたらどうしよう、と陽菜は慌てた。
(……はしたない)
「ごめんなさい、少し化粧室へ……」
そう言って陽菜が立ち上がった時だった。
「あっ……」
急に動いた反動で一瞬、視界がゆがみ、ぐらりと足から力が抜けた。
「――っと」
それを逞しい胸板が抱きとめる。
「大丈夫ですか?」
本郷が陽菜の顔を覗き込んでくる。
年下だろうにこうして触れると、本郷が大人の男なのだと分かった。
「は、はい」
陽菜は急いで体を起こす。しかし今度は、陽菜の腰に添えられた本郷の手が離れることはなかった。
「見た目と違って、そそっかしいところがあるんですね」
意外だな、と耳元で囁かれて、陽菜の背筋がぞくりと震える。
「……ごめんなさい」
よりいっそうの羞恥で、顔が上げられない。それなのに離してほしくない、このまま抱きしめてほしいと思っている自分がいる。
「――陽菜さん」
陽菜の気持ちを読んだかのような低くて心地よい声が、耳朶を震わせた。
「俺今日、ここに泊まっているんです。部屋に行きませんか」
ああ。私、この人が好きだわ。
自然とそう感じる。
「……あなたのことを、もっと知りたい」
その熱のこもった声に、陽菜は静かに頷いた。
◇
『会ったその日に、なんて私にはハードルが高すぎる』
そんなふうに胡桃に言い返したのは、つい先日だ。
けれど陽菜は今、本郷の部屋に向かっていた。
今だけでいい。一夜限りでいいから、触れあいたい。
そんな、理性をかなぐり捨てても一緒にいたい人が、確かに存在したのだ。
――恋に落ちる。
酔いの回る頭に、陽菜はその言葉を何度も思い浮かべる。
陽菜はまさに転がり落ちるように本郷に惹かれていった。
本郷が取っているという部屋に行くまでの間、二人は終始無言なものの、手のひらをしっかり重ねたままでいる。
(胸が痛い)
陽菜は心臓が飛び出しそうなほど緊張していた。
この先に進むのは怖い。けれどそれ以上に、離れたくない。
もっとこの人を知りたいというのが一番の感情だ。
そんな陽菜と本郷を乗せて、エレベーターは上昇する。到着したのは最上階だ。
陽菜の手を本郷が優しく引く。彼が案内した部屋は、二十八年間の陽菜の人生で一度も目にしたことのない豪華な部屋だった。
(ここってもしかして……スイートルーム!?)
驚いた陽菜は本郷を振り返る。するとそっと触れるだけのキスが彼女を迎えた。
ほんの一瞬。瞬きをする間もなく終わってしまったキスに、陽菜はただ本郷を見つめる。
「陽菜さんの嫌がることはしたくない」
「本郷、さん……?」
「あなたに触れたい。――いい?」
本郷は陽菜の頬に右の手のひらをそっと添えると、親指で唇をつうっ、となぞった。
まるで愛撫のようなその感触に、思わず吐息が漏れる。
ただ触れられただけ。それなのに陽菜の体の奥がじんと熱くなった。
彼の左手が陽菜の腰をすくい上げる。唇を確かめていた指先が、額にかかった陽菜の前髪をさらりと後ろに流す。その仕草はとても官能的だ。
まるで、彼もまた、一緒にいたいと望んでくれているようで、陽菜は小さく、頷いた。その直後、薄くて形の良い唇が重なる。
「んっ……」
初めは優しいキスだった。
本郷は食むように陽菜の唇をなぞる。
ちゅ、ちゅと漏れる甘いリップ音がなんだか恥ずかしくて、陽菜は緊張しながらも吐息交じりの笑みを零した。
「陽菜さん?」
「なんだか……くすぐったくて」
怪訝な顔をした本郷が、今度は大きく陽菜の唇を食む。最初はゆっくりと、次第に激しく変化していく。
「っ……ぁ、まっ」
陽菜は反射的に制止しかけた。けれど本郷は、それを封じるように、僅かな隙間から舌先を押し込んでくる。
「あっ……ん……ほんごう、さ……」
本郷の舌先が奥に引っ込もうとした陽菜の舌を搦めとる。彼はそのまま感触を楽しむみたいに、舌先で陽菜の口内を愛撫した。
陽菜の反応を確かめているのか、次々と降るキス。
ぴくり、と体が震えると大丈夫とでも言いたそうに頭をそっと撫でられる。
吐息交じりに名前を呼ぶと、とろけるような甘い視線で応えてくれた。
強引さは微塵も感じられない、どこまでも陽菜の気持ちに沿った紳士的なキス。
それなのに――否、だからこそ、もどかしいほどの優しい愛撫に、陽菜の体の奥が熱を帯び始める。
とろけそうな感覚に息苦しさを覚えた陽菜は、目の前の胸を押した。
すると本郷がその手を優しく包み込む。
「……怖い?」
耳元でそっと囁かれ、大げさなくらい陽菜の体が反応した。ぴくん、と肩が震えてしまい、急いでふるふると首を横に振る。
怖い、なんて。
むしろ優しくて――優しすぎて、どう反応したらいいのか、分からない。
「陽菜さん、可愛い。……可愛すぎて、困る」
『可愛い』
それは、陽菜が憧れ続けた言葉だ。綺麗と言われたことはあるけれど、そう言ってくれた男性は、今までいなかった。
嬉しさと、口づけの甘さでとろけそうになりながら、陽菜はそっと本郷の背中に両手を回す。するとそれに呼応するように、いっそう、口づけが深くなった。
それは、初めての本格的なキスだ。
キスも、その先も、一応経験はある。しかしそれらは本当にただの「経験」だ。
最初で最後の彼氏との「行為」は、ただ彼の欲望を満たすだけのもので、陽菜にはなんの感動も快楽も与えなかった。
でも、このキスは違う。
(こんなの知らないっ……)
陽菜はキスが気持ちいいだなんて知らなかった。
少女漫画のキス描写にときめく一方で、「そんなにいいものじゃないのに」とずっと思っていたのだ。しかし今なら漫画が正しかったのだと分かる。
(……気持ち、いい)
頭がとろけそうになる。
しかし恋愛偏差値の低い陽菜はこの先どうすればいいのか、見当もつかなかった。できるのはただ、本郷から与えられるキスを必死に受け止めるだけだ。
「んっ……ぁ」
息苦しさを覚えて口を開いた陽菜の耳元に「鼻で息をしてごらん」と声が降る。言われたとおりにすると、「そう、上手」と甘やかに褒めてくれる。
唇で、舌で、声で。陽菜は、五感全てで本郷を感じていた。
冷えかけていた肌がじんわりと熱を持って、どんどん体内で激しさを増す。
「あっ……」
深まるキスにじんと体の芯が疼いて、思わず足から力が抜けた。そんな陽菜の体を本郷が片手で受けとめ、不意に抱き上げる。
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